
30歳になることは、再びゼロになること。【ブレイディみかこ連載】
ブレイディみかこ『心を溶かす、水曜日』
日々のモヤモヤを、ちょっとだけグチりたい……。そんな悩めるMORE読者世代の女性たちに贈る、ブレイディみかこさんからのメッセージ。「がんばったのにまだ週の半分……」とため息が出そうな水曜日の私たちを、言葉と共に解放してくれるエッセイ連載です。
ゼロは解放のナンバーだから

過去3年間、定期的にモア世代の女性たちとのオンライン座談会に出席してきた。座談会のお題はいつも、「最近、モヤモヤしていることがあったら教えてください。それについて話し合いましょう」だった。「お、これは聞いたことのないモヤつきだ」という新たなテーマが毎回出現するのには驚かされたが、その反面、いつも出てくるおなじみの話題もあった。
そのひとつが、「30歳の壁」問題である。
たとえば、最近の座談会でも、こんな声が上がった。
「SNSで同級生や知人の結婚発表を見ても、以前はそんなに気にならなかったのですが、30歳という年齢が近づくにつれ、『ああ、みんな駆け込んでいるな』という気持ちになって、落ち込んだり、焦りを感じたりするようになりました」
「条件のいい会社に転職したり、希望の部署に配属されたりして、着実に階段を上っていく友人たちを見ていると、自分は何をしているのかなって。30歳が近づいているのに、停滞している感じで」
私は出席者たちに尋ねてみた。
「30歳って、やっぱりそんなに重要な年齢なのかな?」
全員が一斉に、真剣な顔をして頷いている。
「30歳の時にはこうなっていたいと思ってきた自分の姿があるから、カウントダウンに入った感じがあります。あと3年になった、もう2年しかない、と焦ったり、いら立ったり」
と20代後半の心境を聞かせてくれた人もいた。
カウントダウンには、いろんなものがある。爆発までのカウントダウン、サービス終了までのカウントダウン、大晦日のカウントダウン……。いずれにしてもカウントの方法は同じだ。「5、4、3、2、1」で、次に来るのは「0」。つまりゼロになるのである。時計の針と同じように、ぐるっと回って振り出しに戻るのだ。
「今の若い女性たちは真面目だから、30歳までにこうして、あれを成し遂げて、というレールをきっちり敷きすぎ」みたいなことを言うのは簡単だ。しかし、振り返ってみれば、私にとっても30歳は大きな変化の年だった。日本を出て英国に移住したからだ。
意図したことではなく、(私の人生のほとんどがそうであるように)行きがかり上そうなったのだったが、あの頃、よく思っていたことがある。普通、日本にいると30歳っていうと、職場でも経験豊かな先輩だし、私生活でも若者扱いされなくなる年齢なのに、英国に来たらいきなり生まれたての赤ん坊になったみたいだったのだ。言葉が不自由でいろんなことが人に伝えられなかったり、簡単なことができなかったり、「え、こんな考え方があるなんて」と驚くような人々と出会ったり、できないことやわからないこと、知らないことがまだ山ほどあるとわかった。それは面倒でもあったが、同時に新鮮でワクワクした。あの感覚こそが究極のアンチエイジングではないだろうか。なにしろ、若返るどころか、赤ん坊に戻るのだから。
30歳になることは、再びゼロになることではないかと思う。カウントダウンというものは、数えている時は心配でハラハラするが、ゼロに戻ればまたそこから新しい何かが始まるのである。ゼロとは、失うものはまだ何もない無敵の状態とも言える。なんだって始められるし、どんな自分にだってなれる。そう思えば、30は呪いのナンバーではなく、解放のナンバーではないか。
モア世代のみなさんには、ゼロを恐れずに突き進んでほしい。それは想像するよりずっと楽しいし、これからまだまだ長い人生で、あなたたちは何度だってゼロになり続けるのだから。
ということを最後のメッセージにして、連載の筆を置きたいと思う。読んでくださった方々、座談会に出席してくださった方々に心からの感謝を捧げます。みなさん、ありがとうございました。
PROFILE
ブレイディみかこ●英国・ブライトン在住のライター、コラムニスト。新刊『SISTER“FOOT”EMPATHY(シスターフットエンパシー)』(集英社)が6月26日発売
Illustration : Aki Ishibashi ※MORE2025年夏号掲載