12月27日から1月9日までSUGARの12星座占い
[目次]
  1. 【SUGARさんの12星座占い】<12/27~1/9>の12星座全体の運勢は?
  2. 【SUGARさんの12星座占い】12星座別の運勢
    1. 《牡羊座(おひつじ座)》
    2. 《牡牛座(おうし座)》
    3. 《双子座(ふたご座)》
    4. 《蟹座(かに座)》
    5. 《獅子座(しし座)》
    6. 《乙女座(おとめ座)》
    7. 《天秤座(てんびん座)》
    8. 《蠍座(さそり座)》
    9. 《射手座(いて座)》
    10. 《山羊座(やぎ座)》
    11. 《水瓶座(みずがめ座)》
    12. 《魚座(うお座)》

【SUGARさんの12星座占い】<12/27~1/9>の12星座全体の運勢は?

「呑み込むべき“寒九の水”を問う」 

2021年を迎えて最初の新月は1月13日にやぎ座の第三デカン(20から29度)で起こります。やぎ座の現実主義に水星の知性が加わるため、この新月では特に物事の本質を見抜く客観性が冴えわたっていくでしょう。 

二十四節気では1月5日より「小寒」に入ります。いわゆる「寒の入り」と言われ、冬至で「一陽」を得ることでかえって陰気が強まり、ますます冷えが厳しくなっていく頃合いとされています。そして、今回新月が起こる1月13日は寒の入りから9日目の「寒九」にあたり、昔からこの日の水(寒九の水)は特別な力が宿るとされ、餅をつくにも、お酒を造るにも、薬を飲むにも、珍重されてきましたが、この特別冷たい水こそが薬にも力にもなるという発想は、まさに今回の新月のテーマとも言えます。 

すなわち、人間が経験しうるもっとも純粋な自由というのは、厳しい規律や掟を受け入れ、従うことでこそ実現可能になるということ。さながら寒い時期ほど、一年を通して温度変化の少ない地下水さえもがあたたかく染み入るように感じられるように。あなたの人生に力を与え、解放させてくれるだけの「冷たさ=厳しい現実やその枠組み、ルール等」とは何か、それをいかに取り入れていけるかが今期 は問われていきそうです。

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「新たな時代に発生する痛み」。

牡羊座のイラスト
リモートワークやオンラインでのコミュニケーションが当たり前になっていった2020年に続き、2021年もまたテクノロジーが経済と手を携えながら世界を新たな構造に組み換えようとする流れはますます速く、強くなっていくでしょう。 
 
こうした状況において、私たち人間社会は真っ先に生活の中の美的な価値を犠牲にしてしまうのだと指摘したのがデザイナーの原研哉です。2003年に出版された『デザインのデザイン』という本の冒頭で、彼は「時代が進もうとするその先へまなざしを向けるのではなく、むしろその悲鳴に耳を澄ますことや、その変化の中でかき消されそうになる繊細な価値に目を向けることの方が重要なのではないか」と一つの指針を打ち出しています。 
 
そしてそれから、創造の資源として蓄積されてきた歴史の一つとして、機械生産で活気づいていた一方で、粗雑な日用品の発生という状況に直面していた150年前のイギリスを例に挙げます。 
 
「デザイン」という思想の源流となったジョン・ラスキンとウィリアム・モリスは、それぞれ講演と著作、芸術・デザイン運動という形で、「生活環境を激変させる産業メカニズムの中に潜む鈍感さや不成熟に対する美的な感受性の反発」を展開したのであり、その痛みの深さこそが引き金となって、デザインという考え方・感じ方、すなわち「最適なものや環境を生み出す喜びやそれを生活の中に用いる喜び」に基づく既存の芸術とは異なるムーブメントが世に現われてきたのだ、と。 
 
翻って、昨今の世の流れになんとか適応する中で、いまあなたの生活では何が犠牲になっていて、どれほどの悲鳴をあげているのでしょうか? 
 
新たな時代の到来には、必ず相応の痛みの発生が伴うもの。今期のおひつじ座は、それがどんな引き金を引いていくことになるのかを確かめる意味でも、まずは現在の生活に潜む「鈍感さや不成熟」にしかと目を止めていきたいところです。 


参考:原研哉『デザインのデザイン』(岩波書店) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「わたしは攪乱されたい人間なのです(鎌田東二)」。

牡牛座のイラスト
日本人が本気で意識が変わる時というのは、どうも戦争で負けるとか、バブル経済がはじけるといった政治経済的なものというより、むしろ公害問題や震災・津波などの自然災害によって引き起こされるのではないか。 
 
3.11の後、個人的にそんな考えを持ったことがありますが、同じことを“風景異化”という視点から、より本質的かつダイナミックに迫った対談が、宗教学者の鎌田東二とランドスケープアーティストのハナムラチカヒロによって生まれた『ヒューマンスケールを超えて』という本に収められています。 
 
その中で、鎌田は超能力少年がもう一回先祖返りするように違う意識と身体の在り方に変容していく物語を描いた宮内勝典の小説『ぼくは始祖鳥になりたい』(1998年)を例に挙げ、「ヒューマンスケールは物足りない」「ネイチャーの方がもっとおもしろい」「わたしは恐竜の子孫であると本当に思うのです」と畳みかけるように語っていきます。 
 
そして、それを受けたハナムラもまた、「生態学の中では攪乱(かくらん)という要素がすごく重要です。環境に何かの攪乱が起こることによって、一度リセットされてぐっと違う方向にいく」と風景異化が人間に与える身体的・精神的インパクトについて説明した後、次のように語るのです。 
 
進化というのをぼくらは平面的に見ている。平面的に見ると、始祖鳥に戻るという話かもしれないですけど、上からみるとらせんのようになっていて、同じところに戻っているように見えるかもしれないけど、じつはずっと深まっていっているという話ではないか」 
人間だけの進化を考えなくても、地球で、あるいは宇宙で何かが進化していけばいいという考え方に立てば、人間中心主義といったところから脱出できる」 
 
これを今期のおうし座に置き換えたとき、いま自分が巻き込まれている変化の激流に対し、ある種の「攪乱」と捉えていくこともできるのではないでしょうか。 
 
そして、それが“進化論的心身変容”をもたらすものであるのか。もし二人のようなパースペクティブで捉えなおしてみることができれば、少なからず気付きが得られるはずです。 


参考:鎌田東二・ハナムラチカヒロ『ヒューマンスケールを超えて わたし・聖地・地球』(ぷねうま舎) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「謎の感覚」。

ふたご座のイラスト
こうした時勢において仕事で占いに関わっていると、どうしても「コロナはいつ収束しますか」と聞かれる機会がちらほらある。冗談めかして聞いてくる人もいるが、大抵は真剣なトーンで聞かれるので、こちらも困ってしまう。占いといってもそれはしょせん人の手でするものであり、神のみのぞ知るとしか言いようがない。そして“神”とは元来、沈黙する者であり、隠れたる神なのだ。 
 
20世紀を代表する宗教学者のルドルフ・オットーは、こうした神の幽暗で不可解なあり方に深く分け入り、神学が提示する神の合理的側面(「信じる者は救われる」等)に対して、非合理的側面を強調し、それは人間の神に対する戦慄的畏怖(ヌミノーゼ)において立ち現れるものと分析していった。 
 
例えば、処刑前夜のイエスが最後の晩餐後に祈りを捧げ、またユダに裏切られ捕えられた場所として知られるゲッセマネの夜のイエスの態度について、オットーは「この秘義と戦慄とのヌミノーゼの光に照らしかつそれを背景として、私たちは最後にまた、ゲッセマネの夜のイエスの苦闘を見、そしてそこでは何が問題であったかを理解し追感せねばならない」と前置きした上で、次のように問いかけてみせる。 
 
この魂の根底まで揺り動かす震駭と逡巡、この死ぬばかりの懊悩、この血の滴のように地上に流れる汗、これらは果して何の故であるか。普通の死の怖れだろうか。すでに一週間以来死を目前に見ていた者、明白な自覚をもって死の晩餐を弟子達と共にした者に、そんなことがあり得るだろうか。否、ここには死の怖れ以上のものがある。ここには、戦慄すべき秘義の前に、畏怖に満ちた謎の前に感じた被造者の畏がある。モーゼとその召使いとを夜「襲撃した」という伝説のヤハウェ、夜明けに至るまで神と格闘したという古伝説のヤコブが、それを解明する類例ならびに預言として、思い出されるではないか。」 
 
ここには、人間が人間に対して感じる不可解と同じレベルの死の恐怖を超えた、それ以上の「謎の感覚」があった。つまり、神の不可解がこの上なく拡大されていたのであり、そうであったからこそ、十字架にかけられたイエスの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」という叫びにも似た問いかけはただ虚しく響くのではなく、相応の答えを得たのではないだろうか。 
 
そして今期のふたご座もまた、何かを問うという行為をこうした「謎の感覚」とどこまで連動させることできるかどうかを少なからず問われていくはずだ。 


参考:ルドルフ・オットー、山谷省吾訳『聖なるもの』(岩波文庫) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「戦わない知性」。

蟹座のイラスト
病気にかかれば病気と戦いたがったり、コロナが流行ればコロナを悪者にして戦いたがる人は一定数いるものですが、なにかと「戦う」よりも「やりすごし」「生き延びる」ことのほうが抵抗的である場合もあるのではないでしょうか。 

精神科医の中井久夫は「ストレスをこなすこと」というエッセイにおいて、やはり人類が共通して抱える問題としてのストレスに対し、同様の戦略を提案しています。 

「ストレス解消法」は、何にせよ、一時しのぎと考えて、「ストレス感」がなくなるまで徹底的に追求しないことです。追求すると、むしろ、むなしい感じが生まれ、これは全然消えません。」 

人事の人はよく「三日、三十日、三カ月、三年」といいます。就職してから退職を申し出るまでの期間です。こういう時期は、生理的にやめたくなるらしいので、休暇を取るとか少し仕事の気を抜いてでもいいからやり過ごして、それから考えてみるのがいいでしょう。」 
 
仕事にせよ家事にせよハイキングにせよデートにせよ、四十分単位、二時間単位で計画するのがかしこいと思います。四時間もぶっつづけでやったら、「おもしらうてやがて悲しき鵜飼かな」(芭蕉)ということになります。」 

こうしたいっけん地味な提案の数々が、いったいどれほどの抵抗力を人に与え、生き延びることを言祝いできたかは、実際に試してみればすぐに分かることでしょう。危機においては、威勢がいいだけではダメなのです。頭をカッカさせて声高に何かを叫ぶだけでは、結局なに一つ事態は好転しません。 

今期のかに座もまた、何か誰かと「戦う」ことをやめることで、かえって抵抗力を高めていくという戦略について、自分の身に引き寄せて考えてみるといいでしょう。 


参考:中井久夫『精神科医がものを書くとき』(ちくま学芸文庫) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「世に棲む患者」。

獅子座のイラスト
役に立つか立たないかで言えば、成功者の自伝ほど役に立たないものはありませんが(役に立たないから悪い訳ではないが)、実際に歴史上の天才たちが、いかにお手本にしたいとは思わないような日常を送っていたかを簡潔にまとめたのが『天災たちの日課』という本です。副題は「クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々」。 
 
例えば、自分のことをカナダで「もっとも経験を積んだ世捨て人」と呼んでいた天才ピアニスト、グレン・グールドは、インタビューの中で自身のスケジュールについて次のように語っていたのだそうです。 
 
「僕はきわめて夜型の生活を送っている。その理由はおもに、日光があまり好きではないからだ。じっさい、明るい色はどんな色でも気分を落ち込ませる。僕の気分はだいたい、どんな日も、空の晴れぐあいと反比例するんだ。「暗雲の向こうには必ず銀色の光がある」ということわざがあるが、ぼくの個人的なモットーは昔からずっとその反対で「銀色の光の向こうには必ず暗雲がある」だ。だから、用事はできるだけ遅い時間に設定して、夕暮れにコウモリやアライグマといっしょに活動を始めるようにしている。」 
 
他にも彼のおかしなジンクスの数々を読んでいると、人間としてどうよ、と言いたくなる気持ちも出てくる一方で、精神科医・中井久夫の「世に棲む患者」という概念を思い出さずにはいられません。 
 
これは、患者を制限の多く抑圧的な「世の中」の“普通”に適応させるのではなく、むしろ「世の中」それ自体をもっと多層的なものとして捉え、その中での特異性を発明しつつ生き延びる人々を肯定するために使われたもので、まさにグールドのような人のための言葉と言っても過言ではないでしょう。 
 
その意味で、今期のしし座もまた、グールドのように生き延びるために“異常さ”をつぎつぎと発明するくらいの気概が欲しいところです。 


参考:メイソン・カリー、金原瑞人・石田文子訳『天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』(フィルムアート社) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「ネガティブ・ケイパビリティ」。

乙女座のイラスト
毎日膨大な数の書籍が出版され、日々すさまじい量の情報がスマホやPCから目に飛び込んでくる現代社会では、できるだけ早く情報の流れを「理解」し「分かった」状態に至れるか否かが鍵になってくるかのように思われますが、果たしてそれは正しいのでしょうか。 
 
例えば、今ほど性の規範の見直しが力強く叫ばれることのなかった時代、男性でありながら女性的な精神を宿していた文豪のひとりに、26歳の若さで病没したロマン派詩人ジョン・キーツ(1795~1821)がいます。 
 
彼はみずからの詩作行為と、シェイクスピアへの心酔から、詩人が身につけるべき能力として、価値判断を保留して宙づり状態にし続けることを表す「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉の名付け親としても知られていますが、本人の言葉を借りればそれは次のようなもののようです。 
 
「詩人はあらゆる存在の中で、最も非詩的である。というのも詩人はアイデンティティを持たないからだ。詩人は常にアイデンティティを求めながらも至らず、代わりに何か他の物体を満たす。神の衝動の産物である太陽と月、海、男と女などは詩的であり、変えられない属性を持っている。ところが、詩人は何も持たない。アイデンティティがない。確かに、神のあらゆる創造物の中で最も詩的でない。自己というものがないのだ。」 
 
つまり、アイデンティティを持たない詩人は、それゆえにアイデンティティを必死に模索する。それは短気に事実や理由を手に入れようとはせず、不確かさや、神秘的なこと、疑惑ある状態の中に留まり続ける能力を必要としますが、キーツはそれをネガティブ・ケイパビリティ(負の能力)と呼んだのです。 
 
そこでは訳の分からないことや、取り付く島もない事態を前にした時のすっきりしない、不快な気分にじっと耐えることになる訳ですが、そうした力が必要な事態や状況というのは、すぐになにかを「分かった」状態に持っていく力(ポジティブ・ケイパビリティ)で何とかなる分かりやすいものよりも、時代が進むほどにずっと多くなってきているように思われます。 
 
今期のおとめ座もまた、そんな力を発露させ、磨いていくことの大切さに改めて思い巡らせてみてはいかがでしょうか。 
 

参考:帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』(朝日選書) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「帰るところ」。

天秤座のイラスト
2020年12月22日をもって地の時代から風の時代に本格的に移行した。昨今、そんな木星と土星の邂逅周期に基づいた約200年ごとの「ミューテーション(移り変わり)」が占星術界隈では決まり文句のように語られていますが、実際にはただ待っていれば時代の方が勝手に変わってくれる訳ではもちろんありません。 
 
ミューテーションはある種のサイクルであり、あくまで自分なりの人生文脈に「風」のシンボリズムを生かしていかなければ、上辺だけの言葉をなぞって、ただ傍観者として通りすぎていく惑星を見送るだけで終わってしまうでしょう。 
 
例えば、前回の風の時代である鎌倉時代は日本独自の浄土仏教が花開いていった時期でもありました。「末法の時代には、もはや悟りの道を完遂することができない」「私のような愚者は他力の道しかない」といった姿勢を強烈にもった弱者救済型の宗教である浄土仏教は、「帰るところ」を提示する仏道でもありました。 
 
宗教学者の釈徹宗は、『法然親鸞一遍』の中である韓国の宗教学者の弁として、「日本人の宗教性を最もよく表しているのは『夕焼け小焼け』の歌だ」という言葉を紹介しています。 
 
夕焼小焼で日が暮れて/山のお寺の鐘がなる/お手々つないで皆かえろ/烏と一緒に帰りましょう  
子供が帰った後からは/円い大きなお月さま/小鳥が夢を見る頃は/空にはきらきら金の星」 
(中村雨紅作詞) 
 
釈はここで語られる「夕焼」「お寺の鐘」「お手々つないで」などの言葉に着目し、これらは「共生感覚」「生命感」「無常観」「深みのある悲哀感」など「日本の宗教的情緒を見事に象徴しています」と言及していますが、大正時代に書かれたこの歌詞の世界は現代ではもはや失われてしまいました。 
 
もし現代においてこうした「帰るところ」や「また会える世界」を指し示す言葉があるとすれば、それはどんな表現になるのでしょうか。 
 
今期のてんびん座は、それくらい大きな視点から自分のこころの支えとは何かということについて、考えを巡らせてみるといいかも知れません。 


参考:釈徹宗『法然親鸞一遍』(新潮選書) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「助け合いとしての贈与」。

蠍座のイラスト
他人との出会いこそが、人間を動物ではなく人間らしく作り変えていくのだとしたら、「共にある」ことは人間存在の本質にかかわる重要な営みですが、資本主義の浸透しきった世界で生きている私たちは、ともすると見返りや対価など行為に際して経済合理性を前提に考えてしまう癖がついてしまっているように思います。 
 
しかし今西仁司の『交易する人間』によれば、そうした資本主義的交換ないし市場的交換というのは、贈与体制を解体することで初めて歴史的に登場してきたのであり、贈与体制がほぼ完全に歴史的敗北をみるのは、たかだか十九世紀の中葉でしかないのだそうです。 
 
それこそが「近代」への歴史的転換であり、「私的所有」体制への一元化だった訳ですが、それはなにより、生産者と生産手段(特に土地と自然)のささやかな分離から生じたのだ、と。 
 
今西は私的所有体制または資本主義の出現は歴史的に理由があったし、それを逆転することはできないと断った上で、「資本主義が浸透する(寄生する)市場経済は、人間(個人と集団のすべて)の現実的な生活の基盤を根底から破壊する傾向がある」のだと警鐘を鳴らします。 
 
では、そうした破壊的作用を克服するにはどうすればいいのか。今西はマルセル・モースの言葉を引用しながら、「受け取るのと同じ程度に与えるなら、すべてがうまくいくであろう」という贈与倫理の復活に期待しつつも、それがどのように可能となるか、という問いに関しては依然として誰も答えをうまく用意できないままであるとも述べています。 
 
今期のさそり座もまた、誰か何か(自然や土地)と「共にある」ことの豊かさをどうしたら取り戻し、分離や断絶を結びなおしていくことができるかが、改めて問われていきそうです。 


参考:今西仁司『交易する人間(ホモ・コムニカンス)贈与と交換の人間学』(講談社学術文庫) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「カイロス的時間感覚」。

射手座のイラスト
昨年は大企業や派遣会社に不当な理由で解雇を通告されたという話をニュースだけでなく身近なところからも少なからず聞いた年でもありましたが、これは単にコロナの影響というより、かつてカール・マルクスやジョージ・オーウェルによって予言された管理社会が到来しつつあることを、改めてコロナが炙りだしたに過ぎないのだと言えるでしょう。 
 
こうした企業側の生産性を時間に換算するような客観的で合理主義的な時間感覚について、哲学者のジョルジョ・アガンベンは「クロノス」という古代ギリシャの時間の神にひもづく言葉で表す一方、身体によって経験される質的な変容を伴う主観的な時間間隔を「カイロス」という言葉で表現しました。 
 
アガンベンによれば、近代科学が切り開いた認識、あるいは計算可能な時間感覚は「経験を可能なかぎり人間の外に、つまりは道具と数のなかに移し換えていく」ような営みと結びつきやすく、資本主義システムはそれを巧妙に利用しながら私たちの生活をいつのまにか変えてしまった訳です。 
 
しかし、そもそも「経験」というものは確実性や数値化とは相容れないものであり、それゆえにアガンベンは「ひとたび計算可能で確実なものとなってしまったなら、そのときにはその経験はただちに権威を失ってしまう」のだと言います。 
 
このことは、カイロスという神がギリシャ語の「機会(チャンス)」に由来し、宿命あるいは神意によって配剤され、人間に決断を伴う応答を要求するような決定的瞬間を意味することを考えれば、自然と合点が行くのではないでしょうか。 
 
そうした人間のカイロス的想像世界は、現代の資本主義社会が前提とする定量的時間や物質世界の下位に置かれている訳ですが、今期のいて座が突きつけられているテーマもまた、どうしたらそのヒエラルキー的関係を転倒していくことができるかということと深く関連しているように思います。 


参考:ジョルジュ・アガンベン、訳『幼児期と歴史 経験の破壊と歴史の起源』(岩波書店) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「おのずからとみずからのあわい」。

山羊座のイラスト
気候変動にしろ、感染症にしろ、自然の猛威はつねに想定外の暴力をもって私たちを襲ってきましたが、文明社会が無意識のうちに前提としてしまう「安全神話」というものも、そもそもはかりしれない自然の働きを「はかりうる」ものと考え違いをしてしまうところから生まれてくるのではないでしょうか。 
 
倫理学者の竹内整一はこれを「おのずから」と「みずから」の「あわい」の問題として設定しています。すなわち、「「はかる」とは、すぐれて「みずから」の営みを表す言葉であるが、その営みが「おのずから」との、ほどよい「あわい」を失って暴走し出したところに、近現代の科学・技術の問題があるのではないか」と。 
 
ここで言う「おのずから」とは、震災をはじめ、四季折々の移り行きもそうですが、自然に、ひとりでに、ということで、私たちはそれを時に偶然として捉え、時に必然として捉えたりする訳ですが、いずれにせよ、老いや死などと同じく、生きている以上、不可避な働きとしてあります。 
 
無論、そこに自分自身の力を働かせる「みずから」が加わることで、立ち向かうことで避けられたり、可能になったりすることもあるにはありますが、世の中や人生のさまざまな出来事というものが両方からのせめぎあいの「あわい(間/淡い)」の上に成り立つ以上、根本的にはそこにはどうにもできない領域を認めざるを得ない。 
 
そうした“余白”のある世界観や人生観がふと口をついて出たときに、私たちは「仕方ない」という言葉を使ってきたはずです。 
 
今期のやぎ座もまた、ただいたずらに自身の無力さを嘆いてみせる訳でもなく、かといって努力や意志ですべてをはかろうとする訳でもないところで、そっと「仕方ない」とつぶやけるだけの余白を感じ取っていくことが、ひとつのテーマとなっていくでしょう。 


参考:竹内整一『やまと言葉で哲学する 「おのずから」と「みずから」のあわいで』(春秋社) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「brachliegen」。

水瓶座のイラスト
2020年は主に新型コロナウイルス感染症への対策をめぐって、政府やその長として総理と言うより、日本学術会議(あらゆる分野の科学者の意見をまとめ国内外に発信する機関)の存在感を改めて感じさせられた年でもありました。 
 
しかし一方で、科学が探究する決定論的な真理や政治的理念といった解や意味をいくら単線的に追求したところで、それはコロナ禍で分断を深めた社会やそこに暮らす人々の痛みや、そこはかとない不安が和らいだり解消されたりすることとはまったく無縁なのだということも、改めて痛感させられたのではないでしょうか。 
 
哲学者のジョルジョ・アガンベンは、科学や政治もまた人間が作り出すものである以上「閉じられた世界」であり、例えば動物などは決してそれを知り得ないにも関わらず、人間以上にいきいきと豊かに生をまっとうしているように見えることについて、「動物の放心」という言葉で表しました。 
 
さらに興味深いことに、アガンベンはそうした動物の「真理については何ひとつ知らないし、何ひとつ予期してもいない」状態について、人間の「深い倦怠」と似ているという指摘もしています。 
 
アガンベンはこの特殊な状態について、「不活性のまま滞留する」と翻訳される「brachliegen」というドイツ語の動詞にも置き換えており、これは翌年に種を撒くことができるように耕作しないままにしておく農地を意味するBrache(休耕地)という言葉に由来し、活動しないまま、あらゆる判断を宙づりにしたままに保持されてあるということであるとも説明しています。 
 
同様に、今期のみずがめ座もまた、そんな風に具体的な可能性を活性化しないようにすることによってはじめて「本質的な震撼」を顕現させ、そこにいきいきと豊かに生をまっとうしていくきっかけを見出していくことがテーマとなっていきそうです。 
 
例えば、波乱に満ちた人間世界とは異なる次元にいる鳥たちが、そのさえずりの中で突き抜けた歓喜とともにあるように。 


参考:ジョルジョ・アガンベン、岡田温司・多賀健太郎訳『開かれ―人間と動物』(平凡社ライブラリー) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「無言の前衛」。

魚座のイラスト
2020年はコロナ対策について各国の首脳がみせた力強く頼もしいリーダーシップを羨ましがったり、日本政府とのあまりの違いに落胆を隠さない人々の反応をSNSなどで何度も目にしましたが、個人的にはそうした光景に直面するたび、かつて訪れたヨーロッパの国で感じた、街のすべての光景が人々の意志に強く繋がれて出来ているような印象を思い出していました。 
 
そこには日本では感じられた、何か危うい、あいまいなものを、解釈の余地を温存したまま楽しんだり、見つめたりする空気のようなものがなかったのです。 
 
いま新しい年を迎えていくにあたって、改めて各国ごとのニューノーマルということを考えていく上で、否が応でも私たちは「日本らしさ」の再発見という課題を突きつけられていくのではないか。そんな風にも思っている訳ですが、ここで思い出されてくるのが、赤瀬川原平の『千利休 無言の前衛』です。 
 
新しい価値観の生まれてくるような世界にあっては、言葉というものの乱暴さばかりが目につくのである。どのように丁寧な言葉を心がけても、言葉の存在自体が乱暴になっていく。何事かを言葉に託すごとに、その言葉に裏切られる。そして沈黙が生れる。」 
 
質素さを尊ぶ禅の精神を取れいれた「わび茶」によって茶の湯の革命児となり、その高い美意識ゆえに秀吉の怒りを買い、自害を命じられて生涯を終えた千利休(せんのりきゅう)について、赤瀬川はさらに次のように続けるのです。 
 
だから利休は言葉を使わずに、何事かを黙って示す、ということになる。示すというより、黙って置くのだろう。その置かれたものに人が何事か気付いてくれればいいし、気付いてくれなければ仕方がない。そのまま黙っている。というふうであったろうと想像している。何事かを説明し、説得する、というようなことはいちばん遠い人だと思うのである。いっぽう秀吉というのは、何事かを示しながらどんどんしゃべる、そんな人ではなかったのか。」 
 
ある意味で、今期のうお座もまた、いかにこうした「黙っておかれた何事か」そのものになっていけるかというところにあるのではないでしょうか。そしてそれは、日本らしさという空気感とも少なからず自然と一致してくるはずです。 


参考:赤瀬川原平『千利休 無言の前衛』(岩波新書) 
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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文/SUGAR イラスト/チヤキ