【水瓶座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<9/5~9/18> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「こじらせた私との和解と解放」
前回の9月7日のおとめ座新月のテーマは「プライドの置きどころ」でした。そして9月23日の「秋分」の直前には、9月21日にうお座28度(数えで29度)で満月が形成されていきます。
そんな7日のおとめ座新月から21日のうお座満月までの期間をあえてテーマ化するとすれば、それは「かつて否定した自分自身との和解」ということになるのだと言えるかも知れません。
長期化したコロナのもたらす深い沈鬱のなかで、私たちはいつしか以前はごく当たり前に肯定していた衝動や実感を我慢したり、殺したり、埋めていくことを余儀なくされるようになっていました。しかし、今回の満月ではそうしてかつて自分のなかで抑え込んだり、なかったことにしていた個人的実感や衝動をみだりに否定せず、あらためて受け入れた上で、いかにそれが自分にとって大切で、切り離せないものであるかを洞察していくという流れが、自然に起きていきやすいのだと言えます。
満月というのは、自分の中に潜在していた思いや願いにスポットライトが当たっていきやすいタイミングですが、今回は「そうそう、こういう変なところも自分なんだよね」とか、「他人と比べて苦しんできたけど、これも自分なのかも知れない」といったように、どこかでプライドをこじらせ、長いあいだ囚われていた考えから少しだけ解放されていくことができるはず。
その意味で今期は、自分の中の、どんな部分を否定して影にしてきたのか、あらためて思いを巡らせてみるといいでしょう。
そんな7日のおとめ座新月から21日のうお座満月までの期間をあえてテーマ化するとすれば、それは「かつて否定した自分自身との和解」ということになるのだと言えるかも知れません。
長期化したコロナのもたらす深い沈鬱のなかで、私たちはいつしか以前はごく当たり前に肯定していた衝動や実感を我慢したり、殺したり、埋めていくことを余儀なくされるようになっていました。しかし、今回の満月ではそうしてかつて自分のなかで抑え込んだり、なかったことにしていた個人的実感や衝動をみだりに否定せず、あらためて受け入れた上で、いかにそれが自分にとって大切で、切り離せないものであるかを洞察していくという流れが、自然に起きていきやすいのだと言えます。
満月というのは、自分の中に潜在していた思いや願いにスポットライトが当たっていきやすいタイミングですが、今回は「そうそう、こういう変なところも自分なんだよね」とか、「他人と比べて苦しんできたけど、これも自分なのかも知れない」といったように、どこかでプライドをこじらせ、長いあいだ囚われていた考えから少しだけ解放されていくことができるはず。
その意味で今期は、自分の中の、どんな部分を否定して影にしてきたのか、あらためて思いを巡らせてみるといいでしょう。
水瓶座(みずがめ座)
今期のみずがめ座のキーワードは、「下等動物のような眼」。
コロナ禍の影響で、リモートワークでの打ち合わせから友人知人とのやり取りまで、あらゆることがオンラインで済まされるようになって以来、眼精疲労に悩んでいる人がかなり増えたようですが、そもそも現代人は眼に頼りすぎているというより、眼の使い方そのものが下手くそになってしまっているのかも知れません。
その点、十四歳の頃に一級の陶芸品を買って以来の陶芸鑑賞家にして装丁家であった青山二郎は、「眼を頭から切り離して、純粋に眼に映った物だけを信じる」という経験に裏打ちされた信仰の持ち主でもありましたが、それについて代表的評論「眼の引っ越し」のなかで次のように述べています。
「ある年齢まで来ると人の血の中に、誰でも銘々の流儀が宿るようになります。そうなると自分でもモウ手が附けられないし、人の言う事なぞも金輪際聞くものではありません。後はただその円熟か破滅を待つばかりです。思想から芸事に到るまで、結局銘々の流儀の源泉から生れないで、何処から本物が生まれるでしょう。ところが……銘々の眼玉が銘々の流儀に従属して物ごとを見ている事は、いい意味にしろ悪い意味にしろ、余り気付かれていません。」
青山はその原因について「眼で見たものを直ちに時間的なものに置換え、頭で判断する習慣があるから」であり、「頭の活動が始まって、その一員として眼が酷使されているから」なのだと前置きした上で、では丁寧に眼を使うということはどういうことなのかをめぐって、こう続けるのです。
「私が言いたいのは、人が放心状態の時に物が映る、あの眼玉の働きにも似ています。知りすぎる程知っている友達の顔を、突然そこに見ながら、茫然と彼は一個の人間の顔を眺め出します。何の観念も働いていません。(中略)頭は今完全に静止しています。この場合、眼玉が私でなければなりません。下等動物のような眼が、自我を持たぬ眼玉という私に変じます。「黙って坐ればピタリと当てる」眼です。」
同様に、今期のみずがめ座もまた、そんな「自我を持たぬ」眼の使い方に立ち返っていくことが、ひとつのテーマとなっていくでしょう。
参考:青山二郎『眼の哲学/利休伝ノート』(講談社文芸文庫)
その点、十四歳の頃に一級の陶芸品を買って以来の陶芸鑑賞家にして装丁家であった青山二郎は、「眼を頭から切り離して、純粋に眼に映った物だけを信じる」という経験に裏打ちされた信仰の持ち主でもありましたが、それについて代表的評論「眼の引っ越し」のなかで次のように述べています。
「ある年齢まで来ると人の血の中に、誰でも銘々の流儀が宿るようになります。そうなると自分でもモウ手が附けられないし、人の言う事なぞも金輪際聞くものではありません。後はただその円熟か破滅を待つばかりです。思想から芸事に到るまで、結局銘々の流儀の源泉から生れないで、何処から本物が生まれるでしょう。ところが……銘々の眼玉が銘々の流儀に従属して物ごとを見ている事は、いい意味にしろ悪い意味にしろ、余り気付かれていません。」
青山はその原因について「眼で見たものを直ちに時間的なものに置換え、頭で判断する習慣があるから」であり、「頭の活動が始まって、その一員として眼が酷使されているから」なのだと前置きした上で、では丁寧に眼を使うということはどういうことなのかをめぐって、こう続けるのです。
「私が言いたいのは、人が放心状態の時に物が映る、あの眼玉の働きにも似ています。知りすぎる程知っている友達の顔を、突然そこに見ながら、茫然と彼は一個の人間の顔を眺め出します。何の観念も働いていません。(中略)頭は今完全に静止しています。この場合、眼玉が私でなければなりません。下等動物のような眼が、自我を持たぬ眼玉という私に変じます。「黙って坐ればピタリと当てる」眼です。」
同様に、今期のみずがめ座もまた、そんな「自我を持たぬ」眼の使い方に立ち返っていくことが、ひとつのテーマとなっていくでしょう。
参考:青山二郎『眼の哲学/利休伝ノート』(講談社文芸文庫)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ