【最新12星座占い】<7/11~7/24>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい

2021年7月11日から7月24日のSUGARの12星座占い

【SUGARさんの12星座占い】<7/11~7/24>の12星座全体の運勢は?

「徹底的な平和指向でいこう」 

7月22日に二十四節気の「大暑」を迎えると、梅雨も明けて強烈な夏の陽ざしが照りつける日々が続くようになり、予定では23日に東京オリンピックも開催されることになっています。そんな中、7月24日にはみずがめ座1度(数えで2度)で満月を迎えていきます。 

そして今回の満月のテーマは、「想定外の事態への備え」。「立秋」までの18日間の調整期間である夏の土用の入り(7月19日)の直後でもある今回の満月では、自分が何の準備もできていない出来事(想定外の事態)に直面したとしても、ある程度それに耐えられるような内的な安定感であったり、基礎体力をきちんと養っていくことができるかどうかが問われていくことになりそうです。 

それは精神的な面であれば、自分の感情が悪い意味で大きく振り回されているな、居心地が悪いなと感じたら、SNSであれ特定の対人関係であれ、それなりの距離を取ったり、すぐに立ち去ること。 

たとえ言っていることが正しかったとしても、怒りをもって訴えるみたいな流れになったら、そこからスッと離れること。それこそ、平和の祭典であるオリンピックの理念を誰よりも体現する“平和の使者”になったつもりで、徹底的に平和指向を心がけていくことを、この時期は何より大切にしていきたいところです。 

また、身体的にもこの時期は無理は禁物です。夏の土用の食べ物である、ウナギやあんころ餅、しじみ、ニラなどを食べて滋養をつけるのはもちろん望ましいのですが、それ以上に守るべきことは「睡眠時間の確保」です。脳はついつい夜更かしして、刺激や発散を求めがちですが、それは危機に陥った際に使うことのできるライフゲージを削ってしまう行為であり、「睡眠不足」こそは自分を不安定な状態に追い込んでしまう最大の敵なのだということを肝に銘じておきましょう。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「根源的な飢えとその鎮め」。

牡羊座のイラスト
近代化の波や、文明化という人類の“必然”は、多くの人々や社会に利便性や快適さをもたらした一方で、伝統的な暮らしや価値観を守ろうとして適応できなかった人たちに暴力と死をも注いできました。 
 
そして、今や人類はみずからが築き上げてきた文明が地球にもたらした危機の反動をまともに喰らい続けている訳ですが、かつて文明化の暴力に直面した人々はみずからの存亡の危機にどう対処してきたのでしょうか。また、そこに今を生きる私たちにとってのヒントはあるのでしょうか。 
 
例えば、アフリカで生まれた実在のブッシュマン(アフリカ南部の砂漠地帯に棲む狩猟採集民)であったハンス・ターイボッッシュは、我が身を売られ、縁あって保護されながらも、故郷から遠く離れた大都会ニューヨークのサーカスで生きた実在の人物です。彼を描いた物語である『かまきりの讃歌』は、本来は自由に生き、自由に移動し続ける生き方をしていたはずのハンスが、自由を奪われた環境下で、どうしたらみずからの尊厳を失わずにいられるかを見事に示しています。 
 
ある意味でハンス・ターイボッシュは、全宇宙とその中のすべての生けるものが、あらゆる時代に経験する飢えとして、それを踊ることによって、私が言葉でなし得るものよりもはるかに良く、その多くを私のためにまとめておいてくれた。」 
 
ハンスは踊りで言葉にならないものを表現しましたが、それは祈りであり、それがあるアメリカ人女性に夢を見せ、その夢に誘われるような形でアフリカから著者がやってきたのです。それはある種のシンクロニシティー(意味のある偶然)でした。 
 
彼や彼の種族ほど長く、絶え間のない、すさまじい不正を蒙った過去を持った者がいるであろうか。もし、人々が信じている仮定が正しいとすれば、彼は憎悪と復讐の心に満たされていなければならない。(中略)ただ優しさと、より多くの愛へ向かう性質が伸びるための空間が残されているだけであった。」 
 
私たちは踊るだけでなく、いつか私たちが死んだ時に、風に吹かれて私たちの最後の足跡を消してくれるであろう砂塵を巻き上げているのを感じるのです。(中略)そのかなたの日がのぼるのを見わたしながら輝いている太母シリウスも、この飢えを知っています。そしてこの飢えが鎮められるまで、私たちがどれほど遠くまで長い間旅を続けねばならないかを見て、彼女の愛する私たちすべてのために泣き、涙をこぼすのです。」  
 
ここで語られている「飢え」とは、あるいは、日本人がそのDNAに染みわたらせてきた根源的な無常感にも通じるのではないでしょうか。そして、今期のおひつじ座もまた、そうした「飢え」をしみじみと感じていくことが、自身の今後の在り様を考えていく上での第一歩となっていくように思います。 


参考:ローレンス・ヴァン・デル・ポスト、秋山さと子訳『かまきりの讃歌』(思索社)

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「ポスト戦後文明の言葉」。

牡牛座のイラスト
言葉というのは意識の働きと密接に関わっていますから、どうしても人が物語る内容は過去や未来に飛びがちで、現在についての言及はおろそかになりがちです。ましてや、今の日本社会では信じられないような出来事が次から次に起こるので、その現実のあまりの粗野さにどうしても言葉が追いつかないというか、言葉のほうが現実に負けてしまうのです。 
 
一方で、過去や未来を語る言葉というのも、感傷やあきらめ、シニシズムなどと同調しやすく、屈折しやすいという特徴を持っていたり、「日本スゴイ」じゃないですが、快楽原則に流されやすいように思います。 
 
その点について、たとえば歴史学者の與那覇潤と批評家の福嶋亮大は、「すべては「崩壊」から始まった―日本人の「美と国民性」の源流」と題された対談において、日本の文化や文学というのは定期的に訪れた文明崩壊をきっかけに生まれてきたのだとして、その原型を万葉集を例に次のように語っています。 
 
(與那覇)「たとえば中大兄皇子(天智天皇)が遷都した大津宮も、壬申の乱(六七二年)という壮絶な内乱の結果、五年しか使われない。その時代を生きた柿本人麻呂(六四五頃~七一〇頃)は、次々に作っては棄てられる都に、敗者の怨念が残ることを怖れた。それを慰め、鎮魂するための「文学」を作ろうとした人麻呂の姿に、福嶋さんは日本文化の原型を見るわけですね。」 

(福嶋)「『万葉集』と言うと、すごく素朴な世界が書かれているというふうに思われがちですが、本当はそうじゃない。かつて都市文明があったが、それは壊れてしまった―人麻呂が描いているのは、そういう喪失の感覚なわけです。素朴な世界と言うよりも、むしろ「ポスト文明」なんですよね。日本文学は野蛮からではなく、むしろ首都(の崩壊)から始まっている。だから、與那覇さんもおっしゃるように、悠久の歴史を捏造しちゃダメで、むしろ文明の切断=崩壊の反復を考えないといけない。」 
 
物事を見るためのパースペクティブが完全に壊れ、何か問題が起きてもSNSで一行コメントや批判や愚痴で埋まるだけだったり、メッセンジャーアプリでもスタンプの応酬が続くばかりになりがちな今の社会において、現に起きている「滅び」や「喪失」をこうして新しい「文学」が始まっていく契機として捉えなおすというのは、非常に大事な視点なのではないでしょうか。 
 
今期のおうし座もまた、日本が戦後に迎えた高度経済成長期の遺物が完全に崩壊した後の世界としての今にふさわしい言葉や、形式というものを、自身の立場に引きつけつつ考えていきたいところです。 


参考:與那覇潤『歴史が終わるまえに』(亜紀書房) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「アブラハムの問いかけ」。

ふたご座のイラスト
平和指向でいくということは、ただ日和見主義に徹することでも、何かと押し黙ったり、言葉を濁すことではありません。そうすることで、他の誰よりも自分自身を傷つけてしまっていたことに後で気が付くことになるからです。 
 
では、どうすればいいのか。例えば、悪徳に陥ったとされるソドムの街を住人もろとも破壊しようとした神の採決に戸惑った長老アブラハムは、そこに正義を見出せなかったゆえに、「主の前に立った」と聖書は伝えています。 
 
アブラハムは近寄り、言った。
「あなたは本当に、正しき者を、悪しき者とともに滅ぼしてしまわれるのですか。街に五十人の正しき者があったとしましょう。それでもその場所をほろぼし、五十人の正しき者のために許そうとなさらないのですか。そんなことは、正しき者と悪しき者とをともに殺すことは、あなたのするべきことではないでしょう。正しき者と悪しき者を同じように扱うことも。地上のすべてを裁く者は、正義を行うべきではないですか。」 
主は言われた。
「もしソドムに五十人の正しき者がいれば、そのものたちのために、その場所のすべてをゆるそう。」
アブラハムは答えた。
「主よ、ちりや灰にも等しいこの私ですが、あえて申し上げます。正しき者が、五十人に五人足りなかったとしましょう。それでも、五人足りなかったばかりに、あなたは街の全体を滅ぼそうとしてしまうのですか。」
「四十五人の正しき者がいたなら、破壊をやめよう」と主は言った。

さらにアブラハムは主に語りかけた。「四十人いたらどうなさいますか。」主は答えた「その四十人のために破壊をやめよう」(中略)それから(アブラハムは)言った、「おお、主よ、お怒りにならないでください。重ねて、今一度だけ申し上げます。十人いたとしたら、どうなさいますか。」「その十人のために破壊をやめよう」と主は答え、アブラハムと語り終えたとき、主は去っていかれた。アブラハムは自分の場所に戻った。」(『創世記』第18章23-33節) 
 
アブラハムは権威たる神に哀願しつつ(「ちりや灰にも等しいこの私ですが」)、同時に不平を言い、疑問を投げかけ、批判をし(「地上のすべてを裁く者は、正義を行うべきではないですか」)、忍耐強く食い下がりました。つまり、自分で考えたことを賢明に語りかけたのであって、それゆえに神は「アブラハムのことを重んじた」(19章29節)のではないでしょうか。 
 
今期のふたご座もまた、必要なときはアブラハムのように黙って受け入れる以外の言動に出ていくことができるかどうかがテーマとなっていくでしょう。 


参考:関根正雄訳『創世記(旧約聖書)』(岩波文庫)

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「“無常感”に帰る」。

蟹座のイラスト
『方丈記』と言えば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」の一文ととともに有名な名随筆ですが、世を離れて山深い庵に隠遁した仙人のごとき人物(鴨長明)によって書かれた、どこか抜け感のあるオシャレな印象を抱いている人も多いのではないでしょうか。 
 
ただ、彼の生きた中世の日本社会は、天災とか地異とか疫病などが頻繁に起こっていた乱世とも言える悲惨な世界であることは比較的知られていますが、作家の堀田善衛はさらに鴨長明という人物に、激しい権力闘争や政治的駆け引き、そしてそれらの行き着く先としての戦争というものとの深い因縁を読み込んでいきました。例えば、冒頭近くに 
 
「予(われ)、ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋をおくれるあいひだに、世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ。(私が物の道理をわきまえるようになってから四十年余りの年月を送ってきたあいだ、想像だにしなかった出来事を見ることが次第に度重なってきた。)」 
 
という一文が出てくるのですが、堀田は「彼の無常感の実体は、あるいは前提は、実は異常なまでに熾烈な政治への関心と歴史の感覚である」と前置きしつつ、次のように述べています。 
 
定家や後鳥羽院などの一統、朝廷一家が、悲惨きわまりない時代の現実はもとより、おのもおのもの「個性」あるいは「私」というものも捨象してしまった、いわば「芸」の世界、芸の共同体を組織し、その美学を高度に抽象化すると同時に、反面でのマナリズム、類型化をもたらすべくつとめていたとき、長明は「私」に帰った。すなわち、方丈記に見る散文の世界がひらけてきたのである。長明は、この「私」において、散文において、若き日以来の政治への関心、変転して行く時世についての歴史感覚の、この二つのものがアマルガムする様相を、方丈記そのものを書きながらみずから目撃したものと、私は読みながら感じるものである。そうして世の人々は、この「私」を無常感と呼ぶ。」 
 
こういう記述を読むと、鴨長明という人は思っていた以上にだいぶ生臭い人であり、その極めて俗っぽく複雑な背景に抗しうるだけの高度のユーモアや皮肉を有していたことが分かりますし、こうした鴨長明的な人物は今の世の中にもずいぶんと隠れているのではないかという気がしてきます。 
 
今期のかに座もまた、どこかで長明の生きた中世と重なる日本社会において、どこまで「私」に帰れるかということが問われていくことになるでしょう。 


参考:堀田善衛『方丈記私記』(ちくま文庫) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「“憧れ”を呼び込む」。

獅子座のイラスト
想定外の事態への心理的な備えとして有効な戦略の一つに、自分が執着しがちなものをあえて手放し、距離をおき、放置しておくというものがあります。 
 
これは願望の実現プロセスにおいて、どこかで挫折してしまったり、窮地に追い込まれ、いったん逃げ出したとしても、自分の中に“それでもまだ諦めきれない思い”を改めて発見することが、結果的に願望実現の大きな後押しとなって作用していくということと密接な関係があります。 
 
そうした関係性について、現代を代表する博覧強記の哲学者ジョルジョ・アガンベンは、ルネッサンス期を代表する人文学者であり占星術家でもあったマルシリオ・フィチーノの『愛について』の記述を引用しつつ、メランコリー(憂鬱気質)の創造性という観点から、次のように述べています。 
 
彼によれば「メランコリックなエロスは、愛をむさぼったために、瞑想の対象としてあるものを抱擁の欲望に変えてしまおうとする者によく起こる」というのである。メランコリックな混乱を駆り立てるエロティックな性向は、ここにおいて、本来はただ瞑想の対象としてのみ存在するものに触れたい、そしてそれを所有したいという性向として示されている。こうして、サトゥルヌス的気質の生気を逸した悲劇(※陰鬱と怠惰)は、捕まえられないものを抱きしめようとする身ぶりに潜む内奥の矛盾に、その根をもつことになるのである」 
 
例えば、想像のなかでのみ実現しうるような理想の光景を描こうとする画家は、まずそのイメージを知性によってしっかりと固定して、続いてそれを実際に目の前で見ているかのように模倣していかねばならず、しかも一回限りで終わることはなく、繰り返し行っていかねばなりません。 
 
そうしてますます募っていく幻想的光景や実現体験への渇望こそが、先の「内奥の矛盾」ということであり、そうしたメランコリックなエロスは必ず近づきえないものに欲望を向け、「捕まえられないものを抱きしめようとする身ぶり」を伴うのですが、「憧れ」というのは本来そういうものなのかも知れません。 
 
こうしたメランコリー的気質が描き出す非現実的なものとのつながり具合(トポロジー)は、そのまま文化のトポロジーでもあり、その意味で「憧れを抱く」という営みは、単なる感傷的シーンである以上に、最大の非現実性をとらえることによって最大の現実性を形づくろうとするきわめて文化的な試みであり、ある種の錬金術的な技術と言えるのではないでしょうか。 
 
今期のしし座もまた、自身の中に「憧れ」を呼び込む技術を通して、自分なりの詩や芸術や哲学における探究を確かなものにしていきたいところです。 


参考:ジョルジョ・アガンベン、岡田温司訳『スタンツェ』(ちくま学芸文庫)

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「より以上を引き出す」。

乙女座のイラスト
今回の東京オリンピック開催をめぐる体操競技の内村航平選手の「選手が何を言おうが世界は変わらない」という発言は、ネットを中心に大きな反響を呼びました。 
 
オリンピックの政治的な利用を認めた無責任な発言だとするものもあれば、現状のスポーツ興行の在り方の限界を訴えた痛切な叫びだとするものもありましたが、いずれにせよ国家的行事に際してこうした発言が日本を代表する選手の口から出てこざるを得ない状況そのものが、日本の国家としての先進性の衰退を象徴しているように感じました。 
 
そもそもスポーツ(身体遊戯)とは何なのでしょうか。あるいは、内村選手が述べたように、私たちが「スポーツを見て感動する」のは一体なぜなのでしょうか。 
 
例えば、生涯をかけて「いのちとは何か」を問い続けた哲学者アンリ・ベルクソンは1912 年に行われた「魂と体」という講演の中で、「われわれの一人ひとりは一つの身体である」と認めつつも、「私」とは「空間においても時間においても身体を超えるように見える」ものであると述べています。 
 
「身体である」ところの「私」が「身体を超えるように見える」とは、一体どういうことなのでしょうか。ベルクソンは、それに答えるように、みずから次のように語っています。  
 
身体は時間においては現在の瞬間に閉じ込められ、空間においては占める場所に限定され、そして自動機械として行動し外的な影響に機械的に反応するわけだが、その身体のそばで、空間において身体よりずっと遠くへひろがり、時間を横断して持続する何か、もはや自動的でも予測されているのでもなく、予測不可能で自由な運動を身体に対して要求し命じる何ものかを、我々は捉えている。あらゆる面で身体をはみ出し、新たに自分自身を創造することによって行為を創造するこの何かとは、「自我」であり、「魂」であり、精神である。精神とは、その力が含むより以上(plus que)をそれ自身から引き出し、その力が受け取るより以上(plus que)を返し、それが持つ以上(plus que)を与える。」 
 
そう、スポーツ(身体遊戯)とは、まばたきする間に消えてしまうような、生命における特別な現れ、あるいは人生の特別な瞬間のイメージを私たちに与えてくれるがゆえに感動的なのであり、それは私たちひとりひとりに「自分は単なる自動機械ではない」ということを思い出させてくれるものであったはずです。 
 
今期のおとめ座もまた、「より以上」を引き出すものとして身体やその遊戯ということの可能性を、少しでも実感していくことが一つのテーマとなっていくでしょう。 


参考:アンリ・ベルクソン、竹内信夫訳『精神のエネルギー (新訳ベルクソン全集)』(白水社) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「生前堆肥化」。

天秤座のイラスト
色々なことが許せなくなってしまった人間の、いかんともしがたい狭量さというものは、地球上で“人間こそが”果たすべき役割や務めとは何かという自問自答が、いつの間にか“人間だけ”にすり替わり、異種との共生ということを感覚的につかめなくなってしまったことで、決定的に深まってしまったように思います。 
 
そうであるとするなら、少しでも異種とズブズブの関係になっていくことで、すなわち、生きものとしての勘所を思い出していくことで、私たちは自分自身の立場や状況を素直に受け入れていくだけの度量の大きさを多少なりと取り戻していくことができるかも知れません。 
 
奈良県宇陀市の里山で、やはり他の生物たちとズブズブになりながら自給自足の生活を送っている東千茅は、そうした人間の異種との共生への取り組みを「堆肥化」と呼んでいますが、その言葉や計画に触発されるかたちで小説家の吉村萬壱が書きあげた『堆肥男』という、徹底的に無為な生活を送る全裸のおっちゃんをめぐる短編があります。 
 
話は主人公である春日武雄の向かいの部屋に、パンツ一丁で部屋のドアを四六時中あけはなっている中年男が引っ越してきたところから始まります。当然、雨風だけでなく虫も獣も入りたい放題なのですが、男は一向にそれに構う気配はありません。 
 
そして、それを当初は「曖昧な不安」とともに眺めていた虫嫌いで潔癖症だった主人公も、仕事の不如意という偶然もあって、次第に裸男の鷹揚ぶりに惹かれていくのですが、東自身もこの物語について「人間の嘘と欺瞞に元来我慢ならない性質の春日と、人-間を超えたところにいる裸男」という構図で捉えつつ、裸男の不思議なまでの気前良さが主人公をなぜだか元気づけていくストーリーなのだと捉えています。特に、裸男が野良犬に尻を舐められて「ほほほほっ」と笑っているくだりは、決定的に春日の心を解きました。 
 
物語の終盤、春日武雄は部屋の扉を開けるようになる。つまり、春日は堆肥男と接触することで感染し、堆肥化への第一歩を踏み出した。堆肥男は、ただ開け放った部屋で怠惰に寝転び、異種たちと戯れつづけることによって、周りの者を惹きつけ、感化してしまったのである。」 
 
今期のてんびん座もまた、そんな生前堆肥化の道を半歩でも歩んでみてはいかがでしょうか。 


参考:東千茅『人類堆肥化計画』(創元社) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「漂泊しながら根を下ろす」。

蠍座のイラスト
今回の東京オリンピックについても言えることですが、冷戦終結以降の30年ほどのあいだで、インターネットやグローバル資本主義がすっかり浸透し、いまや国境や国家という発想に根差したあらゆるものが機能不全に陥り、オワコン化してきているように思います。 
 
同時に、情報や経済、スポーツに限らず、あらゆる分野でそうした旧来的な線引きを乗り越えていく動きが出てくるようになってきて、そのための思想的なルーツが求められているのではないでしょうか。 
 
例えば、宗教学者の中沢新一と俳人の小澤實による対談集『俳句の海に潜る』では、俳句という言語芸術をアヴァンギャルドから伝統的芸術の一角へと昇華させた江戸時代前期の松尾芭蕉の方法論を、単にテクニカルな分析にとどまるのではなく、彼(ら)が根差していた世界観から捉え直しています。 
 
(中沢)「優れた近世の俳句では底のところで無のほうへ開いていて、まるで幽霊みたいに足が消え去るような作りをしている。明治以降はそういう行き方が難しくなってきて、ヨーロッパ音楽みたいに底の開口部を埋めてしまうんじゃないかな。そうすると一個一個の俳句が粒となって自立、独立してしまう。」 
(小澤)「現代の俳句は、独立し過ぎているのかもしれません。」 
 
これは例えば、江戸時代には街中を縦横に水路が走っているのが当たり前だったのが、明治以降にそうした「揺れ動いて捉えどころのないものに蓋をする」「世界を安定した流れに変えてしまおう」という方針に変わって、いつしかそれが当たり前になってしまったということと表裏の関係にあるのでしょう。 
 
その意味で、占いも俳句も、人間の生活に自然(カオス)をどう取り込むかという工夫という点で通底するものがあるはずですが、俳句の日本における頂点である芭蕉について、次のように述べています。 
 
(中沢)「いろいろな土地へ行って、その土地の下の部分のつながりをつくっていく。それが舟じゃないかな。常に動きながら、人間の外の世界にあるもの、天然、自然の中に根を下ろす。「根を下ろす」というのは、下からの声を聞き取り続けることで、そのためには舟底をものすごく薄くしておかなければならない。無所有、無所得、漂泊というものを自分に課していって、どんどん舟底を薄くしていく。そうすると下からの声が立ちあがってくる。これが芭蕉たちが開発した漂泊しながら根を下ろすやり方ではないかと思う。」 
 
今期のさそり座もまた、近代的な世界観を乗り越えるためにも、こうした「漂泊しながら根を下ろす」やり方を自身の生活に少しでも取り入れてみるといいかも知れません。 


参考:中沢新一、小澤實『俳句の海に潜る』(角川書店)

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「無名の人がいちばん偉い」。

射手座のイラスト
高名な精神医学者であるだけでなく、ギリシャ語の詩の翻訳行や優れたエッセイストとしても知られる中井久夫の膨大な仕事の一つに「私に影響を与えた人たちのことなど」というエッセイがあります。 
 
そこにはデカルトや中原中也など少年期に影響を受けた書物の話から、内外の著名な学者までさまざまな固有名詞が登場するのですが、その中に直接名指しするのを避けるような仕方で言及されている人物がひとり出てくるのです。以下、その部分を一部引用してみましょう。 
 
この先生は、無名と言えば無名の人ですが、そのころはある病院の麻酔科におられました。先生は麻酔の前に患者にどう説明するかということで術中死を少なくできるんだとこれを非常に重視しておられました。何科に行かれても通用する「臨床家」、すごい臨床眼の持ち主でした。ちなみに、あるアメリカの学者に「どうして日本の政治家は魅力がないのか。他の国ならあれくらいの政治家ばかりだと潰れてしまう」と問われて、「日本は有名な人っていうのはたいしたことはない。無名な人が偉いので、こういう人が国を支えているのだろう」と答えたことがあります。」 
 
おそらく、アメリカの学者に答えたのと同じ理由で、中井はこのひとりの恩師に対して特別な仕方で言及したのでしょう。 
 
有名であることが価値を持ち、それが資本主義社会のロジックとともに絶対的な尺度と見なされがちな今の時代において、こうしたある種の東洋的な「無名人」の理想は新鮮に映ると同時に、それを著者が言葉の表面だけで語っているのではないことに気が付くはずです。 
 
すべてを語り尽くし、世間にこれを見ろと訴求して消費を促すのではなく、本当に大切なものはあえてぼかし、内に秘めることで引き継いでいく。そこには金銭による還元だけが「推し」への敬意の表し方ではないのだという無言のメッセージが込められているように思います。 
 
今期のいて座もまた、「日本は有名な人っていうのはたいしたことはない。無名な人が偉いので、こういう人が国を支えているのだろう」という中井の言葉を折りにふれて、口に出してみるといいでしょう。 


参考:中井久夫『精神科医がものを書くとき』(ちくま学芸文庫)

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「鳴響する魂」。

山羊座のイラスト
現代という時代においては、時間も空間も私たちがそこに結びついて生きているというよりは、そこから疎外されて生きているような感じ、つまり時間、空間が人間にとって無情な存在であるという感じがますますしてきているのではないでしょうか。 
 
なぜこうなってしまったのかを考えてみると、それは近代の科学的な考え方を基礎づけたイマヌエル・カント(1724~1804)にまで遡ります。カントは空間と時間を人間の認識行為において前提となっている感性的な「直観形式」であり、そこに現れてくるものを「現象」と呼びました。人間にとって認識できるものは空間内に存在している諸現象やそれらが示す特質だけであり、その背後にある「物それ自体」は認識できないのだと。つまり、空間そのものは空虚であり、どの部分においても同じ三次元の広がりに過ぎず、その広がりはX軸とY軸とZ軸という数学的言語で表現できる、という考え方です。 
 
一方で、神智学協会を立ち上げ近代オカルティズムの母となったヘレナ・P・ブラヴァッキー(1831~1891)は空間に対してまったく違う考え方をしていました。ブラヴァッキーにとって空間とは、空っぽな何かではなくて、力に満ちみちた実体(アカーシャ)であり、そこには宇宙的意志とも呼ぶべきものが働いていて、さらにはそれは音や響きとして感じとれるのだと繰り返し述べていたのです(『秘密教義』)。 
 
こうした通常の意味での合理的理性や直接的な感覚では捉えられない世界から響いてくるものを聞くことを、ブラヴァッキーは第四の道(古代の秘教的な伝統に由来する「高次の自己」の実現へと導く精神的な進化の教えであり実践のこと)と呼んだ訳ですが、この道を通っていった偉大な先人のひとりである思想家・井筒俊彦はこの道について次のように表しています。 
 
悠邈(ゆうばく)なる過去幾千年の時の彼方から、四周の雑音を高らかに圧しつつある巨大なものの声がこの胸に通ってくる。殷々と耳を聾せんばかりに響き寄せるこの不思議な音声は、多くの人々の胸の琴線にいささかも触れることもなく、ただいたずらにその傍らを流れ去ってしまうらしい。人は冷然としてこれを聞きながし、その音にまったく無感覚なもののように見える。しかしながら、この恐るべき音声を己が胸中の絃ひと筋にうけて、これに相応え相和しつつ、鳴響する魂もあるのだ。 私は十数年前はじめて識った激しい心の鼓動を今ふたたびここに繰り返しつつ、この宇宙的音声の蠱惑に満ちた恐怖について語りたい。」 
 
今期のやぎ座もまた、近代が踏み固めてきたのとは異なる、もうひとつの時空間の感じ方や捉え方の方へ、自分なりに一歩踏み出してみるといいでしょう。 


参考:井筒俊彦『神秘哲学 第一部自然神秘主義とギリシア』(人文書院)

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「虚構の耐えきれない脆さ」。

水瓶座のイラスト
占いと自己啓発というのは、どちらかと言うと悪い意味で非常に相性がいいところがあります。それはどちらも人間の孤独と不安をある種の“虚構”によって満たすところがあるから。 
 
人間は事実だけを直接的に受け入れ続けるほど強くはありません。必ず物語化のプロセスを経なければ、記憶に変換して保持していくことに耐えられないのです。 
 
そして、その物語化のハードルを下げて安定供給を図っていくのが自己啓発の得意としているところなのだということは、例えば実業家でもある酒井穣の『自己啓発はやめて哲学をはじめよう』でも、次のように述べられています。 
 
結局、自己啓発で述べられていることは同じことの繰り返しです。それだけに、そのコミュニティーで取り扱われる知識の定着も容易です。同じことの繰り返しであっても、その自己啓発を求めてしまうのは、自身の不安(自尊心が満たされない状況)が、生きていくうえで繰り返されているからでしょう。そして、そうした不安は、今後ますます大きくなっていくのです。」 
 
酒井はこうした自己啓発的なコミュニティーを、まるで裸の王様同士が集まってお互いが傷つかない程度にほめあっているかのようだとも表現しているのですが、ただし童話だけでなく現実においても「「きちんと勉強をしたことのない人は、等しく裸である」ということだけが真実」なのだということは改めて認識しておくべきでしょう 
 
そして、ここで「いかに恥ずかしくても、自分は服を着ていないことを認め、せめてパンツを穿くことからはじめ」ることこそ、「無知の知」から発する哲学的態度なのだということも、私たちはますます思い出していく必要があるのではないでしょうか。 
 
今期のみずがめ座もまた、自己啓発ではない仕方で自身の物語化のプロセスを改めて検証していくところからリスタートしていきたいところです。 


参考:酒井穣『自己啓発はやめて哲学をはじめよう』(フォレスト出版)

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「今のシステムを変革しうるのは<オンナ>性」。

水瓶座のイラスト
2月に、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森前会長が女性蔑視発言で辞任にいたったとき、ひとつの大きな時代の節目を感じましたが、これはまだまだ続くであろう崩壊劇の序章に過ぎないということも、みなどこかで予感していたのではないでしょうか。 
 
もともと「男」と「女」というのは左右対称的な対概念というより、むしろ内容的には180度というより90度くらい食い違っている非対称的な関係であり、そうした性差の実態をどこかで覆い隠したまま日本社会はそれを過剰に経済の原動力としてきた訳ですが、2月の辞任劇はそうしたあり方ももはや限界に来ていることを象徴していたように思います。 
 
整体指導者である片山洋二郎は、実際の性差とは区別して、基準や構造物を作るなど体外的な方向へ反応していく傾向が強い身体性を<オトコ>、逆に全身で納得し、決断すべく、物事を体内化していく傾向が強い身体性を<オンナ>と呼びつつ、現代社会におけるそれぞれのエネルギーの在り様を次のように述べています。 
 
社会的に大人になると(三十歳をすぎると)、<オンナ>的には自分を中心に世界を見るようになるし、<オトコ>的には世界のどこに自分が位置づけられるかを見るようになり、オジサンとオバサンという硬直したセクシュアリティを身につける場合が多いが、まあそれなりの安定があって、そう悪くはないかもしれない(逆にどちらにもなれない人はかなりキツイ)。しかし、少なくともオジサンはもうこれ以上頑張らないほうがいいし、そのほうがオバサンも優しくしてくれそうな気がする。」 
 
そして、若い世代を中心にもっとセクシュアリティが多様に分化していくまでは、「とりあえず、今のシステムを変革しうるのは<オンナ>性だから、<オトコ>性は当分はたらかないで休んでいただくほうがイイかもしれない」と繰り返し強調するのです。 
 
今期のうお座もまた、そのくらいに思っているくらいでちょうどいいでしょうし、その上で、いわゆる“性差”とは別に自分がどちらの身体性やエネルギーを持ち合わせているのか、改めて自覚を深めていくべし。 


参考:片山洋次郎『整体。共鳴から始まる』(ちくま文庫) 
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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