【最新12星座占い】<9/5~9/18>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい

2021年9月5日から9月18日のSUGARの12星座占い

【SUGARさんの12星座占い】<9/5~9/18>の12星座全体の運勢は?

「こじらせた私との和解と解放」 

前回の9月7日のおとめ座新月のテーマは「プライドの置きどころ」でした。そして9月23日の「秋分」の直前には、9月21日にうお座28度(数えで29度)で満月が形成されていきます。 

そんな7日のおとめ座新月から21日のうお座満月までの期間をあえてテーマ化するとすれば、それは「かつて否定した自分自身との和解」ということになるのだと言えるかも知れません。 

長期化したコロナのもたらす深い沈鬱のなかで、私たちはいつしか以前はごく当たり前に肯定していた衝動や実感を我慢したり、殺したり、埋めていくことを余儀なくされるようになっていました。しかし、今回の満月ではそうしてかつて自分のなかで抑え込んだり、なかったことにしていた個人的実感や衝動をみだりに否定せず、あらためて受け入れた上で、いかにそれが自分にとって大切で、切り離せないものであるかを洞察していくという流れが、自然に起きていきやすいのだと言えます。 

満月というのは、自分の中に潜在していた思いや願いにスポットライトが当たっていきやすいタイミングですが、今回は「そうそう、こういう変なところも自分なんだよね」とか、「他人と比べて苦しんできたけど、これも自分なのかも知れない」といったように、どこかでプライドをこじらせ、長いあいだ囚われていた考えから少しだけ解放されていくことができるはず。 

その意味で今期は、自分の中の、どんな部分を否定して影にしてきたのか、あらためて思いを巡らせてみるといいでしょう。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「合理的な説明が不可能な領域」。

牡羊座のイラスト
かつて日本では山にも川にも、いたるところに神様の存在を感じながら、人びとは暮らしていました。神様はどこか遠くではなく、ごく身近なところに存在していたのであり、明治の終わり頃に岩手県遠野地方に伝わる伝承を聞き書き形式で柳田國男がまとめた『遠野物語』には、実際にそうした古い神々が人びとの生活習慣のなかにどれだけ生き生きと残っていたのかが伝えられています。 
 
本書の題目では、神々は「里の神」「家の神」「山の神」に分類されており、特に「山の神」は出産を司ったり、豊かさとも結びつくありがたい神さまである一方で、下手をすると祟られて命を取られるような恐ろしい怪物でもあるような、きわめて両義的な存在だったようです。 
 
後者の側面に関しては、ある特定の日にちや時間帯、ないし特定の場所に山の神が出やすいとされ、sどれには特に気をつけなければならないという畏敬の念を人びとは持っていました。以下のお話は、当時の人たちのそんな気持ちの在り様がよく表わされています。 
 
一〇二 正月十五日の晩を小正月と云う。宵の程は子供等福の神と称して四五人群を作り、袋を持ちて人の家に行き、明けの方から福の神が舞い込んだと唱えて餅をもらう習慣あり。宵を過ぐれば此晩に限り人々決して戸の外に出ずることなし。小正月の夜半過ぎは山の神出でて遊ぶと言い伝えてあれば也。山口の字丸木立(まるこだち)におまさと云う今三十五六の女、まだ十二三の年のことなり。如何なるわけにてか唯一人にて福の神に出で、処々をあるきて遅くなり、淋しき路を帰りしに、向の方より丈の高き男来てすれちがいたり。顔はすてきに赤く眼はかがやきけり。袋を捨てて逃げ帰り大いに煩いたりと云えり。」 
 
後に柳田國男は、春に山の神が里へ降りてきて田の神になり、秋には田の神が里を離れて山の神になるという循環モデルを提示して合理化していきましたが、『遠野物語』にはそうした“合理的な説明”が当てはまらないような神々が、ふだんの日常世界と地続きの場所にいくらでも転がっていたのです。 
 
その点、今期のおひつじ座もまた、そうした合理的な説明が不可能な領域をどれだけ自分の日常や人生に持ち込めるかどうかが問われていくように思います。 


参考:柳田國男『遠野物語・山の人生』(岩波文庫) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「仮固定の浮島にとどまりながら」。

牡牛座のイラスト
いま「表現の自由」がどんどん肩身の狭いものになっているように感じます。それは、表現を不自由にする人たちからの非常に表面的なレッテル貼りによって、憲法に保証されている云々ということが、どうでもよくなってきてしまっているのだとも言えますが、その中でどのように対抗していけばいいのか。 
 
例えば、昨年末に『Jodo Journal vol.2』に収録された表象文化論学者の大橋完太郎と哲学者の千葉雅也の対談「ポストトゥルースと「創造」の現在」では、国家が記録を改ざんしたり、科学者の出したデータを恣意的に操作したりなど、「なぜかプロセスの消去が通用してしまう(大橋)」日本の政治の現状について取り上げつつ、その背景について「問題は資本主義の劇化の中で、これまでの再分配構造が成り立たなくなってきた(千葉)」という指摘がされていました。 
 
そこではともすると、とにかく少しでも自分の資本価値をあげた人が、マウンティングによって自分の位置づけを獲得していっては、また次の人にマウンティングされていくという形で、アートであろうと占いであろうと、結局はその方法論が資本主義に乗っ取られてしまう訳です。 
 
対談では、民主主義がフィクションであるならば、アート世界というのもフィクションであり、それは「作り変えることができる」ということだと定義した上で、次のように対話が結ばれていました。 
 
千葉 …科学哲学をきちんと考えている人であれば、科学的なエビデンスはプロセスの中で常に仮固定の状態で出されるものだということを前提としています。それを単純化してしまうことは、やはり僕には耐えがたい。あくまで仮固定の状態を、みんなで話し合ったり、うまくお互いの感情を調整しながら維持していくということが必要であり、それこそが民主主義なのだと言いたいですね。 
大橋 民主主義をラディカルに推し進めてしまったTwitterのようなメディアツールは、その意味での民主主義には向かないんでしょうね。あんなに議論ができないメディアツールはないから(笑) 
千葉 向きませんね。いま事実を共有できる場所はどこにあるんでしょう。 
大橋 それこそがコロナが遠ざけてしまった何かなんじゃないかな。嫌なやつだと思っていたけど、会ったり実際話したりすると実はそうでもなかったというような、他者との身体を通したやりとりによって、知らないうちに人にラベルを貼ってきた自分の狭さを思い知らされる経験がもう少しあり得たと思います。生きるということ自体が、そういう良くも悪くも正体がつかめないものであったはずなのですが、それが単純に、是非の二項対立や党派性といった短絡に落とし込まれてしまうのが問題なのではないでしょうか。」 
 
今期のおうし座もまた、いま改めて「表現の自由」を取り戻すためにも、簡単にラベリングやカテゴライズすることなどできない自身の身体的事実を共有したり、「正体がつかめない」リアリティを否定されないでいられる自分なりの居場所を大切にしていきたいところです。 


参考:『Jodo Journal vol.2』(浄土複合) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「時代の子」。

ふたご座のイラスト
すべての個人は、並外れた個性の体現者であると同時に、時代の子である――。こうしたテーゼを批評家の安藤礼二は、三島由紀夫をして「昭和文学のもつとも微妙な花の一つ」と言わしめた作家の稲垣足穂に向け、『光の曼荼羅』に収録された「未来の記憶――稲垣足穂『弥勒』論」において「1900年という象徴的な年に生まれた足穂は人生においても、またその作品世界においても、自らの個性を可能にした条件について」決定的な認識を持っていたのだとして、稲垣足穂自身の記述を引用しています。 
 
「マックス=プランクが、「近世」を絶縁する量子常数「h」を発表した同じ年の、同じ十二月の終りに、私は大阪船場に生まれた。この明治三十三年の十月には、ドイツのツェペリン伯の第一号飛行船がコンスタンツ湖上の空に浮かんだ。八月には、デイトンの自動車製造業者ライト兄弟が、彼らの最初のグライダーを北カロライナ州の海岸に運び出している。以来、年末ごとに彼等はキッティフォークに出向いて、とうとう四年目の1903年12月17日に、複葉滑翔機を機械力によって空気の座布団の上に載っけたのだった。大阪には、博覧会、メリーゴーラウンド、ウォーターシュート、大阪ホテル、ビヤホール、活動写真、ルナパーク等などが相次いで現われた」(「随筆イタ・マキニカリス」) 
 
さらに安藤は、この同じ年の象徴的出来事として、フロイトの『夢判断』の刊行、すなわち意識の深層に広がる「無意識世界」の発見を挙げて次のように述べています。 
 
無意識の世界においては、日常の時間秩序は覆り、崩壊してしまう。過去と現在が共存し、両者のあいだに判然とした区別がなくなってしまう。そして、その夢の世界でもっとも力を発揮するのは、うつろいやすい現在ではなく、不滅の時間を象徴する過去の方なのである。」 
 
はじめて生命をもった原初の物質が、死(タナトス)と生(エロス)という二つの方向に引き裂かれながら積み重ねてきた大いなる生命進化の歴史。それが夢の世界、すなわち人間に新たな共同主観性を与える可能性をもった「無意識世界」に、堆積されていったのである。「無意識」の発見は、不滅の時間について夢想することを、多くの人々に、より現実的に可能にさせた。現代芸術を成り立たせている、あらゆるイメージの源泉はここにある。」 
 
足穂にとっての未来とは、「人間の世界が、その外部と内部からともに拡大していく」ことで、「物質の世界もまた徹底的に刷新される」その先にはじめて立ち現れてくるものだったのです。 
 
今期のふたご座もまた、自身の未来を展望していくためにも、自分がどんな象徴的な年に生まれ、いかなる時代の子であるのかということについて、改めて認識を深めてみるといいでしょう。 


参考:安藤礼二『光の曼荼羅 日本文学論』(講談社文芸文庫)

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「どうせやるなら極端に」。

蟹座のイラスト
これまでの自分には理解できなかったような「難しいこと」を知ろうとしたとき、人生は静かに、けれど確かに変わっていく―。 
 
けれど、そういう努力をしなくなったとき、それが三十歳だろうと四十歳だろうと成長しなくなり、小さなプライドを守るため、半ば無意識的に他人を否定したり後進を引きずり落とすような言動に走ってしまう。いま、社会はますます余裕を失っていますが、それはともすると、こうした「難しいこと」への取り組み方を忘れてしまったことにその原因があるのではないでしょうか。 
 
その点について、世界的数学者である岡潔と、日本近代批評を確立した小林秀雄のふたりは、対談集『人間の建設』の中で次のように述べています。 
 
小林 学問が好きになるということは、たいへんなことだと思うけれど。 
岡 人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。 
小林 好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。たとえば野球の選手がだんだんむずかしい球が打てる。やさしい球を打ったってつまらないですよ。ピッチャーもむずかしい球をほうるのですからね。つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。」 
 
今の世の中でも、「わかりやすさ」こそが大切であり、それどころか「わかりやすいこと」でなければ価値がない、というところまで来ているように思います。もちろん、わかりやすさは親切心の現われではありますが、あまりに「わかりやすさ」ばかり求めていけば、その裏では必ず複雑なことや難しいことを理解する力が失われていきます。その点、小林はごく平易なことばづかいで、難しいことを理解することの大切さを語ってくれているように思います。彼の言葉の続きを追いましょう。 
 
選手には、勝つことが面白いだろうが、それもまず、野球自体が面白くなっているからでしょう。その意味で、野球選手はたしかにみな学問しているのですよ。ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないのですな。」 
 
ここには、「学問」ということに対する広くて深い理解があり、懐がある。今期のかに座もまた、むずかしいことにぶつかっていくまで物事を極端なところまでやっていくこと、すなわち、自分なりの「学問する」ということを、改めて実践していくことがテーマとなっていきそうです。 


参考:岡潔、小林秀雄『人間の建設』(新潮文庫) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「はらわたの共鳴」。

獅子座のイラスト
頭で考えるな、こころで感じろ―。有名なブルース・リーの言葉ですが、実際のところ、「こころ」で感じるとはどこでどのように感じることなのでしょうか。 
 
それは、現代人が「こころ」で感じられなくなってきたもの、つまり、ますます周りから減りつつある自然に他ならないということにヒントがあるように思います。 
 
解剖学者の三木成夫の言い方を借りれば、自然との関わりは、大抵の場合、まず目から入ってくる視覚的情報から始まります。すると、眼筋をはじめとするもろもろの筋運動がそれに連動する訳ですが、これは外皮上の感覚や神経伝達、筋肉の運動などの「体壁系」の出来事なのだと言います。 
 
ただ、自然と関わるとき、人間にはそうした「体壁系」とは別に、「肉体の奥深くから、心の声が起こる」ような仕方で「内臓系」からの反応も起こるのだとして、三木は次のように述べています。 
 
赤トンボが飛んでいるから秋。サクラの花が咲いているから春。これは、あくまでも“あたま”で考えること。ほんとうの実感は”はらわた”です。文字通り、肚の底からしみじみと感じることです。たとえば、秋の情感を表わす「さわやか」という言葉は、胸から腹にかけて、なにかスーッとする内臓感覚が中心になっている。「秋はただ悲しみをそふるはらわたをつかむばかり……」元禄の俳人宝井其角の俳文の一節です。それから、“断腸の思い”というのもありますね。「さわやか」といいこの「断腸」といい、秋の情感をリアルに表現しようと思うと、もう内臓感覚の言葉に頼る以外にない。これは、大切なことだと思います。」 
 
つまり三木の言葉を借りれば、「こころ」で感じるとは、はらわたを伝わってくる内臓波動と共鳴するということであり、今期のしし座もまた、あたまで考えたことよりも、そうして内なる小宇宙の波にこそしたがっていくことなのだと言えるでしょう。 


参考:三木成夫『内臓とこころ』(河出文庫) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「深い革命」。

乙女座のイラスト
「国家というのは国民の安全と安心の保障を第一に考えて動いてくれるものだ」といった国家神話が、今ほど社会全体で揺らぎ、崩れかかったことは、戦後日本の長い歴史を振り返っても一度としてなかったのではないでしょうか。 
 
コロナ禍への対応にオリンピック開催をめぐる一連の騒動を通じて、それほど深刻な信頼の危機を感じ取っている中で、改めて近代国家というものが、はたして安心安全の保障を最重要の目標として社会をまとめるようにできているものなのかを検討しなければならないフェーズに来ているように思います。 
 
例えば哲学者のミシェル・フーコーは、近代国家のルーツを牧者(羊飼い)と羊の関係をモデルとしたキリスト教における「司牧権力」に見出しました。すなわち、羊を世話し、餌を与え、群れを守るために最善を尽くすかのように、信者(人間)を扱って統治し、その幸福のために「熱情、献身、限りなき専心」を発揮するだけでなく、勢いあまって人間を監視し、指導しがちな教会の伝統が、紆余曲折をへながらも連綿と引き継がれ、ついに政治に入り込んできたときに、近代国家は始まったのだと。ただその際、近代における人間の統治は、ある種の合理性、ある種の計算に基づいて行われるようになり、そのきっかけとなったのが「内政」の拡張と守備範囲の肥大化だったのだと言います。 
 
内政が支配するべきもの、内政の根本的対象となるものは、いわば、人間相互の共存の形式のすべてである。人間が集まって生きること、人間が再生産すること、人間が呼吸して生きて生活していくために、各人に一定量の糧や空気が必要であること、人間が多様な職に就いて関係して労働すること、また、人間が流通空間の中にいること、このような類の(当時の思弁にとっては時代錯誤な単語を用いるなら)社会性こそが、内政が引き受けるべきものである。(中略)内政が抱えるものは広大な領域であり、生きることから、生きる以上のことにまで至ると言うべきできよう。」 
 
同時に、フーコーは、これまでに幾多の革命や抵抗はあったものの、「歴史から司牧を追い出してしまう深い革命」は過去に一度も起こらなかったという重要な指摘も残しています。なぜか。おそらくそれは、羊の集団を統治する司牧の善行と、合理的計算を旨とする政治経済学との結びつきがあまりに強固なものであったため、抵抗運動や革命運動がそれ以外の、つまり合理的計算に基づいたもの以外の統治の在り方を求めるような「深さ」にまで至らなかったからであるように思われます。 
 
その意味で、今期のおとめ座にとっても、近代的な常識や通念をかなぐり捨てて、合理性や経済性とは異なる統治の在り方、すなわち「深い革命」を自分事として構想してみることがテーマとなっていきそうです。 


参考:ミシェル・フーコー、高桑和巳訳『安全・領土・人口(ミシェル・フーコー講義集成7)』(筑摩書房) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「自己否定を含んだ他者との関わり」。

天秤座のイラスト
直接的な他者との「濃厚な」接触が著しく制限されるようになって以来、他者とのつながり方もすっかり変わってしまったというより、つながりから身体性がそっくり抜け落ちて、「よい/わるい」や「好き/嫌い」「すごい/すごくない」の二極分化やレッテル貼りが無意識のうちに進みやすくなってしまったように感じます。 
 
もちろん、人間の生活というものが、社会という場所において成り立っていることは間違いないのですが、それ以上に、具体的な他者との関わりのなかではじめて生きている実感を持つことができる、ということも確かなのではないでしょうか。 
 
これはつまり、他者は社会を超えて「私」に迫るものであるとも言える訳ですが、と同時に、他者というものはどうしてもその奥底までは捉えきれないという断絶に直面させてくれもします。こうした他者の問題について独自に突き詰めていった哲学者の西田幾多郎は、媒介なしに直面しつつ、それゆえにかえって絶対に同化しきれない深淵におののくことのできる“深み”を「無の場所」として見出しました。 
 
時あたかも日本の敗戦が濃厚となった昭和二十(1945)年、最晩年に最後の力を振り絞って書かれた『場所的論理と宗教的世界観』という論考のなかで、西田は通常の他の人というより、神や仏などとの関わりまでをも想定して次のように述べました。 
 
我々の自己とは、何処までも自己矛盾的存在であるのである。自己自身について考える、即ち主語的なるとともに述語的、自己が自己の働きを知る、即ち時間的なるとともに空間的存在である。我々の自己は、かかる自己矛盾において自己存在を有(も)つのである。自己矛盾的なればなるほど、我々の自己は自己自身を自覚するのである。それは実にパラドックスである。ここに深い問題があるのである。我々の自己は自己否定において自己を有つということができる。主語的方向においても、述語的方向においても有と考えられない。絶対の無において自己自身を有つということができる。」 
 
自己はその根底に否定性を含んでおり、それゆえに自己否定を通してはじめて他者と関わることができる。それを西田は「逆対応」といういい方でも表しましたが、それは若い頃に幼いわが子を亡くし、晩年には妻を亡くし、喪失と向き合い続けた西田が、その人生から懸命に紡ぎ出したきわめて切実な他者論の結晶だったのだと思います。 

今期のてんびん座もまた、そうした「自己否定において自己を有つ」という感覚を自分なりに深めてみるといいでしょう。
 
 
参考:上田閑照編『西田幾多郎哲学論集Ⅲ 自覚について 他四篇』(岩波文庫) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「性の多様性」。

蠍座のイラスト
日常生活のなかで見ず知らずの「他人に身をあずける」機会が激減した現在のような事態が、今後も長期化していくだろうことを考えると、リスキーな誘惑を排除できたというメリットとして喜ぶこともできる一方で、固定観念からみずからの感覚をほどいていくチャンスの喪失というデメリットの影響もきちんと考慮していかなければならないように思います。 
 
ここで思い出されるのが、かつてセクシー・エスティシャンとして一世を風靡した南智子さんの存在です。哲学者の鷲田清一によるインタビューとレポートをまとめた『<弱さ>の力』に収録された「受け身と多様―「先生」と呼ばれる性感マッサージ嬢」のなかで、彼女は自分のもとに訪れたたくさんの男性を振り返りつつ、自分がまるでセクシービデオの女性のように感じまくったことにひどくショックを受けたり、自分はホモだったのかと落ち込む男性について次のようなことを語っていました。 
 
「『性的なベクトルが異性に向いているか同性に向いているかということと、身体のどこが感じるかってことはまったく別のことだから』って言ってあげるんだけど、『えっ?』って意味がわからないんです。どこまでもヘテロ男性の性って封じ込められているんです。」 
 
男性は、女性は、ってふうに語らないほうがいいと思います。個人差だと思いますから。オーガズムを得ないと駄目だという幻想に憑かれているひともいるけど、ノンセクシャルで満ち足りているひともいる。でもそれを自分は変じゃないかと悩む必要なんかない。どんなかたちであれ、固定観念のようにこびりついた幻想を外したいんです。マスコミ情報にがんじがらめになっている男性って、ほんとに多い。自分の性にどれだけきちんと向きあって生きていくのか、それを考えている男性は少ないです。(中略)性として身体を見た場合、同じものは二つとしてないです。だって、自然物なんで、手とかすべてねえ、同じだったらそっちのほうがビックリですよ。」 
 
「女って、(異性に向かうか同性に向かうかの)その境界線が非常にあいまいだと思えるんです。それをビデオに出て、とても感じました。つまり、みんなそれぞれ個性があるし、セックスの好みも異なっているのだけれど、不思議なつながりみたいなものが体感できたの。ひとりひとりは全然違うのに、全体で女という一つの生き物を構成しているというか…。パッと溶けあったかと思うと、パッと離れられる、まるで同じ素材でできてるって感じなんです。男は殴り合ったりしながら殻を叩き割る必要があるんでしょうね。その点、女はアメーバ状態だから、その必要もないのではないでしょうか。」 
 
この言葉に対して、AV監督の代々木忠さんが「男が女から学ぶことは、まだまだたくさんありそうですね」と応えているように、今期のさそり座もまた、同じ意味で自分の性にきちんと向きあっていくことを通して、自然と性の多様性に開かれていくことがテーマになっているのかも知れません。 


参考:鷲田清一『弱さの力』(講談社学術文庫)

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「男でもあり女でもある」。

射手座のイラスト
社会が混迷を極めている昨今、Twitterなどのソーシャルメディアでも、ますます物事の是非を二元論的な思考ですぐに結論を出して「わるい」ものや「嫌い」なものを、サンドバッグのごとく寄ってたかって攻撃するという、議論や会話さえ成立しない乱暴な空気感が感じられるようになってきました。 
 
ただ、こうした、あれかこれかの二元論にはまらないという話になると、必ずセクシャルマイノリティや性の多様性につながってくる訳ですが、こうした話にただ「かわいそうな人には優しくしてあげなきゃ」といったテンプレ的な反応をするのではなく、どうしたら議論の水準そのものを深めることができるかということが、いま改めて重要になって来ているように思います。 
 
例えば、両性具有ということを、生まれついての特殊なケースとしてではなく、個人的人格であれ職業的成熟であれ、目指すべき全体性にいたるプロセスに登場するひとつの過渡的状況として取りあげた人に、宗教学者の山折哲雄がいました。山折は、作家の平野啓一郎との「信仰とエロティシズム」と題された対談のなかで、次のように述べています。 
 
山折 聖書のイエス・キリストの描き方は男性である、なぜ女性でないのか、という議論がありますね。また神は男か女かという問題にもなるわけですが、これはフェミニズムのレベルで常に問題になってきています。つまりユダヤ教の神もイエスも男性というイメージが強かったわけで、それはずっと変わらないと思うけれど、例えば中世のキリスト教美術なんかを見ますと、イエス・キリストがかなり女性化していますね。 
平野 はい。 
山折 仏教の伝統でも、仏陀は男性ですし、観音菩薩も男性だったはずなんです。ところが、中国、日本と伝わってくると、仏陀はやはり少しずつ女性化していく。女性化がもっとも激しかったのが観音さまですね。これは両性具有的な段階を超えて、女性そのものになってしまう。ですから、日本においては、観音さまは悲母観音であり慈母観音なわけです。そのことと、イエス・キリストが女性化していく過程というのは、似ているようで、ちょっと違うのかなという感じがしております。というのは、イエスは完全には女性にならないわけですから……。 
平野 マリア像が、その部分を引き受けたという形になっているんじゃないでしょうか。 
山折 だから、日本の観音さまはそのマリア観音になって、また生き返るわけですね。そう考えますと、やはり宗教家というのは、男の場合には、自分の内に女性性を深く育てていくという面をもつのではないかと思います。成熟した段階で男か女か分からないような状況になる。女性宗教家も、同じような経過を辿って、その表情は男でもあり女でもあるというような姿になる。」 
 
今期のいて座もまた、こうした「男性的なものと女性的なものが統一されてはじめて人間社会や個人は完全になっていく」という思想を自身の立場や状況に当てはめてみるといいでしょう。 
 

参考:山折哲雄編『悪と日本人』(東京書籍) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「私小説は毒虫のごとく」。

山羊座のイラスト
SNSを始めとした各種情報発信ツールがこれほどまでに浸透し、誰もが複数のメディアで日常的なつぶやきや、自分の考えや意見を不特定多数の人の目に届けることができるようになった時代はかつてありませんでした。 
 
しかし一方で、2016年に「ポストトゥルース」という言葉が登場してきたあたりから、注目されさえすれば嘘でも盗用したネタでも構わないという風潮が顕著になってきたようにも思います。単に言葉が軽いという以上に、そもそも言葉が何であるかを知らないかのように。 
 
ここで思い出されるのが、デビュー以来私小説を通じて自己の存在の根源を問い続け、映画化もされた『赤目四十八瀧心中未遂』などの作品で知られる作家の車谷長吉の文章です。彼は90年代半ばに書かれた「私(わたくし)小説について」というエッセイの中で、「日常の底に隠された得体の知れない不気味なものに、じかに触れることになる」がゆえに、人の心は畏敬の念に駆られるのであり、そういう念でもって書かれるものとしての「私小説の言葉はどうしても呪術的にならざるを得ない」のだと述べた上で、次のように締め括りました。 
 
…私小説を書くことは悪であり、書くことは己れを崖から突き落とすことであった。つまり、こういうことはろくでなしのすることであって、言葉によって己れを問うことはあっても、それを文字にすることのない敬虔な人は多くいるのである。して見れば、人の忌むことを確信犯的に、死物狂いに行なうのであるから、これがいかに罪深いことであるかは言うを俟たない。けれども私の中には人間存在の根源を問わざるを得ない、あるいはそれを問うことなしには生きては行けない不幸な衝迫があり、その物の怪のごとき衝迫こそが、私の心に立ち迷う生への恐れでもあった。」 
 
彼の「人の忌むことを確信犯的に、死物狂いに行なうのであるから」という一節は特に重く感じられますが、こうした重たさでもってしか迫れない人間というものの複雑さや奥行きも、本当は誰もがみな持っていたものなのではないでしょうか。 
 
今期のやぎ座もまた、自身の出自や存在の根源にある「得体の知れない不気味なもの」や「善悪の彼岸に立ち迷う」重たさを、自身の言葉に取り戻していきたいところです。 


参考:車谷長吉『業柱抱き』(新潮文庫) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「下等動物のような眼」。

水瓶座のイラスト
コロナ禍の影響で、リモートワークでの打ち合わせから友人知人とのやり取りまで、あらゆることがオンラインで済まされるようになって以来、眼精疲労に悩んでいる人がかなり増えたようですが、そもそも現代人は眼に頼りすぎているというより、眼の使い方そのものが下手くそになってしまっているのかも知れません。 
 
その点、十四歳の頃に一級の陶芸品を買って以来の陶芸鑑賞家にして装丁家であった青山二郎は、「眼を頭から切り離して、純粋に眼に映った物だけを信じる」という経験に裏打ちされた信仰の持ち主でもありましたが、それについて代表的評論「眼の引っ越し」のなかで次のように述べています。 
 
「ある年齢まで来ると人の血の中に、誰でも銘々の流儀が宿るようになります。そうなると自分でもモウ手が附けられないし、人の言う事なぞも金輪際聞くものではありません。後はただその円熟か破滅を待つばかりです。思想から芸事に到るまで、結局銘々の流儀の源泉から生れないで、何処から本物が生まれるでしょう。ところが……銘々の眼玉が銘々の流儀に従属して物ごとを見ている事は、いい意味にしろ悪い意味にしろ、余り気付かれていません。」 
 
青山はその原因について「眼で見たものを直ちに時間的なものに置換え、頭で判断する習慣があるから」であり、「頭の活動が始まって、その一員として眼が酷使されているから」なのだと前置きした上で、では丁寧に眼を使うということはどういうことなのかをめぐって、こう続けるのです。 
 
私が言いたいのは、人が放心状態の時に物が映る、あの眼玉の働きにも似ています。知りすぎる程知っている友達の顔を、突然そこに見ながら、茫然と彼は一個の人間の顔を眺め出します。何の観念も働いていません。(中略)頭は今完全に静止しています。この場合、眼玉が私でなければなりません。下等動物のような眼が、自我を持たぬ眼玉という私に変じます。「黙って坐ればピタリと当てる」眼です。」 
 
同様に、今期のみずがめ座もまた、そんな「自我を持たぬ」眼の使い方に立ち返っていくことが、ひとつのテーマとなっていくでしょう。 


参考:青山二郎『眼の哲学/利休伝ノート』(講談社文芸文庫) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「新しい手の物語」。

魚座のイラスト
近代という時代は、間違いなく頭脳労働を尊んで人間を過酷な労働から解放することをよしとして進歩してきたはずですが、人工知能の登場以降、社会は次第に「人間にしかできないこと」を求めるようになった結果、「手心の加え方」や「言葉や数値では表し得ない手触り」などむしろ精妙な身体性が入り込んだ労働が称揚されるようになってきているように思います。 
 
進化史上、手はその機能的発達が脳の発達に伴わなければ、ヒトはヒトになりえかったほどに重要な役割を果たしてきましたが、いま私たちは改めて「労働する手」「制作する手」をどのように豊かに、そして固有に語りえるかという問題に直面しつつあるのかも知れません。 
 
そこで想いだされるのが、かつて精神科医の中井久夫が、アメリカの心理学者ソーレルの手相研究書である『人間の手の物語』への書評です。その中で中井は、17世紀に急速に衰退していった「秘教的、ネオプラトニズム的、マニエリスム的総合」が、近代市民生活の労働の論理と倫理の行き詰まりの中で復活してきたものの一つとして手相を位置づけつつも、次のように自問自答してみせました。 
 
では、なぜ精神医学は手相にほとんど関心を示さないのだろう。思うに精神科医は、あまりに多くのことがたちどころにわかるものには幾分懐疑的なのである。」 
 
ソーレルの著書で語られるのは、いわば「労働する手」「制作する手」の対極にある、生活史や性格や健康や運命の反映としての、つまり「鏡としての手」であり、中井はそれを読み解く予見の術としての手相に対し、先のように語る一方で「たとえばロールシャッハ・テストの代用となるだろうか。かもしれない。手には労働や感情の個人史が深く刻印されているだろう」とも述べてもいます。 
 
おそらく、いま私たちに求められている手の語り方というのも、従来の「現実原則にもとづく問題解決」としての手の側面と、中井が扱ってみせたような「鏡としての手」の側面を統合するなかでやっと紡ぎ出すことできるような類のものなのではないでしょうか。 
 
今期のうお座もまた、そうした観点から今だからこそ可能な、自分なりの新しい「手」の物語を紡ぎ出してみるといいでしょう。 


参考:中井久夫『私の「本の世界」』(ちくま学芸文庫) 
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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