【乙女座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<7/25~8/7> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「死に寄り添う生」
8月7日の「立秋」はまさに真夏の盛りですが、日本の伝統的な季節感では夏がピークに達するときに秋がスタートし、人びとは小さな秋の兆しを探し始めてきたのです。そして、そんな立秋直後の8月8日にしし座の新月を迎えていきます。
今回の新月は土星(体制、課題)と天王星(転覆、改革)と二等辺三角形を形成するため、今年一年を通じて進行していく既存の権威やこれまで機能してきた体制側の自己防衛や無意識の視野狭窄を破壊して再構築プロセスにかなり直結していくものとなるでしょう。
その上であえてそれを端的にテーマ化するなら、「死に寄り添う生の在り方を探る」といったものになるように思います。例えばこれは、これまでのように社会を強固で一枚岩的な現実に統合せんとしてきた近代的な考え方においては、死は完全な敵であり、それに対して断固として立ち向かうか、徹底的に視界から排除されるべきものだった訳ですが、超高齢化が進展するポスト成長時代のこれからは、老いのプロセスの中で、徐々に死を受け入れ、和解し同化していく中で、生と死のゆるやかなグラデーションを取り戻していくことが求められていく、ということともリンクしてくるはず。
ちょうど芭蕉の句に「閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声」という句がありますが、短い一生ながら懸命に鳴いている蝉とその声はまさに「いのち」の象徴であり、一方で、奥深い山の池のほとりで苔むして黒々としている「岩」とは「死」の象徴とも言えるのではないでしょうか。
そして、蝉の声が岩に「しみ入る」というのは、まさに意識の静寂のさなかで「生と死」が融合し、その連続性を取り戻していく宇宙的とも言える世界観を表現したもの、とも解釈できます。今期の私たちもまた、そんな句のように、死を敵と考えたり、排除するのではなく、どうしたら和解していけるか、また、個人的なものであれ社会的なものであれ、死とは何かをいかに問い直していけるかが問われていくように思います。
今回の新月は土星(体制、課題)と天王星(転覆、改革)と二等辺三角形を形成するため、今年一年を通じて進行していく既存の権威やこれまで機能してきた体制側の自己防衛や無意識の視野狭窄を破壊して再構築プロセスにかなり直結していくものとなるでしょう。
その上であえてそれを端的にテーマ化するなら、「死に寄り添う生の在り方を探る」といったものになるように思います。例えばこれは、これまでのように社会を強固で一枚岩的な現実に統合せんとしてきた近代的な考え方においては、死は完全な敵であり、それに対して断固として立ち向かうか、徹底的に視界から排除されるべきものだった訳ですが、超高齢化が進展するポスト成長時代のこれからは、老いのプロセスの中で、徐々に死を受け入れ、和解し同化していく中で、生と死のゆるやかなグラデーションを取り戻していくことが求められていく、ということともリンクしてくるはず。
ちょうど芭蕉の句に「閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声」という句がありますが、短い一生ながら懸命に鳴いている蝉とその声はまさに「いのち」の象徴であり、一方で、奥深い山の池のほとりで苔むして黒々としている「岩」とは「死」の象徴とも言えるのではないでしょうか。
そして、蝉の声が岩に「しみ入る」というのは、まさに意識の静寂のさなかで「生と死」が融合し、その連続性を取り戻していく宇宙的とも言える世界観を表現したもの、とも解釈できます。今期の私たちもまた、そんな句のように、死を敵と考えたり、排除するのではなく、どうしたら和解していけるか、また、個人的なものであれ社会的なものであれ、死とは何かをいかに問い直していけるかが問われていくように思います。
乙女座(おとめ座)
今期のおとめ座のキーワードは、「愛し得ないがゆえに、日輪と共に始めよ」。
心理学やカウンセリング、またそれらを汲んだ占いがいかにクライアントや世間に自己実現を促そうとも、人間はしょせん「断片的な存在」であることから免れえず、それゆえに、私たちができることは自身を含め、周囲の人間に対して「実に嫉妬深い、恨みがましい、妄執の鬼と化するに終る」ことだけなのだ。と、そう説いたのは、近代文明が人間生活にもたらす悪影響を一貫して主題として扱ってきたD・H・ロレンスであり、彼の最晩年の畢生の論考である『黙示録論』(1929)でした。
とは言え、現代人はいくら「断片的」であるとそしられようとも、もはや個人主義を手放そうとはしないでしょう。その一方で、いつの時代も人間は他者や何らかの共同体との結びつきを求め、その成果として近代文明を築くにいたった訳ですが、ロレンスはそうした近代社会的な精神の在り様を厳しく批判しています。
「キリスト教と私たちの理想とする文明とは、長く続く逃避の一形態だった。こうした宗教と文明が際限なき虚偽と貧困を、物質の欠乏ではなくそれよりずっと危険な生命力の欠乏、すなわち今日わたしたちが経験している貧困を生んできた。生命を欠くよりパンを欠くほうがましだ。長く逃避を続け、そうして得られた唯一の成果が機械とは!」
では、私たちはどうすればいいのでしょうか。その点については、ロレンスの『黙示録論』を翻訳し、自分に思想と呼べるものがあるとするならそれは本書によって形成されたとさえ述べた福田恆在(ふくだつねあり)は、「ロレンスの黙示録論について」というエッセイの中で、次のように述べています。
「ぼくたちは―純粋なる個人というものがありえぬ以上、たんなる断片にすぎぬ集団的自我というものは―直接たがいにたがいを愛しえない。なぜなら愛はそのまえに自律性を前提とする。が、断片に自律性はない。ぼくたちは愛するためにはなんらかの方法によって自律性を獲得せねばならぬ。近代は個人それ自体のうちにそれを求め、そして失敗した。自律性はうちに求めるべきではない。個人の外部に―宇宙の有機性そのもののうちに求められなければならぬ。」
今まさに日本社会全体が有機的な統合をなさずちりぢりの断片であることを露呈しているなか、今期のおとめ座もまた、ロレンスが訴えたように、個人主義とともに人間の勝手を捨てて、コスモスの一部としてあるべく「まず日輪と共に始めよ」という言葉に従ってみるといいでしょう。
参考:D・H・ロレンス、福田恆在訳『黙示録論 現代人は愛しうるか』(ちくま学芸文庫)
とは言え、現代人はいくら「断片的」であるとそしられようとも、もはや個人主義を手放そうとはしないでしょう。その一方で、いつの時代も人間は他者や何らかの共同体との結びつきを求め、その成果として近代文明を築くにいたった訳ですが、ロレンスはそうした近代社会的な精神の在り様を厳しく批判しています。
「キリスト教と私たちの理想とする文明とは、長く続く逃避の一形態だった。こうした宗教と文明が際限なき虚偽と貧困を、物質の欠乏ではなくそれよりずっと危険な生命力の欠乏、すなわち今日わたしたちが経験している貧困を生んできた。生命を欠くよりパンを欠くほうがましだ。長く逃避を続け、そうして得られた唯一の成果が機械とは!」
では、私たちはどうすればいいのでしょうか。その点については、ロレンスの『黙示録論』を翻訳し、自分に思想と呼べるものがあるとするならそれは本書によって形成されたとさえ述べた福田恆在(ふくだつねあり)は、「ロレンスの黙示録論について」というエッセイの中で、次のように述べています。
「ぼくたちは―純粋なる個人というものがありえぬ以上、たんなる断片にすぎぬ集団的自我というものは―直接たがいにたがいを愛しえない。なぜなら愛はそのまえに自律性を前提とする。が、断片に自律性はない。ぼくたちは愛するためにはなんらかの方法によって自律性を獲得せねばならぬ。近代は個人それ自体のうちにそれを求め、そして失敗した。自律性はうちに求めるべきではない。個人の外部に―宇宙の有機性そのもののうちに求められなければならぬ。」
今まさに日本社会全体が有機的な統合をなさずちりぢりの断片であることを露呈しているなか、今期のおとめ座もまた、ロレンスが訴えたように、個人主義とともに人間の勝手を捨てて、コスモスの一部としてあるべく「まず日輪と共に始めよ」という言葉に従ってみるといいでしょう。
参考:D・H・ロレンス、福田恆在訳『黙示録論 現代人は愛しうるか』(ちくま学芸文庫)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ