【最新12星座占い】<1/23~2/5>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい
【SUGARさんの12星座占い】<1/23~2/5>の12星座全体の運勢は?
「先見の営み」
暦の上では春となり、旧暦では一年の始まりとされた「立春」直前の2月1日には、新たなスタートを先がけるようにみずがめ座12度(数えで13度)で新月を迎えていきます。
秩序と権威を司る土星と重なり、変革と逸脱を司る天王星と鋭い角度でぶつかりあう今回の新月のテーマは、「先見」。すなわち、近い将来へのプランニングです。
動物は秋口になると、冬の厳しさに応じて毛皮が厚くなるものですが、そうした近い将来へ向けた準備と計画が可能なのは、未来の可能性がすでに現在において作動しているからに他なりません。それと同様、今回の新月においてもいかに時代の流れがどこへ向かって変化しつつあるのか、そして、今の自分は新しい流れと古い流れのどちらに属しているのかといったことをきちんと見極め、ごまかさずに認識していけるかどうかが問われていくはず。
例えば、この時期の季語に「明告鳥(あけつげどり)」というものがあり、これは早朝に夜明けを知らせるように大きな声で鳴くニワトリの異名ですが、これは毎日必ず東から朝日が昇るという周期的プロセスを認識すること、誰よりも早く夜明けの兆しに気付くこと、それから気付いたことを周囲に分かるように伝える手段を持っていることという、三つの条件がそろって初めて成立している先見の営みの好例と言えます。
今期の私たちもまた、夜明けの到来だけでなく、どんなにかすかでも未来へ通じる兆しをいち早く感じ取り、その見通しを知らせるニワトリとなって、希望を広げる一助となっていきたいところ。
秩序と権威を司る土星と重なり、変革と逸脱を司る天王星と鋭い角度でぶつかりあう今回の新月のテーマは、「先見」。すなわち、近い将来へのプランニングです。
動物は秋口になると、冬の厳しさに応じて毛皮が厚くなるものですが、そうした近い将来へ向けた準備と計画が可能なのは、未来の可能性がすでに現在において作動しているからに他なりません。それと同様、今回の新月においてもいかに時代の流れがどこへ向かって変化しつつあるのか、そして、今の自分は新しい流れと古い流れのどちらに属しているのかといったことをきちんと見極め、ごまかさずに認識していけるかどうかが問われていくはず。
例えば、この時期の季語に「明告鳥(あけつげどり)」というものがあり、これは早朝に夜明けを知らせるように大きな声で鳴くニワトリの異名ですが、これは毎日必ず東から朝日が昇るという周期的プロセスを認識すること、誰よりも早く夜明けの兆しに気付くこと、それから気付いたことを周囲に分かるように伝える手段を持っていることという、三つの条件がそろって初めて成立している先見の営みの好例と言えます。
今期の私たちもまた、夜明けの到来だけでなく、どんなにかすかでも未来へ通じる兆しをいち早く感じ取り、その見通しを知らせるニワトリとなって、希望を広げる一助となっていきたいところ。
《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)
《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)
かつて哲学者のメルロ・ポンティは「ほんとうの哲学とは、この世をみる見方を学びなおすこと」(『知覚の現象学』)なのだと述べましたが、新聞がもはや世論のバロメーターの役割を果たさなくなりつつある昨今では、「この世をみる」ことがますます難しくなってきたように感じます。
それは古代ギリシャ風に言うならば「クセノス(異邦人・異星人)のような目」を持つことと言い換えることができますが、地球人の目が異星人のそれに変わるのは、自身の運命にまつわる予定調和に無視できない乱れや、危険な兆候を捉えることができた時に他ならないのです。
例えば、哲学者のハンナ・アレントは『人間の条件』において人間生活の営みを「労働」「仕事」「活動」の三つに分類し、最初の二つが「台所とタイプライター」に象徴されるのに対し、「活動」の例に「笛吹き」をあげ、耐久性という点ではもっともはかなく、その生産物は「演技」に他ならないと説明しつつ、かつては「活動―仕事―労働」の順に並んでいたヒエラルキーが、次第に「仕事―活動―労働」へととって代わり、さらに近代化の過程で「労働―仕事ー活動」へと完全に逆転したのだと述べています。
つまり、人間の営みの中で「労働」が最も高く評価され、「仕事」や「活動」が「労働」の観点から、すなわち「それでおまんが食えるのか」「衣食住は満たされるのか」という基準で眺められるようになった訳です。彼女はそれを次のような仕方で描写しています。
「遠く離れた宇宙の一点から眺めると、人間の活力はどれも、もはやどんな活動力にも見えず、ただ一つの過程としか見えない。したがって、ある科学者が最近述べたように、現代のモータリゼーションは、人間の肉体が徐々に鋼鉄製の甲羅で覆い始めるというような生物学的突然変異の過程のように見えるだろう」
これは世界が消費の対象となってしまったことへの彼女なりの警告です。いわば、アレントは3つの営みのヒエラルキーの変化を時系列で眺めていくことによって、人々が現に負っているリスクや将来負うことになるだろうリスクを明らかにしている訳です。
今期のおひつじ座もまた、そうした自身の周りや社会で起きつつある変異について、どれだけクセノスの目を持ち込むことができるかが問われていくのだと言えるでしょう。
参考:ハンナ・アレント、志水速雄訳『人間の条件』(ちくま学芸文庫)
それは古代ギリシャ風に言うならば「クセノス(異邦人・異星人)のような目」を持つことと言い換えることができますが、地球人の目が異星人のそれに変わるのは、自身の運命にまつわる予定調和に無視できない乱れや、危険な兆候を捉えることができた時に他ならないのです。
例えば、哲学者のハンナ・アレントは『人間の条件』において人間生活の営みを「労働」「仕事」「活動」の三つに分類し、最初の二つが「台所とタイプライター」に象徴されるのに対し、「活動」の例に「笛吹き」をあげ、耐久性という点ではもっともはかなく、その生産物は「演技」に他ならないと説明しつつ、かつては「活動―仕事―労働」の順に並んでいたヒエラルキーが、次第に「仕事―活動―労働」へととって代わり、さらに近代化の過程で「労働―仕事ー活動」へと完全に逆転したのだと述べています。
つまり、人間の営みの中で「労働」が最も高く評価され、「仕事」や「活動」が「労働」の観点から、すなわち「それでおまんが食えるのか」「衣食住は満たされるのか」という基準で眺められるようになった訳です。彼女はそれを次のような仕方で描写しています。
「遠く離れた宇宙の一点から眺めると、人間の活力はどれも、もはやどんな活動力にも見えず、ただ一つの過程としか見えない。したがって、ある科学者が最近述べたように、現代のモータリゼーションは、人間の肉体が徐々に鋼鉄製の甲羅で覆い始めるというような生物学的突然変異の過程のように見えるだろう」
これは世界が消費の対象となってしまったことへの彼女なりの警告です。いわば、アレントは3つの営みのヒエラルキーの変化を時系列で眺めていくことによって、人々が現に負っているリスクや将来負うことになるだろうリスクを明らかにしている訳です。
今期のおひつじ座もまた、そうした自身の周りや社会で起きつつある変異について、どれだけクセノスの目を持ち込むことができるかが問われていくのだと言えるでしょう。
参考:ハンナ・アレント、志水速雄訳『人間の条件』(ちくま学芸文庫)
《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)
今期のおうし座のキーワードは、「友愛による経済」。
「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」と言ったのはスロベニア出身の哲学者スラヴォイ・ジジェクでしたが、自由な市場での競争を原理とする資本主義経済のもたらす現実は、近年ますます人と人とを分断させるエゴイズムを増大させており、その“生きづらさ”はもはや我慢できないレベルに達しつつあるように思います。
その意味で、「資本主義の終わり」を想像することは本当にできないのか、現行の資本主義以外のオルタナティブは構想不可能なのか、という問いの切実さは非常に高まっている訳ですが、その格好の参照先のひとりにミヒャエル・エンデが挙げられます。
エンデは『モモ』や『はてしない物語』などの本格的なファンタジー小説の書き手として知られる人物ですが、同時に、長年にわたってお金について追究し続けた思想家でもあり、そのラストインタビューで、現代社会の混迷の原因について次のように述べていました。
「人間は三つの異なる社会的レベルのなかで生きています。誰もが国家、法のもとの生活に属しています。生産し、消費する点では経済生活のなかで生きています。そして美術館も音楽会も文化生活の一部ですから文化生活も誰もが行っていることです。この三つの生の領域は本質的にまったく異なるレベルです。今日の政治や社会が抱えてる大きな問題は、この三つがいっしょにされ、別のレベルの理想が混乱して語られることです。(…)フランス革命のスローガンである「自由・平等・友愛」は革命前からある言葉で、もとはフリーメーソンのスローガンにほかなりません。この三つの概念は、いま話した三つのレベルに相応します。すなわち、自由は精神と文化、平等は法と政治、そして今日ではまったく奇異に聞こえるのですが、友愛は経済生活です。」
この「経済が友愛で成り立つべき」という主張は一見すると子どもじみたユートピア思想にも聞こえますが、分業体制という生産方式がしばしば他人を踏みにじったり、踏みにじられたりといった苦々しいものになっているのは、「所得と職業、報酬と労働が一つになってしまっている」からだというエンドの指摘の正鵠(せいこく)さを鑑みると、さまざまな意味で歪んだ現代社会をとらえかえす可能性のあるものという気がしてきます。
今期のおうし座もまた、仕事の収益を自分の当然の権利として要求したり、収益をできる限り私有しようとすること、自分の業績ばかり気にすることがどれだけ物心の貧しさをもたらすか、また、どうしたら共に働くことでもたらされる癒しが大きくなるか、ということについて、じっくりと考えてみるといいでしょう。
参考:河邑厚徳+グループ現代『エンデの遺言』(NHK出版)
その意味で、「資本主義の終わり」を想像することは本当にできないのか、現行の資本主義以外のオルタナティブは構想不可能なのか、という問いの切実さは非常に高まっている訳ですが、その格好の参照先のひとりにミヒャエル・エンデが挙げられます。
エンデは『モモ』や『はてしない物語』などの本格的なファンタジー小説の書き手として知られる人物ですが、同時に、長年にわたってお金について追究し続けた思想家でもあり、そのラストインタビューで、現代社会の混迷の原因について次のように述べていました。
「人間は三つの異なる社会的レベルのなかで生きています。誰もが国家、法のもとの生活に属しています。生産し、消費する点では経済生活のなかで生きています。そして美術館も音楽会も文化生活の一部ですから文化生活も誰もが行っていることです。この三つの生の領域は本質的にまったく異なるレベルです。今日の政治や社会が抱えてる大きな問題は、この三つがいっしょにされ、別のレベルの理想が混乱して語られることです。(…)フランス革命のスローガンである「自由・平等・友愛」は革命前からある言葉で、もとはフリーメーソンのスローガンにほかなりません。この三つの概念は、いま話した三つのレベルに相応します。すなわち、自由は精神と文化、平等は法と政治、そして今日ではまったく奇異に聞こえるのですが、友愛は経済生活です。」
この「経済が友愛で成り立つべき」という主張は一見すると子どもじみたユートピア思想にも聞こえますが、分業体制という生産方式がしばしば他人を踏みにじったり、踏みにじられたりといった苦々しいものになっているのは、「所得と職業、報酬と労働が一つになってしまっている」からだというエンドの指摘の正鵠(せいこく)さを鑑みると、さまざまな意味で歪んだ現代社会をとらえかえす可能性のあるものという気がしてきます。
今期のおうし座もまた、仕事の収益を自分の当然の権利として要求したり、収益をできる限り私有しようとすること、自分の業績ばかり気にすることがどれだけ物心の貧しさをもたらすか、また、どうしたら共に働くことでもたらされる癒しが大きくなるか、ということについて、じっくりと考えてみるといいでしょう。
参考:河邑厚徳+グループ現代『エンデの遺言』(NHK出版)
《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)
今期のふたご座のキーワードは、「“生きた自然”の回復」。
全体運のところで、「秩序と権威」を司る土星と、「変革と逸脱」を司る天王星のせめぎ合いから、やがて来るだろう未来を先取りしていくことが今期のテーマだと述べましたが、こうした議論で私たちが生きている「今」という時代を捉えている人は少なくありません。
例えば、公共政策と科学哲学を専門に、新しい社会の在り方について提言し続けている広井良典もまた、大きなレベルで「今」を特徴づけるのは、二つの相反するベクトルの「せめぎ合い」であるという見方をしています(『無と意識の人類史』、2021)。
一つは、「地球環境の有限性や持続可能性という価値に目を向けつつ、環境・経済・福祉の調和した社会を志向するという方向」の流れで、広井はこれを「持続可能な福祉社会」や「ポススト資本主義」といった社会像と結びつけています。
対するもう一つは、「様々なレベルでの「限りない拡大・成長」という方向をあくまで追求する方向」であり、そうした流れを代表するものとして「①人工光合成(に示される究極のエネルギー革命)、②地球脱出ないし宇宙進出、③ポスト・ヒューマン(人間そのものの改造ないし進化の次なる段階)」の三つが挙げられ、それは現代版不老不死という夢にそくした具体的テクノロジーと結びついた動きで、経済的なレベルでは「スーパー資本主義」と呼べるような姿と重なるのだといいます。
ただ、広井個人としては後者の流れには、現在の人口過密や格差社会、環境破壊などの問題を深刻化させるだけなのではないかという点で、根本的に懐疑的だとした上で、現在の私たちにとって重要なのは、かつての「心のビッグバン」や「精神革命」に匹敵するような新たな世界観の創出であり、それを人間と人間以外どころか生命と無機物のあいだに絶対的な境界線を引かず、連続的に捉えていく「新しいアニミズム」という言い方で表現しています。
それは「“生きた自然”の回復」とも呼びうるものな訳ですが、これは何も広井が言及しているような物理学などのアカデミズムが独占する領域ではなく、むしろドラえもんに親しみ、虫や花や月をごく身近に感じてきた日本の伝統文化が得意としてきた領域でもあるのではないでしょうか。
今期のふたご座もまた、自分のごく身近なところから、そうした「“生きた自然”の回復」への流れを、改めて再発見していくことがテーマとなっていくでしょう。
参考:広井良典『無と意識の人類史』(東洋経済新報社)
例えば、公共政策と科学哲学を専門に、新しい社会の在り方について提言し続けている広井良典もまた、大きなレベルで「今」を特徴づけるのは、二つの相反するベクトルの「せめぎ合い」であるという見方をしています(『無と意識の人類史』、2021)。
一つは、「地球環境の有限性や持続可能性という価値に目を向けつつ、環境・経済・福祉の調和した社会を志向するという方向」の流れで、広井はこれを「持続可能な福祉社会」や「ポススト資本主義」といった社会像と結びつけています。
対するもう一つは、「様々なレベルでの「限りない拡大・成長」という方向をあくまで追求する方向」であり、そうした流れを代表するものとして「①人工光合成(に示される究極のエネルギー革命)、②地球脱出ないし宇宙進出、③ポスト・ヒューマン(人間そのものの改造ないし進化の次なる段階)」の三つが挙げられ、それは現代版不老不死という夢にそくした具体的テクノロジーと結びついた動きで、経済的なレベルでは「スーパー資本主義」と呼べるような姿と重なるのだといいます。
ただ、広井個人としては後者の流れには、現在の人口過密や格差社会、環境破壊などの問題を深刻化させるだけなのではないかという点で、根本的に懐疑的だとした上で、現在の私たちにとって重要なのは、かつての「心のビッグバン」や「精神革命」に匹敵するような新たな世界観の創出であり、それを人間と人間以外どころか生命と無機物のあいだに絶対的な境界線を引かず、連続的に捉えていく「新しいアニミズム」という言い方で表現しています。
それは「“生きた自然”の回復」とも呼びうるものな訳ですが、これは何も広井が言及しているような物理学などのアカデミズムが独占する領域ではなく、むしろドラえもんに親しみ、虫や花や月をごく身近に感じてきた日本の伝統文化が得意としてきた領域でもあるのではないでしょうか。
今期のふたご座もまた、自分のごく身近なところから、そうした「“生きた自然”の回復」への流れを、改めて再発見していくことがテーマとなっていくでしょう。
参考:広井良典『無と意識の人類史』(東洋経済新報社)
《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)
今期のかに座のキーワードは、「無力をともに担う」。
コロナ禍で若者や女性の自殺が急増したという話がしばしば取り上げられるようになりましたが、今や自殺は個人の問題ではなく明確に社会の問題であり、いつ何時、自分や家族などの近しい人がその当事者になるか分からない喫緊の事態と言えます。
文筆家の坂口恭平など、いのちの電話と同様のことを個人で行っている例も見られますが、実際に生と死のあいだで振り子のように振れている相手を前にしたとき、真摯な人間であればあるほど、かける言葉を見失ってしまうものなのではないでしょうか。
例えば、四十八年もの長きにわたって精神医療の担い手として活動し続けてきた精神科医の塚崎直樹は、自身の臨床経験を振り返って次のように語っています。
「私は、精神科医になった最初のころ、自殺未遂の患者が出ると、厳かに生きる意味などをお説教して、人間の生きるべき姿について大演説を行っていた。しかし、その演説に感銘を受けた患者は一人もいない。大演説を聞いて生きる決心がかたまるようなら、家族や友人の話にこころを動かされないはずはない。そのレベルで救われないからこそ、治療を求めるのだし、治療者を求めるのである。治療者が常識の世界に戻ってしまっては、その意味も乏しい。現在では、そんな演説などしなくなった。そばに黙っているだけである。語るべきこともあまりない。」
当然、それでいいのかという思いは今もつねに持ち続けているはずです。それでも、塚崎は身近にいる自殺を考えている人へ少しでも激励や慰めになればという思いから次のようにも述べています。
「治療者から見れば、自殺ということは、治療の失敗、限界を示すものだ。しかし、治療者もまた生き延びて、治療を求める人に答えようとすれば、その限界を受け入れていくしかない。自殺者は一つの問いをつきつけ、それを残していったわけだから、生き延びる人間は、その問いを受け止めるほかない。それは自分たちの無力を受けいれることである。しかし、それに一人で耐えるのは困難だ。医療は、その無力をともに担う人を持たなくては、続けられない。そういう思いを残された人に伝えたい。」
今期のかに座もまた、高齢化がすすむだけでなく、「多死社会」に移行していく今後をみすえ、人間は生き続けるものであり、そうでなければならないというこだわりを捨て、むしろ無力を受け入れたり、ともに担ったりする関係を築いていきたいところです。
参考:塚崎直樹『虹の断片』(新泉社)
文筆家の坂口恭平など、いのちの電話と同様のことを個人で行っている例も見られますが、実際に生と死のあいだで振り子のように振れている相手を前にしたとき、真摯な人間であればあるほど、かける言葉を見失ってしまうものなのではないでしょうか。
例えば、四十八年もの長きにわたって精神医療の担い手として活動し続けてきた精神科医の塚崎直樹は、自身の臨床経験を振り返って次のように語っています。
「私は、精神科医になった最初のころ、自殺未遂の患者が出ると、厳かに生きる意味などをお説教して、人間の生きるべき姿について大演説を行っていた。しかし、その演説に感銘を受けた患者は一人もいない。大演説を聞いて生きる決心がかたまるようなら、家族や友人の話にこころを動かされないはずはない。そのレベルで救われないからこそ、治療を求めるのだし、治療者を求めるのである。治療者が常識の世界に戻ってしまっては、その意味も乏しい。現在では、そんな演説などしなくなった。そばに黙っているだけである。語るべきこともあまりない。」
当然、それでいいのかという思いは今もつねに持ち続けているはずです。それでも、塚崎は身近にいる自殺を考えている人へ少しでも激励や慰めになればという思いから次のようにも述べています。
「治療者から見れば、自殺ということは、治療の失敗、限界を示すものだ。しかし、治療者もまた生き延びて、治療を求める人に答えようとすれば、その限界を受け入れていくしかない。自殺者は一つの問いをつきつけ、それを残していったわけだから、生き延びる人間は、その問いを受け止めるほかない。それは自分たちの無力を受けいれることである。しかし、それに一人で耐えるのは困難だ。医療は、その無力をともに担う人を持たなくては、続けられない。そういう思いを残された人に伝えたい。」
今期のかに座もまた、高齢化がすすむだけでなく、「多死社会」に移行していく今後をみすえ、人間は生き続けるものであり、そうでなければならないというこだわりを捨て、むしろ無力を受け入れたり、ともに担ったりする関係を築いていきたいところです。
参考:塚崎直樹『虹の断片』(新泉社)
《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)
《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)
「自分の運命は自分で切り開くもの」であり、展開の「主導権を握る」ことや、「先のことまで見通せている」ことができていればいるほど、それは事の次第がうまくいっていることの証しである、と。私たちはこれまでどこかでそう信じて疑っていなかったところがありますが、2年間にわたるコロナ禍を経て、また、激動の時代の最中にあって、どうもそうではないのかも知れないと、なんとなく感じている人も決して少なくないのではないでしょうか。
ここで思い出されるのが、小島信夫の「馬」という小説です。この作品はとてもトンチキな小説なのですが、それは主人公の「僕」がある日家に帰ると、庭に見慣れない材木が積まれていた、というところから始まります。
「僕は脛をさすりさすりトキ子に詰問した。
「誰におかせてやったの」
「さあ、何といっていいかしら、誰にもおかせてやらないわ」
「すると、これはどういうことになるの」
「私が置かせたのよ」
「そう、誰が建てるの」
「そりゃ、あなたよ」
僕は今までトキ子には驚かされつづけであるが、自分の建てる家のことを自分で知らないということには、まったく闇夜に鼻の先きをつままれたような、一方的なかんじを受けざるを得ない。/それでは僕が建てるというのは、世の中にはふしぎなことがあるのだから分るとして、さて、誰が住むのだ、たぶん名義だけにして何かトキ子が企んでいるのかと思って、つきつめると、「住むのはあなたよ」と答え、そのさまが無邪気でさえある。」
応答がめちゃくちゃですが、トキ子は大工の棟梁との会話のなかで、新しい家を馬小屋にすることを受け容れてしまうというその後の流れもめちゃくちゃです。
ただ、この冒頭からして既にそうなのですが、この主人公ないし語り手には強い受動性があって、それが逆に小説の推進力の強さにすり替わっている。あるいは、どこか神話や夢の中のように、どんどん予期せぬ流れが作られていったり、脇へとそれていくけもの道が垣間見えてきて、あえて全力で乗っかっていく受け身感に満ち満ちていることで、何か大きな力が宿ったり、 決して自分ひとりでは生みだせないものを生みだすことができているように感じるのです。
今期のしし座もまた、そうした強い受動性を発揮し、たとえ不条理だろうと悪夢的であろうと、目の前で何が起こっても全力で受け止めて対応しようとすることを大事にしていきたいところです。
参考:小島信夫『アメリカン・スクール』(新潮文庫)
ここで思い出されるのが、小島信夫の「馬」という小説です。この作品はとてもトンチキな小説なのですが、それは主人公の「僕」がある日家に帰ると、庭に見慣れない材木が積まれていた、というところから始まります。
「僕は脛をさすりさすりトキ子に詰問した。
「誰におかせてやったの」
「さあ、何といっていいかしら、誰にもおかせてやらないわ」
「すると、これはどういうことになるの」
「私が置かせたのよ」
「そう、誰が建てるの」
「そりゃ、あなたよ」
僕は今までトキ子には驚かされつづけであるが、自分の建てる家のことを自分で知らないということには、まったく闇夜に鼻の先きをつままれたような、一方的なかんじを受けざるを得ない。/それでは僕が建てるというのは、世の中にはふしぎなことがあるのだから分るとして、さて、誰が住むのだ、たぶん名義だけにして何かトキ子が企んでいるのかと思って、つきつめると、「住むのはあなたよ」と答え、そのさまが無邪気でさえある。」
応答がめちゃくちゃですが、トキ子は大工の棟梁との会話のなかで、新しい家を馬小屋にすることを受け容れてしまうというその後の流れもめちゃくちゃです。
ただ、この冒頭からして既にそうなのですが、この主人公ないし語り手には強い受動性があって、それが逆に小説の推進力の強さにすり替わっている。あるいは、どこか神話や夢の中のように、どんどん予期せぬ流れが作られていったり、脇へとそれていくけもの道が垣間見えてきて、あえて全力で乗っかっていく受け身感に満ち満ちていることで、何か大きな力が宿ったり、 決して自分ひとりでは生みだせないものを生みだすことができているように感じるのです。
今期のしし座もまた、そうした強い受動性を発揮し、たとえ不条理だろうと悪夢的であろうと、目の前で何が起こっても全力で受け止めて対応しようとすることを大事にしていきたいところです。
参考:小島信夫『アメリカン・スクール』(新潮文庫)
《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)
今期のおとめ座のキーワードは、「創造的な眠り」。
オミクロン株の猛威を受け、1月21日より東京都を含む16の都県を大正にまん延防止等重点措置が実施されることになり、改めて社交的な活動が制限される状況となりましたが、もはや完全にコロナ以前の生活に戻すことができなくなった以上、できる限り社交に依存しない形で日々の生活を創造的なものにしていく方法論について、各自で確立していく必要性に迫られているように思います。
特に、仕事の創造性をいかに落とさず、むしろ高められるかという命題は、リモートワークやオンラインでの打ち合わせがデフォルト化してきた昨今では、喫緊の課題と言っていいでしょう。
例えば、現代アメリカを代表するベストセラー小説家であるスティーブン・キングは、誕生日も休日も休まず、毎日必ず二千語分小説を書くというノルマをみずから課していることで知られています。その秘訣について、キングは回想録『書くことについて』のなかで、小説を書くことを「創造的な眠り」にたとえ、それは訓練や習慣づけによって可能になるのだと述べています。
「寝室と同じように、執筆する部屋はプライベートな空間でなくてはならない。そこは夢を見にいく場所だ。そこに入る時間は毎日だいたい同じだが、出るのは自分の千の言葉が紙やディスクの上に記録されたとき。スケジュールは習慣をつけるため、夢を見る態勢を整えるためにある。毎晩同じ時刻にベッドに入ったり、毎晩決まったことをしたりして、寝る準備をするのと同じだ。執筆でも睡眠でも、我々には物理的にはじっとしていながら、昼間の平凡で合理的な考えから精神を解放させることを学んでいく。頭と体が毎晩、一定量――六、七時間かできれば八時間――の睡眠に慣れていくのと同様に、起きているときの頭も訓練によって創造的に眠り、空想による鮮やかな白昼夢を作りあげることができるようになる。その白昼夢がすなわち、よくできた小説なのだ。」
つらくしんどいことの方が多い執筆作業(それは他のどんな仕事も同じだろう)を、きもちよく寝て夢を見るための準備というイメージにすり替えるという自己暗示それ自体が、おそらくキングなりの習慣づけだったのではないでしょうか。
今期のおとめ座もまた、キングを参考にしつつ創造的に眠れるようになるための自分なりの習慣づけを行ってみるべし。
参考:スティーブン・キング、田村義進訳『書くことについて』(小学館文庫)
特に、仕事の創造性をいかに落とさず、むしろ高められるかという命題は、リモートワークやオンラインでの打ち合わせがデフォルト化してきた昨今では、喫緊の課題と言っていいでしょう。
例えば、現代アメリカを代表するベストセラー小説家であるスティーブン・キングは、誕生日も休日も休まず、毎日必ず二千語分小説を書くというノルマをみずから課していることで知られています。その秘訣について、キングは回想録『書くことについて』のなかで、小説を書くことを「創造的な眠り」にたとえ、それは訓練や習慣づけによって可能になるのだと述べています。
「寝室と同じように、執筆する部屋はプライベートな空間でなくてはならない。そこは夢を見にいく場所だ。そこに入る時間は毎日だいたい同じだが、出るのは自分の千の言葉が紙やディスクの上に記録されたとき。スケジュールは習慣をつけるため、夢を見る態勢を整えるためにある。毎晩同じ時刻にベッドに入ったり、毎晩決まったことをしたりして、寝る準備をするのと同じだ。執筆でも睡眠でも、我々には物理的にはじっとしていながら、昼間の平凡で合理的な考えから精神を解放させることを学んでいく。頭と体が毎晩、一定量――六、七時間かできれば八時間――の睡眠に慣れていくのと同様に、起きているときの頭も訓練によって創造的に眠り、空想による鮮やかな白昼夢を作りあげることができるようになる。その白昼夢がすなわち、よくできた小説なのだ。」
つらくしんどいことの方が多い執筆作業(それは他のどんな仕事も同じだろう)を、きもちよく寝て夢を見るための準備というイメージにすり替えるという自己暗示それ自体が、おそらくキングなりの習慣づけだったのではないでしょうか。
今期のおとめ座もまた、キングを参考にしつつ創造的に眠れるようになるための自分なりの習慣づけを行ってみるべし。
参考:スティーブン・キング、田村義進訳『書くことについて』(小学館文庫)
《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)
今期のてんびん座のキーワードは、「恋する心」。
長らく続いたコロナ禍を通じて、また今回まん延防止等重点措置が改めて実施されたことで問われているのは、夜遅くまで出歩く自由や、会いたい相手といつでもリアルに会える自由をどうやって取り戻すか、ということではないはずです。
単に感覚の享楽に過ぎない、表面的なものではなく、私たちがいま心から欲している体験とは何か、これまでも、これからも私たちを真に支えてくれるものとは何か、ということではないでしょうか。
得てして私たちを生の原点、知の原点、美の原点へと誘っていく最大の契機というのは、私たちがほかならぬ自分自身を見出すことであり、そうした考え方は、よく知られた道元の「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは万法に証せられるるなり」という言葉のうちにも見出すことができます。
そこでは、自己の本来あったものへの回帰という形で探求の道が示されている訳ですが、深刻な芸術体験や、心に衝撃を与えるような哲学的な営みの本質もまた、幼児期以来私たちに経験された知の源泉を心によみがえらせ、それへの愛を問いただし、言葉本来の意味でエロスを発動することの内にあるように思います。例えば、詩人の萩原朔太郎はそうしたエロスを古今集の歌の中に見出し、次のような文章を残しました。
「大空は恋しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ
恋は心の郷愁であり、思慕(エロス)のやる瀬ない憧憬(あこがれ)である。それ故に恋する心は、常に大空を見て思いを寄せ、時間と空間の無窮の涯(はて)に、情緒の嘆息する故郷を慕う。恋の本質はそれ自ら抒情詩であり、プラトンの実在(イデア)を慕う哲学である。(プラトン曰く。恋愛によってのみ、人は形而上学の天界に飛翔し得る。恋愛は哲学の鍵であると。)古来多くの歌人らは、この同じ類想の詩を作っている。(…)しかし就中(なかんずく)この一首が、同想中で最も秀でた名歌であり、縹渺(ひょうびょう)たる格調の音楽と融合して、よく思慕の情操を尽くしている。」
今期のてんびん座もまた、男女の性愛の向こう側に突き抜けるようにして広がる「思慕の情操」をいかにおのれの中に育んでいけるかがテーマとなっていくでしょう。
参考:萩原朔太郎『恋愛名歌集』(新潮文庫)
単に感覚の享楽に過ぎない、表面的なものではなく、私たちがいま心から欲している体験とは何か、これまでも、これからも私たちを真に支えてくれるものとは何か、ということではないでしょうか。
得てして私たちを生の原点、知の原点、美の原点へと誘っていく最大の契機というのは、私たちがほかならぬ自分自身を見出すことであり、そうした考え方は、よく知られた道元の「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは万法に証せられるるなり」という言葉のうちにも見出すことができます。
そこでは、自己の本来あったものへの回帰という形で探求の道が示されている訳ですが、深刻な芸術体験や、心に衝撃を与えるような哲学的な営みの本質もまた、幼児期以来私たちに経験された知の源泉を心によみがえらせ、それへの愛を問いただし、言葉本来の意味でエロスを発動することの内にあるように思います。例えば、詩人の萩原朔太郎はそうしたエロスを古今集の歌の中に見出し、次のような文章を残しました。
「大空は恋しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ
恋は心の郷愁であり、思慕(エロス)のやる瀬ない憧憬(あこがれ)である。それ故に恋する心は、常に大空を見て思いを寄せ、時間と空間の無窮の涯(はて)に、情緒の嘆息する故郷を慕う。恋の本質はそれ自ら抒情詩であり、プラトンの実在(イデア)を慕う哲学である。(プラトン曰く。恋愛によってのみ、人は形而上学の天界に飛翔し得る。恋愛は哲学の鍵であると。)古来多くの歌人らは、この同じ類想の詩を作っている。(…)しかし就中(なかんずく)この一首が、同想中で最も秀でた名歌であり、縹渺(ひょうびょう)たる格調の音楽と融合して、よく思慕の情操を尽くしている。」
今期のてんびん座もまた、男女の性愛の向こう側に突き抜けるようにして広がる「思慕の情操」をいかにおのれの中に育んでいけるかがテーマとなっていくでしょう。
参考:萩原朔太郎『恋愛名歌集』(新潮文庫)
《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)
今期のさそり座のキーワードは、「記憶たよりに夢を見る」。
2年間にわたるコロナ禍を通して、街の様相はしずかに、しかし確実に変わってしまったように思います。大手チェーンや空き店舗が増えた代わりに、資金力に乏しい小さな個人店や歴史ある店舗はいつの間にか消えており、週末の夜になっても繁華街の人通りもどこか寂しいものになりました。
それが良いか悪いかはともかくとして、街というリアルな場そのものに人が集まらず、パワーがなくなってきつつある現状について、私たちはそれをいかに受け止めていけばいいのでしょうか。ここで思い出されるのが、宗教学者の中沢新一が世田谷区の代田橋について書いた「けなげな町」という短い文章で、それは次のように始まります。
「代田橋はけなげな町である。町の龍脈だった神社への参道を、線路によってまっぷたつに切られようと、幹線道路からのひっきりなしの騒音に四六時中さらされていようと、代田橋はめげない。この町は、自分の身体が健康だった頃の記憶をなくしていないで、その記憶を頼りに夢を見ながら、現実を乗り越えようとしているようにさえ見える。」
ここでいう「健康だった頃の記憶たよりに夢を見る」とは、具体的には町に住む人びとが、近代の開発を経てもなお、古来からの精神的中心として機能してきた神社や鎮守の森の記憶を失わず、「神社の祭礼の間中、踏切はないものと幻視することに決め」るなどして、大事に受け継いできたことにほかなりません。
中沢がいうように、どんなに鉄道や自動車道が古代の参道や聖地を分断し、その記憶を乱暴に書き消そうとも、実際にそこに住む人間が街への優しさを失わず、かつての夢を見続ける者が絶えなければ、代田橋のようにその後「沖縄タウン」ができて変身を遂げたように、何度でもよみがえっていくのかも知れません。
そんな風に「けなげな町」はそこに住む「夢を見る」人間の存在によって生命線を保ち続けることができるのだという考え方は、今期のさそり座にとってもひとつの指針になっていくはず。あなたもまた、「夢を見る」人間のひとりとして自分が住んでいる町の記憶に積極的にアクセスしてみるといいでしょう。
参考:中沢新一『熊を夢見る』(角川書店)
それが良いか悪いかはともかくとして、街というリアルな場そのものに人が集まらず、パワーがなくなってきつつある現状について、私たちはそれをいかに受け止めていけばいいのでしょうか。ここで思い出されるのが、宗教学者の中沢新一が世田谷区の代田橋について書いた「けなげな町」という短い文章で、それは次のように始まります。
「代田橋はけなげな町である。町の龍脈だった神社への参道を、線路によってまっぷたつに切られようと、幹線道路からのひっきりなしの騒音に四六時中さらされていようと、代田橋はめげない。この町は、自分の身体が健康だった頃の記憶をなくしていないで、その記憶を頼りに夢を見ながら、現実を乗り越えようとしているようにさえ見える。」
ここでいう「健康だった頃の記憶たよりに夢を見る」とは、具体的には町に住む人びとが、近代の開発を経てもなお、古来からの精神的中心として機能してきた神社や鎮守の森の記憶を失わず、「神社の祭礼の間中、踏切はないものと幻視することに決め」るなどして、大事に受け継いできたことにほかなりません。
中沢がいうように、どんなに鉄道や自動車道が古代の参道や聖地を分断し、その記憶を乱暴に書き消そうとも、実際にそこに住む人間が街への優しさを失わず、かつての夢を見続ける者が絶えなければ、代田橋のようにその後「沖縄タウン」ができて変身を遂げたように、何度でもよみがえっていくのかも知れません。
そんな風に「けなげな町」はそこに住む「夢を見る」人間の存在によって生命線を保ち続けることができるのだという考え方は、今期のさそり座にとってもひとつの指針になっていくはず。あなたもまた、「夢を見る」人間のひとりとして自分が住んでいる町の記憶に積極的にアクセスしてみるといいでしょう。
参考:中沢新一『熊を夢見る』(角川書店)
《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)
今期のいて座のキーワードは、「面影の中の他者」。
ここ2年間のコロナ禍を通じて、私たちは何を失って、その代わりに何を得たのか。今回のみずがめ座新月はそのように総括していくフェーズにいよいよ入ったという感が強いのですが、それは星の配置に基づくならば、何か目新しい認識に目を開かされるというよりは、どこかでうすうす知っていた認識の断片がつながって、血が通った形でつながり直すという印象に近いように思います。
そもそも読書や音楽にふけるように、人は気付くとこの世この生のあらすじや舞台装置に夢中になっており、それは人間という存在がすでに何かを失って(お芝居であることを忘れて)この世界に生をうけ、いわば舞台上に投げ込まれることで存在している訳ですが、例えばそうした生のあやうい側面に「偶然性」という切り口から斬り込んでいこうとしたのが哲学者の九鬼周造でした。
九鬼はヨーロッパ留学を通して自己同一性の哲学(私が私であることの洞察)を吸収していく一方で、西洋哲学では許されない何かを失ったりもらったりする“気まぐれ”へとかえって惹かれていった、否、たまたまもののはずみで思い出し、新たな実感とともに出会い直していった人でもありました。そんな九鬼の偶然性の哲学の核心について、松岡正剛は「面影と偶然性」というエッセイの中で次のように触れています。
「私が勝手に解釈すると、九鬼が大好きな偶然は「面影に向かって振り返るようなところ」に生じるものなのだ。九鬼自身の歌でいえば「母うへのめでたまひつる白茶いろ流行(はやり)と聞くも憎くからぬかな」や「ふるさとのしんむらさきの節恋しかの歌沢の師匠も恋し」に生じているような、そういう「思い出す」という偶然による逢着だ。自己と他者などという他人行儀なものであるはずがない。母上や歌沢の師匠という「面影の中の他者」なのである。」
「「私は端唄や小唄を聞くと、全人格を根底から震撼するとでもいうような迫力を感じる」と。また、次のようにも綴った。「私は秋になって、しめやかな日に庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むやうになった。私はただひとりでしみじみ嗅ぐ。さうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまふ。私が生まれたよりも、もつと遠いところへ。そこではまだ可能が可能なままであつたところへ。」と。」
同様に今期の私たち、特にいて座の人たちもまた、もはや以前と同じではいられなくなった自分ということを、九鬼のいう偶然、すなわち「ふと」や「なつかしさ」の世界へと足を踏み入れ、「面影の中の他者」と「偶然による逢着」を遂げていくことがテーマとなっていくでしょう。
参考:『現代思想2017年1月臨時増刊号 総特集=九鬼周造』(青土社)
そもそも読書や音楽にふけるように、人は気付くとこの世この生のあらすじや舞台装置に夢中になっており、それは人間という存在がすでに何かを失って(お芝居であることを忘れて)この世界に生をうけ、いわば舞台上に投げ込まれることで存在している訳ですが、例えばそうした生のあやうい側面に「偶然性」という切り口から斬り込んでいこうとしたのが哲学者の九鬼周造でした。
九鬼はヨーロッパ留学を通して自己同一性の哲学(私が私であることの洞察)を吸収していく一方で、西洋哲学では許されない何かを失ったりもらったりする“気まぐれ”へとかえって惹かれていった、否、たまたまもののはずみで思い出し、新たな実感とともに出会い直していった人でもありました。そんな九鬼の偶然性の哲学の核心について、松岡正剛は「面影と偶然性」というエッセイの中で次のように触れています。
「私が勝手に解釈すると、九鬼が大好きな偶然は「面影に向かって振り返るようなところ」に生じるものなのだ。九鬼自身の歌でいえば「母うへのめでたまひつる白茶いろ流行(はやり)と聞くも憎くからぬかな」や「ふるさとのしんむらさきの節恋しかの歌沢の師匠も恋し」に生じているような、そういう「思い出す」という偶然による逢着だ。自己と他者などという他人行儀なものであるはずがない。母上や歌沢の師匠という「面影の中の他者」なのである。」
「「私は端唄や小唄を聞くと、全人格を根底から震撼するとでもいうような迫力を感じる」と。また、次のようにも綴った。「私は秋になって、しめやかな日に庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むやうになった。私はただひとりでしみじみ嗅ぐ。さうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまふ。私が生まれたよりも、もつと遠いところへ。そこではまだ可能が可能なままであつたところへ。」と。」
同様に今期の私たち、特にいて座の人たちもまた、もはや以前と同じではいられなくなった自分ということを、九鬼のいう偶然、すなわち「ふと」や「なつかしさ」の世界へと足を踏み入れ、「面影の中の他者」と「偶然による逢着」を遂げていくことがテーマとなっていくでしょう。
参考:『現代思想2017年1月臨時増刊号 総特集=九鬼周造』(青土社)
《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)
《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)
昨今立て続けに起きている無差別殺傷事件の犯人の供述を見ると、「死にたいけれど、自分では死ねないから、人を殺して死刑にして欲しかった」という人がけっこう多いですが、こういう場合の「死にたい」と口に出して言う人というのは、本当に死のうとは思っていない人が大半ではないでしょうか。
むしろ、仕事や人間関係のなかで、生きていけると確かに感じられるきっかけをつかむことができないでいるというのが実際のところであるように思うのですが、例えば武道家でもある思想家の内田樹とヨーガ指導者の成瀬雅春もまた、この「つかむ」力の低下ということと、いま日本が直面している状況の相関に着目していた二人でした。
対談を収録した『善く死ぬための身体論』では、最近は幼稚園でも保育園でも、砂場で泥団子をつくったりして、泥だらけになって遊ぶ機会が失ってしまい、その影響で子どもの手でものを握る力が落ちているんじゃないか、そしてそれは生命力の低下を象徴しているという話から、自然に直接触れることの重要性について、次のように語られています。
「内田 武道をやっているとわかりますが、指の握りや手のひらの開きなど、「手の内」は全身の骨格や筋肉の調整と不可分の関係にある。太刀の柄を握る手の内は実によくできた形で、手の内を正しい形にするだけで、全身がぴたりと整う。すごく微妙なんです。指の角度を少し変えただけで、身体の構造や強さが変わる。そういうデリケートな指や手のひらの操作が身体運用にとって決定的に重要なんだということは、説明しても、なかなかわかってもらえないですね。(…)
成瀬 ムドラー(印)は手の形をこういうふうに変えるのね。生徒たちには、手の形の違いで身体の中を流れるエネルギーがどう変わるか観察させて、こうやったら明らかに変わるという感性を磨かせていくんです。絶対違いますからね。ほんのちょっと手の形が変わっただけで、身体の中のいろんなものが変わる。そういうものがちゃんと見つかるというか、自分で感じられる感性を持たないとダメですね。
内田 (…)これって、ゲームに熱中することと反対ですよね。ゲームやPCだと、いくら観察しても、最終的には「人為」に出会うわけですけれど、身体というのはどれほど人工的で都市化された環境でも、最後に残る「自然」なわけですから、そこからは無限の情報が汲み出せる。」
いつまでも人為でつくられた人工的な環境から出ることに不安しか感じられなければ、おそらくその行き着く先は冒頭の供述の範疇を出ないでしょう。
今期のやぎ座もまた、それくらいの危機感をもって、まず身近な自然をつかみ、触れることの大切さや、その奥深さにあらためて回帰していくことがテーマとなっていきそうです。
参考:内田樹、成瀬雅春『善く死ぬための身体論』(集英社新書)
むしろ、仕事や人間関係のなかで、生きていけると確かに感じられるきっかけをつかむことができないでいるというのが実際のところであるように思うのですが、例えば武道家でもある思想家の内田樹とヨーガ指導者の成瀬雅春もまた、この「つかむ」力の低下ということと、いま日本が直面している状況の相関に着目していた二人でした。
対談を収録した『善く死ぬための身体論』では、最近は幼稚園でも保育園でも、砂場で泥団子をつくったりして、泥だらけになって遊ぶ機会が失ってしまい、その影響で子どもの手でものを握る力が落ちているんじゃないか、そしてそれは生命力の低下を象徴しているという話から、自然に直接触れることの重要性について、次のように語られています。
「内田 武道をやっているとわかりますが、指の握りや手のひらの開きなど、「手の内」は全身の骨格や筋肉の調整と不可分の関係にある。太刀の柄を握る手の内は実によくできた形で、手の内を正しい形にするだけで、全身がぴたりと整う。すごく微妙なんです。指の角度を少し変えただけで、身体の構造や強さが変わる。そういうデリケートな指や手のひらの操作が身体運用にとって決定的に重要なんだということは、説明しても、なかなかわかってもらえないですね。(…)
成瀬 ムドラー(印)は手の形をこういうふうに変えるのね。生徒たちには、手の形の違いで身体の中を流れるエネルギーがどう変わるか観察させて、こうやったら明らかに変わるという感性を磨かせていくんです。絶対違いますからね。ほんのちょっと手の形が変わっただけで、身体の中のいろんなものが変わる。そういうものがちゃんと見つかるというか、自分で感じられる感性を持たないとダメですね。
内田 (…)これって、ゲームに熱中することと反対ですよね。ゲームやPCだと、いくら観察しても、最終的には「人為」に出会うわけですけれど、身体というのはどれほど人工的で都市化された環境でも、最後に残る「自然」なわけですから、そこからは無限の情報が汲み出せる。」
いつまでも人為でつくられた人工的な環境から出ることに不安しか感じられなければ、おそらくその行き着く先は冒頭の供述の範疇を出ないでしょう。
今期のやぎ座もまた、それくらいの危機感をもって、まず身近な自然をつかみ、触れることの大切さや、その奥深さにあらためて回帰していくことがテーマとなっていきそうです。
参考:内田樹、成瀬雅春『善く死ぬための身体論』(集英社新書)
《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)
今期のみずがめ座のキーワードは、「おのれを「誠にする」」。
以前、人生の先輩にあたる人から「土壇場でも誠意を持ち続けられる人、誠実であれる人の貴重さが最近改めてわかった」という話を聞きました。それを聞いて、なにをいまさらと思った一方で、「integrity」という言葉を思い出しました。
これは「投資の神様」とも呼ばれるウォーレン・バフェットが挙げた「成功する人間の三条件」のなかで、intelligenceとenergyという他の二条件と並べても最重要条件として挙げた資質だったのですが、これは日本語にはなかなか適切な訳が見つからない言葉で、あえて訳せば「高潔さ」とか「誠実さ」ということになるのではないかと思ったあたりで、だから先輩も、「改めてわかった」のかと腑に落ちたのです。
それでそういうことをすっかり忘れていた先日、安田登の『役に立つ古典』の「『中庸』が伝える「誠」の力」という章を読んでいたとき、ふとそのことを思い出しました。そうか、integrityとは、『中庸』の説く「誠」のことかもしれないと直感したのです。
『中庸』では、人はつねに自分の天命である「性」に従って生きて行くものと説かれているのですが、ただし孔子ですら「五十にして天命を知る」と言っていたように、私たちはなかなかそれを知ることができません。そんな性を知る方法について、『中庸』にはこう書いてあるのだそうです。安田の解説文と併せて引用します。
「「誠なる者は、天の道なり。これを誠にする者は、人の道なり。誠なる者は、勉めずしてあたり、思わずして得、従容として道にあたる、聖人なり。これを誠にする者は、善を択びて固くこれをとる者なり。」
「誠」というのは天の道だといいます。天の道は「誠」そのものです。努力をしなくてもぴたりと符合し、あれこれ考えなくても必要なものはゲットでき、そして自然にしていても道に合致している。花は春になれば咲き、毛虫は放っておいても蝶になります。必要なものはあちらから訪れ、必要な人とも自然に会う。これが性に従うことであり、誠そのものの姿です。」
そして、具体的なやり方として、『中庸』は①博学(知の空白を埋める)、②審問(詳細な問いを立てる)、③慎思(じっくり考える)、④明弁(答えを分けていく)、⑤篤行(丁寧に実行に移す)という五つの作業を地道にやっていくことで、私たちはおのれを「誠にする」ことができるのだと。
同様に、今期のみずがめ座もまた、そうした誠に至る道をたんたんと、どこかで楽しみながら進んでいくことを意識してみるといいでしょう。
参考:安田登『役に立つ古典』(NHK出版)
これは「投資の神様」とも呼ばれるウォーレン・バフェットが挙げた「成功する人間の三条件」のなかで、intelligenceとenergyという他の二条件と並べても最重要条件として挙げた資質だったのですが、これは日本語にはなかなか適切な訳が見つからない言葉で、あえて訳せば「高潔さ」とか「誠実さ」ということになるのではないかと思ったあたりで、だから先輩も、「改めてわかった」のかと腑に落ちたのです。
それでそういうことをすっかり忘れていた先日、安田登の『役に立つ古典』の「『中庸』が伝える「誠」の力」という章を読んでいたとき、ふとそのことを思い出しました。そうか、integrityとは、『中庸』の説く「誠」のことかもしれないと直感したのです。
『中庸』では、人はつねに自分の天命である「性」に従って生きて行くものと説かれているのですが、ただし孔子ですら「五十にして天命を知る」と言っていたように、私たちはなかなかそれを知ることができません。そんな性を知る方法について、『中庸』にはこう書いてあるのだそうです。安田の解説文と併せて引用します。
「「誠なる者は、天の道なり。これを誠にする者は、人の道なり。誠なる者は、勉めずしてあたり、思わずして得、従容として道にあたる、聖人なり。これを誠にする者は、善を択びて固くこれをとる者なり。」
「誠」というのは天の道だといいます。天の道は「誠」そのものです。努力をしなくてもぴたりと符合し、あれこれ考えなくても必要なものはゲットでき、そして自然にしていても道に合致している。花は春になれば咲き、毛虫は放っておいても蝶になります。必要なものはあちらから訪れ、必要な人とも自然に会う。これが性に従うことであり、誠そのものの姿です。」
そして、具体的なやり方として、『中庸』は①博学(知の空白を埋める)、②審問(詳細な問いを立てる)、③慎思(じっくり考える)、④明弁(答えを分けていく)、⑤篤行(丁寧に実行に移す)という五つの作業を地道にやっていくことで、私たちはおのれを「誠にする」ことができるのだと。
同様に、今期のみずがめ座もまた、そうした誠に至る道をたんたんと、どこかで楽しみながら進んでいくことを意識してみるといいでしょう。
参考:安田登『役に立つ古典』(NHK出版)
《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)
今期のうお座のキーワードは、「自分の根源的な人間性から話す」。
「なぜ、私が、いま苦しまなければならないのか。私が悪いというのなら教えてくれ。」
突然の災難によって財産も家族も健康も失ってしまった苦悩のただ中で、慰問に訪れもっともらしい言葉をかけてきた友人たちに、魂の底からこう訴えたのは旧約聖書の『ヨブ記』の主人公のヨブでしたが、現代日本においてもこうしたヨブの陥った困難な状況や悲痛な叫びに共感する人は決して少なくないように思います。
ただ、そのほとんどは、あまりに強力でもっともらしい「友人」たちの言葉に支配されることもなく、かといって、ヨブのように自暴自棄になって「生まれた日を呪う」こともなく、人生という解くことのできない謎に、謎として向き合うことさえできないでいるのではないでしょうか。
現代であれば、ヨブと同様の状況に置かれれば、まず間違いなく「うつ」と診断され、然るべき治療を施されるはずですが、ヨブ記の物語はあきらかにその代案を提供しています。
2003年にコスモス・ライブラリーから刊行された『ヨブ』の序文を書いたトマス・ムーアは、自身のカトリックの修道僧や心理療法家としての経験から、「健康、愛、財産を失った人は、自分の根源的な人間性から話す以外にない」と述べ、それは単に「愚者になったという感覚」に苛まれる状態から「聖なる愚者」へと移行するイニシエーションでもあるのだとして、次のように書いています。
「なぜ無垢で献身的な人物が苦しまなければならないのか?彼を黙らせるために『ヨブ記』は言う。このもっとも基本的な問いに直接的かつ簡単な答えはない、と。神秘と人間の能力のバランスは、この問いが謎として捉えられなければならないほど不均衡になっている。その答えは笑えるほどまわりくどいものだろう。私たちは、自分の知性、分析、方法、道具、言葉、百科事典的な知識の蓄積をあまりにも信頼しすぎている。私たちは、沈黙について雄弁に語る古代の知恵を忘れてしまった。それは自分の言葉を空っぽに保ち、自分の思考を謙虚にすることをアドバイスしている。」
たしかに物語では、ヨブの生活と財産は、彼が嵐の中から響いた「神」の声を聞き、沈黙の価値を発見した後に、もとの三倍となって戻されました。なにより、みずからの知性の無意味と限界を知りつつ、「話すことができないけれども話さなければならないという逆説」を土産として。
同様に今期のうお座もまた、程度こそ違えど、こうしたヨブの物語に示されたイニシエーションをくぐり抜けていくことになるかも知れません。
参考:『ヨブ記』(コスモス・ライブラリー)
突然の災難によって財産も家族も健康も失ってしまった苦悩のただ中で、慰問に訪れもっともらしい言葉をかけてきた友人たちに、魂の底からこう訴えたのは旧約聖書の『ヨブ記』の主人公のヨブでしたが、現代日本においてもこうしたヨブの陥った困難な状況や悲痛な叫びに共感する人は決して少なくないように思います。
ただ、そのほとんどは、あまりに強力でもっともらしい「友人」たちの言葉に支配されることもなく、かといって、ヨブのように自暴自棄になって「生まれた日を呪う」こともなく、人生という解くことのできない謎に、謎として向き合うことさえできないでいるのではないでしょうか。
現代であれば、ヨブと同様の状況に置かれれば、まず間違いなく「うつ」と診断され、然るべき治療を施されるはずですが、ヨブ記の物語はあきらかにその代案を提供しています。
2003年にコスモス・ライブラリーから刊行された『ヨブ』の序文を書いたトマス・ムーアは、自身のカトリックの修道僧や心理療法家としての経験から、「健康、愛、財産を失った人は、自分の根源的な人間性から話す以外にない」と述べ、それは単に「愚者になったという感覚」に苛まれる状態から「聖なる愚者」へと移行するイニシエーションでもあるのだとして、次のように書いています。
「なぜ無垢で献身的な人物が苦しまなければならないのか?彼を黙らせるために『ヨブ記』は言う。このもっとも基本的な問いに直接的かつ簡単な答えはない、と。神秘と人間の能力のバランスは、この問いが謎として捉えられなければならないほど不均衡になっている。その答えは笑えるほどまわりくどいものだろう。私たちは、自分の知性、分析、方法、道具、言葉、百科事典的な知識の蓄積をあまりにも信頼しすぎている。私たちは、沈黙について雄弁に語る古代の知恵を忘れてしまった。それは自分の言葉を空っぽに保ち、自分の思考を謙虚にすることをアドバイスしている。」
たしかに物語では、ヨブの生活と財産は、彼が嵐の中から響いた「神」の声を聞き、沈黙の価値を発見した後に、もとの三倍となって戻されました。なにより、みずからの知性の無意味と限界を知りつつ、「話すことができないけれども話さなければならないという逆説」を土産として。
同様に今期のうお座もまた、程度こそ違えど、こうしたヨブの物語に示されたイニシエーションをくぐり抜けていくことになるかも知れません。
参考:『ヨブ記』(コスモス・ライブラリー)
<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
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文/SUGAR イラスト/チヤキ