【最新12星座占い】<1/24~2/6>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい

1月24日から2月6日までのSUGARの12星座占い

【SUGARさんの12星座占い】<1/24~2/6>の12星座全体の運勢は?

「春一番を察知する」 

2月3日に「立春」を迎え、まだまだ寒さは厳しいものの梅のつぼみがほころび始め、少しずつ春の香りがひろがっていこうとしているなか、2月12日にはみずがめ座で新月が形成されていきます。 

今回のみずがめ座新月のテーマは「徹底的に空気を読み、それに応える」。 

古来より、季節というのはただ待っていれば自動的にやってくるものではなく、東からやってくる風が春を連れてくるものと考えられてきました。そして、立春から春分までに吹く最初の南風を「春一番」と言いますが、この場合、それは物理的な風というよりも、ぐっと気温をあげてこの世界を住みやすいものにしてくれる新たな希望の到来であり、その気配のこと。 

春一番が吹いても、またすぐに冷たい風が吹いて寒くなるのですが、それでも春二番、春三番と同じような風が吹くたびに、春は少しずつこの世界に招かれてくるはず。 

ますます混迷を極め、暗澹たる思いが立ち込めるように思える世相において、たとえかすかなものであれ希望の光となるような流れがどこから射し込んでくるのか。新月に向かっていく今期においては、自分個人の幸せや願望の成就というより、そうした「どんな世界になってほしいのか?」という社会的な願いに焦点をあてて、その兆しや可能性を追求していきたいところです。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「話し合ってはいけない」。

牡羊座のイラスト
私たちは平和的に合意を取りつけるためには、とにかく「話し合い」が大切であり、公共性とは何よりもまず言論の空間なのだと教えこまれてきました。しかし、近代教育思想の出発点として知られる『エミール』において、著者であるルソーはそうした思想とは無縁の主張を展開しました。 
 
依存状態には二つの種類がある。一つは事物への依存で、これは自然のものである。もう一つは人間への依存で、これは社会のものである。事物への依存は、いかなる道徳性ももたないものであり、自由で妨げることがなく、悪を生み出すこともない。人間への依存は、無秩序なものとして、あらゆる悪を生み出し、これによって支配者と奴隷はたがいに相手を堕落させる。もし社会におけるこの悪に対抗するなんらかの方法があるとするのなら、それは人間のかわりに法をおき、一般意志を現実の力で武装し、それをあらゆる特殊意志の行為の上におくことだ」 
 
ルソーは自然と文化、自然と社会といった二項対立において、つねに前者を高く評価し、後者に批判的であったことはよく知られていますが、ここで重要になってくるのは、先の引用箇所のなかで「事物」に喩えられた「一般意志」という概念です。 
 
端的に言えば、「一般意志」とは社会全体の意志のことで、個人の意志を意味する「特殊意志」と区別して用いられているのですが、『エミール』と同じ年に刊行された『社会契約論』の中で、ルソーは「一般意志」について次のようにも述べているのです。 
 
「人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、もし市民たちが互いにまったくコミュニケーションをとらないのであれば、無数の小さな差異はつねに一般意志を生み出し、熟慮の結果はつねによいものになるだろう」 
 
つまり、互いに相手のことを下手に知らない同士だからこそ、意見の違いは担保され、そうして無数の異なる意見が集積されてこそ、きちんと自分の頭で考えた人のがんばりが社会で報われるのだ、と。そしてひとりひとりが特定の人間関係に忖度したり同調したりせずに、一般意志が生成されるよう、純粋に自分の好みで動いたり決断していくことで初めて、自然と社会の無秩序はただされ、悪は淘汰されていくのだと考えた訳です。 
 
その意味で、今期のおひつじ座においてもまた、誰かに下手に遠慮することなく、純粋に自分の好きに動いていくことを信念をもって実行していくことが、一周まわってテーマとなっていくでしょう。 


参考:ルソー、今野一雄訳『エミール(上)』(岩波文庫) 
ルソー、桑原武夫訳『社会契約論』(岩波文庫) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「月をさす指」。

牡牛座のイラスト
既存の枠にとらわれずに考えることの大切さがよく言われますが、考えることそのものの価値について言及されることはあまりありません。つまり、枠そのものがないかのように考えてみることです。 
 
テクノロジーが人類のコントロールを超えて、私たちよりもはるかに優れた知能を生み出すようになっていくという未来像については、これまでも多くのSFや映画で描かれてきましたが、それでも人類がなぜ“ここ”にいるのかということの意味と限界、その乗り越え方について考える人は少ないようにみえます。 
 
つまり、どうしたら人間は宇宙に飛び出すことが可能になるのか、地球の重力に依存していくことでしか生きていけない(基本どこにも行けない)人類にとってそれはいかなる意味を持つのか。 
 
例えば神秘主義哲学の研究家である松村潔は、「宇宙人は乗り物という概念を持たない」「自分と機械、自分と環境というものが分離していて、片方だけを自分と見なすような二極化された思想のままでは宇宙旅行はできない」ということに言及した上で、次のように述べています。 
 
UFOは物質的に出現するが、直後にいきなり消え去ったり、またあらわれたり、地上の重力をほとんど無視したような動きをするという話がある。わたしから見るとこのほうが自然で、地上の法則に従って、とくに重力の影響を受けながら規則的に動く航空機は、肥満体で身動きがとれない人が至近距離にあるコンビニまで10分かけて歩くような姿に見えてくる。人間は重力に抗って、地上にすこし高い波を作ったが、無理な抵抗運動に疲れ果て、やがてはまた地球に吸い込まれて平坦になる」 
 
今の社会では、もっともらしく何かを説明するには「ファクト」や「エビデンス」が必要不可欠であるということになっていますが、考えてみれば、これも意識と物質をきっぱりと分離したものとであるというデカルト以来の近代的世界観にとらわれて、いつも働いている意識の存在を無視するという不自然極まりない生活態度であり、しかしこの極端さこそが地球生活の特徴なのでしょう。 
 
ただ、先の「わたしから見ると」という言い方は、もうそうした地球生活の特徴に必ずしも縛られる必要はないのだという氏の提起であり、心遣いでしょう。そして、そこから自由になることで初めて実存的な不安の根本にある「自同律の不快」、つまり「私は私だ」と言い切ることができないという感覚もまた癒され、解消されていくのではないか、と。 
 
今期のおうし座もまた、自分を身体的存在と見なしすぎる捉え方や、その根本にある意識と物質の二極化の乗り越えということについて、改めて思いを巡らしてみるといいでしょう。 


参考:松村潔『人間は宇宙船だ』(ナチュラルスピリット) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「怒りを打ち鳴らす」。

ふたご座のイラスト
怒りは人格的な未熟さの現われであるという風潮が根づよい日本社会では、しきりに怒りを表明していると「ヘンな人」扱いされてしまいますが、音楽や文学など現実への違和感が契機となる表現の世界では、むしろ怒りの表明はそこかしこに溢れています。 
 
例えば、子供の頃に絵本で読んで冒険物語として多くの人の記憶に残っているスウィフトの『ガリヴァー旅行記』は、大人になって読み返してみるとそれが作者の深刻な人間憎悪を徹底的に誰しもが平易に読める物語へと昇華された過激な風刺小説だったということに気が付きます。 
 
特に、第二の航海で訪れたプロブディンナグ国、すなわち巨人の国の国王とのやり取りの中で、ガリヴァはかなり怒っているのですが、これは作者スフィフトが18世紀当時の英国に向けた風刺に他なりません。この場合、国王こそがスフィフトの代弁者であり、それに過剰反応するガリヴァはいわば滑稽な道化の役割をさせられている訳です。 
 
「国王は次にように語りかけられた。人間の偉大さもつまらないものだな。こんなまるで小さな虫けら(私のことだ)にまねされるとは。なお言葉を続けて、しかもこの連中は名誉を表す肩書きや爵位の制度も持ち、小さな巣や隠れ穴をせっせと作って、家だとか町だとか称している。衣装や設備に粋をこらしたり、恋もする、戦もする、論争もする、詐欺も働く、裏切りもする、というではないか、と言われた。このようになおも喋り続けられ、我が愛する祖国、学術と武術の女主人、フランスの打擲者、ヨーロッパの裁定者、美徳と敬虔と名誉と真理の本場、世界の誇りにして羨望の的たる我が祖国がさんざん罵倒されるのを聞くと、さすがの私も怒りで顔色が何度も変わってしまった」 
 
ここでは、小さなガリヴァに代表される悪徳に染まった英国人、ひいては人類そのものの怒りが主題なのではなく、それをはるかに凌駕する作者スフィフトの怒りの巨大さこそが強調されているのであり、それがこの物語の通奏低音になっている訳です。 
 
スウィフトは文字通り、自分自身を怒りに震わせ、打ち鳴らすようにして物語を書き、その思いを人びとにぶつけ、懸命に伝えようとしました。そうせざるを得ないほどに深く切実な違和感がそこにはあったのです。 
 
今期のふたご座もまた、怒りを無理に抑え込むのではなく、さながら自分自身を打楽器のようにして、気が済むまで徹底的に打ち鳴らしてみるといいでしょう。 


参考:スウィフト、平井正穂訳『ガリヴァー旅行記』(岩波文庫) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「星のない川」。

蟹座のイラスト
わたしたちは自分の足元に広がる世界のことをほとんど知りません。しかし、「母なる大地」とか「豊かな土壌」とか、安全できれいな紋切り型の言葉ですませてしまう。そんな“地下世界”にはあまりに多くの秘密をはらんでいるように思われます。 
 
英国のネイチャーライターであるロバート・マクファーレンは『アンダーランド』というノンフィクション作品において、極端に色が少なく、感じられる経験の幅も制限される冷たい地下の闇のなかの空間で、さまざまな文化や時代を通じて三つのことが繰り返されてきたのだと言います。すなわち、 
 
(記憶や、貴重なもの、メッセージ、はかない命を)守る。 
(情報や富、隠喩、鉱物、視界を)生み出す。 
(廃棄物やトラウマ、毒、秘密を)捨てる。」 
 
例えば、ギリシャ・ローマ神話に伝わる、5つの支流をもつ死者の川は、地上世界から地底の国へ流れ込み、うなりを上げて冥界の内奥、すなわち地獄へと通じていきますが、実際にイタリア北東部、スロベニアとの国境地帯には、「カルソ」と呼ばれる石灰岩の長い台地が続いており、光があたる地表から三百メートル以上も離れたはるか地下には、流れが速く曲がりくねった川が流れているのだそう。 
 
その「星のない川」の音は、著者が聞いたことがあるどんな音とも似ておらず、空洞のなかで反響するあらゆる音が抱える厚みを持っていたと書いていますが、そうした地下深くに流れる川へと通じる淵は、はるか古代から聖地とされてきました。紀元前12世紀から紀元前8世紀までの400年以上のあいだに千個以上の遺物が投げ込まれ、人びとは力の宿ったもの(斧や槍、剣、兜、壺)を持ってきては、それを壊したり焼いたりしてそこに投げ込むという儀式を行ってきたことが分かっています。 
 
興味深いのは、そんな暗い空洞を長く旅をしてきた川は、遠く離れた地上に泉としてこつ然と現われ、色鮮やかに、こんこんと湧き出ては、アドリア海に向かって流れていくということ。それを著者は思わず「奇跡の力」と呼んでいるのですが、そこにはキリスト教以前に栄えた密儀宗教で、岩そのものから生まれた神を信奉したミトラ教への畏怖の念が含まれていたのかも知れません。 
 
今期のかに座もまた、目に見える表層的現実のしたに流れる伏流水のごとき秘められた思いや、それらが通過していく先人たちの遺志を感じとっていくなかで、「自分はよい先祖となれるか」ということについて思い至ってみるといいでしょう。 


参考:ロバート・マクファーレン、岩崎晋也訳『アンダーランド』(早川書房) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「大狂気がなくては生きていけない」。

獅子座のイラスト
もはやマンガを子供向けのものと限定して考える人は世間でも少数派だろうとは思いますが、そうしたジャンルとしてのマンガという話ではなく、作者の頭の中身を絵とセリフと自由なコマ割りで表すことのできるマンガという表現形式に注目して、そこに他の形式ではうまく表現できない特殊な問いを読者に突きつける可能性を見出した人に哲学者の永井均がいます。 
 
彼は『マンガは哲学する』という本のまえがきで次のように述べています。 
 
私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそがほんとうの現実ではないかとい思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、私は生きていけない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、私は魂の交流を感じる。それゆえ、私がマンガに求めているものは哲学なのである」 
 
例えば、『ブラックジャック』には手塚マンガ特有の作者登場手法があります。第七話「幸運な男」はスラム出身の貧乏なアラビア人の男がブラックジャックに整形してもらって裕福な日本人になりすますのですが、いざ日本に来てみるとその日本人の実家は破産しており、息子を頼ろうとする母親一人が残っているだけ。はじめのうちはそんな母親をうざったく思っていた彼も、次第に情が移っていくのですが、最後にはじつはその母親も財産狙いのニセモノだったことが分かって、男は故郷に帰って人生をやり直そうとします。 
 
その最後の場面で、空港へ行くと、ブラックジャックが来ている。男がどうしてわざわざ来てくれたのかと聞くと、ブラックジャックは「わたしの出番が少ないからさ…、フフフ…」と背中を読者に向けて答えるのである。 
 
どうだろう、実際の人生でもし昔の知り合いから久しぶりに電話がかかってきたとして、どうしたのかというあなたの問いに、「いやあ、出番が少なかったから」なんて言ってハッとさせてくれたら、さぞかしその瞬間、哲学的な深度がグッと深まることでしょう。 
 
今期のしし座もまた、自分の人生のコマ割りの中に、作者の意図した登場シーンが入り込んでくるところを想像してみるところから始めてみるといいでしょう。 


参考:永井均『マンガは哲学する』(講談社+α文庫) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「限界状況における人間」。

乙女座のイラスト
中国で日本の滅亡を見つめた作家・武田泰淳の初期作品に『「愛」のかたち』という小説があります。愛ではなくてなぜ「愛」とカッコつきなのか言うと、それが不感症の女性と不能の男性の恋愛に関する物語だから。 
 
不感であり不能であると言っても、やはり抱きあって愛を確かめたいという欲望は持っている。しかし、不自由な「愛」を確かめるために相手がひとりでは比較もできず、結果的に、多くの他の男や女に接触しなければならぬという展開に。そして、二人は互いに求めれば求めるほど「愛のかたち」がとらえにくくなっていき、しまいに男は自分自身のことを「利口な野獣」「危険な物質」と思い込むようになってしまう。 
 
後に武田は「限界状況における人間」という評論のなかで、この小説に触れて次のように書いています。 
 
健康な男女も、失恋し、離婚し、心中することがある。そこまで行きつかない場合でも、恋愛の限界にぶちあたって、とまどうことが多い。愛をうみだす情熱は、同時に憎悪をうみだす。恋愛のせつなさや美しさの裏側には、つねに執着の醜さとねばっこさが控えている。人間の醜態ばかりに興味を抱くのは異常な傾向であるが、しかし、人間の弱さと醜さに、まったく無神経だったり無反省だったりするのも、精神的な不具者だといわなければならない」 
 
形は違えど、この小説の訴える不安や不満のようなものは、どんな夫婦やカップルでもどこかに持っているのではないでしょうか。片目をつぶってそれに気づかないふりをしているうちはよし。けれど、どうしたって無神経ではいられなくなっていくのも、人間の自然な本性なのでしょう。 
 
今期の乙女座もまた、やはりもう無神経でも無反省でもいられなくなってきているはず。身体的にはどうであれ、今の社会の不具な現実に何も感じられない「精神的な不具者」で居続けられるほど堕ちてはいないのだと、力強く言いきってみてください。 


参考:武田泰淳『滅亡について』(岩波文庫)

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「贈与としての供養」。

天秤座のイラスト
前回の「風の時代」にあたる鎌倉時代初期というのは、神仏習合の物語や説教節、御伽草子などに見られる民話が豊富に語り出された時期でもありました。 
 
その頃に編まれた『宇治拾遺物語』などを今改めて読んでいくと、その中に神仏習合の波にも漏れて、大地にみちみちていた小さな神々や土着の精霊たちが、「聖」と呼ばれる民間の仏教者たちの慎ましく美しい救済事業によって救われていく、といったお話が多数混じっているということに気が付いていきます。 
 
例えば、清徳という聖の話が出てくるのですが、この人は母が死んだとき、その魂を成仏させるために三年にわたって棺のまわりで千手陀羅尼を唱え続けてとうとうその望みをかなえたという、大変な行者でした。しかし、その行で疲れ果てたまま西の京にたどり着いた清徳は、葱の生えた場所に出ると、その持ち主の許しを受けて葱を食べ始めると、三町(約9000坪)もある畑に生えていた葱をすべて食べ尽くしてしまった。驚いた持ち主がご飯を出すと、今度は一気に一石(1000合)を平らげてしまう。 
 
そこで、藤原師輔(もろすけ)卿がこの聖を観察してみると、驚くなかれ、この僧のうしろには「餓鬼、畜生、虎、狼、犬、烏、数万の鳥獣」などがぞろぞろとついて歩いているのに、それが普通の人びとの目にはまったく見えなかったのだと言うのです。 
 
このおびただしい餓鬼や鳥獣たちが、聖の力を借りて大量の葱やご飯を平らげていた訳ですが、これはある意味で彼らに大量のお供え物をしていたのだという風にも理解できます。 
 
「餓鬼や畜生」というのは、神仏習合の体系などにはもちろん登録してもらえない連中ですから、ちゃんとした寺社にも祭られることがない訳で、人びとからお供え物などの供養を受けることもありませんでした。 
 
今期のてんびん座もまた、かつて全国を這うようにして歩いて報われない神々や精霊たちに“贈与”を施していった聖のように、自分にできるだけの供養やお供えをしていくことがテーマとなっていくでしょう。 


参考:高橋貢、増古和子、『宇治拾遺物語 上 全訳注』(講談社学術文庫) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「霧の向こうの世界」。

蠍座のイラスト
イタリア文学者であり作家でもあった須賀敦子は、イタリア留学を経てミラノにあるコルシカ書店に勤めたことをきっかけにイタリア人のペッピーノと結婚し、日本文学のイタリア語への翻訳に従事したものの、夫の急逝を機に日本へ帰国し、晩年になってから小説家として知られるようになった人です。 
 
結婚生活はわずか6年という短い期間でしたが、夫を失った彼女は夫が愛したイタリア詩人・サバの詩に深く寄り添うようになり、後に日本へ帰国した際にはその日本への紹介に情熱を注ぎました。 
 
サバの詩には次のような作品があります。 
 
石と霧のあいだで、ぼくは 
休日を愉しむ。大聖堂の 
広場に憩う。星の 
かわりに夜ごと、ことばに灯がともる 
人生ほど、 
生きる疲れを癒してくれるものは、ない。」 
 
「石」とはこの世のこと、そしてあの世は「霧」の向こうの世界としてここでは表象されています。彼女にとって小説を書くとは、「霧」の向こうの世界に行った人々へ手紙を書くことに他ならず、それこそが彼女の生きがいだったのでしょう。 
 
言わば、彼女は先のサバの詩をそのまま生きたのだと言えます。そして今期のさそり座もまた、ふと振り返った向こうに霧が流れる景色を目にすることができるかも知れません。 


参考:須賀敦子『コルシカ書店の仲間たち』(文春文庫) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「精神の方法としての迂回」。

射手座のイラスト
ヴァルター・ベンヤミンはフランスの松尾芭蕉なのではないかと、ふと思うことがあります。それほどまでに、彼は「迂回路としての叙述」ということを意識していました。 
 
その思考はつねに新たに始まり、飛躍を恐れず、そのつど、根気強く、回り道を経て事柄の核心に立ち戻っていく。気まぐれな断片に分かたれながらも、美しいモザイク画のように全体としての尊厳や輝きを失うことなく、断片のひとつひとつが有機的に結びついていく。 
 
例えば彼は「セントラルパーク」という断章集の中で次のように述べています。 
 
迷宮は、目的地に着くのがまだ早すぎる者にとっては正道である。この目的地とは市場である。 
(中略) 
迷宮は逡巡する者の故郷である。目的地に着くことを恐れる人のたどる道は、容易に迷宮を描くであろう。衝動も、充足される前にたどるいくつかのエピソードにおいて迷宮を描く。しかしまた、みずからの行く末を知ろうとしない人類(もしくは階級)もそうなのである。 
 
追想(思い出)に万物照応を贈るのが空想力(ファンタジー)であるとすれば、追想(思い出)にアレゴリー(比喩、寓意、たとえ話)を捧げるのは思考である。追想(思い出)は空想力(ファンタジー)と思考を相互交流させる。」 
 
千変万化することは自然のことわりですが、変化流行に移り進まなければ俳風もまた新しくなることはない。旅の詩人としてその生涯を送った松尾芭蕉もまたそのことをよく理解した上で、たえず新しみを求めました。 
 
今期のいて座もまた、単なる経験的な散歩や迂回、旅に終わるのではなく、実践と統一された精神の方法として、意志的に選びとった散歩や迂回、旅としてみずからの思いを展開させていきましょう。 


参考:浅井健二郎・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクションⅠ』(ちくま学芸文庫) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「メランコリックなエロス」。

山羊座のイラスト
やぎ座の支配星である土星は、伝統的に占星術において最も不吉なものとして、メランコリー気質に結びつけられてきました。ところが、ルネッサンス期の大占星術師であったマルシリオ・フィチーノは、メランコリーがもたらす破滅的で不透明な経験と、神的な瞑想へのエクスタシー的な上昇という、一見正反対に思える経験がお互いに共存しうることを直観し、土星およびメランコリー気質に対する解釈を詩や哲学や芸術上の偉大な仕事と結びつけていったのです。 
 
ただその一方で、伝統的に苦悩に打ちひしがれるメランコリー気質は、激しいエロスへの傾倒とも結びつけられてきました。この点について、現代を代表する博覧強記の哲学者ジョルジョ・アガンベンはフィチーノの『愛について』の記述を引用しながら、次のように述べています。 
 
彼によれば「メランコリックなエロスは、愛をむさぼったために、瞑想の対象としてあるものを抱擁の欲望に変えてしまおうとする者によく起こる」というのである。メランコリックな混乱を駆り立てるエロティックな性向は、ここにおいて、本来はただ瞑想の対象としてのみ存在するものに触れたい、そしてそれを所有したいという性向として示されている。こうして、サトゥルヌス的気質の生気を逸した悲劇は、捕まえられないものを抱きしめようとする身ぶりに潜む内奥の矛盾に、その根をもつことになるのである」 
 
例えば、想像のなかでのみ出合う光景を絵に描こうとする画家は、まずそのイメージを知性によってしっかりと固定させ、続いてそれを目の前に見ているかのように模倣していかねばならず、しかも一回限りで終わるのではなく繰り返し行っていかねばなりません。 
 
そうしてますます募る幻想的光景やその邂逅(かいこう)体験への渇望こそが、先の「内奥の矛盾」であり、そうしたメランコリックなエロスは必ず「捕まえられないものを抱きしめようとする身ぶり」を伴うのです。 
 
今期のやぎ座もまた、自分を根本から突き動かしているメランコリックなエロスに立ち返ることで、改めて自身を詩や哲学や芸術上の偉大な仕事へと駆り立てていくことがテーマとなっていくでしょう。 


参考:アガンベン、岡田温司訳『スタンツェ 西洋文化における言葉とイメージ』(講談社学術文庫) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「物来たりて我を照らす」。

水瓶座のイラスト
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」と対照的な響きをもつこの西田幾多郎の言葉は、前者において対象は明示的に現れてすらいないのに対して、後者においては対象の側に我と同等かそれ以上の重点が置かれていることが分かります。 
 
この西田の言葉について精神病理学者の兼本浩祐は『なぜ私は一続きの私であるのか』という本のなかで、次のように解説してくれています。 
 
つまり、「靴」という名前で呼び続け、犬を「犬」という名前で呼び続けることこそが、翻って私を確定するのであって、まず私というものがどこかにあってそれが犬を犬、靴を靴と呼ぶわけではおそらくない。つまり物が来たりて物が一つの名前で照らし出されるとその残照として私というものがマッチ売りの少女のマッチの火のように後付けで明滅するのではないか、そのように私は西田の言葉を受け取っています。つまり、私達は私達として存在するためには、ものに触発され続け、ものの名前を名付け続けなければならないのではないか。そうでなければ、しばらくは残照としてそれでも明滅してはいるものの、早晩私達は私達であることを保てなくなるのではないか」 
 
確かに私たちは日頃なんとなく自分の方が対象を名指しているのだと錯覚していますが、実際には対象を名指すことを通して私たちの方が名指され、対象の残照ないし残響として私たちはかろうじて一続きのものである外観を保てているという話には、一定の確からしさがあります。 
 
そもそも、人生のどこかでそうした鮮烈な残照体験を通して、私たちは世界と出会い、自分が何者であるのかということを告げ知らされるのだとして、そうした体験を実際に経ているのかと問うた時、たとえ優秀な人材として職場で評価され、結婚して家庭を築いていたとしても、いまだそうした残照体験をしたことがないという場合だって大いにあり得るはず。 
 
今期のみずがめ座もまた、そうして「物が来りて我を照らし」、初めて世界のうちに自分という存在が差し込まれ、自分が何者かを知っていくという感覚をどこかで実感していくことができるのではないでしょうか。 


参考:兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか』(講談社選書メチエ) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「夢としての機能」。

魚座
漫画家の吾妻ひでおは、すでに人気漫画家としての確固とした地位を築いていたにも関わらず、ある日どうしても仕事が嫌になり、原稿をほったらかしにして失踪してしまいます。 
 
後に『失踪日記』として漫画でまとめられたその失踪生活の様子が本になっているのですが、行く当てもなく、職場にも家にも帰れず、次第に鬱と不安でたまらなくなり、持ち金が尽きるまでお酒を飲んだ後、山の斜面を使って首吊り自殺を試みた挙げ句、失敗して命拾いをします。 
 
そのことを恥ずかしく思った著者は、そこから本格的にホームレス生活に突入していくのですが、これがまた壮絶です。畑から大根を引っこ抜いて食べたり、穴だらけのむしろを拾って一晩過ごすものの、 
寒風に晒されながら寝ている夢を見て、起きたら実際に寒風に晒されていたので「これでは夢としての機能を果たしていない」とツッコんだり、大根だけではたまらずゴミ箱を漁っててんぷら油を飲んでみたり。 
 
そんな社会からドロップアウトした流転の日々は、当然のことながら過酷の一途を極めていくのですが、デフォルメの効いた描写でどこか切迫感がなく、どこか自由で楽しそうに映るのです。 
 
そして実際、ゴミ漁りを通して寒さを凌げる毛布を確保し、更には浸水を防げるお風呂マットを手に入れることで寝床を改善したあたりから、著者は徐々にホームレス状態に慣れていき、手にしたうどんを茹でるために焚火をするなど、山の斜面での暮らしを満喫していきます。 
 
ただその後ほどなくして、ゴミ漁りをしていたところを警察に職務質問され、妻からの捜索願いが出ていることが発覚して無事家に連れ返されるのですが、著者はこの失踪体験で確実に味をしめてしまいます。 
 
その意味で、結果として失踪体験そのものが、しんどい人間関係に苦しみながら続けてきた日常生活に対してある種の「夢としての機能」を果たしていった訳ですが、これはどこか今期のうお座の人にとって大いに指針になっていくのではないでしょうか。 
 
つまり、壮絶な路上生活であれ何であれ、自分なりに楽しくマイペースさを保てるところまで行ってしまえば、それは十分に「夢としての機能」を果たしてしまうということ。思わず、健康的な生活とは何かということをあなたも考えてしまうはず。 


参考:吾妻ひでお『失踪日記』(イースト・プレス)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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