【乙女座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<9/20~10/3> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「月を呑む」
10月1日は「仲秋の名月」です。旧暦8月15日の夜に見えるまあるい月のことを、昔から「月見る月はこの月の月」といって心待ちにされてきました。
厳密には正確に満月となるのは10月2日の早朝ですが、十五夜の翌日は「十六夜(いざよい)」、前日の月は「待宵(まつよい)」としていずれも大切にされ、その際、月に照らされていつもより際立って見える風景や、月を見ることでやはり美しく照り映える心の在り様のことを「月映え(つきばえ)」と言いました。
そして、そんな今回の満月のテーマは「有機的な全体性」。すなわち、できるかぎりエゴイズムに毒されず、偏った見方に陥らないような仕方で、内なる世界と外なる現実をひとつのビジョンの中に結びつけ、物事をクリアに見通していくこと。
ちなみに江戸時代の吉原では、寿命が延びるとして酒を注いだ杯に十五夜の月を映して飲んでいたのだとか。どうしても手がふるえてしまいますから、水面にまるい月を映すことは難しかったはずですが、綺麗なビジョンを見ようとすることの困難もそれとどこか相通じているように思います。ただ、透き通った光を飲み干すと、昔の人は何か説明のできない不思議な力が宿ったように感じたのかも知れません。
厳密には正確に満月となるのは10月2日の早朝ですが、十五夜の翌日は「十六夜(いざよい)」、前日の月は「待宵(まつよい)」としていずれも大切にされ、その際、月に照らされていつもより際立って見える風景や、月を見ることでやはり美しく照り映える心の在り様のことを「月映え(つきばえ)」と言いました。
そして、そんな今回の満月のテーマは「有機的な全体性」。すなわち、できるかぎりエゴイズムに毒されず、偏った見方に陥らないような仕方で、内なる世界と外なる現実をひとつのビジョンの中に結びつけ、物事をクリアに見通していくこと。
ちなみに江戸時代の吉原では、寿命が延びるとして酒を注いだ杯に十五夜の月を映して飲んでいたのだとか。どうしても手がふるえてしまいますから、水面にまるい月を映すことは難しかったはずですが、綺麗なビジョンを見ようとすることの困難もそれとどこか相通じているように思います。ただ、透き通った光を飲み干すと、昔の人は何か説明のできない不思議な力が宿ったように感じたのかも知れません。
乙女座(おとめ座)
今期のおとめ座のキーワードは、「新しさの根源」。
今ときめいているどんなものも、いずれ必ず輝きを失っていく。その意味では、この世のすべては現れては消えゆく泡沫のようなものであり、本当に決定的と言えるものは存在しない。そんな感覚が日常化しているのが今の社会なのだと言えるのではないでしょうか。
ドイツの批評家・思想家のベンヤミンは1939年に書いた「セントラルパーク」という断章集のなかで、既に唯一の例外をのぞいて、現代社会には本当に新しいものは何も残されていないのだと書いていました。
「いまの人間にとって、根本的に新しいものはひとつしかない。それはつねに同じ新しいもの、つまり死である。」
そう、<新しさ>というのは取り換えや買い替えのきくものを通して、ほんの一瞬だけ経験することのできるものであり、それは過去との縁を断ち切り、自分をちゃらにするという意味で、死の疑似体験とも言えるのかも知れません。
死というのは、人間の意志と理解を超えた向こうからやってくる出来事です。ですから、人間にとって死は絶対的に不可解なものであり、恐れと同時にどこか気になって仕方のないものでもあります。
そうだとすると、死の疑似体験としての<新しさ>とは、すなわちこの不可解を思い出すことであり、自身の根源的な無知に立ち戻るということでもあるはずです。
今期のおとめ座もまた、服を買い替えるとか、メイクやプロフィール画像を変えるといったありきたりの仕方で自分を新しくするのではなく、<新しさ>を突き詰めた先で人が必ず行き着くであろう大いなる謎の前で立ち尽くし、そこで自分の存在が根底から一新されていくのを感じていきたいところです。
参考:ヴァルター・ベンヤミン、浅井 健二郎・久保 哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(ちくま文庫)
ドイツの批評家・思想家のベンヤミンは1939年に書いた「セントラルパーク」という断章集のなかで、既に唯一の例外をのぞいて、現代社会には本当に新しいものは何も残されていないのだと書いていました。
「いまの人間にとって、根本的に新しいものはひとつしかない。それはつねに同じ新しいもの、つまり死である。」
そう、<新しさ>というのは取り換えや買い替えのきくものを通して、ほんの一瞬だけ経験することのできるものであり、それは過去との縁を断ち切り、自分をちゃらにするという意味で、死の疑似体験とも言えるのかも知れません。
死というのは、人間の意志と理解を超えた向こうからやってくる出来事です。ですから、人間にとって死は絶対的に不可解なものであり、恐れと同時にどこか気になって仕方のないものでもあります。
そうだとすると、死の疑似体験としての<新しさ>とは、すなわちこの不可解を思い出すことであり、自身の根源的な無知に立ち戻るということでもあるはずです。
今期のおとめ座もまた、服を買い替えるとか、メイクやプロフィール画像を変えるといったありきたりの仕方で自分を新しくするのではなく、<新しさ>を突き詰めた先で人が必ず行き着くであろう大いなる謎の前で立ち尽くし、そこで自分の存在が根底から一新されていくのを感じていきたいところです。
参考:ヴァルター・ベンヤミン、浅井 健二郎・久保 哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』(ちくま文庫)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ