【最新12星座占い】<6/27~7/10>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい

2021年6月27日から7月10日のSUGARの12星座占い

【SUGARさんの12星座占い】<6/27~7/10>の12星座全体の運勢は?

「結びつきつつある流れを感じとる」 

7月6日に二十四節気の「小暑」を迎えると、暦の上ではもう「晩夏」に入っていきます。とはいえ、まだ大部分の地域では梅雨明けがいつになるかが気になっている中、7月10日にはかに座18度(数えで19度)で新月を形成されていきます。 

そうした今回の新月のテーマは、「むすびのはたらき」。社会のさまざまな領域で分断が進行している現代において、自立と孤独を余儀なくされた個人同士が生産的に結びついていくためには、ただ雑に、あるいは、無理やりくっつけようとしても、なかなかうまくいかないという事態が、“ごくありふれた光景”となってしまっているように思います。 

たとえば、七夕に織姫と彦星が結ばれるのも、天の川という乗り越えるべきハードルがあったればこそであり、そこではいわば天の川が「むすびのはたらき」をしているのです。それはすなわち、関係性に分離や試練などの神話的要素を呼び込むことであったり、もう少し具体的に言えば、時間をかけて温められてきた“なにかがそこで産まれそうな雰囲気”であったりするのではないでしょうか。 

ちょうど温かい風を意味する夏の季語が、梅雨の始めには「黒南風(くろはえ)」、中頃には「荒南風(あらはえ)」、そして終わり頃には「白南風(しろはえ)」と呼び方を変えていくことで、梅雨明けにそのパワーを全開にする太陽(炎帝)の到来を心待ちにしていくように。 

今期はまさに、そうして暗くどんよりと感じられた風が、次第に軽くなり、白い光を放つ風となって、他ならぬ自分の日常に流入してくる時期であり、私たちもそこで自分のなかで結びつきつつある何かを全身で感じ取っていくことがテーマとなっていくでしょう。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「アジール形成」。

牡羊座のイラスト
2012年に行われた社団法人全日本冠婚葬祭互助協会主催の座談会にて宗教学者の鎌田東二は、平成以降の日本社会は地縁や血縁など、人々の存在を社会に基礎づけるさまざまな縁の解体がますます進行していると前置きした上で、現代日本社会は「中世化」しているのではないかと述べていました。 
 
中世といえば、天災や疫病、飢餓が横行し、社会秩序が大いに乱れた時代であった一方で、経済的にはそれまでの不動産経済から脱した動産経済が生まれ、その私的所有や個人による蓄財の道が開かれた世界でもありました。 
 
歴史学者の網野善彦が言及したように、そこでは世俗権力の規制をかいくぐり撹乱するものとして登場し、ある種の治外法権領域となった「アジール(避難場所、駆け込み寺)」が決定的な役割を果たしていったことで知られていますが、研究者の塩野谷恭輔は、そうした中世社会においてさえ「世俗社会の外で食べていくのは難し」かったこと、そして現代におけるアジール形成の可能性を考えていく上でも、「社会のしがらみから逃れるというのは、無責任であっていいということではない」のだと改めて指摘しています。 
 
だとしたら、どういう場ならば、心身への脅威の少ない平和の場としてアジールとみなしうるのか。塩野谷は、その最低条件として「外部にある程度開かれていながら、かつ内部においても責任ある体系を構築するということ」を挙げつつ、より具体的には、「きちんと対価が支払われる」場であることが、アジールにおいて何より大事なことであり、いわゆる「情動労働」を無償で要求するような「やりがい搾取のない」ことも併記しています。 
 
これは逆に言えば、場当たり的なボランティアで無料コンテンツを提供していくのではなくて、PV数だったりRTやイイネの数を競うような資本主義的なスケールではない基準にもとづいて良質な有料コンテンツをこつこつと作っていくことや、そういう現場にきちんと対価をもらいながら参加していくことこそが、資本主義の外部にアジール形成していく上で基本戦略になるということでもあるように思います。 
 
今期のおひつじ座もまた、自身のキャリアや活動をそうしたアジール形成という文脈で捉えなおしてみるといいかも知れません。 


参考:塩野谷恭輔、「アジール考―網野善彦『無縁・公界・楽』を中心に」『状況 2021年冬号』収容(状況出版) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「霊性」。

牡牛座のイラスト
全体の運勢にかいた「むすびのはたらき」とは、言ってみればスピリチュアリティの次元の話ですが、禅を世界的に広めたことで知られる鈴木大拙は、その主著『日本的霊性』の中で、スピリチュアリティの訳語として「霊性」という言葉を用いつつ、特定の宗教の教理に縛られず、体験的に把握される宗教的な人間の本性として定義づけていました。 
 
『日本的霊性』が出版されたのは戦争末期の昭和19年(1944)のことで、大拙は当時盛んに唱えられていた「日本精神」という時代迎合的な言葉に反発して、それでは捉えられないものとして霊性という言葉をあえて使ったのでした。 
 
中でも第五編は「金剛経」という題で、インドの経典や中国の禅が中心に取り上げつつ、禅特有のロジックについて延べられているのですが、と同時に、ここは大拙の霊性論の本質にかかわる非常に重要な位置づけともなっているように思います。 
 
これを延べ書きにすると、「仏の説き給う般若波羅蜜というのは、すなわち般若波羅蜜ではない。それで般若波羅蜜と名づけるのである」。こういうことになる。これが般若思想系の根幹をなしている論理で、また禅の論理である。また日本的霊性の論理である。ここでは般若波羅蜜という文字を使ってあるが、その代わりにほかのいろいろの文字を持って来てもよい。これを公式的にすると、 
 AはAだというのは、 
 AはAでない、 
 故に、AはAである。 
これは肯定が否定で、否定が肯定だということである。」 
 
つまり、霊性のはたらきもまた、論理的には「AはAでない、故に、AはAである」という矛盾を必ず含んでいて、通常の日常的な言葉とはまったく異ったものであるということ。 
 
たとえば、Aのところに「光」という言葉を入れてみると「光は闇である(光ではない)、故に、光は光なのだ」となりますし、「女」を入れれば「女は男である(女ではない)、故に、女は女なのだ」となる訳ですが、こういうことを実際に経験されている方は少なくないのではないでしょうか。 
 
ただ、大拙は霊性のはたらきというものを、そうした個人的体験に委ねるだけでなく、それを論理として組み上げることで、ひとつの強靭な思想にしていこうとしたのです。

今期のおうし座もまた、そうしてみずからの霊性的体験を言語化して、自分なりに試行錯誤してみるといいでしょう。 


参考:鈴木大拙、『日本的霊性 完全版』(角川ソフィア文庫) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「もののあはれ」。

ふたご座のイラスト
日本でも明治以降、近代西洋で確立された自立した個人という人間観が急速に導入されていきましたが、日本の伝統思想をかえりみると、もともとそうした自己完結的な発想よりも、他者との関係性を通してすべてのものごとを考えていく他者関係的な発想がはるかに優位に立っていました。 
 
たとえば、源氏物語の注釈書である『紫文要領』の中で「もののあはれ」を重要性をはじめて体系的に論じた国学者の本居宣長は、同書のなかで次のようにも述べていました。 
 
おおよそ人の本当の心というものは、女児のように未練で愚かなものである。男らしく確固として賢明なのは、本当の心ではない。それはうわべを繕い飾ったものである。本当の心の底を探ってみれば、どれほど賢い人もみな女児と変わらない。それを恥じて隠すか隠さないかの違いだけである。」 
 
つまり光源氏ら物語の男たちはうわべだけを飾っているだけで、到底「実(まこと)の情(こころ)」と言えるものではなく、そこでは女性性こそが人間の本質なのだ、と。 
 
これは1980年代のフェミニズム運動の成果の一つとして「正義の倫理」に対する「ケアの倫理」の基本的な発想と軌を一にするものであり、宣長には時代を先取りした先見性があったとも言えるのではないでしょうか。 
 
そうした文脈で、宣長の「もののあはれ」に関する「人の哀れなる事を見ては哀れと思ひ、人のよろこぶを聞きては共によろこぶ、是れすなはち人情にかなふ也。物の哀れをしる也」という記述などは、他者との共感を不可避のものとする点は、今後改めてケアの倫理として見直されていってよいように思います。 
 
今期のふたご座もまた、自分がどこかで知っていたり使い慣れていると思っていた言葉に、改めていのちを吹き込んでいくがごとく、その実感を深めていくことになるかも知れません。 


参考:子安宣邦/校注『紫文要領』(岩波文庫) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「平正親切」。

蟹座のイラスト
日本社会では仏教において「愛」は執着の原理として長らく否定されてきましたが、現代社会ではそれこそが世俗の倫理の根本をなすものとして見なされつつ、資本主義の市場原理の浸食によってむしろその不可能性の方がしばしば強調されるという複雑に矛盾した事態に陥っているように思います。 
 
ただし、「愛」といってもそれはキリスト教的な“ラブ”の導入からの影響だけでなく、儒教の影響の大きさも見逃しても、過小評価してもなりません。 
 
特に、尊王攘夷の運動に流れていった水戸学派など政治性を前面に掲げた儒教ではなく、もっと生活に密着した場で培われてきた儒教や、それを実際に生かそうとした思想家たちの存在を忘れてはならないでしょう。 
 
たとえば、町人出身で、生涯にわたり権力に近づくことなく、私塾で門人の教育につとめた伊藤仁斎はその典型と言えます。仁斎による儒教入門書『童子問』には、身近な人間関係をあるべき姿にしていくことが道であり、その根本は「仁」の一文字で表わされるとして、続けて次のように述べられています。 
 
仁は徳として偉大なものである。しかしそれを一言で言えば、愛に他ならない。君臣ではこれを義と言い、父子では親と言い、夫婦では別と言い、兄弟では叙と言い、朋友では信と言う。皆愛より出ている。思うに愛は真実の心から出るものである。それ故、この五つが愛から出る時は真実である。」 
 
すなわち、唯一の道は「愛」から発するものであり、それがさまざまな状況に応じて、さまざまな関係のあり方をとるものの、いずれにせよ誠実にまごころから相手のためにすることこそが聖人の道であり、仁斎はそれを「平正親切(きちんとして身近)」の道として、特別な修行や高尚な机上の学問を必要以上に求めることは間違っていると説いたのです。 
 
今期のかに座もまた、聖人を目指している訳ではないにせよ、仁斎が説いたように、しごく「平正親切」に「愛」の道を歩んでいくことを改めて意識してみるといいでしょう。 


参考:清水茂/校注『童子問』(岩波文庫) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「倫理以上の根拠」。

獅子座のイラスト
日本は歴史的に見れば、つねに中国やアメリカなど、強大な文明文化の周縁にある小さな島国であり、それに吞み込まれない自己のアイデンティティを求め続けなければなりませんでした。 
 
そのため、近代日本においては、国家道徳こそが何よりも優先して考えられるべき究極とされ、その下に宗教が置かれていった訳ですが、その結果、世間を超越し、国家道徳を軽んじる傾向があるものとしてキリスト教が批判されていく風潮が起こっていきました。 
 
しかし、脱世間的という意味では仏教もほんらい同じであり、こうした道徳倫理と宗教の関係における違和感について正面から問題視し、反駁していったのが在家の浄土真宗信者であり、東京帝國大学の哲学科で学んだ清沢満之でした。 
 
彼は明治33年(1900)頃に発表された『倫理以上の根拠』において、倫理というのは「其(その)根拠が人と人との関係であるから、到底其(それ)のみにては相対有限の範囲を脱することが出来ない」ものであり、倫理の実行に際しては、「絶対無限、即ち、倫理以上の根拠の上に立たねばならぬのである」と述べました。 
 
つまり、人として守るべき道理であるところの倫理が実践されていく上では、必ず倫理を超えた宗教に裏付けられることが必要だと説いたのです。 
 
オリンピックの開催是非をめぐる議論や進まないジェンダー議論の浸透など、政治的な力学やマーケットの論理だけでは解決のつかないさまざまな問題が顕在化しつつある令和の日本社会では、こうした清沢の主張はあらためて傾聴に値するものと言えます。 
 
そして、現代の日本社会における「宗教」とは、キリスト教や仏教などの伝統的な大宗教ばかりではなく、スピリチュアルや占いなどもゆるやかに含まれており、むろんそこでは、単にそれらをありがたがるのではなく、どのような倫理的な実践においてそれが最も意味を持つのか、という問いとつねにセットで考えられるのではなければならないでしょう。 
 
今期のしし座もまた、自身が直面している倫理的な問いかけ(実践的な行動レベルにおける「これでいいのか?」という違和感)を、そうした非合理的な教えとしての宗教やスピリチュアル、占いといかに結びつけていけるかがテーマとなっていくように思います。 


参考:安富信哉編『清沢満之集』(岩波文庫) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「原点思考」。

乙女座のイラスト
「タレント」という存在がいったい何の才能によって支えられた職業なのか、といった問いはしばしば揶揄を含んだ調子で口にされることが多いですが、それは「芸能界」という言葉に文字通り埋め込まれている「芸能」の本質を問うという意味で、なかなか深い問いかけでもあるのではないでしょうか。 
 
例えば、もともと滑稽な物まねを主とした大衆芸能であった「猿楽(さるがく)」は、室町時代に観阿弥・世阿弥の親子が将軍家に重用されるようになったことで、一気に貴族趣味的な「能」へと転化し、そこに日本の伝統的美学としての「幽玄」が成立していった訳ですが、じつは世阿弥の魅力はむしろ小難しい「芸術」になり切らなかった点にありました。 
 
つまり、世阿弥は上流階級にとってのお気に入りとなることだけを目指した一方で、もともとの卑俗で猥雑な民衆の世界と縁を切らず、観客人気に依存した芸人稼業であり続け、それらを両立させていかんという綱渡り的な緊張状態をとことん追求していく中で、自分たちの芸を確立していったのです。 
 
そもそも、芸能というものに貴賤は存在しない。その強烈な原点思考について、世阿弥は能の心得を伝えるために著された『風姿花伝』の中で次のように述べています。 
 
そもそも芸能というのは、人々の心を和らげて、身分の上下にかかわらず感動させ、寿命や福徳を増す基になり、寿命を延ばす方法である。究め尽せば、どんな道もすべて寿命や福徳を増すことであるが、ことにこの猿楽能の芸は、最高の芸の位に達し、家名を残すことは天下に認められたことであり、寿命と福徳を増すものである。」 
 
高貴と卑賤、猥雑と神聖、滑稽と厳粛、土着と外来、さまざまな両義性を結びつけていくことこそが、古典芸能の「芸能」たるゆえんであり、すなわちそれは権力と民衆のあいだを結ぶパイプの役目であり、成立条件もあったのです。 
 
ひるがえって、それは現代日本における「タレント」の定義にも通じるものでもあるように思います。
今期のおとめ座は、YouTuberや占い師などの、個々のキャリアや職業の要件定義の根底にあるこうした歴史や、それに基づいた原点思考について改めて触れてみるといいでしょう。 


参考:市村宏/全訳注『風姿花伝』(講談社学術文庫) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「倫理の埒外」。

天秤座のイラスト
「趣味で占いをしている」というと、どうにも決まりがわるい。ましてや、「仕事で占いをしている」などと言えば、小首をかしげられるくらいならまだいいものの、真っ向から否定されるか、憐みを向けられるかのどちらか、というのが社会の一般的な反応でしょう。 
 
「占いの倫理」というテーマで書かれたライターの石井ゆかりさんは、エッセイ「占いという「アジール」」の中で、それは占い(特に星占い)がもつ次の2つの特徴によるのだと述べています。 
 
星占いには、一切の合理的・理性的・科学的根拠がない。 
占いは、論理的には「自由意志」に背を向ける。」 
 
そしてそれゆえに、少なくとも現代社会では「占いは不道徳だと「されねばならない」のである」と。これは意外に思われる方もいるかも知れませんが、星占いに関して確実にそうだと言えることの一つでしょう。では、なぜ石井さんは日々大量の占いを書いて暮らしてゆくことができるのか。それは「倫理的で道徳的なものだけがこの世に存在してもいい、ということではないと思っているから」であり、「倫理や道徳という世界観には、「外側」がある」と思っている」のだと云うのです。 
 
つまり、占いとは、素直に倫理的ないし道徳的に「善く生きる」ことができない人、意図せずやましさを抱え込まずには生きられなかった人たちが、社会から逃げ出した先にあるアジール(避難所)であり、であれば、占いに関わるテキストというのは、そこでそっと置かれて伏せられてある置手紙のようなものなのかも知れません。 
 
占いは関わりの外側にある幾多のアジールの一つ、他者との関係から切り離されて自分ひとりになった人間を救うためのものだ。人は「信じるか信じないか」を、選べない。口でなんと言おうと、心の奥底に引っかかる。感情の深奥がそれを呼ぶ。「あと数カ月でこの問題は解決しそうですよ」というその不可解な予言を胸の奥にこっそり握り締めたとき、明日を生きる小さな希望が湧く。占いは、倫理の埒外になければならないのだ。」 
 
今期のてんびん座もまた、たまにはきちんとしなければ、善く生きなければ、といった社会が求める倫理的・道徳的な要請から外れたところに、一個の不良品としてこっそりと、謎めきながら自身を置いてみるといいかも知れません。 


参考:石井ゆかり「占いという「アジール」―道をはずれて、ゴドーを待ちながら」『現代思想2019年9月号 倫理学の論点23』収容(青土社) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「汝はそれである」。

蠍座のイラスト
今日では知識はただ持っているだけではすっかり空疎なものとなりました。しかし、それは知識自体が空疎なのではなく、ドグマ化した知識が空疎なのであって、言葉そのものは忘れても、何かが心の中にいつまでも余韻として尾を引いていくような場合は、いのちを持ちえた知識として残っていきます。 
 
たとえば、日本の歴史上にもそうした生きた知識、いのちをもちえる言葉を追求し続けた人物が何人もいましたが、一般的には真言宗の開祖として知られる空海もその一人でしょう。 
 
821年、唐から招来した両部の(胎蔵・金剛界)の曼荼羅が大いに損傷したので、それを新たに制作するということが朝廷の支援のもと、国家事業として計画されました。空海はそのとき、曼荼羅制作の主旨を「願文(がんもん)」という公式文書に起こしているのですが、これを現代語訳にすると、以下のようになります(原文は漢文)。 
 
仏弟子である私、空海は、生まれ着いての性格と人々から受けた薫陶とが相まって、源に還る、ということを心から願うようになりました。 
しかし、その源に還るための道すじをなかなか知ることができませんでした。どちらに行ってよいか分からない分かれ道に出るたびに泣くことを、幾度となく繰り返しました。 
私の心からの願いが天に通じたのでしょうか、終にこの秘密の教えに出会うことができました。」 
 
これを書いたとき、空海は48歳で、すでに真言密教という新しい思想・宗教・学問の指導者として十分に社会的に認められた存在でしたが、そんな立場の人間が「臨んで幾たびか泣く」という言葉を書いているのです。 
 
そうして大の大人が泣きながら幾度も幾度も立ち尽くし、自分の力がすっかり尽きたところでやっと得られたのが「秘密の教え」と訳されものであり、これは原文では「秘門」と書かれていました。 
 
空海研究家の竹内信夫は、「空海における「源」ということ」という講義録のなかで、ここでいう「秘門」とは単に密教のことではなく、私たちの小さな我(アートマン)は、しかしそれをすっぱりと包み込む神秘不可思議の大いなる宇宙的活動体の象徴である大日如来(ブラフマン)とぴったり同じリズムで脈動していること、すなわち「梵我一如」であり、「汝はそれである」という思いの深まりとその極みにおいて開かれてくる境地のことを指すのだと述べています。 
 
今期のさそり座もまた、すっかり自分の力の尽きたところで、それを超えた何ものかの力や気配をわずかに感じとり、生きた知識となって残っていくという体験をしていくことができるかも知れません。 


参考:竹内信夫「空海における「源」ということ」『「語りえぬもの」からの問いかけ』収容(講談社) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「恋しさ」。

射手座のイラスト
他者と出会うことで自己は「他ならぬ私」というリアリティを手に入れ、さらにその中でそれまで眠っていた可能性が一気に活性化し、他者との関係が動き出すような体験がもっとも際立った形で現れてくるのが「恋」という出来事と言えますが、この恋しさという体験は一体どのような特性を持っているのでしょうか。 
 
たとえば哲学者の九鬼周造は『情緒の系図』において、人間がもつ情緒を主観的感情、客観的感情、そして主客に関係なく緊張と弛緩の方向性をもつ感情の三つに分けています。はじめの二つはともにその中身が快不快を基本とするのに対して、三つめのそれは「欲」や「驚き」などに代表されるように、不快ゆえの快というような不思議な状態にあること、そしてそれは突然の出来事による緊張からもたらされるものであると分析した上で、九鬼は最終的に二つの情緒を人間存在の根本であると結論づけています。 
 
人間が個体として存在する限り、存在継続の「欲」と、個体性の「寂しさ」とを、根源的情緒として有つことはおのずから明らかである。「欲」と「寂しさ」の在るところに個体が在ると云ってもよい。そうして「寂しさ」は一方に自己否定に於いて「哀れ」と「憐み(アガペ)」へ放散すると共に、他方に自己肯定を於いて「恋しさ(エロス)」の裏付けに集中する。」 
 
すなわち、緊張と弛緩の感情である「欲」と主観的感情である「寂しさ」とは、その裏面に客観的な感情すなわち外部の対象へと向かう感情としての「哀れ」や「憐み」、そして「恋しさ」を持つのであり、もっと関係に述べれば、人ひとりが存在するとき、そこには必ず「寂しさ」があり、その一方で「恋」を通して他者を求められずにはいられないのです。 
 
今期のいて座もまた、不意に駆られた「恋しさ」の裏に、自己の抱えた「寂しさ」や「欲」を改めて探りあててみるといいでしょう。 


参考:九鬼周造「情緒の系図―歌を手引きとして」『「いき」の構造』収容(岩波文庫) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「時間の相対化」。

山羊座のイラスト
「人はなぜ山に登るのか?」という問いは、しばしば個人の選択や人生そのものの偶発性を半ば揶揄するニュアンスで用いられますが、ここでは通常セットとなっている「そこに山があるから」という答えとは異なる、「自分の生きている時間を相対化するため」という答えを提示してみたいと思います。 
 
時間といえば、1日は24時間で、日付も西暦もどんどん進んでいって、もう二度と後戻りできないし、変えることのできない客観的真実であると、ふつう私たちは考えてしまうわけですが、じつはそんなことはないのです。例えば、社会学者の真木悠介は『時間の比較社会学』のなかで次のように述べています。 
 
<人生はみじかく、はかない>という命題を第二に検討してみよう。 
年々歳々花相似たり 
歳々年々人同じからず 
という劉延芝の詩は、「客観的」で逃れがたい時間の事実をうたっているようにわれわれには思われる。 
けれどもめんみつに検討してみると、それは時間の客観的事実ではなく、人間のみの個別性にたいするわれわれの執着のもたらす感傷に他ならないことが分かる。(中略)<人生はみじかい>という命題はじつは、なんらの客観的事実でもなく、このように途方もなく拡大された基準のとり方の効果にすぎない。 
さらに「みじかさ」が、たんに相対的不満でなく絶対的なむなしさの意識となるのは、このばあいもまた、生存する時がそれじたいとして充足しているという感覚が失われ、時間が過去をつぎつぎと虚無化してゆくものとして感覚されるからである。」 
 
つまり、「時間」は事実というより感覚であり、「つくられたもの」である以上、心身の在り様や環境を変えてみることで「そうじゃない」時間感覚へと切り替えていくことが可能なのです。 
 
ではそれはどのような時間感覚なのか。真木はさらに踏み込んで、そうしたオルタナティブな時間感覚の内容についても触れています。 
 
われわれが、現時充足的(コンサマトリー)な時の充実を生きているときをふりかえると、それは必ず、具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているときだ。」 
 
今期のやぎ座もまた、普段生きている時間とは異なるもう一つの時間、いわば時間の源流への遡行を試みていきたいところです。 


参考:真木悠介『時間の比較社会学』(岩波現代文庫) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「いのちの復習」。

水瓶座のイラスト
NHKの制作班は2010年の一連のドキュメンタリー番組において、地縁や血縁など人間をこの世界に基礎づけるさまざまな縁が解体され、すっかり孤立無援状態になった個人がそうした孤独を自力ではどうすることもできず、行き詰まってしまった社会を「無縁社会」と名付けました。 
 
それから、10年以上が経過して、今や高齢者だけでなく多くの中年や若者までもが、保証人・見守り・買い物などの代行サービスや、話し相手サービスなどの無縁ビジネスを利用するようになりました。しかし、それは単に社会の側が変化したからというだけでなく、個人の側においても独り在ることを深く感じたり受け止めたりすることができなくなってしまったということでもあるのではないでしょうか。 
 
その意味で、谷川俊太郎の「朝」という詩は、ある意味で自分がひとりの人間として今ここにあることを深く深く感じとり、それを言葉にしている稀有な例と言えるように思います。 
 
また朝が来てぼくは生きていた/夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た 
柿の木の枝が風にゆれ/首輪のない犬が陽だまりに寝そべっているのを 
 
百年前ぼくはここにいなかった/百年後ぼくはいないだろう 
あたり前な所のようでいて/地上はきっと思いがけない場所なんだ 
 
いつだったか子宮の中で/ぼくは小さな卵だった 
それから小さな小さな魚になって/それから小さな小さな鳥になって 
 
それからやっとぼくは人間になった/十カ月を何千億年もかかって生きて 
そんなこともぼくら復習しなきゃ/今まで予習ばっかりしすぎたから 
 
今朝一滴の水のすきとおった冷たさが/ぼくに人間とは何かを教える 
魚たちと鳥たちとそして/ぼくを殺すかもしれぬけものとすら 
その水をわかちあいたい」 
 
今期のみずがめ座もまた、こうした詩を書くことや、それを読むことを、セルフケアの一環として取り入れてみるといいかも知れません。 


参考:谷川俊太郎『すてきなひとりぼっち』(童話屋) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「重さを愛する」。

魚座のイラスト
恋愛にしろ仕事にしろ、結局「ここにいるのは誰でもよかったんだよな」と感じたり思ったりすることは、珍しいことではないでしょう。たまたまその席が空いていたから自分が座っただけで、そこには何の必然性もなければ、意味もない。そうして、ただ無意味の連続としての人生を私たちは生き、死んでいくのだと。 
 
けれど、一方で私たちはそんなことには耐えられない、という思いも抱えています。かけがえのない自分でありたいし、自分の人生にも何かしらの意味があってほしいし、自分にしかやり遂げられないことをやって死んでゆきたい、と。 
 
ミラン・クンデラの恋愛小説『存在の耐えられない軽さ』は、そのタイトルが示す通り、私たちが「かけがえのない誰か」になることがいかに重くて、苦しくて、面倒なことかを読者に問いかけていくのですが、その中で、カレーニンという犬と飼い主で夫を思う一途な女性であるテレザとの関係を考察したこんな文章があります。 
 
人間と犬の愛は牧歌的である。そこには衝突も、苦しみを与えられるような場面もなく、そこには、発展もない。カレーニンはテレザとトマーシュを繰り返しに基づく生活で包み、同じことを二人から期待した。 
もしカレーニンが犬ではなく、人間であったなら、きっとずっと以前に、「悪いけど毎日ロールパンを口にくわえて運ぶのはもう面白くもなんともないわ。何か新しいことを私のために考え出せないの?」と、いったことだろう。このことばの中に人間への判決がなにもかも含まれている。 
人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。」 
 
確かに人間はあらゆることに飽きてしまうし、永遠に「満たされる」ということを知らない存在です。その意味では、作者の云う通り、男なんかよりも犬を愛している方がよっぽど幸せになれるのかも知れません。 
 
とはいえ、たとえ不幸であったとしても、「かけがえのない存在」を選んでしまう人間を、作者はけっして笑いはしないでしょう。面倒でも、葛藤したとしても、やっぱり何者かであろうとしてしまう人間味そのものを、この小説はどこか深いところで肯定しているように思います。 
 
今期のうお座もまた、恋愛であれ仕事であれ、そうした面倒や葛藤をあえてみずから抱え込んでみるのも悪くないでしょう。 


参考:ミラン・クンデラ、千葉栄一訳『存在の耐えられない軽さ』(集英社) 
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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