ブレイディみかこ『心を溶かす、水曜日』

がんばったのにまだ週の半分……。ため息が出そうな水曜日のあなたを解放するエッセイ連載。

vol.08 「それぞれ」であることを手離さないために

ブレイディみかこさん連載『心を溶かす、水曜日』
「それは本末転倒ですね」と思わず声を出したのはMORE編集部の編集者Wさんだった。読者世代の方々との定例座談会でのことである。「最近、何か職場でモヤっとすることがありますか?」という質問をしたら、大手製造会社にお勤めのMさんがこんな話を聞かせてくれたのでWさんがつい声をあげたのである。

Mさんは、自分の職場には問題はないそうだが、取引先にモヤモヤさせられているという。「取引先の会社で、男性の育児休業中の引き継ぎがまともにできていなくて、結局、本人が週末にこっそり出社して仕事をしています。育休を取るように上から圧力がかかってるみたいで」。

男性が育休を取って女性をサポートするのは当然のことだし、ウエルカムな動きである。しかし、「うちはホワイト企業です」アピールや、育休利用者が出たときに国から事業主に支給される助成金を目的として、上司に育休を取らされている男性がいるという。しかも、男性の育休は短いので、しかるべき代わりの人を配置せず、部署のみんなでカバーすればなんとかなるでしょ、みたいな見切り発車の育休スタートもあるそうだ。

こうなると、Mさんのような取引相手としては、誰が窓口なのかわからず、トラブル続出。結局、育休を取っている本人がひそかに尻ぬぐいをしている。Mさんは、「仕事のサポート体制もなく、休めとプレッシャーだけかけるのは理不尽」と育休中の男性に同情していた。

一方で、日本には「パタハラ(パタニティハラスメント)」という言葉もあると聞いている。こちらは子育て中の男性が職場でハラスメントを受けることだそうで、特に、育休や育児のための短時間勤務制を請求したり、取得したりすることで受ける不利益な扱いや嫌がらせを意味する。

一見すると、Mさんが言っていた「育休取得圧力」と「パタハラ」は正反対のものに見える。だが、実はこれらは同じコインの裏表ではないだろうか。育休制度への理解が足りないときには「会社に損をさせるな」と育児参加したいパパをいじめる上司や同僚が、いったん育休制度を理解し、それが会社の収益や資産を増やすことにつながると知るや否や、「育休を取れ」とプレッシャーをかけ始める。いずれにしても、育休は労働者とその家族のためにあるという本来の理念がぶち飛んでしまっている。そんなことより企業の利益が大事、社員は会社のためにあると考えている人が多いから、育休を取れと言われて休みに入った人が、コソコソ隠れて仕事をしなければいけないという本末転倒の状況になるのではないだろうか。

このような「本末転倒」は、組織が構成員を「それぞれ」として扱わなくなったときに起きる。全体主義(個人の利益よりも全体の利益を優先し、全体に尽くすことによってのみ個人の利益が増すという考え方)に傾いた組織は、そこにいる人間を一人一人として見なくなるからだ。

というわけで、仕事に埋没している週のど真ん中の水曜日こそ、立ち止まって考えてみよう。私もいつの間にか、全体をつくる「数」になっていないだろうかと。「それぞれ」の事情なんて諦めるべきと躊躇せずに考えるようになっていないだろうかと。

そんな兆候を自分の中に見出したら、一心不乱に意味のないことをやってみるのがいい。パラパラ漫画の制作でも、フルーツカービングでもいいし、部屋の中に家具や布団を並べて障害物コースを作り、ベストタイムを測ってみるのもいい。そんなことをしたら疲れて明日の業務に支障が出る、と思ったら、あなたもプチ全体主義者になっているかもしれない。全体の利益に貢献しない無意味な行為にはあなたを息苦しさから解放する力がある。だからこそ、それはあなたという個人にとっては、大きな意味のある行為なのだ。

PROFILE

ブレイディみかこ●英国・ブライトン在住のライター、コラムニスト。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)など著書多数
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イラスト/Aki Ishibashi ※MORE2023年2月号掲載