ブレイディみかこ『心を溶かす、水曜日』

日々のモヤモヤを、ちょっとだけグチりたい……。そんな悩めるMORE読者世代の女性たちに贈る、ブレイディみかこさんからのメッセージ。「がんばったのにまだ週の半分……」とため息が出そうな水曜日の私たちを、言葉と共に解放してくれるエッセイ連載です。

「言ったら終わる」という諦めに抗って

「言ったら終わる」より、「言ったから始まの画像_1

夏になると、英国ではバーベキューやガーデンパーティーなど、屋外に集まって飲食する機会が増える。先日もご近所さんのバーベキューに招かれたのだが、英国には珍しく、とても暑い日だった。こんな時、暑さ慣れしていない英国の人々が犯しがちなミステイクが、冷たいビールの飲みすぎである。

赤い顔をした三十代ぐらいの男性が、同年代の女性と話し込んでいたが、男性はまっすぐ立っていられなくなったのか椅子に座った。しばらくすると、女性のほうも男性のひざの上に座っている。仲のよいカップルだなと思って見ていると、つかつかと若い女性が近づいてきて、いきなり男性の顔にビールをかけた。聞いた話では、ビールをかけた彼女が彼のパートナーらしい。男性は自分のひざからもうひとりの女性を立たせ、歩き去ったパートナーの後を急いで追いかけていった。

その光景を見て私は、ハッとした。数カ月前、モア読者世代の女性たちとの座談会で聞いた話を思い出したからだ。

それは既婚者のMさんの「最近のモヤつき」だった。Mさんと夫は数人の友人たちとともにカラオケに行ったらしい。そこで、夫のひざに共通の友人(女性)が座っているのを見たというのだ。

「えっ? それで、何も言わなかったの?」

そう尋ねると、Mさんは言った。

「ふたりとも酔っていたし、お酒の席でのことだからと思って……」

しかし、Mさんにとってはモヤつきになって残っているのだ。

「あとで、パートナーには何か言った?」

「彼は酔うと何も覚えていないタイプなので、言ってもそのことを記憶してないと思います」

これを聞いて、今度は私がモヤモヤする番だった。その時Mさんには言えなかったが、これはやっぱりビールをぶっかける案件だったのではないか。その場で騒ぎを起こすのはいやだったとしても、翌朝、酔いがさめたパートナーに「何だったの、あれは」と言っておくべきだったろう。おそらく、Mさんの心に残るモヤつきは、その言葉を発するタイミングを逃してしまったせいだろうし、こういう「引っかかり」はどんどんどす黒く自分の中で成長していくものだ。

週末に仲間たちで集まって遊び、こういうモヤつきを覚える出来事があったとしよう。その場で何か口にするタイミングを失うと、もう何日もたったから今さら蒸し返すのはおかしいのではないか。そう思い始めるのがちょうど水曜日あたりだ。

でも、誰のために蒸し返せないのだろう? そもそも蒸し返すという行為は済んだ話を再び言うことだ。あなたの中で済んでいないことを、済んだ話にしてしまってはいけない。酔っていたので覚えていないと笑い飛ばされたら、「私は覚えている」と答えたらいいのだ。自分は覚えていないからという理由で、誰かを傷つけたり、ないがしろにしても許される人間などいないのだから。

「言ったら終わり」という思い込みは、人を閉塞させる。言ったら終わることより、言ったから始まることのほうが実は多いのだ。いちばんつらいのはモヤモヤしながら薄暗い思いを抱えている時で、言ってみたあとに起こることは、形容し難いダークな心情で過ごすよりよっぽど耐えられる。見たことを見なかったことにする時、人の心は深いところにダメージを負っているからだ。

ダメージから自分を解放してあげよう。それにはまず、「水曜日の諦め」に抗うこと。自分が見たこと、見てしまったのに言えなかったことをしっかりと口にする。新しい何かは、そこから始まる。

PROFILE

ブレイディみかこ●英国・ブライトン在住のライター、コラムニスト。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)など著書多数

ブレイディみかこ 心を溶かす、水曜日

Illustration : Aki Ishibashi ※MORE2024年秋号掲載