2022年2月20日から3月5日のSUGARの12星座占い
[目次]
  1. 【SUGARさんの12星座占い】<2/20~3/5>の12星座全体の運勢は?
  2. 【SUGARさんの12星座占い】12星座別の運勢
    1. 《牡羊座(おひつじ座)》
    2. 《牡牛座(おうし座)》
    3. 《双子座(ふたご座)》
    4. 《蟹座(かに座)》
    5. 《獅子座(しし座)》
    6. 《乙女座(おとめ座)》
    7. 《天秤座(てんびん座)》
    8. 《蠍座(さそり座)》
    9. 《射手座(いて座)》
    10. 《山羊座(やぎ座)》
    11. 《水瓶座(みずがめ座)》
    12. 《魚座(うお座)》

【SUGARさんの12星座占い】<2/20~3/5>の12星座全体の運勢は?

「記憶の「虫だし」」 

土の中にあたたかい気配が届き、それを感じた虫たちが穴の中から這い出してくる「啓蟄」直前である3月3日に、うお座12度(数えで13度)で新月を迎えていきます。 

「非現実的で、過度な理想主義」や「既存世界の<外部>への遁走」を意味する木星と海王星の組み合わせのすぐそばで形成される今回の新月のテーマは、「負の記憶の解消」。 

桃の花がほころびはじめ、青虫が蝶に変身して夢見るように見え始める3月はじめの新月は、新しいサイクルの本格的な始まりというよりは、これまでのサイクルのなかに取り残されたままのわだかまりや怨念をきちんと鎮めていくことにあります。 

昔の人は、蛇やカエルやトカゲなど、小さな生物はみな「虫」と呼び、この時期になる雷の音におどろいて虫たちが這い出してくるものと考えて、春の雷を「虫だし」と名付けていましたが、逆に言えば、寒さに耐えて地中でちぢこまっている虫が残っている限りは、まだすべての生命が喜びとともに祝う春ではなかった訳です。 

その意味で、今回のうお座新月は、きたる春分(新しい一年の始まり)に向けて、自分だけでなく周囲のみなが忘れかけている記憶や歴史の業を解消していく霊的な働きに、いかに自分を一致させていくことができるかどうかが問われていくことになるでしょう。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「道化の抱えるもの」。

牡羊座のイラスト
昨年10月31日のハロウィンの夜(衆院選の開票日でもあった)に起きた、ジョーカーの衣装を身にまとった男による無差別殺傷事件は、その後短期間のあいだに模倣犯が続出したことで、「どんなことをしてでも自分の惨めな日常をひっくり返したい」と考えている者が決して少なくないことを改めて露呈させたように思います。 
 
ここで改めて男が自身を重ねた2019年公開の映画『ジョーカー』を振り返ってみると、主人公のアーサーはすべてを失っていくことによって逆説的にヒーローになっていったという点で、既存のヒーローとは対極的な存在でした。 
 
彼は道化師の職を解雇され、福祉サービスのカウンセリングも打ち切られ、場当たり的な殺人を犯したことで社会からも締め出され、そしてなにより決定的だったのは、母親から聞かされていた自分の出生のまつわる物語がまったくの虚偽であったことを突き止めてしまったことで、自分の人生そのものがジョークであり、出来の悪いコメディに他ならないことに気づいてしまいます。 
 
かくしてアーサーはジョーカーとなり、彼を笑いものにしたテレビの大物司会者を生放送中に殺してメッセージを発し、それが特権階級の金持ちに対する怨嗟や行き場のない情動をためこんでいた市民の一部(持たざる人びと)に熱狂的に支持されたことで、はからずもカリスマとなります。 
 
これはリーマンショックと同じ年である2009年に公開された『ダークナイト』に登場した、テロを引き起こすことで市民を恐怖に陥れる悪党としてのジョーカーともじつに対照的なのですが、同様の指摘をしていた評論家の木澤佐登志は『失われた未来を求めて』の中で、この映画をめぐるエッセイを次のように締めくくっています。 
 
本作が1981年のゴッサムシティ(≒ニューヨーク)を舞台にしていることも示唆的である。1981年といえば、アメリカのロナルド・レーガンによる、現在まで続く新自由主義―資本主義リアリズムの形成にとっての始まりの年である。しかし、『ジョーカー』は私たちにあり得たかもしれないパラレルワールド―失われた未来―を幻視させる。それは、所有せざる人びと、換言すれば貧しき人びと、病まざるをえない人びと、不当に搾取され抑圧されている不可視の人びととの間での連帯と蜂起である。弱き者たちよ、立ち上がれ、今こそストリートへ踊り出すときが来た。」 
 
今期のおひつじ座もまた、そんな失われた未来に生きるひとりの道化として、自身の抱える悲劇性と喜劇性とがいかに生じ、どこに起源をもつものなのか、改めて振り返ってみるといいでしょう。 
 
 
参考:木澤佐登志『失われた未来を求めて』(大和書房) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「失われた贈与の環」。

牡牛座のイラスト
今の日本ほどさまざまな宗教が生活のなかに入りこみ、それだけでなく個人によってアレンジされたスピリチュアルな教えが飛び交っている社会はないのではないかとふと思うことがありますが、思い返してみれば鎌倉・室町時代もまた、中世神話と総称される神仏習合の物語や、御伽草子などに見られる民話などが豊富に語りだされた時代でした。 
 
神仏習合において、もともと外来のものとして入ってきた仏教に、この列島に土着してきた神々をも包んで、まったく新しい別の秩序を生みだそうという運動が展開されていった訳ですが、それは裏を返せば他の大きな神々と違って仏と対等の立場が得られず、寺社にも祀られず、路傍に打ち捨てられてしまった小さな神々が続出していった時代でもありました。 
 
彼らは人びとからのお供物などの供養を受けられず、みるみる餓鬼や畜生と化していったのですが、これはどこか昨今増えている似非スピリチュアルでひと儲けを狙っている輩と似たものを感じてしまいます。 
 
ただ、宗教学者の中沢新一はその時代の説話集である『宇治拾遺物語』に収録されている「清徳」という民間の聖(ひじり)にまつわる不思議な話に着目し、その面白さが「エネルギーの健全なる循環」との結びつきにこそあるのだということを繰り返し述べています。 
 
この聖は広大な畑に生えたネギというネギを、持ち主の許しを得るや、あっという間にすべて食べてしまったのだそうですが、いわゆる“見える人”が見ると、うしろに「餓鬼、畜生、虎、狼、犬、烏(からす)、数万の鳥獣」の霊をぞろぞろと従えて、彼らに代わってネギを食べていたのだそうですが、中沢はこのお話について取り上げつつ、『日本文学の大地』のなかで次のように述べています。 
 
聖たちは全国を這うようにして歩いた。そして、辻々や峠や谷や廃屋や路傍の陰などに、これらの霊たちを見つけ出しては、共同体のおこなう供儀の儀式などよりも、ずっと普遍性を持った仏教の慈悲の力がつくりだす、より広大な贈与の環の中に導き入れてやっと救い出す、という事業にいそしんでいたのである。共同体が見捨てた餓鬼や精霊が、それによって、もういちど宇宙的なエネルギーの循環の中に、自分の居場所を見つけ出せるようになった。(…)聖の活動を通して、「餓鬼の蘇生」が可能になった。この時代を「説話の時代」と呼ぶならば、それはまったくこうした聖たちによる、失われた贈与の環を再建するという、一大事業によるものなのであった。」 
 
今期のおうし座もまた、「餓鬼や畜生」を単に白眼視するのではなく、どうしたら共に「失われた贈与の環」へと還っていけるかということを考えてみるといいでしょう。 
 
 
参考:中沢新一『日本文学の大地』(角川学芸出版) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「世間師」。

ふたご座のイラスト
1960年に刊行された旅する民俗学者・宮本常一の『忘れられた日本人』に「世間師」という言葉が出てきます。 
 
辞書で調べると「世慣れて悪がしこい人」とあって、ほとんど山師と同じような意味合いの解釈が載っているのですが、どうも宮本の使っている「世間師」の意味合いはそれとはまったく異なっているのです。例えば、そのまま「世間師」と題された章の冒頭には次のようにあります。 
 
日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。旧藩時代の後期にはもうそういう傾向がつよく出ていたようであるが、明治に入ってさらにはなはだしくなったのではなかろうか。村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片づけている。」 
 
この「口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られる」という記述は、そのまま現代人特有の気風の説明として置き換えることができますし、ここでいう「世間師」とは明らかにそうした頭でっかちな山師気質とは対極の存在をさしています。 
 
宮本は彼らに共通した性質として「いずれも大へん臍まがりで、頑固で、しかもどこかぬけた所のある連中であった」とも書いていますが、一方で「この連中は戦争にいくのが面白くてたまらなかった。とにかく皆世間師で、無鉄砲なところがあり、何か事のおこるのをのぞんでいたのである。そこで戦争がはじまると実によく働いた」とも書いており、こうした大らかな気風と行動面での強烈さの結合は、現代の日本人にもっとも欠けている要素であるとさえ感じられます。 
 
つまり、頭では世間を知ろうとするのに、からだは閉じていて怖がりなのとは逆で、世間師というのは、からだは物知りなのに頭はぬけているんですね。

今期のふたご座もまた、そんな「世間師」のひとりとなるべく、頭ではなくからだで直接体験してきた内容を振り返ってみるといいかも知れません。 
 
 
参考:宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「滅亡」。

蟹座のイラスト
作家の武田泰淳は、日本が戦争に負けて数日たった頃、周りがロシア人や中国人ばかりの上海のフランス租界にドイツ系ユダヤ人の女性と同棲していた友人宅を訪ねた先でしたある体験について、次のように書き残しています。 
 
神経質に部屋を歩きまわっていたドイツ女は「悪い月よ、早く去れ」と英語でいう。私と友人は気まずそうに顔見合わすばかりである。(略)何故ならば、今や我々は罪人であるからだ。世界によって裁かれる罪人であるからだ。その意識に反芻するため、私たちは苦笑し、から元気をつける。そして、歓喜の祝典からのけものにされたどうしが、冷たいしずけさ、すべての日常的な正しさを見失った自分たちだけのしずけさの裡に、何とかすがりつく観念を考えている。するとポカリと浮かび上がってきたのは「滅亡」という言葉であった。」 
 
とはいえ、武田自身も言及しているように、滅亡を考えるとは、みじめったらしい舌打ちにも似た「ひねくれであり、羨望であり、嫉妬」に他ならなかった訳ですが、それでも「日本の国土にアトム弾がただ二発だけしか落とされなかったこと、そのために生き残っていること、それが日本人の出発の条件なのである」と言い切ってみせたのです。 
 
歴史的にも全的滅亡の体験がずっと深い中国に比べれば、日本のそれは「ごく部分的な滅亡」であった訳ですが、それでもすべての文化、とりわけ宗教的な救いを含んだそれの母となって、それまで自分たちとは無縁のものであった「巨大な時間と空間」とを瞬間的にとりもどさせたのです。 
 
人類レベルの危機がもはやこれ以上無視できないレベルで増大している今、日本社会に必要なのは、そうした歴史的な、大なる眼で見たときの「自分たちは滅亡するかも知れない」という意識の深さや鋭さなのかも知れません。 
 
今期のかに座もまた、そうした60年以上前に提起された問題意識を、いかに自分なりに受け止め、継承していけるかということが問われていくでしょう。 
 
 
参考:武田泰淳『滅亡について』(岩波文庫)

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「ヌミノーゼ」。

獅子座のイラスト
いつの時代にあっても、自分をやさしく包み込んでくれる対象に対して、人びとは惹かれ、信仰心を生ずるものであり、その事例が欧米におけるマリア信仰や、日本における観音信仰であったりする訳ですが、人びとを強く魅了する要素は決してそればかりではありません。 
 
周囲を寄せつけず、こちらを圧倒するようなものに対して、人びとがそれと相反する魅惑を感じたときにもまた、そこに信仰が芽生えてしまうものであり、おそらく、そうした存在として日本で古来より人びとを惹きつけてきた最大の存在が「お不動さま」、すなわち不動明王なのではないでしょうか。 
 
仏教学者の渡辺照宏は『不動明王』において、不動明王を観想していく上での特徴は要するに「奮迅、忿怒、威猛」に尽きるのだとした上で、次のような斬新な表現で説明を加えています。 
 
明王は如来の教令を実行するために忿怒身を示現するのである。近代ヨーロッパの宗教学者の用語を借りればヌミノーゼ―恐怖=畏敬の念をおこさせることによって信仰に導く―という。不動尊は外に向かっては魔障を脅威し、内においては煩悩を滅ぼすのである。」 
 
大乗仏教の代表的な菩薩であり、仏になるという究極目標を脇において衆生救済に専念している観音菩薩がどれも均整のとれた美しい容貌をしているのに対し、密教を代表する仏格である不動明王は、確かに眼も歯もふぞろいで、唇を歪ませ、髪はばらばら、皮膚は青黒いという奇怪な容貌をもっています。 
 
しかし、渡辺によれば不動明王の本質にある願いは、すでに自身はすでに仏になっているにも関わらず卑しい姿をとって他の仏たちに奉仕し、自分に祈りを捧げる人びとの願いを聞き届けるという「奴僕行」であり、信仰者にも自分と同じく奴僕となって世のため人のために尽力せよと要請するのだそうです。 
 
つまり、不動明王は「奇怪」にして「崇高」であるという「ヌミノーゼ(言葉では言い難い非合理的で、さまざまな宗教的要素を包含したもの)」の体現者であり、それゆえに人びとはそこに「畏怖」を感じてひれ伏すと同時に、どうしようもなく「魅惑」を感じて引きつけられるのだと言うのです。 
 
今期のしし座もまた、そうした「ヌミノーゼ」と自分がいつどこで感じたのか、そしてどうしたら自身もまた「お不動さま」に近づけるのか、考えてみるといいでしょう。 
 
 
参考:渡辺照宏『不動明王』(岩波現代文庫) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「背後なる凡庸の力」。

乙女座のイラスト
YouTubeやTikTok、noteなど誰もが気軽に自身のコンテンツを配信できるようになって、コンテンツが過剰供給気味になってきている今の時代において、「独創性」といった言葉ほど陳腐化してしまっている概念はないように思いますが、そもそもよい作品は誰によって作られるのかということは、もっと問われてもいい問題であるように思います。 
 
確かに誰もが超凡たる天才に憧れる気持ちを持つことは理解できますが、実際に天才を作り出していけばそれでよいのかと言えば、そうではないでしょう。 
 
つまり、独創性というのはその起源を「作者」のなかに特定せずにはおかない訳ですが、例えば物語/ストーリーに必要なのは著名な作者ではなくその都度の「話者」であり、そこではむしろ「起源の不在」こそがヒットの原動力となっていく訳で、そうなるとよい作品をつくるのは一握りの天才というより、多数の人々による受容なのではないでしょうか。 
 
この問題について民俗学者の柳田國男は『口承文芸史考』の中で、後者にあたる「口承の文芸」と前者にあたる「手承眼承の本格文芸」とを対比しつつ次のように論じています。 
 
私などの見たところでは、二種の文芸の最も動かない境目は、今いう読者層と作者との関係、すなわち作者を取り囲む観客なり聴衆なりの群が、その文芸の産出に関与するか否かにあるように思う。(…)ことに群衆が歌を思う場合などは、それが踊りの庭であり、酒盛りの筵(むしろ)であり、はたまた野山に草を刈る日であるを問わず、いまだ声を発せずして彼らの情緒は一致していた。何人よりも巧みにかつ佳い声でもって、これを言い現そうとした者が当日の作者であって、通例はこれを音頭といっていた。音頭を取る者は各自の器量次第、もしくは趣味のいかんによって、ありふれたる歌をうまく歌って褒められ、あるいは人の知らぬ文句を暗記して折を待ち、あるいは即興に自作を発表する者もあったろうが、いずれにしたところで、聴く者の言わんとしてあたわざる感覚を、代表するより他のことはできなかったのである。」 
 
柳田はここで明らかに、無数の物語を語り伝えてきた無名の「常民(民間伝承を保持している人々)」を意識しており、国の文芸の進展は超凡なる天才の力によるよりも、それを証明してきた「背後なる凡庸の力」によるのだ、という考えがその根底にあったはずです。 
 
今期のおとめ座もまた、そうした力を構成する一部として自分が何を受容しているか、そして受容していきたいのかということを、改めて振り返ってみるといいかも知れません。 
 
 
参考:柳田國男『口承文芸史考』 (講談社学術文庫)

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「相手を理解するということ」。

天秤座のイラスト
村上春樹の『象の消滅』という短編小説があります。これは知り合ったばかりの若い男女が、ふとした拍子にその状況にはまったくふさわしくない不可解な話題について会話を交わすことになり、別れるまでのごく短いお話なのですが、結局ふたりは会話が嚙み合わず、どこかが決定的にすれちがったまま終わります。 
 
その話題というのが、ある町で飼育されていた象がある日突然、飼育員とともにいなくなってしまったというもので、すれ違いの原因は明らかにその話題自体にある訳です。村上自身はその話を「あまりに特殊」で「それ自体が完結しすぎている」と形容していますが、それは一体どういうことなのか。 
 
文芸評論家の加藤典洋は、『村上春樹の短編を英語で読む1979~2011』において、「特殊」とは「一定の年齢の人間、そのような時期を経験した人間にしか生じない喪失の経験」であることを指しており、「完結しすぎている」とは、「それが誰にでも開かれた、普遍的な喪失の経験であるとは言い難い、そのため、誰にでもすぐに通じ、誰とでも分かちあえるというわけにはいかない、回路の閉じた経験」なのだと論じています。 
 
当然「象の消滅」とは何かの隠喩なのですが、ここではそれがいったい何を表しているのかという点には触れません。しかし、そもそも「経験」には他人とは決して分かち合えない領域というものがあるのではないでしょうか。その点について、加藤はこう述べます。 
 
こういう個人の奥底に沈んだ話は、わかりあえないということが本質です。一般的には人と人をつなぎません。隔てます。しかし、誰もが長い人生を生きていく間には多かれ少なかれそういう経験をもちます。人にはけっしてわかってもらえない類の経験です。深い経験というものはそういう本質をもつのです。そのことがわかると、相手が自分にはけっして「わからない」経験をもっているということの理解が、相手を理解するということの意味だということも、わかるようになるでしょう。」 
 
今期のてんびん座は、自分自身もそうであるように、向き合う相手もまた、「人にはけっしてわかってもらえない類の経験」をもっているのだということを、改めて頭の隅に置いていきたいところです。 
 
 
参考:加藤典洋『村上春樹の短編を英語で読む1979~2011 上』(ちくま学芸文庫) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「未完の味」。

蠍座のイラスト
作者と対象という二人の人間の生き様がどうしたって交錯する評伝というジャンルは、その特性からどうしても語り口や雰囲気が重苦しいものになりがちですが、時に例外も生まれます。 
 
老齢のフランス作家によるロシアの文豪チェーホフの評伝である『チェーホフの感じ』は、あるときはほんの数行で終わるほど短い断章ばかりで編まれた一風変わったつくりなのですが、読み進めるうちにそれは著者が投げかける「チェーホフは人間を愛していたのか?」というテーマの重苦しさから読者を少しでも解放するための工夫なのだということが次第に分かってくるように出来ているのです。 
 
例えば、『ワーニャ伯父さん』のなかで作者を代弁する医師アーストロフは、「献身的に伝染病の治療に当たり、手術をおこない、休む暇なく方々をかけ回」っていたにも関わらず、その口癖は「私は人間を愛していない」だったとグルニエは指摘した上で、女性との交際などで支離滅裂だったチェーホフ本人について、「とにかく言えることは、ギロチンの刃のように鋭くあろうとする高徳の士よりも、かずかずの弱みを抱えた人間の側につく」のが彼だったし、作家というのはそれくらいでちょうどいいのだと言います。 
 
また、チェーホフの小説や劇(たとえば日本で最も有名な『かもめ』)が、筋がなく、登場人物に共感しにくい、と当初はあまり理解されなかった点についても、グルニエは、たぶん、人生に似ているからだと解釈しつつ、登場人物が「ほんのちょっとした端役でも」、何らかの生きる不幸を背負わされている点に着目し、次のように述べています。 
 
(そのために)各瞬間が失敗であるように見える。そしてそうした瞬間の連続の最後に残るのは<果たされなかった>という印象である。この未完の味こそが真のテーマなのだ。」 
 
今期のさそり座もまた、本書の構成やちょっとした着目点、そして数々の鋭い指摘に通底するような軽やかさや、ちょうどいい余韻をいかに自身の創造的営みにももたらせるかということがテーマとなっていくでしょう。 
 
 
参考:ロジェ・グルニエ、山田稔訳『チェーホフの感じ』(みすず書房) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「維摩の一黙」。

射手座のイラスト
私たちはSNSであれLINEであれ、日々何かというと言葉に囚われていますし、言葉がそのまま事実であると錯覚してしまうところがあります。もちろん言葉は言葉としてきわめて大切なものであることには違いはないのですが、言説はそのまま事実の表示であって事実そのものではないということは、情報化社会が極相に達してきた感さえある今の時代にあって、いくら強調しても強調しすぎるということはないでしょう。 
 
いつまでも空虚な言葉の上っ面をツルツルと滑り続けているのではなく、言葉の行き着く先をきちんと把握し、それと一体化することを大切にする。そんなことを考えるとき、どうしても思い出されてくるのは『維摩経』の「維摩の一黙」の場面です。 
 
在家者である維摩というじいさんが、出家者である並みいる菩薩たちを相手に議論を交わし、次々とやりこめていくという、きわめてアナーキーかつ異色の大乗仏教経典である『維摩経』は、「どうすれば“不二の法門”すなわち悟りの世界に入れるのか?」という問いかけに三十人以上の菩薩が答え終わったあたりからクライマックスに入ります。 
 
最後に維摩から答えを求められたのは智慧の象徴として知られる文殊菩薩は、「私の考えでは、すべての存在や減少において、言葉も思考も認識も問いも答えも、すべてから離れること、それが不二の法門に入ることだと思います」と述べたあと、逆に維摩に意見を求めます。 
 
周りにいたあらゆる菩薩たちが維摩の回答を固唾をのんで待ち、場の緊張が一気に高まったそのとき、維摩はついぞ黙して一言も言葉を発しなかったのです。「維摩の一黙、雷の如し」と称えられたこの場面について、禅学者の鈴木大拙は次のように述べています。 
 
普通には維摩の一黙をその黙のところに解すのであるが、自分の考へではさうでない。この一黙は、不言不説ではなくて、凝然不動でなくてはならぬ。黙を言説の上に見ようとするのは浅い。印度流である黙のうちに維摩その人を見なくてはならぬ。黙の中に維摩は跳ってゐるのである。」 
 
つまり、これはただ維摩の外に沈黙が広がったのではなく、どこまでも維摩は黙と一体化していて、その存在全体に言葉では言い現わすことのできない真実が貫徹していたということでしょう。

今期のいて座もまた、何かと言葉をもてあそんでは逆に言葉に振り回されてしまう傾向から脱するべく、そんな「維摩の一黙」をひとつの指針にしてみるべし。 
 
 
参考:鈴木大拙『鈴木大拙全集〈第15巻〉』(岩波書店) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「水夫になるな、海賊たれ」。

山羊座のイラスト
すでに2年以上が経過したコロナ禍で、フリーランス市場は人口自体が増加したばかり、副業やパラレルキャリアなどの流れもあいまって、ますます多様化しており、今後のキャリア形成においてこうしたフリーランス化へと向かうの流れと、昨今続いている若者の大企業&正社員志向とがどのようにぶつかりあっていくのかは要注目と言えるでしょう。 
 
具体的には、現行の資本主義社会が多くの労働者にもたらしている「働いても働いても生活が楽にならない」という状況をどう打開していくのか、ということが大きな焦点になってくる訳ですが、ここで思い出されるのが、世界的なエコノミストであるピーター・T・リーソンの書いた『海賊の経済学~見えざるフックの秘密~』が明らかにした海賊の実情です。 
 
例えば、18世紀前半までの大航海時代最後にして最大の海賊とされるバーソロミュー・ロバーツは、海賊ではなく合法の雇用を選ぶ水夫のことを“あんぽんたん”だと言っていたのだそうですが、それにはきちんとしたワケがありました。 
 
正直な海運では、共用部分も少なく、賃金は低く、労働はつらい。こちらでは豊富で満足、快適と安楽、自由と権力がある。そして、それに対する危険といったら、最悪でもしばらく絞首台を眺めるくらいとなれば、こちらのほうに天秤を傾けない者があるだろうか。いやいや、太く陽気な人生こそが我がモットーである。」 
 
続けて、リーソンは当時の海賊の実態について、明らかに今日でいう“ブルシットジョブ”に従事している労働者と比較しつつ、次のように書いています。 
 
商船よりも海賊を選ぶにあたり、一部の船乗りにとってはかなりの分捕り品が得られるという見通し以外にも、実利的な要因があった。船の労働環境も、その決定には重要な役割を果たした。長距離航海する商船は、何カ月も海で過ごす。したがって、船乗りが雇用の意思決定を行う時の「福利厚生パッケージ」の重要な一部は、そうした船舶上の暮らしがどんなものか、と言うことだった。小心なせいか、海賊稼業に残念ながら乗り出せなかった船乗りにとっては、商船は相対的に金銭的な支払いも少ない上に、不快どころか悲惨な労働条件が伴うのだった」 
 
この時代、荒くれ者の海賊にも船長ごとに取り決めた掟があり、現代の私たちがイメージするほど無軌道な者はまれで、中でもロバーツの掟は厳しいものだったそう。

今期のやぎ座もまた、どうしたら自分もよき海賊になれるか、そのためにどんな掟を自分たちに課すべきか、ひとつ試行錯誤してみるといいでしょう。 
 
 
参考:ピーター・T・リーソン、山形浩生訳『海賊の経済学~見えざるフックの秘密~』(NTT出版) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「裸形の感触」。

水瓶座のイラスト
無差別、未成年という共通項が見出される凶悪犯行が増加している昨今、どうしても思い出さざるを得ない人物に、1997年に神戸で起きた酒鬼薔薇聖斗事件の犯人であり、事件当時14歳だった「少年A」がいる。 
 
彼がなぜあのような凄惨な犯行に及んだのかという問いには、当時から様々な専門家やコメンテーターがワイドショーや記事などで言及してきましたが、個人的にもっとも腑に落ちたのは、あの少年には非常に「古典的」な何か、かつてなら「鬼」とでも呼ばれるべきプロトタイプを感じると述べた哲学者の池田晶子でした。 
 
著書『魂を考える』に収録された「少年Aとは何者か」には、次のように述べられています。 
 
それなら、あの子供の「何であるか」は、人間ではなくて「化け物だ」、と理解することで、いったい何を理解したことになるのか。/こう問われるのは当然である。むろん、それは私にもわからない。ただ、少なくとも、現代という特殊な時代に至る前の人間の世には、人間ならざるもの、すなわち異界の魑魅魍魎もまた生きていたということを、ある深い納得とともに思い出すことはできるのだ。理屈で理解できないものは「存在しない」とすることによって、理屈で理解できないものへの感受性を失ったことをも忘れているのが、現代人だろう。」 
 
魑魅魍魎や悪魔などと言えば、言葉の上での比喩やファンタジーのモチーフとして捉えられるのが関の山ですが、池田は「自分が存在する」というこの事実の神秘にきちんと直面し、そこから考え始めたなら、魑魅魍魎もまた当然出てこざるを得ないのだと喝破するに留まらず、そもそも「宇宙が存在する」とは「論理的思考の裂け目から広がり開ける」事態なのであり、そこでは「出来事というものは常に、「あるまじき」「あってはならぬ」というかたちで生起し、人を乗り越えてゆくものなのではなかろうか」と畳みかける。 
 
そして何より、池田が言葉を尽くして言及していたのは、「犠牲者の追悼を繰り返すことこそが鬼退治になるはずだ」ということであり、「殺した方ばかりを騒いで、殺された方を、忘れている」世の人のリアクションには度々疑義を呈していました。 
 
今期のみずがめ座もまた、不幸な出来事をしばしば「事件」、特に「現代的な事件」と解しがちな現代人の典型的な思考パターンをいかに脱して、人が不可解な出来事に直面して驚くときの「裸形の感触」を思い出していきたいところです。 
 
 
参考:池田晶子『魂を考える』(法蔵館) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「酋長/首長」。

魚座のイラスト
日本の政治が国民の信頼や信用を失ってからすでに久しいですが、コロナ対策や経済的苦境など、ただ政治家を非難していれば格好のついていたある意味のんきな時代はとうに終わってしまったように思います。 
 
こうした状況の中、どうしても陥りがちなのは「混迷期の舵取りを任せられるカリスマ的リーダーの不在」を何も変わらない/変えないことの口実にしてしまうことです。しかし、いまの日本社会に真に必要なのは、そうした全体の流れを一人で変えてしまうような英雄的カリスマというより、せいぜい各地域、各クラスターの生きづらさを少しでも緩和させられるような多くの酋長なのではないでしょうか。 
 
では現代における「酋長/首長」のよき事例となる人物としては、一体誰があげられるか。ここで思い出されるのは、例えば文化人類学者の小川さやかが2019年に刊行した『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』に登場する、香港の魔窟チョンキンマンションの「ボス」として地下経済をとりしきるタンザニア人のカマラです。小川はカマラをはじめとした香港の独立自営業者について次のように描写します。 
 
彼らは、思いつきのように異国の地にやってきて、中古車や中古家電、天然石の仲介、交易人のアテンド、ときには裏稼業にいそしんでいる。その時点で勇気ある「起業家」だが、浮き沈みはジェットコースターなみで、月に2万ドルも稼ぐ敏腕ビジネスマンが別の月に100ドルしか稼げないこともざらだとか。しかも銀行や保険会社のような既存の制度に期待をかけない。仲間のことも信用しない。そのうえ、騙されても、「あいつは今大変なんだ、誰だって窮地に追い込まれたらああなるさ」と懐深く受けとめ、助けるべき人とそうでない人を線引きすることなく手をさしのべる。彼らの人助けは「ついで」の産物だという。だから、「あのときあんなに親切にしたじゃないか!と憤ったりしなくてすむし、助けられた側の負い目も少なくなる。」 
 
では、そんな彼らの眼から見て、私たち現代の日本人はどのように映っているのか。カマラは言います。 
 
日本人は真面目に働かないことに怒る。仕事の時間に少しでも遅れてきたり、怠けたり、ズルをしたりすると、日本人の信頼を失うってさ。アジア人のなかで一番ほがらかだけれども、心のなかでは怒っていて、ある日突然、我慢の限界が来てパニックを起こす。彼らは、働いて真面目であることが金儲けよりも人生の楽しみよりも大事であるかのように語る。だから、俺たちが、子どもが六人もいて奥さんも六人いるとか、一日一時間しか働かないのだというと、そんなのおかしいと怒りだす。アフリカ人は貧しいのだから、一生懸命に働かないといけないと。アフリカ人がアジアで楽しんでいたり、大金を持っていたり、 
平穏に暮らしていると、胡散臭いことをしていると疑われる。だから俺はサヤカに俺たちがどうやって暮らしているのかを教えたんだ。俺たちは真面目に働くために香港に来たのではなく、新しい人生を探しに来たんだって。」 
 
自分の星座で新月を迎えていく今期のうお座もまた、カマラのような大らかでいて誇り高いひとりの酋長として、どうしたら周囲の空気をゆるやかなものにしていけるかということが問われていくでしょう。 
 
 
参考:小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』(春秋社) 
<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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