【最新12星座占い】<6/14〜6/27>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ―新月はクラい、満月はエモい―
【SUGARさんの12星座占い】<6/14~6/27>の12星座全体の運勢は?
「大きな物語に取り込まれていく」
6月21日の夏至の日の夕方16~18時にかけて、蟹座1度で部分日食(新月)が起こり、晴れていれば日本全国で欠けていく太陽が観測できます。これは日食と新月、そして一年のうち最も日が長くなる夏至が重なる特別なタイミングであり、時代の移り変わりの上でもひとつの節目となっていきそうです。そのキーワードは、「大きな物語」。これは例えば「むかしむかし、あるところに……」といった語りで始まる昔話のように、歴史ないし共同体のもつ空間的・時間的射程の中に自らを位置づけ直していくことで、個人として好き勝手に振る舞う自由を失う代わりに、手で触れられる夢のような生々しい物語の中へと取りこまれていく。今季はそんな"クラい”感覚の極致をぜひ味わっていきたいところです。
《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)
今週のおひつじ座のキーワードは、「先祖」。
一般的に、かつての戦争中には厳しい言論統制で思想が圧殺され、それが敗戦を機にひっくり返り一気に自由な思想が展開されるようになったというイメージがありますが、実際には、戦後活躍した多くの知識人の出発点はむしろ戦争末期から敗戦の年までにあり、困難な状況こそが強靭な思想を鍛えていたのでした。
日本民俗学の父である柳田國男もまた、多くの人の死と直面する中で「日本人の多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何かその消息に通じているような気持を、抱いていた」といった日本人のもともとの死生観や霊魂観をたどっていくことで、やがて日本の神は先祖神に由来するということを突き詰めていったのです。
柳田は繰り返し"死者(先祖)との親しさ”という観念について指摘しますが、それは抽象的な理論からではなく、あくまで庶民の生活文化の収集整理を通して、次のように語られました。
「第三には生人の今はの時の念願が、死後には必ず達成するものと思っていたことで、これによって子孫のためにいろいろの計画を立てたのみか、更に再び三たび生まれ代わって、同じ事業を続けられるもののごとく、思った者の多かったというのが第四である。」(※傍線は筆者)
父母やさらにその上の世代の"物語”をたどることによって、かえって自分の生きる道が明確に浮き上がることもある。特に今季のおひつじ座には、そうした視座を自分なりに掘り下げ鍛えていくことも必要であるように思います。
出典:柳田國男『先祖の話』(角川ソフィア文庫)
日本民俗学の父である柳田國男もまた、多くの人の死と直面する中で「日本人の多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何かその消息に通じているような気持を、抱いていた」といった日本人のもともとの死生観や霊魂観をたどっていくことで、やがて日本の神は先祖神に由来するということを突き詰めていったのです。
柳田は繰り返し"死者(先祖)との親しさ”という観念について指摘しますが、それは抽象的な理論からではなく、あくまで庶民の生活文化の収集整理を通して、次のように語られました。
「第三には生人の今はの時の念願が、死後には必ず達成するものと思っていたことで、これによって子孫のためにいろいろの計画を立てたのみか、更に再び三たび生まれ代わって、同じ事業を続けられるもののごとく、思った者の多かったというのが第四である。」(※傍線は筆者)
父母やさらにその上の世代の"物語”をたどることによって、かえって自分の生きる道が明確に浮き上がることもある。特に今季のおひつじ座には、そうした視座を自分なりに掘り下げ鍛えていくことも必要であるように思います。
出典:柳田國男『先祖の話』(角川ソフィア文庫)
《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)
今週のおうし座のキーワードは、「交通」。
考えてみれば、死者であれ何であれ、異界との交通というものをほとんど遮断してしまったように感じる東京のような大都会は人が生きていくには不自然きわまりない場所であり、例えば京都のように死者たちの世界が周辺に広がり、地下には地獄への通路も開かれている街の方が、やはり"異界との交通”という点では風通しがよく自然なように思われます。
もちろん、"異界”は必ずしもはっきりと明確にイメージされてきた訳ではなく、漠然としていて混乱していますが、そこには決して"迷信”という言葉では割り切れない何かが含まれているのではないでしょうか。
例えば、日本の浄土教の祖と称され、平安中期に生涯にわたり比叡山横川に隠棲した源信(げんしん)は、浄土に往生するためのイメージや方法論を、切実で現実的な願いに応えるような形にして、広めていきました。
「一箱の肉体は全く苦である。貪り耽ってはならない。四方から山が迫ってきて逃げるところがないのに、人々は貪愛によって蔽われ、深く色・声・味・触の欲望に執着している。永遠でないのに永遠に続くと思い、楽しみでないのに楽しみと思っている。(中略)まして刀山・火湯の地獄がそこに迫っている。」
すぐそこに地獄が迫っている、それは刀が歯列のように永遠と並んでいる山であったり、煮えたぎるマグマをたたえた大釜とじつに鮮烈ですが、楽園に限らずこうした地獄の世界のイメージですら切り捨ててしまえば、生きている者の世界もまた殺伐とした貧しいものになってしまうように思います。
翻って、あなたには今どんなロードマップが見えていて、そこには分岐や選択の余地はあるでしょうか。
やがて自分がそこへ行き着くかも知れない世界や、その選択にあたってどんな準備をしなければならないかが今季のテーマになってくるおうし座にとって、どれだけ視野を狭めず、より豊かなヴァリエーションを展開していけるかが焦点となっていくはずです。
出典:川崎庸之・秋山虔・土田直鎮/訳『往生要集 全現代語訳』(講談社学術文庫)
もちろん、"異界”は必ずしもはっきりと明確にイメージされてきた訳ではなく、漠然としていて混乱していますが、そこには決して"迷信”という言葉では割り切れない何かが含まれているのではないでしょうか。
例えば、日本の浄土教の祖と称され、平安中期に生涯にわたり比叡山横川に隠棲した源信(げんしん)は、浄土に往生するためのイメージや方法論を、切実で現実的な願いに応えるような形にして、広めていきました。
「一箱の肉体は全く苦である。貪り耽ってはならない。四方から山が迫ってきて逃げるところがないのに、人々は貪愛によって蔽われ、深く色・声・味・触の欲望に執着している。永遠でないのに永遠に続くと思い、楽しみでないのに楽しみと思っている。(中略)まして刀山・火湯の地獄がそこに迫っている。」
すぐそこに地獄が迫っている、それは刀が歯列のように永遠と並んでいる山であったり、煮えたぎるマグマをたたえた大釜とじつに鮮烈ですが、楽園に限らずこうした地獄の世界のイメージですら切り捨ててしまえば、生きている者の世界もまた殺伐とした貧しいものになってしまうように思います。
翻って、あなたには今どんなロードマップが見えていて、そこには分岐や選択の余地はあるでしょうか。
やがて自分がそこへ行き着くかも知れない世界や、その選択にあたってどんな準備をしなければならないかが今季のテーマになってくるおうし座にとって、どれだけ視野を狭めず、より豊かなヴァリエーションを展開していけるかが焦点となっていくはずです。
出典:川崎庸之・秋山虔・土田直鎮/訳『往生要集 全現代語訳』(講談社学術文庫)
《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)
今週のふたご座のキーワードは、「喫茶」。
民衆的で革命的であった鎌倉新仏教と言えば、親鸞や道元などの名前が必ずあげられる一方で、臨済宗の始祖である栄西(えいざい)の名を挙げる人は少ないかも知れません。
しかし、栄西は中国から禅だけでなく茶を持ち帰って喫茶の法を伝えた人物、すなわち日本の茶祖としても知られているのですが、なぜそれほどまでに茶に力を注いだのかは、栄西が禅と密教とによる仏教の総合化を目指していたことにヒントがありそうです。
男女の性的合一など性的な要素を仏教に持ち込んだ密教は、そのおおもとに身体への関心がありましたが、医書としても読まれた栄西の『喫茶養生記』という著作には、例えば次のような記述があります。
「天が万物を造った中で、人を造るのがもっとも貴い。人が一生を過ごすのに、生命を守るのが賢明である。一生を過ごす源は養生にある。養生の術を示すと、(心・肝・肺・脾・腎の)五臓を健全にすることである。五臓の中でも心臓が中心である。心臓を健康にするには、茶を飲むのがいちばんよい方法である。」
ここにもやはり身体への深い関心がありますが、これは彼が"救い”を追求する仏教というものを心だけのものではなく、身体を含む生活文化全体に関わるものであると考えていたことが如実に表れています。
ちなみに、肝臓は酸味を好み、肺は辛味を好み、心臓は苦味を好み、脾臓は甘味を好み、腎臓は酸味を好むとされています。
こうした身体やその原動力である五臓が求める"味”や、それらを調和させていくことを重視し、本当に生きるということの基盤においていった栄西のアプローチは、「自己価値をいかにあげられるか」ということが今季の大切なテーマとなっていくふたご座にとっても大いに参考になるのではないでしょうか。
出典:古田紹欽訳『栄西 喫茶養生記』(講談社学術文庫)
しかし、栄西は中国から禅だけでなく茶を持ち帰って喫茶の法を伝えた人物、すなわち日本の茶祖としても知られているのですが、なぜそれほどまでに茶に力を注いだのかは、栄西が禅と密教とによる仏教の総合化を目指していたことにヒントがありそうです。
男女の性的合一など性的な要素を仏教に持ち込んだ密教は、そのおおもとに身体への関心がありましたが、医書としても読まれた栄西の『喫茶養生記』という著作には、例えば次のような記述があります。
「天が万物を造った中で、人を造るのがもっとも貴い。人が一生を過ごすのに、生命を守るのが賢明である。一生を過ごす源は養生にある。養生の術を示すと、(心・肝・肺・脾・腎の)五臓を健全にすることである。五臓の中でも心臓が中心である。心臓を健康にするには、茶を飲むのがいちばんよい方法である。」
ここにもやはり身体への深い関心がありますが、これは彼が"救い”を追求する仏教というものを心だけのものではなく、身体を含む生活文化全体に関わるものであると考えていたことが如実に表れています。
ちなみに、肝臓は酸味を好み、肺は辛味を好み、心臓は苦味を好み、脾臓は甘味を好み、腎臓は酸味を好むとされています。
こうした身体やその原動力である五臓が求める"味”や、それらを調和させていくことを重視し、本当に生きるということの基盤においていった栄西のアプローチは、「自己価値をいかにあげられるか」ということが今季の大切なテーマとなっていくふたご座にとっても大いに参考になるのではないでしょうか。
出典:古田紹欽訳『栄西 喫茶養生記』(講談社学術文庫)
《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)
今週のかに座のキーワードは、「谷底」。
世界の思想史・文化史の例にもれず、日本の場合も歴史的に一部の神格化された例外をのぞいて女性の名前がほとんど出てこないのですが、幕末になると神がかりした女性教祖たちが各地に登場して、革新的な人間観などの教えを説くようになります。
これは封建制度のもとで抑圧されていた女性が、次第にその自由度や素養が高まるにつれ、既成の道徳や宗教の枠から外れたところで、一気にエネルギーが噴出したものと思われますが、その典型が天理教の開祖である中山みきでしょう。
もともと彼女は奈良の地主の主婦でしたが、長男の病気を治すために山伏の祈祷を受けた際、みずから神がかったのだと言います。もちろん、それは自身でも思いもよらないことで、幾度も自殺を図り、家も没落するなど、一度はどん底に落とされますが、病気治しと安産祈願に力を発揮して次第に信者を増やし、男たちをも屈服させていきました。
明治維新直前に出された『みかぐらうた』には、「かみがでて なにかいさい(委細)を とくならバ せかい一れつ いさ(勇)むなり」と、神のもとでの平等が説かれ、「一れつに はやくたすけを いそぐから せかいのこころも いさめかけ」と、急いで力を合わせて世直しに尽くさなければならないというビジョンを投げかけます。
その思想は、権力者である「高山」の横暴をいましめ、「谷底」たる民衆の力による救済を説くものであったため、激しい弾圧を受けるだけでなく、彼女自身も何度も投獄されますが、それでも教えを曲げることなく亡くなっていきました。
今回自身のサインであるかに座で日食が起き、その影響を"自身の在り方そのもの”に受けていきやすいかに座の人たちにとって、こうした中山の人生は、思いがけない運命の転変と、なにより強固な信念とその革新性という点において、大いにロールモデルになっていくのではないでしょうか。
出典:中山みき『みかぐらうた おふでさき』(東洋文庫)
これは封建制度のもとで抑圧されていた女性が、次第にその自由度や素養が高まるにつれ、既成の道徳や宗教の枠から外れたところで、一気にエネルギーが噴出したものと思われますが、その典型が天理教の開祖である中山みきでしょう。
もともと彼女は奈良の地主の主婦でしたが、長男の病気を治すために山伏の祈祷を受けた際、みずから神がかったのだと言います。もちろん、それは自身でも思いもよらないことで、幾度も自殺を図り、家も没落するなど、一度はどん底に落とされますが、病気治しと安産祈願に力を発揮して次第に信者を増やし、男たちをも屈服させていきました。
明治維新直前に出された『みかぐらうた』には、「かみがでて なにかいさい(委細)を とくならバ せかい一れつ いさ(勇)むなり」と、神のもとでの平等が説かれ、「一れつに はやくたすけを いそぐから せかいのこころも いさめかけ」と、急いで力を合わせて世直しに尽くさなければならないというビジョンを投げかけます。
その思想は、権力者である「高山」の横暴をいましめ、「谷底」たる民衆の力による救済を説くものであったため、激しい弾圧を受けるだけでなく、彼女自身も何度も投獄されますが、それでも教えを曲げることなく亡くなっていきました。
今回自身のサインであるかに座で日食が起き、その影響を"自身の在り方そのもの”に受けていきやすいかに座の人たちにとって、こうした中山の人生は、思いがけない運命の転変と、なにより強固な信念とその革新性という点において、大いにロールモデルになっていくのではないでしょうか。
出典:中山みき『みかぐらうた おふでさき』(東洋文庫)
《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)
今週のしし座のキーワードは、「背後」。
戦後日本を象徴する進歩的知識人であった丸山眞男が『日本の思想』で指摘した学問におけるタコツボ型の閉鎖主義や、欧米の流行思想を真似たり、ちょっと洒落たことを言えば「思想」や「金言」として通用してしまう状況は、1961年の発売から約50年が経った今でもそう変わりないどころか、悪化さえしているように思えます。
丸山は、たとえ社会の現代化や「ハイカラな外装」のかげに隠れることによっていかに影がうすくなったように見えたとしても、日本人の生活実感や意識の奥底には、「無常感や「もののあわれ」や固有信仰の幽冥観や儒教的倫理」などの日本の「伝統思想」が深く潜入しているのだと述べた上で、次のように述べています。
「むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。」
例えば自分の仕事の進め方を否定されたりすることがあった場合に、それを受け止めた上で一つ上の次元へと高めていくことは、必要であるとわかっていてもとても難しいことであると思います。そういう意味で、いまの日本社会や日本人の多くが「止揚」できていないのは、未だに丸山の言う通りでしょう。
丸山はさらに「思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面に過ぎない」と言い募っていくのですが、これなどは今季のしし座にとっても耳が痛いはず。
すなわち、これまであえて見ないようにして避けてきた批判や問題、そこに隠れている断片的な真実を重い腰をあげて受け止めにいくということ。それが今季のあなたに課されたテーマなのだと言えます。
出典:丸山眞男『日本の思想』(岩波新書)
丸山は、たとえ社会の現代化や「ハイカラな外装」のかげに隠れることによっていかに影がうすくなったように見えたとしても、日本人の生活実感や意識の奥底には、「無常感や「もののあわれ」や固有信仰の幽冥観や儒教的倫理」などの日本の「伝統思想」が深く潜入しているのだと述べた上で、次のように述べています。
「むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。」
例えば自分の仕事の進め方を否定されたりすることがあった場合に、それを受け止めた上で一つ上の次元へと高めていくことは、必要であるとわかっていてもとても難しいことであると思います。そういう意味で、いまの日本社会や日本人の多くが「止揚」できていないのは、未だに丸山の言う通りでしょう。
丸山はさらに「思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面に過ぎない」と言い募っていくのですが、これなどは今季のしし座にとっても耳が痛いはず。
すなわち、これまであえて見ないようにして避けてきた批判や問題、そこに隠れている断片的な真実を重い腰をあげて受け止めにいくということ。それが今季のあなたに課されたテーマなのだと言えます。
出典:丸山眞男『日本の思想』(岩波新書)
《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)
今週のおとめ座のキーワードは、「感覚」。
美術館や博物館でガラスケースに入れられ、四方からまばゆく照らされて展示されていると、仏像や文化財などの"ありがたみ”も増して、ついどんなものでも一様に手を合わせたくなってしまうものですが、歴史的・宗教的な価値という観点を取っ払ってしまえば、あまり芸術的には価値があると思われないものもあるように感じます。
日本の"骨とう品”に美術史という考え方を導入したのは明治のフェノロサや岡倉天心が最初ですが、先に述べたような信仰の対象から鑑賞の対象への転換を決定づけていったのは、大正時代に出版された和辻哲郎の『古寺巡礼』でしょう。
和辻は「われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである」と断った上で、次のように述べています。
「たといわれわれがある仏像の前で、心底から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神をいかした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり越えていない。」(※傍線は筆者)
のり越えるどころか、豊かで便利になり過ぎた社会の中で、私たちはますます感覚に囚われ、鈍感になってしまっているように感じますが、これはうけとる側の感覚が錆びて鈍っていれば、せっかくどんな豊かさや美しさをうけとっても、それは単なるガラクタにしか映らないということでもあるのではないでしょうか。
同様に、周囲から与えられる愛情やチャンスをいかに受け取っていくことができるかということがテーマとなっていく今期のおとめ座にとっても、まずそもそもの感覚をどれだけ研ぎすまし磨いていけるが問われていくことになりそうです。
出典:和辻哲郎『初版 古寺巡礼』(ちくま学芸文庫)
日本の"骨とう品”に美術史という考え方を導入したのは明治のフェノロサや岡倉天心が最初ですが、先に述べたような信仰の対象から鑑賞の対象への転換を決定づけていったのは、大正時代に出版された和辻哲郎の『古寺巡礼』でしょう。
和辻は「われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである」と断った上で、次のように述べています。
「たといわれわれがある仏像の前で、心底から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神をいかした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり越えていない。」(※傍線は筆者)
のり越えるどころか、豊かで便利になり過ぎた社会の中で、私たちはますます感覚に囚われ、鈍感になってしまっているように感じますが、これはうけとる側の感覚が錆びて鈍っていれば、せっかくどんな豊かさや美しさをうけとっても、それは単なるガラクタにしか映らないということでもあるのではないでしょうか。
同様に、周囲から与えられる愛情やチャンスをいかに受け取っていくことができるかということがテーマとなっていく今期のおとめ座にとっても、まずそもそもの感覚をどれだけ研ぎすまし磨いていけるが問われていくことになりそうです。
出典:和辻哲郎『初版 古寺巡礼』(ちくま学芸文庫)
《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)
今週のてんびん座のキーワードは、「運命の子」。
この世に生きるものは誰であれ、自身の母親の子であると同時に"時代の子”でもありますが、その誕生の瞬間が一体いつだったのか、またいつになるのかは誰にも分かりません。
もちろん、偶然というものが存在しないとすれば話は違ってきます。例えば、サルマン・ラシュディ著の『真夜中の子供たち』という小説の主人公であり語り手でもあるサリーム・シナイは、インドがイギリスから独立を勝ち取りパキスタンと別の国家として分離独立した日の午前0時ちょうどに生まれました。
書き手によって、彼はまさに生まれた瞬間に時代の子、そして国家の子となり、彼の前半生は若い国家インドそのものの歩みと軌を一にしていった訳です。そのことについて、サリーム本人は次のように語っています。
「何しろもの静かに合掌する時計のオカルト的な力によって、私は不思議にも手錠でつながれ、私の運命は祖国の運命にしっかりと結びつけられてしまったのだ。」
ところで、この小説は書き手であるラシュディの自伝的な要素の多い作品ですが、ラシュディ自身は主人公シナイのような他人の思考を受信することができるテレパシー能力は持っておらず、代わりに想像力を駆使してこの物語を作品として書き上げていきました。
その意味で、シナイは被造物であると同時に、ラシュディの協力者ないし伴走者として、彼の人生に力を貸していった、言わばラシュディにとって"運命の子”なのだと言えます。
文章であれ写真であれ料理であれ、自分が創り出したものによって逆に形づくられ、何かに寄与したことによってその何かの一部となる。こうしたことは、今季のてんびん座においても無視できないテーマとなっていくでしょう。
自分を時代や共同体、他の誰かにとっての"運命の子”にしていくべきか、またそのためにはどんな選択をして、何を背負い、何を捨てていかねばならないのか。
今回の日食に際しては、ちょうど小説内のシナイのように、半生を振り返りながらそんなことについてゆっくり考えてみるといいかも知れません。
出典:サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち(上)』(岩波文庫)
もちろん、偶然というものが存在しないとすれば話は違ってきます。例えば、サルマン・ラシュディ著の『真夜中の子供たち』という小説の主人公であり語り手でもあるサリーム・シナイは、インドがイギリスから独立を勝ち取りパキスタンと別の国家として分離独立した日の午前0時ちょうどに生まれました。
書き手によって、彼はまさに生まれた瞬間に時代の子、そして国家の子となり、彼の前半生は若い国家インドそのものの歩みと軌を一にしていった訳です。そのことについて、サリーム本人は次のように語っています。
「何しろもの静かに合掌する時計のオカルト的な力によって、私は不思議にも手錠でつながれ、私の運命は祖国の運命にしっかりと結びつけられてしまったのだ。」
ところで、この小説は書き手であるラシュディの自伝的な要素の多い作品ですが、ラシュディ自身は主人公シナイのような他人の思考を受信することができるテレパシー能力は持っておらず、代わりに想像力を駆使してこの物語を作品として書き上げていきました。
その意味で、シナイは被造物であると同時に、ラシュディの協力者ないし伴走者として、彼の人生に力を貸していった、言わばラシュディにとって"運命の子”なのだと言えます。
文章であれ写真であれ料理であれ、自分が創り出したものによって逆に形づくられ、何かに寄与したことによってその何かの一部となる。こうしたことは、今季のてんびん座においても無視できないテーマとなっていくでしょう。
自分を時代や共同体、他の誰かにとっての"運命の子”にしていくべきか、またそのためにはどんな選択をして、何を背負い、何を捨てていかねばならないのか。
今回の日食に際しては、ちょうど小説内のシナイのように、半生を振り返りながらそんなことについてゆっくり考えてみるといいかも知れません。
出典:サルマン・ラシュディ『真夜中の子供たち(上)』(岩波文庫)
《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)
今週のさそり座のキーワードは、「恋の夢」。
明恵(みょうえ)という華厳宗中興の祖でもある中世の僧のことは、今日では彼ほど几帳面に夢を記録した人が他にいないことで知られていますが、そもそも彼は一生不犯(一生を通して異性と交わらないこと)を貫いたとされるほど、とても信仰心の篤い人で、実際にその夢の多くも仏に関するものでした。
ただし、実際の夢の内容を見ていくと、これがなかなかに生々しいものが多いのです。例えば、彼が若い頃に見た夢には次のようなものがありました。
「同十一月六日の夜、夢に見た。(中略)建物の中に威厳ある美女がいた。衣服などはすばらしかった。しかし、世俗的な欲望の姿ではなかった。私はこの貴女と一緒にいたが、無情にもこの貴女を捨てた。この女は私に親しんで、離れたがらなかった。私は彼女を捨てて去った。まったく、世俗的な欲望の姿ではなかった。」
気持ちが惹かれていた女性を無理にでも捨てたという短い内容の中に、「世俗的な欲望の姿ではなかった」という言い訳がましい言葉が二度も登場しており、彼はその夢解きすなわち夢占いをして、「女は毘盧遮那仏(仏)なり」と結論し、夜中に起き出して道場で座禅を組んだそうです。
明恵にとって仏を愛する心は、世間の男女の愛を超えたものでありながら、どこまでも性的なものでもあり、彼が仏に近付く手立てとしたのは世俗的な欲望を使って世俗を超えようという非常に強烈なものでした。
こうした狂気すれすれまで何かを恋焦がれる力強さというは、現代社会ではもはや許容されなくなりましたが、精神的高揚や憧れの対象を改めてどこかに見出していかんとしている今季のさそり座にとっては、彼の垣間見せてくれた圧倒的な情熱は一つの指針となってくれるはずです。
出典:奥田勲・平野多恵・前川健一/編『夢記』(勉誠出版)
ただし、実際の夢の内容を見ていくと、これがなかなかに生々しいものが多いのです。例えば、彼が若い頃に見た夢には次のようなものがありました。
「同十一月六日の夜、夢に見た。(中略)建物の中に威厳ある美女がいた。衣服などはすばらしかった。しかし、世俗的な欲望の姿ではなかった。私はこの貴女と一緒にいたが、無情にもこの貴女を捨てた。この女は私に親しんで、離れたがらなかった。私は彼女を捨てて去った。まったく、世俗的な欲望の姿ではなかった。」
気持ちが惹かれていた女性を無理にでも捨てたという短い内容の中に、「世俗的な欲望の姿ではなかった」という言い訳がましい言葉が二度も登場しており、彼はその夢解きすなわち夢占いをして、「女は毘盧遮那仏(仏)なり」と結論し、夜中に起き出して道場で座禅を組んだそうです。
明恵にとって仏を愛する心は、世間の男女の愛を超えたものでありながら、どこまでも性的なものでもあり、彼が仏に近付く手立てとしたのは世俗的な欲望を使って世俗を超えようという非常に強烈なものでした。
こうした狂気すれすれまで何かを恋焦がれる力強さというは、現代社会ではもはや許容されなくなりましたが、精神的高揚や憧れの対象を改めてどこかに見出していかんとしている今季のさそり座にとっては、彼の垣間見せてくれた圧倒的な情熱は一つの指針となってくれるはずです。
出典:奥田勲・平野多恵・前川健一/編『夢記』(勉誠出版)
《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)
今週のいて座のキーワードは、「生む」。
歴史を振り返ると、6世紀に日本へ渡ってきた仏教は、日本土着の神を取り込んだだけではなく生や性を根本のところにおいて否定し、そこからの超越を説いてきたし、その影響は今でもじつに根深いものがあるのではないでしょうか。
では、8世紀のはじめ頃に書かれた日本最古の歴史書である『古事記』には、生と性の起源はどのように描かれていたのか、改めてひも解いてみると、次のようにあります。
「そこで、イザナキノミコトが言われるには、「私の身体には出来上がって、余分なところが一箇所ある。だから、この我が身体の余ったところを、あなたの身体の足らないところに刺し塞いで、国土を生み出そうと思う。生むことはどうだろうか」と仰ると、イザナミノミコトは、「それはよいことだ」とお答えになった」
これは今日の感覚から見ても、とても大らかな宣言ないし公的発言であり、性の合一をもって物のかたちが完成するという信仰がそこにあっただけではなく、古代人が性を隠蔽したりしなかったということがわかるのではないかと思います。
ザナギ・イザナミによる生命の誕生に向けての問答は、まさに仏教とは異なるベクトルをもった生や性への「肯定の論理」を指し示すものでしたが、これはまさに自分に足りないものを誰かの力を借りることで補い、シナジーを生み出していこうとしている今期のいて座は大切にしていきたい原動力と言えるでしょう。
参考:中村啓信/訳注『新版 古事記 現代語訳付き』(角川ソフィア文庫)
では、8世紀のはじめ頃に書かれた日本最古の歴史書である『古事記』には、生と性の起源はどのように描かれていたのか、改めてひも解いてみると、次のようにあります。
「そこで、イザナキノミコトが言われるには、「私の身体には出来上がって、余分なところが一箇所ある。だから、この我が身体の余ったところを、あなたの身体の足らないところに刺し塞いで、国土を生み出そうと思う。生むことはどうだろうか」と仰ると、イザナミノミコトは、「それはよいことだ」とお答えになった」
これは今日の感覚から見ても、とても大らかな宣言ないし公的発言であり、性の合一をもって物のかたちが完成するという信仰がそこにあっただけではなく、古代人が性を隠蔽したりしなかったということがわかるのではないかと思います。
ザナギ・イザナミによる生命の誕生に向けての問答は、まさに仏教とは異なるベクトルをもった生や性への「肯定の論理」を指し示すものでしたが、これはまさに自分に足りないものを誰かの力を借りることで補い、シナジーを生み出していこうとしている今期のいて座は大切にしていきたい原動力と言えるでしょう。
参考:中村啓信/訳注『新版 古事記 現代語訳付き』(角川ソフィア文庫)
《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)
今週のやぎ座のキーワードは、「縁の不思議」。
粘菌類の研究で知られる自然科学者にして、民俗学の著作を無数に持ち、柳田國男から「日本人の可能性の極限」と称された南方熊楠(みなかたくまぐす)は、生涯にわたり在野の人であり、何より独学の人でしたが、彼には自分の思想上の問題を全力で遠慮なく投げかけ合える相手が一人だけいました。
それが熊楠が27歳の時にロンドンで出会った真言僧の土宜法龍(ときほうりゅう)であり、彼は明治期における最も開明的な仏教学者にして、後に高野山管長も務めた大人物でした。
彼らは科学と宗教という立場や分野の違いも超え(ついでに歳も土宜が13歳年上)、じつに死が二人を分つまでの30年間にわたって膨大な量の書簡を定期的に送り合い、そのどれもが大論文のごとき長さと密度であったそうで、その様子について、熊楠はのちにこう書いています。
「小生は件の土岐師への状を認むる(したたむる)ためには、一状に昼夜兼ねて眠りを省き二週間もかかりしことあり。何を書いたか今は覚えねど、これがために自分の学問、灼然と上達しおり候」
熊楠は人智を超えた不思議や縁の論理についてこそ、いま学問をやる人は研究せねばならないとも手紙に書いていましたが、純粋な意味でのパートナーシップや何かに自分を全力でぶつけていくことがテーマとなっている今季のやぎ座にとって、彼らの姿を追うことは何よりの励みになるのではないでしょうか。
参考:中沢新一/編『南方マンダラ』(河出文庫)
それが熊楠が27歳の時にロンドンで出会った真言僧の土宜法龍(ときほうりゅう)であり、彼は明治期における最も開明的な仏教学者にして、後に高野山管長も務めた大人物でした。
彼らは科学と宗教という立場や分野の違いも超え(ついでに歳も土宜が13歳年上)、じつに死が二人を分つまでの30年間にわたって膨大な量の書簡を定期的に送り合い、そのどれもが大論文のごとき長さと密度であったそうで、その様子について、熊楠はのちにこう書いています。
「小生は件の土岐師への状を認むる(したたむる)ためには、一状に昼夜兼ねて眠りを省き二週間もかかりしことあり。何を書いたか今は覚えねど、これがために自分の学問、灼然と上達しおり候」
熊楠は人智を超えた不思議や縁の論理についてこそ、いま学問をやる人は研究せねばならないとも手紙に書いていましたが、純粋な意味でのパートナーシップや何かに自分を全力でぶつけていくことがテーマとなっている今季のやぎ座にとって、彼らの姿を追うことは何よりの励みになるのではないでしょうか。
参考:中沢新一/編『南方マンダラ』(河出文庫)
《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)
今週のみずがめ座のキーワードは、「誠の道」。
日本近世においていち早く近代的な考え方を先取りし、それまで神聖視されてきた儒教や仏教の典籍の聖性を剥奪していった人物に、大阪の町人階級が生んだ天才・富永仲基(とみながちゅうき)がいます。
富永は、思想はすべて時代と地域の課題に応じて形成されたものであり、前の人の説に何か新しいものを付け加えたり、それを批判することで、後の人の説が形成されていくという「加上説(かじょうせつ)」を適用し、インドと中国と日本の文化を徹底的に相対化し、比較観察していきました。
著書『翁の文』では、「仏(ぶつ)は天竺の道、儒は漢(から)の道、国ことなれば、日本の道にあらず。神(しん)は日本の道なれども、時ことなれば、今の世の道にあらず」として、どの教えも彼が生きた18世紀当時の日本には適合しないとし、従うとすれば「誠の道」だろうと述べました。
これは上記の中では儒教の実践道徳に近いですが、親あるものには親に仕え、君あるものは君に仕えるという、「あたりまえをつとめ」ることの内に道を見出していたようです。
天賦の学才に恵まれた富永が、あらゆる思想を徹底的に相対化しつくした末にたどり着いたのが、日常生活の具体性であったというのは、現代人の目から見ても非常に新鮮に映るのではないでしょうか。
自分なりの働き方や美学ないしスタイルと呼ぶべきものを見直し、また改めて確立していこうとしている今季のみずがめ座にとっては、尚更のこと興味深いはずです。
参考:永田紀久・有坂隆道/校注『日本思想体系 富永仲基・山片蟠桃』(岩波書店)
富永は、思想はすべて時代と地域の課題に応じて形成されたものであり、前の人の説に何か新しいものを付け加えたり、それを批判することで、後の人の説が形成されていくという「加上説(かじょうせつ)」を適用し、インドと中国と日本の文化を徹底的に相対化し、比較観察していきました。
著書『翁の文』では、「仏(ぶつ)は天竺の道、儒は漢(から)の道、国ことなれば、日本の道にあらず。神(しん)は日本の道なれども、時ことなれば、今の世の道にあらず」として、どの教えも彼が生きた18世紀当時の日本には適合しないとし、従うとすれば「誠の道」だろうと述べました。
これは上記の中では儒教の実践道徳に近いですが、親あるものには親に仕え、君あるものは君に仕えるという、「あたりまえをつとめ」ることの内に道を見出していたようです。
天賦の学才に恵まれた富永が、あらゆる思想を徹底的に相対化しつくした末にたどり着いたのが、日常生活の具体性であったというのは、現代人の目から見ても非常に新鮮に映るのではないでしょうか。
自分なりの働き方や美学ないしスタイルと呼ぶべきものを見直し、また改めて確立していこうとしている今季のみずがめ座にとっては、尚更のこと興味深いはずです。
参考:永田紀久・有坂隆道/校注『日本思想体系 富永仲基・山片蟠桃』(岩波書店)
《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)
今週のうお座のキーワードは、「三密」。
今回のコロナ禍ですっかり「密」という言葉が禁忌の対象とされつつも、いかに私たちの日常生活や心身の健康というものが「密」に依存していたかも浮き彫りになったのではないでしょうか。
ただ、密と言えばわが国では古くから密教において用いられてきた言葉で、人間の理解を超えている行為のことを言い、身に印を結び、口に真言を唱え、意(こころ)に本尊を念ずることで、仏のはたらきに一致させていくことを「三密」と言いました。
中でも、顕教に対する密教の優位を説いた空海は、初期の頃の著作である『弁顕密二教論』において、次のように述べています。
「仏の本来のあり方や、その境地をみずから享受するあり方においては、みずからの真理を味わい楽しむために、自らの眷属(分身やお伴)とともに、それぞれの身体・言葉・心の三つの秘密の境地をお説きになる。」
顕教が誰にでも目に見え理解できる世界のみを扱うのに対し、密教では目に見えないものたちが躍動している不可思議な世界に足を踏み入れていきます。
そこでは、近代人のようにただ自然や物事を客観視するのではなく、天地の中ではたらき、また跳梁跋扈している神仏や精霊、悪霊や死者たちの世界にみずから参与していくべきとされており、そのための「三密」だった訳です。
もっと深く、もっと得体の知れない領域へ。趣味であれ仕事であれ、そんな風に自身のコミットを本格化させていくことがテーマとなっていく今季のうお座にとって、あたかも浅瀬の海とはまったく違う魅力と怖さを湛える深海へと誘っていくような空海の歩みは、まさに先導者のそれにふさわしいと言えるでしょう。
参考:加藤精一/訳『空海「弁顕密二教論」ビギナーズ日本の思想』(角川ソフィア文庫)
ただ、密と言えばわが国では古くから密教において用いられてきた言葉で、人間の理解を超えている行為のことを言い、身に印を結び、口に真言を唱え、意(こころ)に本尊を念ずることで、仏のはたらきに一致させていくことを「三密」と言いました。
中でも、顕教に対する密教の優位を説いた空海は、初期の頃の著作である『弁顕密二教論』において、次のように述べています。
「仏の本来のあり方や、その境地をみずから享受するあり方においては、みずからの真理を味わい楽しむために、自らの眷属(分身やお伴)とともに、それぞれの身体・言葉・心の三つの秘密の境地をお説きになる。」
顕教が誰にでも目に見え理解できる世界のみを扱うのに対し、密教では目に見えないものたちが躍動している不可思議な世界に足を踏み入れていきます。
そこでは、近代人のようにただ自然や物事を客観視するのではなく、天地の中ではたらき、また跳梁跋扈している神仏や精霊、悪霊や死者たちの世界にみずから参与していくべきとされており、そのための「三密」だった訳です。
もっと深く、もっと得体の知れない領域へ。趣味であれ仕事であれ、そんな風に自身のコミットを本格化させていくことがテーマとなっていく今季のうお座にとって、あたかも浅瀬の海とはまったく違う魅力と怖さを湛える深海へと誘っていくような空海の歩みは、まさに先導者のそれにふさわしいと言えるでしょう。
参考:加藤精一/訳『空海「弁顕密二教論」ビギナーズ日本の思想』(角川ソフィア文庫)
<プロフィール>
慶大哲学科卒。学生時代にユング心理学、新プラトン主義思想に出会い、2009年より占星術家として活動。現在はサビアンなど詩的占星術に関心がある。
慶大哲学科卒。学生時代にユング心理学、新プラトン主義思想に出会い、2009年より占星術家として活動。現在はサビアンなど詩的占星術に関心がある。
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文/SUGAR イラスト/チヤキ