【山羊座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<6/27~7/10> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「結びつきつつある流れを感じとる」
7月6日に二十四節気の「小暑」を迎えると、暦の上ではもう「晩夏」に入っていきます。とはいえ、まだ大部分の地域では梅雨明けがいつになるかが気になっている中、7月10日にはかに座18度(数えで19度)で新月を形成されていきます。
そうした今回の新月のテーマは、「むすびのはたらき」。社会のさまざまな領域で分断が進行している現代において、自立と孤独を余儀なくされた個人同士が生産的に結びついていくためには、ただ雑に、あるいは、無理やりくっつけようとしても、なかなかうまくいかないという事態が、“ごくありふれた光景”となってしまっているように思います。
たとえば、七夕に織姫と彦星が結ばれるのも、天の川という乗り越えるべきハードルがあったればこそであり、そこではいわば天の川が「むすびのはたらき」をしているのです。それはすなわち、関係性に分離や試練などの神話的要素を呼び込むことであったり、もう少し具体的に言えば、時間をかけて温められてきた“なにかがそこで産まれそうな雰囲気”であったりするのではないでしょうか。
ちょうど温かい風を意味する夏の季語が、梅雨の始めには「黒南風(くろはえ)」、中頃には「荒南風(あらはえ)」、そして終わり頃には「白南風(しろはえ)」と呼び方を変えていくことで、梅雨明けにそのパワーを全開にする太陽(炎帝)の到来を心待ちにしていくように。
今期はまさに、そうして暗くどんよりと感じられた風が、次第に軽くなり、白い光を放つ風となって、他ならぬ自分の日常に流入してくる時期であり、私たちもそこで自分のなかで結びつきつつある何かを全身で感じ取っていくことがテーマとなっていくでしょう。
そうした今回の新月のテーマは、「むすびのはたらき」。社会のさまざまな領域で分断が進行している現代において、自立と孤独を余儀なくされた個人同士が生産的に結びついていくためには、ただ雑に、あるいは、無理やりくっつけようとしても、なかなかうまくいかないという事態が、“ごくありふれた光景”となってしまっているように思います。
たとえば、七夕に織姫と彦星が結ばれるのも、天の川という乗り越えるべきハードルがあったればこそであり、そこではいわば天の川が「むすびのはたらき」をしているのです。それはすなわち、関係性に分離や試練などの神話的要素を呼び込むことであったり、もう少し具体的に言えば、時間をかけて温められてきた“なにかがそこで産まれそうな雰囲気”であったりするのではないでしょうか。
ちょうど温かい風を意味する夏の季語が、梅雨の始めには「黒南風(くろはえ)」、中頃には「荒南風(あらはえ)」、そして終わり頃には「白南風(しろはえ)」と呼び方を変えていくことで、梅雨明けにそのパワーを全開にする太陽(炎帝)の到来を心待ちにしていくように。
今期はまさに、そうして暗くどんよりと感じられた風が、次第に軽くなり、白い光を放つ風となって、他ならぬ自分の日常に流入してくる時期であり、私たちもそこで自分のなかで結びつきつつある何かを全身で感じ取っていくことがテーマとなっていくでしょう。
山羊座(やぎ座)
今期のやぎ座のキーワードは、「時間の相対化」。
「人はなぜ山に登るのか?」という問いは、しばしば個人の選択や人生そのものの偶発性を半ば揶揄するニュアンスで用いられますが、ここでは通常セットとなっている「そこに山があるから」という答えとは異なる、「自分の生きている時間を相対化するため」という答えを提示してみたいと思います。
時間といえば、1日は24時間で、日付も西暦もどんどん進んでいって、もう二度と後戻りできないし、変えることのできない客観的真実であると、ふつう私たちは考えてしまうわけですが、じつはそんなことはないのです。例えば、社会学者の真木悠介は『時間の比較社会学』のなかで次のように述べています。
「<人生はみじかく、はかない>という命題を第二に検討してみよう。
年々歳々花相似たり
歳々年々人同じからず
という劉延芝の詩は、「客観的」で逃れがたい時間の事実をうたっているようにわれわれには思われる。
けれどもめんみつに検討してみると、それは時間の客観的事実ではなく、人間のみの個別性にたいするわれわれの執着のもたらす感傷に他ならないことが分かる。(中略)<人生はみじかい>という命題はじつは、なんらの客観的事実でもなく、このように途方もなく拡大された基準のとり方の効果にすぎない。
さらに「みじかさ」が、たんに相対的不満でなく絶対的なむなしさの意識となるのは、このばあいもまた、生存する時がそれじたいとして充足しているという感覚が失われ、時間が過去をつぎつぎと虚無化してゆくものとして感覚されるからである。」
つまり、「時間」は事実というより感覚であり、「つくられたもの」である以上、心身の在り様や環境を変えてみることで「そうじゃない」時間感覚へと切り替えていくことが可能なのです。
ではそれはどのような時間感覚なのか。真木はさらに踏み込んで、そうしたオルタナティブな時間感覚の内容についても触れています。
「われわれが、現時充足的(コンサマトリー)な時の充実を生きているときをふりかえると、それは必ず、具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているときだ。」
今期のやぎ座もまた、普段生きている時間とは異なるもう一つの時間、いわば時間の源流への遡行を試みていきたいところです。
参考:真木悠介『時間の比較社会学』(岩波現代文庫)
時間といえば、1日は24時間で、日付も西暦もどんどん進んでいって、もう二度と後戻りできないし、変えることのできない客観的真実であると、ふつう私たちは考えてしまうわけですが、じつはそんなことはないのです。例えば、社会学者の真木悠介は『時間の比較社会学』のなかで次のように述べています。
「<人生はみじかく、はかない>という命題を第二に検討してみよう。
年々歳々花相似たり
歳々年々人同じからず
という劉延芝の詩は、「客観的」で逃れがたい時間の事実をうたっているようにわれわれには思われる。
けれどもめんみつに検討してみると、それは時間の客観的事実ではなく、人間のみの個別性にたいするわれわれの執着のもたらす感傷に他ならないことが分かる。(中略)<人生はみじかい>という命題はじつは、なんらの客観的事実でもなく、このように途方もなく拡大された基準のとり方の効果にすぎない。
さらに「みじかさ」が、たんに相対的不満でなく絶対的なむなしさの意識となるのは、このばあいもまた、生存する時がそれじたいとして充足しているという感覚が失われ、時間が過去をつぎつぎと虚無化してゆくものとして感覚されるからである。」
つまり、「時間」は事実というより感覚であり、「つくられたもの」である以上、心身の在り様や環境を変えてみることで「そうじゃない」時間感覚へと切り替えていくことが可能なのです。
ではそれはどのような時間感覚なのか。真木はさらに踏み込んで、そうしたオルタナティブな時間感覚の内容についても触れています。
「われわれが、現時充足的(コンサマトリー)な時の充実を生きているときをふりかえると、それは必ず、具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているときだ。」
今期のやぎ座もまた、普段生きている時間とは異なるもう一つの時間、いわば時間の源流への遡行を試みていきたいところです。
参考:真木悠介『時間の比較社会学』(岩波現代文庫)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ