【最新12星座占い】<5/30~6/12>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい

2021年5月30日から6月12日までのSUGARの12星座占い

【SUGARさんの12星座占い】<5/30~6/12>の12星座全体の運勢は?

「早乙女のエロばなしのごとく」

6月5日に二十四節気で「芒種」に移ると、いよいよ田植えの時期。田園地帯の水面には空や木立や山が映り、光が踊っていきますが、そんな中、6月10日には双子座19度(数えで20度)で新月を迎えていきます。 

今回の新月のテーマは「自分が周囲へ与える影響の再確認」。すなわち、一通りさまざまな影響を受けとって、特定のことに感動しなくなってきたことで、かえって冷静に、じゃあどんな自分はどんな影響を周囲に与えていきたいのかを改めて考えていく。そういう動きをしていくには絶好のタイミングとなっていくように思います。 

例えば、民俗学者の宮本常一によれば、昔は田植え時には女たちがエロばなしに花を咲かせたり、セックスのうたを歌っていたそうで、「その話の中心となるのは大てい元気のよい四十前後の女で」「若い女たちにはいささかきつすぎるようだが話そのものは健康で」あったこと。また、「エロ話の上手な女の多くが愛夫家で」「女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福である事を意味して」いたそうで、今日では田植えも人の手から機械に任され、すっかりそんな光景も消えてしまいましたが、日々の労働をやわらげ、元気に過ごしていくための材料のニーズそのものは今も昔もそう変わらないはず。 

つまり、何かしらの不満に対しただ声をあげたり、孤立した個の力で対抗して終わってしまうのではなくて、かつての「元気のよい」早乙女たちのように、周囲を巻き込み、集合の力を効果的に使うこと、そのためにどんなタイミングでいかなる呼びかけをしていくべきかが、今回のふたご座新月を通して問われいくのではないでしょうか。 

あるいは、自分の考えや提案が、どれくらい他者の共感や支援を受けられるものなのかを確かめ、誰にどんな仕方で提示していくかを判断していくこともテーマになっているのだと言えます。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「手紙を書くということ」。

牡羊座のイラスト
近代世界は“液状化”した―。21世紀に入った2000年にそう説いてみせたのはポーランドの社会学者ジグムンド・バウマンでした。すなわち、私たちが暮らす社会は、既にあらゆる不動の枠がはずれてしまい、「人びとの目移りはとどまるところを知らず、きのう注目された事物はきょう忘れられ、きょう注目された事物はあした忘れられ」「期待をかき立てる原因も、不安をかき立てる根拠もまた変わり続け」「暮らしを立て将来を託すべき状況も、人とつながり離れる状況も変化し続ける」のだと。 
 
そうした世界に棲む私たちは、「ときに演技者、ときに被害者、ときに利用者として」日々変化を予期していなければならず、「常に流されて旅するしかなく、一ヵ所に静かに留まることは叶わない」生活を余儀なくされているのだとバウマンは述べます。 
 
では、そうした想定読者に向けた手紙(という設定の雑誌連載)を通して、バウマンはあえて何を企図し、どんなことを語りかけようとしていたのか。 
 
それは一言で言えば「船乗りの物語を農夫に語らせること」。 
 
彼はそれを「この上なくありふれた暮らしから紡がれた物語が白日の下にさらすのは、実は途方もないものだが、うっかりすれば見逃してしまう。そうした物語を真にありふれた物語にしたければ、一見ありふれたものごとを一度面妖な物語にしなければならない」のだという言い方で説明しているのですが、おそらくそれは他の何よりも「手紙を書く」という形式によって特徴付けられているように思います。 
 
すなわち、一見ありふれた生活、何気ない出来事のように見える「身近なもの」「いつもそばにあるもの」「常に変わらぬもの」などを、ぬくぬくとまとわりついて感受性を鈍らせる日常性から切り離し、引き剥がしたうえで、それら一つひとつを奇怪かつ不思議な謎として扱い、旅の風景を描き出す紀行文として伝えてみること。 
 
今期のおひつじ座もまた、そんなバウマン式のスタイルを自分なりに取り入れてみるといいでしょう。 


参考:ジグムンド・バウマン、酒井邦秀『リキッドモダニティを読みとく』(ちくま学芸文庫) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「面白い女」。

牡牛座のイラスト
宮本常一が1960年代に書いた『忘れられた日本人』によれば、田植えの際に早乙女たちのあいだで交わされるエロばなしは、去年の話のくりかえしであることも多かったそうですが、そうでない話の方がむしろ多かったのだそうです。 
 
つまり、リアルタイムに自分が実体験したり、見聞きした話を“ネタ”に盛り込んでいったのであり、それを隣り合った二人でひそひそ話していると「ひそひそ話は罪つくり」と必ず誰かが言い、公然と話されるのが当たり前という空気があっただけに、とにかく明るく健康的であったのだそうです。 
 
もちろん、性の話がここまで来るには長い歴史があったはずですが、こうした話を交わし合うことで、女たちは男たちへの批判力を培っていったのです。 
 
「わしゃ足が大けえてのう、十文三分(現在の24.5センチ)をはくんじゃが……」「足の大けえもんは穴も大けえちうが……」「ありゃ、あがいなことを、わしらあんまり大けえないで」「なあに、足あとの穴が大けえって言うとるのよ」「穴が大けえと、埋めるのに骨がおれるけに」「よっぽど元気のええ男でないとよう埋めまいて……」「またあがいなことを……」 
 
昔の農家の女性たちは、こういう話をたえずしゃべっては、半ば公然と「面白い女(おなご)」の座を競い合い、それぞれのネタや腕を披露しあっていたのだそうです。 
 
「見んされ、つい一まち(一枚)植えてしもうたろうが」「はやかったの」「そりゃあんた神さまがお喜びじゃで……」「わしもいんで(帰って)亭主を喜ばそうっと」 
 
こうして彼女たちは何気ない世間話の中から笑い話やエロばなしを紡いでいくことで、共同体の大きな紐帯の役割を果たしていたのではないでしょうか。 
 
今期のおうし座もまた、そうしたかつての「面白い女(おなご)」の持っていた力の秘密に身をもって触れてみるといいでしょう。 


参考:宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「これでいいのだ」。

ふたご座のイラスト
出口王仁三郎(でぐちおにざぶろう)と言えば、大本教の教祖であり、大正、昭和の二度にわたって日本政府からの宗教弾圧事件の主人公として知られていますが、僧侶であり小説家でもあった今東光が「大怪物」と呼んだ破格のスケール感は、彼の歌人としてのキャリアにもよく現れています。 
 
幼少期より祖母から言霊学や百人一首を学び、22歳の頃に国学の大家・岡田惟平から和歌も学んだ王仁三郎は、2年のうちに11冊も歌集を出したり、百以上の結社に次々と入会してみたり(基本的には一人一結社というのが暗黙の了解だった)、時には女性会員のみの結社に入会しては、女性になりきって詠んだ歌を投稿していたと言うのですから、その自由さ奔放さは当時の常識をはるかに超えた、凄まじいものでした。 
 
そして、編者で歌人の笹公人によれば、何と言っても彼の歌の特徴は、毒抜きされた「きれいな」歌をものともしない、「豪放で茶目っ気のある歌」にこそあったようで、その幾つかを下記に紹介しておきたいと思います。 
 
「ころころと背すぢつたひて首の辺に爆発したり風呂の湯の屁は」 
 
「ギャッと生れるなり墓場に急ぐ人生だと思へば力が落ちる」 
 
「会へばかうも云はうああも云はうと考へて居た事が烟(けむり)となつた彼女の前」 
 
「ねむたさうな金魚売の呼び声に昼寝の夢がだんだん深くなる」 
 
「広い天地に五尺の身体をなげ込んで神にまかせて居る俺だ」 
 
「電柱に頭をうちつけた夕べいたく魂が彼女に走つてゐた」 
 
屁をしたり、煙となったり、夢を深めたり、神に任せたり、電柱に頭を打ちつけて女の事を考えていたりと、まったく忙しい人ですが、こうした王仁三郎の不思議なほどの明け透けに、編者は矛盾を矛盾として受け入れた上で臆することなく「これでいいのだ」とのたまう「天才バカボン」を重ねています。 
 
今期のふたご座も、そんな王仁三郎の堂々たる姿に自分を重ね、その破格さにあやかってみるといいでしょう。 
 

参考:笹公人編『王仁三郎歌集』(太陽出版) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「飽きた」。

蟹座のイラスト
うつ病はもはや現代人なら誰しもがかかりうる国民病と言えるほどに浸透し、また身近なものになってきましたが、一方で、いまだに「本人の努力不足」や「精神力の弱さ」と関係しているのではないかという考えを抱いている人がまだまだ多いように感じられます。 
 
自身もまた長年にわたって躁鬱に苦しんできた経験をもつ著述家の坂口恭平は、『躁鬱大学』のなかで、躁鬱にかかっている人間の扱いに関して、「なんなら、別の生き物だと思って」ほしいと述べた上で、例えば、躁鬱人(坂口さんの造語)にとっての「飽き」は、非躁鬱人のそれとまるで違うのだと言います。 
 
なにかを思いついた、すぐ行動した、思うままにやった、誰からも学ばずに自分なりの方法で適当に試してみた、面白かった、心地よかった、そして翌日、飽きた。非躁鬱人の世界ではこういう人を信用してはならない、雇用してはならない、みたいに教育しているようです。しかし、躁鬱人は違います。飽きた、と言えることは、技術です。「飽き」は天の恵みみたいなものです。」 
 
大事なことなので、もう一度引用します。 
 
「飽きた、と言えることは、技術です。」 
「「飽き」は天の恵みみたいなものです。」 
 
そうです、一度自分から言い出し、始めたことは必ず最後までやり通さなければならない、なんてことはないんです。でも、途中でやめるためにうまい言い訳を考えたり、それを誰かに伝えたりするのが下手だったり、できなかったりする人が絶望的に多いのが現実でしょう。 
 
特に躁鬱人は、評価の基準が常に他人にあるのが特徴なのだそうです。それで誰にも言い出せずに、心身が窮屈になっていつの間にか身動きができなるなる。 
 
だから、少しでも「窮屈さ」を感じたなら、自粛であれ、飲酒であれ、恋愛であれ、例えどんなものでも「飽きた」と言えばいいし、それは心をラクにしてくれる天の恵みなんです。 
 
今期のかに座もまた、「飽きた」と自分の口から言えることをひとつ技術だと思って、どうせなら名人芸を目指してみるといいでしょう。 


参考:坂口恭平『躁鬱大学』(新曜社) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「どけ」。

獅子座のイラスト
かつて「伝説的なセラピスト」と呼ばれた人物がいました。その名は、吉福伸逸。 
 
ある人は、吉福にセラピストになりたいと伝えたら、「じゃあ、対応を変えるからよろしく」と返ってきたそうですが、何が変わったのかというと、とにかく無理難題をいわれることが増えたのだそうです。 
 
「でも、そうしたらそれが面白いわけですよ。統合失調症の人と対するときの、自分をごまかさない真剣勝負な感じ。そこに、武術をやってるときの本気度、音楽をやってるときと同じ質の高さを感じた」のだと。 
 
ボストンでジャズミュージシャンを目指し、挫折後はカルフォルニアでサンスクリット語を学び、30歳で日本へ帰ってきた吉福は、どんな人に対する時も必ず先の三つを心がけていたというか、自然とそうすることができる人物でした。 
 
そして、彼の主催したワークショップ(「吉福ワーク」)もまた、そうした彼の対人姿勢をそのまま乗り移らせたかのように、自由で、即興的で、ダイナミックなもので、中でも代表的な「どけのワーク」を初めて受けたある人物は、その時の印象を次のように述べていました。 
 
本当にね、頭の中がシャッフルされるような体験でした。でも、これこそぼくに足りないものだって思いましたね。ぼく自身いわゆるいい人というか、ついなんでも引き受けちゃって、年に一度くらい爆発するってパターンがあったの。吉福さんに同じことを繰り返してるよねっていわれて、必要なときは本気で怒れるようになりましたね」 
 
<どけのワーク> 
九十三年に私が体験したもののバリエーションで、三人一組でおこなう。ワークをおこなう者①は目の前の椅子に座った相手②を、身体的接触以外のあらゆる手段を使って、椅子からどかせたら終わり。選手交代となる。残ったひとり③はオブザーバーだ。②は①の、心の底からどいてほしい、と思う気持ちが伝わるまでどいてはいけない。③は、①と②が中途半端なところで妥協していないか見守る役。 
 
今期のしし座もまた、この「どけのワーク」を実践していくつもりで、自分のタガをはずしていくといいでしょう。 


参考:稲葉小太郎『仏に逢うては仏を殺せ』(工作舎) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「自分なりの倫理を貫く」。

乙女座のイラスト
平野啓一郎のデビュー作『日蝕』は、中世フランスの神学僧ニコラが錬金術師ピエェルについて洞窟に入った先で「陰嚢(ふぐり)」も「乳房」も備えた両性具有者を目撃するところから始まります。 
 
やがて異端審問官に捕らえられ十字架に掛けられて火あぶりにされた両性具有者の身体から生じた荘厳な光の充溢を、ニコラは否定もせず、その原因を究明することもなく、ただその神秘的な現象と一体化した感覚を肯定していきます。 
 
彼はキリスト教という「制度」と、そこから明らかに逸脱している両性具有者を信仰の対象とする「異端」のあいだで揺れ動きながらも、決して貴重な他者を「破滅させ」てまで制度に加担するような真似はせず、「魔女」として彼/彼女を迫害することもなく、「両性具有者は私であったのかも知れない」と自問を重ねていく。つまり、安易な判断を下すことなく、どこまでも自分なりの倫理を貫き、練り上げていこうとしていくのです。 
 
私は人の為す所に於ては、或る結果が、栓ずれば必ず唯一つの原因に帰着すると云う単純な楽観主義を益(ますます)信ずることが出来なくなった。一つの結果の出づる所は、我々の想うよりも遥かに微妙な混沌でしかなく、多くの場合、我々の見出す原因なるものは、有機的なるそれから切取られた一片のかけらに過ぎぬのであろう。」 
 
こうした語りからも、ニコラが外から罪の所在を断定するような行き過ぎた「正義」には懐疑的で、物事の因果関係をあえて“宙吊り”にしておくという手続きを行いながら、一連の無視することのできないような出来事に対していることが分かるはず。 
 
今期のおとめ座もまた、傷ついた人びとの苦しみに寄り添い、ケア的であらんとしていく上で必要不可欠な、こうした手続きを自分でも改めて踏襲し、実践していきたいところです。 


参考:平野啓一郎『日蝕・一月物語』 (新潮文庫) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「エロティックなカオス」。

天秤座のイラスト
日本の文化的伝統においても、人に何かを伝えていく工夫ということに関して、これまでさまざまな試みがなされてきましたが、中でも明治以降、大きな存在感を放ってきたのが俳句でした。そして正岡子規や高浜虚子など、俳句という言語芸術の再興と普及に大きな役割を果たしてきた二人は、俳句が目指すべき表現に向かっていく上での心得を「客観写生」と命名し、大変に重んじてきたのです。 
 
1955年に刊行された高浜虚子の『俳句への道』には、そんな「客観写生」ということの核心について次のように述べられています。 
 
客観写生という事は花なり鳥なりを向うに置いてそれを写し取る事である。自分の心とはあまり関係がないのであって、その花の咲いている時のもようとか形とか色とか、そういうものから来るところのものを捉えてそれを謳う事である。だから殆ど心には関係がなく、花や鳥を向うに置いてそれを写し取るというだけの事である。」 
 
俳句という言語芸術は、夏なら「新緑」、冬なら「雪」、秋なら「月」など、「季語/季題」を持つことによってその表現に大きな制約を受け入れていくことを大きな特徴としており、俳句のめざす「客観写生」の実現に際してはまず花や鳥など、客観的自然の異質性をそのまま写生する実践が不可欠とされました。ただ、だからと言ってそれで終わりではありません。 
 
しかしだんだんそういう事を繰返してやっておるうちに、その花や鳥と自分の心とが親しくなって来て、その花や鳥が心の中に溶け込んで来て、心が動くがままにその花や鳥も動き、心の感ずるままにその花や鳥も感ずるというようになる。花や鳥の色が濃くなったり、薄くなったり、また確かに写ったり、にじんで写ったり、濃淡陰影すべて自由になって来る。そうなって来るとその色や形を写すのではあるけれども、同時にその作者の心持を写すことになる。それが更に一歩進めばまた客観描写に戻る。花や鳥を描くのだけれども、それは花や鳥を描くのではなくて作者自身を描くのである。」 
 
つまり、客観写生というのは、単なる客観的記述一辺倒なのではなく、目の前の自然と自己自身とが互いの本性を失わないままに、いわば「エロティックなカオス」を実現することであり、そこで花や鳥がそのまま表現者の心のはたらきをこれ以上ない仕方で示すとき、それがすぐれた俳句と言われるのだ、と虚子は考えていた訳です。 
 
同様に、今期のてんびん座もまた、対象を内部深くへと取り込み、畳み込んでいくことで、周囲との関わりのなかにエロティックなカオスをつくったり、できるだけ陰翳豊かな表現を心がけてみるといいでしょう。 


参考:高浜虚子『俳句への道』(岩波文庫) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「食べ物の話と艶話(つやばなし)」。

蠍座のイラスト
度重なる緊急事態宣言に加え、オリンピック中止/強行時の経済損失の試算結果が出回るなど、いよいよ社会全体に生きるか死ぬかの分水嶺に近づきつつある緊張感がますます高まってきている昨今ですが、こうした極限状態において、どんな言葉をかけ、いかなる話をするべきかということを考えていく上で、かつての戦争体験やその肉声ほど参考になるものはないのではないでしょうか。 
 
例えば、長年にわたり口承文芸の実感・実証的研究に携わってきた野村敬子の『語りの廻廊―「聴き耳」の五十年』の「ますらたけおの昔話―ジャングルの語り手 新田小太郎さん」の章には、ニューギニアでの戦争体験として次のような話が紹介されています。 
 
行軍の途中で食い物がなくて餓死する。最期の言葉が「もうだめだから料理ってくれ」というのだそうです。それが遺言です。死んで自分たちの身体を腐らせてしまうよりはみなさんの血とか肉とかになって内地に一緒に帰りたいという願いがこめられてのそういうことなんです。それほど大変な飢餓行軍だったのです。(中略)健康な人を見ると「うまそうだ」っていう声も聞こえるほどでした。」 
 
また、この新田さんという方は、ニューギニアの戦場で病気やケガで動けなくなった兵士たちを看病し、その死を看取っていく際、よく昔話を語ったのだそうです。空腹にあえぎ、マラリアに倒れた兵士たちは、食べ物にまつわる昔話を好み、彼らは「飢えと恐怖を封じる手段に、話に花を咲かせ、その幻に酔い、気力を奮い立たせ」ていたのであり、なにか語り続けなければ、目の前に横たわるいのちまでもが消えてしまうと、次々にまぼろしを語っては、兵士たちにそれを食べさせていったのだと。 
 
むろん、食べることは交わることと直結しますから、食べ物の話がにわかに艶話(男女の色事に関する話)になり、エロばなしの中に食事の比喩や擬音語が入り込んでは、おかしみと残酷がないまぜとなっていくような話が、特に好まれたのだそうです。 
 
今期のさそり座もまた、自分や他者が食い/食われ、その血や骨までなめ尽くされていく。そんな生きる力をよみがえらせるような話を、自分なりの裁量で「料理って」みるといいでしょう。 


参考:野村敬子『語りの廻廊―「聴き耳」の五十年』(瑞木書房) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「コンステレートする」。

射手座のイラスト
ユング心理学を日本に紹介した心理療法家の河合隼雄の『こころの最終講義』に収められた、伝説の京都大学退官記念講演「コンステレーション」には、河合が心理療法家としての資格をとったユング研究所の先生であったC・A・マイヤーについて興味深いことが述べられています。 
 
一般に、心理療法をするということは、時には忠告を与え、時には来られた人の気持ちをちゃんと反射してあげたり、行動の意味を解釈してあげたり、いろんな仕事をしている訳です。けれども、このマイヤーという人は特別なことをやっているのだと。何をしているかというと、「コンステレートしている」という言葉がそこで出てくるのだそうです。厳密には、クライアントに対して自分は何をするのかというと、それは「(クライアントの)自己実現の過程をコンステレートするんだ」と。 
 
これは河合にとって、とても衝撃的だったようで、その体験について次のように述べています。 
 
コンステレーションというのは星座です。星座というのはできているんですね。だれがつくったというふうにわれわれは思っていない訳ですね。私が北斗七星をつくったわけでもないし、偶然に夢と現実が合っても、これは友達がやったわけでもない、つまりそれはあくまで自動詞として考えていたわけですから、人間が何かをコンステレートするなんて他動詞として用いることなどは考えられないと思っていたんですね。」 
 
とはいえ、マイヤーという人はじつに「何もしない人」だったそうです。何も言わなくて、ただ聞いているだけで、時どきパーッとたばこを吸ったり、外の景色を見たり、ぼーっとしている。 
 
でも、「そこでなぜだか心の底から深いものが動き出す」。それで、「今まで考えもしなかったようなことが、あるいは夢にも見なかったことが浮かび上がってくる。それを話し出すと、マイヤーさんがうんうんとついてきてくれるわけですね。ついてきてくれるなら行きましょうということになるわけですが、マイヤーさんは私が行くのをずっと見てくれている」のだと。 
 
これは非常に大事なことを言っている訳ですが、感覚的には、『古今和歌集』の仮名序にある「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれにける。(…)花に鳴く鶯、水に住む蛙の声をきけば、生きとし生けるもの、いずれか歌をよまざりける。」という箇所に通じるものがあるように思います。 
 
今期のいて座もまた、意味のある声を発するはずのないものに意識を向け、じっとそれが語り始めるのを待つことから始めてみるといいかも知れません。 


参考:河合隼雄『こころの最終講義』(新潮文庫) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「身体感覚からシステムを変えてゆく」。

山羊座のイラスト
毎年、世界経済フォーラムが発表するジェンダーギャップ指数で、日本は156か国中120位と先進国の中では最低レベルで、アジアの中でも韓国や中国、ASEAN諸国より低い結果となっており、この結果は去年と比べてほぼ横ばい状態が続いていることになります。 
 
つまり、日本社会は客観的に見て、世界で有数の「女性にとってフェアでない」社会ということになる訳ですが、こうした事態をどのように捉えたらいいのでしょうか。 
 
例えば、整体指導者指導者の片山洋次郎は、『整体。共鳴から始まる』の中で、そもそも「男」と「女」というのは180度反対のものではなく、90度くらいの関係にあり、ひとりの身体のなかにある二つの異なるベクトル成分(<オトコ>と<オンナ>は)として捉えていくことができるのだと言います。 
 
そして、「<オトコ>は体外に構造物を作ろうと」し、「<オンナ>は体内化しようとする、あるいは身につけようとする」結果、「あらゆるルールや枠組み、様式、組織、システム、権力といった社会的な構造物や表現形式は一人の人間の中でも、<オトコ>性が造ったものであり、インスピレーションと内実を与えてきたのは<オンナ>性である」が、今のような高速度な社会生活の場では、かえって「<オトコ>はシステムに飲み込まれてしまって何も見えなくなってしまっている」一方で、「<オンナ>はシステムから相対的に「浮いている」存在であるからこそ、逆に批判も、表現も、創造もできるという立場に変わりつつあるのだ」と。 
 
ただ、オトコは過労や鬱に陥り、オンナは神経症的失調や、拒食・過食に陥りやすいのが現状のように思えるのですが、片山はそこからさらに一歩踏み込んで、「身体感覚からシステムを変えてゆく可能性をもっているのは<オトコ>でなく、<オンナ>だろう。そのためには身体的反応を単に体内化してしまうのではなく、さらに体外化することによってバランスをとるべきである」と述べています。 
 
今期のやぎ座もまた、文章を紡ぐのであれ、踊りやダンスへ昇華していくのであれ、自分のなかの<オンナ>の部分の反応を体外化していく実践に取り組んでみるといいでしょう。 


参考:片山洋次郎『整体。共鳴から始まる』(ちくま文庫) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「溢れと有限化」。

水瓶座のイラスト
哲学者であり近年は小説も発表している千葉雅也は、『Jodo Journal vol.2』に収録された「それぞれの「書けてしまいかた」について」という講義録のなかで、書くことや制作することをめぐって、いかに 
「書かないで書く」ということが実践できるかどうか大事なのだという話をしています。 
 
つまり、書き手なりアーティストとしていい作品をつくろうとすると、どうしても何らかのスタイルをがんばって確立するぞという構えになっていく訳ですが、そうではなくてもっと自然と「できてしまうもの」にしていこうじゃないか、と。 
 
自分でコントロールするというよりも、自分の中にある他力を解放する。芸術作品を作る時の面白さって、自分が作ったと思えないようなものができることなんですよ。」 
 
これは確かにそうだし、よく作家が自分の書いた作品を子どものように扱ったり思ったりするのも、そういう感覚と地続きなのかも知れません。ただ、千葉はその一方で、書いたり制作したりするためには何らかの制限も必要なのだとも強調してます。 
 
人間は純粋に自由になることはできません。したがって別の制約を引き受けることによって、自律空間を作ることができる。つまり押し付けられた規範ではなく、自分で新たな有限性を選択するということ。そしてその中で自分のエネルギーを泳がせるわけです。だから芸術というのは規範的な儀礼ではなく、自分自身が作り出す可塑的な儀礼なんです。」 
 
こうした上手に制約を引き受けたり、枠を設定することと先の他力の解放とのバランスについて、千葉は「エネルギーの溢れとそれに対する有限化」のセットという言い方でも表現していますが、最終的には自分の身体性や体質の把握とその活用というところへ帰着させています。 
 
今期のみずがめ座もまた、日々の情報発信や作品づくりにおいて、そうした自身の身の内の何かに連れていかれる感覚を自分なりに深めてみるといいでしょう。 


参考:『Jodo Journal vol.2』(浄土複合) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「愛をめぐる誤解の解消」。

魚座のイラスト
不可解なものを前にした時、その不可解さをそのまま残しつつ向きあうことができる人は珍しいですが、 心理学者のユングは、錬金術の象徴体系を前にしたとき、心の複雑な内容を理解するための助けとして利用できることを直感し、それを裏づけるためかなりの歳月をかけて研究を重ねていきました。 
 
その作業工程は主に7つ分けられ、その最終工程である「結合」は対立物の統合を意味するのですが、究極目標であり完全に純化された対立物の結合を意味する「大なる結合」にまで行きつくことはまれで、大抵はごく不完全にしか分離されていない対立物の結合である「小なる結合」のあとに、一連の作業が繰り返されていくことになります。ユングはそれを、心理療法の核心、ないし、ひとりひとりの人生において愛に対する誤解が解消されていく過程と関連付けて捉えていたように思います。 
 
こうした「結合」の過程について、例えばE・F・エディンガーの『心の解剖学―錬金術的セラピー原論』の訳者の一人である内科医の岸本寛史は「結合は臓器移植の文脈で理解できる」と述べた上で、ドナーから贈られる臓器もレシピエントの自我にとってははじめは「異物」に他ならず、拒絶反応にうまく対応し、レシピエントの肉体におさまり、最終的に結合できれば移植は成功したということになるのだ、と説明しています。 
 
そして、この場合の「異物(感)」とは内的には意に反した感情や思いが湧いてくることを指し、外的には人生において起こる苦さの体験、すなわち願いや欲望が妨げられるような出来事や、傷を残すような敗北などを指し、レシピエントとしてはどうしたってその純化が必要となっていく訳です。 
 
これは実際の心理療法の現場においてしばしば「ほとんど果てしないかのように対立物の間を行きつ戻りつする」ことだったり、錬金術の目的である「哲学者の石」を準備される間、粗野で硬い物質的な現実(石)と愛を知る(哲学者)までに繰り返し反転する過程を経ていくことに、そのままあてはめることができるのではないでしょうか。 
 
今期のうお座もまた、自分もまたそうした二つの「結合」のはざまのプロセスに、誰かしらの個人であれ組織であれを向うに回して、現に関わってしまっているのだという意識をもって、自覚を深めてみるといいかも知れません。 


参考:E・F・エディンガー、岸本寛史・山愛美訳『心の解剖学―錬金術的セラピー原論』(新曜社) 
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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