【最新12星座占い】<3/20~4/2>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい
【SUGARさんの12星座占い】<3/20~4/2>の12星座全体の運勢は?
「社会的秩序の相対化」
いよいよ春もたけなわに入り、花々が咲いては散ってゆき、それを「惜しむ」思いが深まっていく頃合いに変わってきました。そんな中、「春分」から「清明」へと節気が移ろう直前の4月1日に、おひつじ座11度(数えで12度)で新月を迎えていきます。
今回の新月のテーマは、「天の采配への同期」。すなわち、ふだん地上を這うように生きている自分の選択や振る舞いのひとつひとつが、みずからの意思や社会の空気によってのみ決定されているのではなく、それらを超えたところで働いている宇宙的な原理によって突き動かされているのだという実感を改めて深めていくこと。
例えば、春になってあたたかくなってくれば冬鳥の雁は北へ帰っていきます。かつてはその姿が日本のどこでも見られ、子供たちは「棹になれ、鉤になれ(まっすぐに連なれ、鉤形に並べ)」とはやしたてたそうですが、そうして新たな季節の訪れを知らせてくれる渡り鳥が道に迷うことなく、何千キロもの長距離を移動し、それを毎年繰り返すように、私たち人間もまた、食事や睡眠などのごく身近なレベルの日常的行動から、経済活動や軍事侵攻などの集団的行動まで、日々何らかのかたちで、地球の磁気や気候の変動などの惑星規模の影響力によって左右されているのです。
ここのところ、従うべき法と秩序とは何か、ということが人間中心的なものへ寄り過ぎていましたから、今回の新月では、いかにそうした社会的な通念や常識を相対化し、宇宙的サイクルや天の采配に同期して、自然体へと還っていけるかということが、各自の状況に応じて問われていくことでしょう。
今回の新月のテーマは、「天の采配への同期」。すなわち、ふだん地上を這うように生きている自分の選択や振る舞いのひとつひとつが、みずからの意思や社会の空気によってのみ決定されているのではなく、それらを超えたところで働いている宇宙的な原理によって突き動かされているのだという実感を改めて深めていくこと。
例えば、春になってあたたかくなってくれば冬鳥の雁は北へ帰っていきます。かつてはその姿が日本のどこでも見られ、子供たちは「棹になれ、鉤になれ(まっすぐに連なれ、鉤形に並べ)」とはやしたてたそうですが、そうして新たな季節の訪れを知らせてくれる渡り鳥が道に迷うことなく、何千キロもの長距離を移動し、それを毎年繰り返すように、私たち人間もまた、食事や睡眠などのごく身近なレベルの日常的行動から、経済活動や軍事侵攻などの集団的行動まで、日々何らかのかたちで、地球の磁気や気候の変動などの惑星規模の影響力によって左右されているのです。
ここのところ、従うべき法と秩序とは何か、ということが人間中心的なものへ寄り過ぎていましたから、今回の新月では、いかにそうした社会的な通念や常識を相対化し、宇宙的サイクルや天の采配に同期して、自然体へと還っていけるかということが、各自の状況に応じて問われていくことでしょう。
《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)
今期のおひつじ座のキーワードは、「癒し体験としての隣人愛」。
政府やメディア、会社や配偶者の言うことに、できる限り従っていこうとする生き方を、健気で従順な"家畜”のそれだとするならば、今期のおひつじ座のテーマはいかに自分に備わった本来の“野生”を取り戻していくかというところにあるでしょう。
そして、そうした野生の回復を、ひとつの癒しのわざとして他者に施していった最大の人物と言えるのがイエス・キリストでした。キリスト教思想研究で知られる柳澤田美は「イエスの<接近=ディスポジション>」という論文の中で、「イエスの身体的行為は、福音書の編纂者たちが示したイエスの人物像を最も雄弁に語る情報である」と指摘した上で、その特徴について次のように述べています。
「イエスの身体的行為の第一の特徴が、留まらず、常に移動することであることは間違いがない。人々が引きとめても、イエスは移動を止めることはなかった。このように恒常的に運動・移動するという性質は、イエスが人びとに付与するものでもある。イエスは、足の萎えた男に、悪霊に憑かれた人に、出血を患っていた女性に、「行きなさい」と声を掛ける。この言葉に促されて、イエスに接触された人々は、歩き始める。」
柳澤は「イエスの活動の核心はその恒常的な運動性や移動性にこそあるのだ」と述べつつ、さらにイエスやその弟子たちが移動しながら実現させている人々との「出会い」や「邂逅」の特徴として、「唐突な物理的接近と近さの表明」を挙げています。
そしてその実例として、例えば「隣人とは「……である」という仕方で固定的に定められるものではなく、各人が「なる」という仕方で実現するべき実践である」として、「(隣人)愛とは、強い情動と、距離をつめて「近づく」という身体的行為のカップリングに他ならない」のだと図式化してみせたのです。
こうした観点からみると、イエスが人びとにもたらした「癒し」とは、他者とは共有も説明も不可能な極めて内面的な宗教体験というよりも、むしろ彼によって滞っていた状態から流動化されて「歩いて行った」人々が、それだけで終わるのではなく、イエスの接近によって直接情動を突き動かされることで生じた愛を、自身もまた他の誰かに「近づく」ことで、また愛を引き起こしていく側に回っていくという仕方で、連鎖的にそのネットワークを広げていくようにしてもたらされていった、ある種の運動(ムーブメント)としての側面を持っていたのだという解釈が成り立つのではないでしょうか。
今期のあなたもまた、そうした唐突な接近を通じた、癒し/癒される体験の連鎖の環を身近なところで感じてくことができるかも知れません。
参考:柳澤田実・編『ディスポジション 配置としての世界』(現代企画室)
そして、そうした野生の回復を、ひとつの癒しのわざとして他者に施していった最大の人物と言えるのがイエス・キリストでした。キリスト教思想研究で知られる柳澤田美は「イエスの<接近=ディスポジション>」という論文の中で、「イエスの身体的行為は、福音書の編纂者たちが示したイエスの人物像を最も雄弁に語る情報である」と指摘した上で、その特徴について次のように述べています。
「イエスの身体的行為の第一の特徴が、留まらず、常に移動することであることは間違いがない。人々が引きとめても、イエスは移動を止めることはなかった。このように恒常的に運動・移動するという性質は、イエスが人びとに付与するものでもある。イエスは、足の萎えた男に、悪霊に憑かれた人に、出血を患っていた女性に、「行きなさい」と声を掛ける。この言葉に促されて、イエスに接触された人々は、歩き始める。」
柳澤は「イエスの活動の核心はその恒常的な運動性や移動性にこそあるのだ」と述べつつ、さらにイエスやその弟子たちが移動しながら実現させている人々との「出会い」や「邂逅」の特徴として、「唐突な物理的接近と近さの表明」を挙げています。
そしてその実例として、例えば「隣人とは「……である」という仕方で固定的に定められるものではなく、各人が「なる」という仕方で実現するべき実践である」として、「(隣人)愛とは、強い情動と、距離をつめて「近づく」という身体的行為のカップリングに他ならない」のだと図式化してみせたのです。
こうした観点からみると、イエスが人びとにもたらした「癒し」とは、他者とは共有も説明も不可能な極めて内面的な宗教体験というよりも、むしろ彼によって滞っていた状態から流動化されて「歩いて行った」人々が、それだけで終わるのではなく、イエスの接近によって直接情動を突き動かされることで生じた愛を、自身もまた他の誰かに「近づく」ことで、また愛を引き起こしていく側に回っていくという仕方で、連鎖的にそのネットワークを広げていくようにしてもたらされていった、ある種の運動(ムーブメント)としての側面を持っていたのだという解釈が成り立つのではないでしょうか。
今期のあなたもまた、そうした唐突な接近を通じた、癒し/癒される体験の連鎖の環を身近なところで感じてくことができるかも知れません。
参考:柳澤田実・編『ディスポジション 配置としての世界』(現代企画室)
《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)
今期のおうし座のキーワードは、「宇宙水を汲む」。
数年前から、外国資本による日本の「水源地の山林」の買い占めが進んでいるという噂話をあちこちで耳にするようになりましたが、事の真相はともかくとして、そうした噂が立つこと自体、21世紀では世界のあちこちで水資源の争奪戦が起きていくであろうという身に迫った危機感の裏返しに他ならないように思います。
それにしても、なぜ川の水は絶えることなく流れているのでしょうか。そして、その源はどこにあるのか。ものごとの起源をめぐって、古代人はしばしば神さまの出生に仮託し、それを神話という形で紡いでいますが、文学者の中西進は『古事記』に記述された水戸(河と海の境)の神あるハヤアキツヒコとハヤアキツヒメを取り上げ、まず泡の神さまが生まれ、次につら(水面)の神さまが生まれ、その次にみくまり(分水嶺)の神さまが生まれた点に着目し、この「みくまり(分水嶺)」、すなわち水配りが為される川の上流地点こそが水源と考えられていたのではないかと指摘しています。
ただ、分水嶺を水源と考えたところで、なぜ川の水がとうとうと流れ続けることができるのかは説明できません。中西はそこに一歩踏み込んで、次のような自説を展開するのです。
「古事記の神話では、みくまりの神さまの後に、クヒザモチが生まれています。このクヒザモチについて、本居宣長はこれは「汲みひさご持ちの神」のことだろうと指摘しています。「汲みひさご」とは、ひょうたんを縦半分に割って作った、水を汲む道具です。(中略)クヒザモチは、どこから水を汲んでくるのでしょう。ふつう考えれば海なのですが、海水はあまりにしょっぱいから、古代人だって海水ではないと思ったはず。私は、これこそ宇宙水なのではないかと思います。この大地の周り、空も海も含めてこの世のすべてを満たしている宇宙水という概念を、日本の古代人ももっていたのではないでしょうか。天窓が開きすぎて世界が大洪水になったのだと古代ヘブライ人が考えたように、この『古事記』の神話も、そのようなグローバルな神話・伝説のなかで解釈すべきものではないかと思うのです。」
中西の説に従うならば、古代人の考えたクヒザモチはずいぶんな巨人ということになります。汲みひさごを持って、遠くまで手を伸ばして宇宙水を汲んできて、それを川に流すわけですから、なんとも雄大な発想ですね。
4月1日におうし座から数えて「自分を包みこむ大いなる存在」を意味する12番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自分にも「宇宙水」から流れ来るものの一部が満ち満ちているのだと考えて、自分なりの水配り(みくまり)、すなわち大いなる循環への参画を為してみるといいでしょう。
参考:中西進『ひらがなでよめばわかる日本語』(新潮文庫)
それにしても、なぜ川の水は絶えることなく流れているのでしょうか。そして、その源はどこにあるのか。ものごとの起源をめぐって、古代人はしばしば神さまの出生に仮託し、それを神話という形で紡いでいますが、文学者の中西進は『古事記』に記述された水戸(河と海の境)の神あるハヤアキツヒコとハヤアキツヒメを取り上げ、まず泡の神さまが生まれ、次につら(水面)の神さまが生まれ、その次にみくまり(分水嶺)の神さまが生まれた点に着目し、この「みくまり(分水嶺)」、すなわち水配りが為される川の上流地点こそが水源と考えられていたのではないかと指摘しています。
ただ、分水嶺を水源と考えたところで、なぜ川の水がとうとうと流れ続けることができるのかは説明できません。中西はそこに一歩踏み込んで、次のような自説を展開するのです。
「古事記の神話では、みくまりの神さまの後に、クヒザモチが生まれています。このクヒザモチについて、本居宣長はこれは「汲みひさご持ちの神」のことだろうと指摘しています。「汲みひさご」とは、ひょうたんを縦半分に割って作った、水を汲む道具です。(中略)クヒザモチは、どこから水を汲んでくるのでしょう。ふつう考えれば海なのですが、海水はあまりにしょっぱいから、古代人だって海水ではないと思ったはず。私は、これこそ宇宙水なのではないかと思います。この大地の周り、空も海も含めてこの世のすべてを満たしている宇宙水という概念を、日本の古代人ももっていたのではないでしょうか。天窓が開きすぎて世界が大洪水になったのだと古代ヘブライ人が考えたように、この『古事記』の神話も、そのようなグローバルな神話・伝説のなかで解釈すべきものではないかと思うのです。」
中西の説に従うならば、古代人の考えたクヒザモチはずいぶんな巨人ということになります。汲みひさごを持って、遠くまで手を伸ばして宇宙水を汲んできて、それを川に流すわけですから、なんとも雄大な発想ですね。
4月1日におうし座から数えて「自分を包みこむ大いなる存在」を意味する12番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自分にも「宇宙水」から流れ来るものの一部が満ち満ちているのだと考えて、自分なりの水配り(みくまり)、すなわち大いなる循環への参画を為してみるといいでしょう。
参考:中西進『ひらがなでよめばわかる日本語』(新潮文庫)
《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)
今期のふたご座のキーワードは、「再定住する」。
春は出会いと別れの季節であり、引越しをするしないに関わらず、新生活がスタートする初々しさがどことなく漂う季節でもあります。
日本人もふたご座も、どちらもつねに新しいものを求めていく性質がありますから、住む場所を定期的に転々としていく人も多いことかと思いますが、そうした“移動し続ける”生活というのは、人間が場所を喪失したルーツレスな現代文明の状況をある意味でとても正確に反映しているのではないでしょうか。
ともに詩人であり、それぞれ屋久島とシエラネバダの山中に暮らす山尾三省とゲーリー・スナイダーは、そうした現代的な生活とは正反対の、ひとつの場所に住んで環境という視点からみずからを再教育していく生き方を「再定住」と呼び、その中で植物、土壌、動物、あるいは気候などに関する正確な知識を獲得しつつ、生態系に対する人間の責任を確認することの重要性について、次のように語っています。
「スナイダー そこに自分の場所を見つけないと、心理的にそこにはいないんですね。そこかよそにいるんです。それはまた、自分とはいったい何者かという定義にも関わってくる。ですから、これはとても精神的な問題ですね。
(…)
山尾 僕の言葉で言うならば、ひとつの場所が持っている豊かさというものは自分の一生を捧げつくしても探しきれないものだと思うんです。自分の一生や二生を捧げても探しきれない。
スナイダー(…)たとえばソローは、「私はコンコードの町を広く旅した」と言っているんです。つまりコンコードは小さな町だけれど、ソローはひじょうに大きくとらえて、そこを何度も何度も旅してきた、ということなんだね。
山尾 つまりソローはその場所を深く、どこまでもよく知ろうとしたということですね。
スナイダー そうです。彼が言いたかったことはまた、そこは面積の上では小さいけれど、彼はその場所を充分にそして深く知ろうとしたということなんだね。
山尾 それがディープ・エコロジーですね。また、場の哲学というものです。」
山尾はこうした意味での「場」をめぐって、「大地が人知れず見ている夢がある」という言い方でも表現しているのですが、4月1日にふたご座から数えて「ネットワーク」を意味する11番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自身の生活を支えている大地の夢をできるだけ深くから起こしていくことを目指してみるといいでしょう。
参考:山尾三省、ゲーリー・スナイダー『聖なる地球のつどいかな』(山と渓谷社)
日本人もふたご座も、どちらもつねに新しいものを求めていく性質がありますから、住む場所を定期的に転々としていく人も多いことかと思いますが、そうした“移動し続ける”生活というのは、人間が場所を喪失したルーツレスな現代文明の状況をある意味でとても正確に反映しているのではないでしょうか。
ともに詩人であり、それぞれ屋久島とシエラネバダの山中に暮らす山尾三省とゲーリー・スナイダーは、そうした現代的な生活とは正反対の、ひとつの場所に住んで環境という視点からみずからを再教育していく生き方を「再定住」と呼び、その中で植物、土壌、動物、あるいは気候などに関する正確な知識を獲得しつつ、生態系に対する人間の責任を確認することの重要性について、次のように語っています。
「スナイダー そこに自分の場所を見つけないと、心理的にそこにはいないんですね。そこかよそにいるんです。それはまた、自分とはいったい何者かという定義にも関わってくる。ですから、これはとても精神的な問題ですね。
(…)
山尾 僕の言葉で言うならば、ひとつの場所が持っている豊かさというものは自分の一生を捧げつくしても探しきれないものだと思うんです。自分の一生や二生を捧げても探しきれない。
スナイダー(…)たとえばソローは、「私はコンコードの町を広く旅した」と言っているんです。つまりコンコードは小さな町だけれど、ソローはひじょうに大きくとらえて、そこを何度も何度も旅してきた、ということなんだね。
山尾 つまりソローはその場所を深く、どこまでもよく知ろうとしたということですね。
スナイダー そうです。彼が言いたかったことはまた、そこは面積の上では小さいけれど、彼はその場所を充分にそして深く知ろうとしたということなんだね。
山尾 それがディープ・エコロジーですね。また、場の哲学というものです。」
山尾はこうした意味での「場」をめぐって、「大地が人知れず見ている夢がある」という言い方でも表現しているのですが、4月1日にふたご座から数えて「ネットワーク」を意味する11番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自身の生活を支えている大地の夢をできるだけ深くから起こしていくことを目指してみるといいでしょう。
参考:山尾三省、ゲーリー・スナイダー『聖なる地球のつどいかな』(山と渓谷社)
《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)
今期のかに座のキーワードは、「通過儀礼」。
ここのところウクライナ情勢に関するニュースをひとしきり見聞きして、国家というものが、つくづくその本質を暴力に根ざしているものなのだとういうことを改めて痛感させられた人も少なくないでしょう。
かつてマックス・ウェーバーが「国家とは、正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である」と定義したように、暴力による暴力の取締りによって国家は成り立っており、そうした構造は国家を構成する大小の共同体にも通底していますが、そうした共同体を暴力とは異なる仕方で支えてきたもう一つの根源的な力こそが宗教でした。
例えば、日本の山岳宗教である修験道の開祖とされる7世紀後半の修行者・役小角(えんのおづぬ)は、昔ながらの共同体からたまたま離れてしまったのではなく、みずからの意思で共同体を捨てて山林に「亡命」した訳ですが、彼はその後の修行者の原型となって、その修行の範型は古代人たちのあいだで成人式となって伝わり、普遍化していきました。つまり、子供として死に大人として再生するためのいわゆる通過儀礼です。
古代文学を専門とする西郷信綱は、『神話と国家』に収録された「役小角考」において、そうした通過儀礼の果たした共同体への役割について、次のように述べています。
「試練を終えた若者たちは村にもどり、ふたたび共同体の生活のなかに統合されてゆく。共同体をもっぱら静止的なものと考えるのは、正しくない。共同体も単に“ある”のではなく、やはり絶えず生成し、“なる”のであって、恒常性と変化との相互関係が過程としてそこにも生きていた。」
また、役小角は山中の洞窟に居たとされますが、西郷はそれも比喩的には母の胎であり、隔離の生活を典型化したものであると解釈した上で、共同体が内部で硬直していくのを防ぐために不可欠な新陳代謝を促す宗教的な原理の象徴として役小角を捉えたのです。
「山中に隔離しきびしい試練を課する成年式の伝統形式は、大陸伝来の道教や密教の芳烈な影響を浴びるなかで、いわば永遠化され、山上の行者という新たな宗教者を生みだすに至った、といっていいのではなかろうか。成年式における隔絶の生活は、共同体の裂目である。その裂目に大陸伝来の教義が突入し、否定的な一つの飛躍は成就される。共同体との臍の緒が切れ、それからはみ出し、対立しさえするカリスマ的人格がこうして、村々を見おろす山中の孤独のなかで生誕する。それが役行者にほかならないと思う。」
4月1日にかに座から数えて「集団原理との同期」を意味する10番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、そうした宗教的な儀礼や祭式をみずからの生活に改めて取り込んでみるといいでしょう。
参考:西郷信綱『神話と国家』(平凡社選書)
かつてマックス・ウェーバーが「国家とは、正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である」と定義したように、暴力による暴力の取締りによって国家は成り立っており、そうした構造は国家を構成する大小の共同体にも通底していますが、そうした共同体を暴力とは異なる仕方で支えてきたもう一つの根源的な力こそが宗教でした。
例えば、日本の山岳宗教である修験道の開祖とされる7世紀後半の修行者・役小角(えんのおづぬ)は、昔ながらの共同体からたまたま離れてしまったのではなく、みずからの意思で共同体を捨てて山林に「亡命」した訳ですが、彼はその後の修行者の原型となって、その修行の範型は古代人たちのあいだで成人式となって伝わり、普遍化していきました。つまり、子供として死に大人として再生するためのいわゆる通過儀礼です。
古代文学を専門とする西郷信綱は、『神話と国家』に収録された「役小角考」において、そうした通過儀礼の果たした共同体への役割について、次のように述べています。
「試練を終えた若者たちは村にもどり、ふたたび共同体の生活のなかに統合されてゆく。共同体をもっぱら静止的なものと考えるのは、正しくない。共同体も単に“ある”のではなく、やはり絶えず生成し、“なる”のであって、恒常性と変化との相互関係が過程としてそこにも生きていた。」
また、役小角は山中の洞窟に居たとされますが、西郷はそれも比喩的には母の胎であり、隔離の生活を典型化したものであると解釈した上で、共同体が内部で硬直していくのを防ぐために不可欠な新陳代謝を促す宗教的な原理の象徴として役小角を捉えたのです。
「山中に隔離しきびしい試練を課する成年式の伝統形式は、大陸伝来の道教や密教の芳烈な影響を浴びるなかで、いわば永遠化され、山上の行者という新たな宗教者を生みだすに至った、といっていいのではなかろうか。成年式における隔絶の生活は、共同体の裂目である。その裂目に大陸伝来の教義が突入し、否定的な一つの飛躍は成就される。共同体との臍の緒が切れ、それからはみ出し、対立しさえするカリスマ的人格がこうして、村々を見おろす山中の孤独のなかで生誕する。それが役行者にほかならないと思う。」
4月1日にかに座から数えて「集団原理との同期」を意味する10番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、そうした宗教的な儀礼や祭式をみずからの生活に改めて取り込んでみるといいでしょう。
参考:西郷信綱『神話と国家』(平凡社選書)
《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)
今期のしし座のキーワードは、「無意識的な反応の出現」。
「好きを仕事に」という文言をネットや媒体広告などで目にする度に、いつもどこかムズムズとした違和感を覚えるのですが、これは一体なぜでしょうか。
考えてみると、ここでいう「好き」というのは、「わたし」だけのみずみずしい感覚であるところの主観の強調であって、それを仕事にしていくためには、あくまで自分自身によって知覚された固有の知識やデータをフル活用して生活世界を構築し、徹底して「わたし」を追求していく“一人称的”な知性が求められます。
その意味で、現代人の多くはこぞって一人称的知性へ向かおうとしているのであり、それはまるで社会全体が「自分のためにだけ生きること」を正当化しているかのようでもあります。
しかし、「わたし」の好きなことや、やりたいことというのは、果たしていつだって明快で確実なものでしょうか? 「好きを仕事に」と思えば思うほど、好きなことややりたいことを自分はよく分かっていないし、明確に知覚も説明もできなくなる、すなわち、「好き」は「わたし」にとっての外部となっていくのであり、ますます「好きを仕事に」は遠ざかると痛感したことはないでしょうか? 少なくとも、筆者はよくあります。
こうした疑問について、生命の理論を専門にしている科学者の郡司ペギオ幸夫は、先のような一人称的知性は、「より共通の根拠を求めて」三人称的すなわち客観的な世界の描像を回収し「私たち」という権力構造を立ち上げることで、「好きを仕事に」できている幻想としての世界を信じようとするものの、その一方で「わたし自身にも理解できない、わたしの無意識が、外部からもたらされる風景に反応する」のだと述べています。
つまり、一人称的知性を追求していくと、それは必ず三人称的知性による世界の描像と同じものに収束していき、やがてその収束点を突き破るようにして無意識的な反応が現われる。そこで初めて、「好きを仕事に」を実現していく上での希望が出てくる、というのです。
4月1日にしし座から数えて「アイデンティティークライシス」を意味する9番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、一人称的=三人称的知性によって立ち上げられた幻想が、無意識的反応によって突き破られるまで、徹底的に物事をつきつめていくといいでしょう。
参考:郡司ペギオ幸夫『天然知能』(講談社現代メチエ)
考えてみると、ここでいう「好き」というのは、「わたし」だけのみずみずしい感覚であるところの主観の強調であって、それを仕事にしていくためには、あくまで自分自身によって知覚された固有の知識やデータをフル活用して生活世界を構築し、徹底して「わたし」を追求していく“一人称的”な知性が求められます。
その意味で、現代人の多くはこぞって一人称的知性へ向かおうとしているのであり、それはまるで社会全体が「自分のためにだけ生きること」を正当化しているかのようでもあります。
しかし、「わたし」の好きなことや、やりたいことというのは、果たしていつだって明快で確実なものでしょうか? 「好きを仕事に」と思えば思うほど、好きなことややりたいことを自分はよく分かっていないし、明確に知覚も説明もできなくなる、すなわち、「好き」は「わたし」にとっての外部となっていくのであり、ますます「好きを仕事に」は遠ざかると痛感したことはないでしょうか? 少なくとも、筆者はよくあります。
こうした疑問について、生命の理論を専門にしている科学者の郡司ペギオ幸夫は、先のような一人称的知性は、「より共通の根拠を求めて」三人称的すなわち客観的な世界の描像を回収し「私たち」という権力構造を立ち上げることで、「好きを仕事に」できている幻想としての世界を信じようとするものの、その一方で「わたし自身にも理解できない、わたしの無意識が、外部からもたらされる風景に反応する」のだと述べています。
つまり、一人称的知性を追求していくと、それは必ず三人称的知性による世界の描像と同じものに収束していき、やがてその収束点を突き破るようにして無意識的な反応が現われる。そこで初めて、「好きを仕事に」を実現していく上での希望が出てくる、というのです。
4月1日にしし座から数えて「アイデンティティークライシス」を意味する9番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、一人称的=三人称的知性によって立ち上げられた幻想が、無意識的反応によって突き破られるまで、徹底的に物事をつきつめていくといいでしょう。
参考:郡司ペギオ幸夫『天然知能』(講談社現代メチエ)
《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)
今期のおとめ座のキーワードは、「得体の知れなさへの接近」。
災害が続き、文明そのものが危機に瀕している今日において、人間はふたたび出来事の表面だけを見てその場次第の判断をするのではなく、その根源を見つめ、総体的な世界観の中で自然についての考えを改め、人間について考え直していく必要に迫られているように思います。
例えば、仏教学者の末木文美士は1986年の中曽根首相の姿勢方針演説において、「東洋哲学の真髄」として引用された「山川草木悉皆成仏」という言葉に着目して、そうした発想の根源を平安時代初期に生きた安然(あんねん)という忘れられた大思想家の唱えた草木成仏論に見出しています。
草木成仏論とは、簡単に言えば、人間をはじめとした意識をもった主体であるところの「有情」と、無生物や草木など意識を持たない環境であるところの「無情」を区別せず、どちらもみずから/おのずから発心・修行・成仏するものとする自然観であり、人間観であり、世界観のこと。すなわち、動物と人間とを絶対的に線引きし、機械のように何も感じず何も思わない無機物と見なすデカルトの動物機械論とは対極の考え方です。
「ところで、有情と無情を同等視するということは、ただちに無情をすべて理解可能なものと考えることにはならない。むしろ逆である。(…)自然もまた、科学によって解明され、理解できるのはそのごく一部に過ぎない。その大部分は了解不可能な他者の領域に属し、どんなに科学が発展しても解明しつくされることはあり得ない。(…)自然は一方で人間に限りなく優しいが、他方でそれは恐ろしい他者でもある。そのような他者領域の根底に深まっていくとき、安然が「真如」と呼んだものが次第に明らかになっていく。それは万物が生成し、帰滅していくところではあるが、実体的に何かがあるわけではない。それは他者の他者性の根源ともいうことができ、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の持つ両義性とも比せられる。」
このヴィシュヌ神の両義性とは、生成と消滅、統合と滅亡、穏やかさと狂暴さのことですが、末木は自然と同じように、私もまた得体の知れない存在であり、その得体の知れなさに接近していくことができたとき、科学技術では決して解明も制御もできないような「戦慄すべき何か」であり、「墜ちていく闇」であり、しかし「逆に光が生まれてくる場所」でもあるような、見えざる世界が顕わになっていくのではないかと述べています。
4月1日におとめ座から数えて「変容を伴う関わり」を意味する8番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自然や環境との関わりを通して、他ならぬ私の得体の知れなさに接近していくようなアプローチを、自分なりに実践してみるといいでしょう。
参考:末木文美士『草木成仏の思想』(サンガ文庫)
例えば、仏教学者の末木文美士は1986年の中曽根首相の姿勢方針演説において、「東洋哲学の真髄」として引用された「山川草木悉皆成仏」という言葉に着目して、そうした発想の根源を平安時代初期に生きた安然(あんねん)という忘れられた大思想家の唱えた草木成仏論に見出しています。
草木成仏論とは、簡単に言えば、人間をはじめとした意識をもった主体であるところの「有情」と、無生物や草木など意識を持たない環境であるところの「無情」を区別せず、どちらもみずから/おのずから発心・修行・成仏するものとする自然観であり、人間観であり、世界観のこと。すなわち、動物と人間とを絶対的に線引きし、機械のように何も感じず何も思わない無機物と見なすデカルトの動物機械論とは対極の考え方です。
「ところで、有情と無情を同等視するということは、ただちに無情をすべて理解可能なものと考えることにはならない。むしろ逆である。(…)自然もまた、科学によって解明され、理解できるのはそのごく一部に過ぎない。その大部分は了解不可能な他者の領域に属し、どんなに科学が発展しても解明しつくされることはあり得ない。(…)自然は一方で人間に限りなく優しいが、他方でそれは恐ろしい他者でもある。そのような他者領域の根底に深まっていくとき、安然が「真如」と呼んだものが次第に明らかになっていく。それは万物が生成し、帰滅していくところではあるが、実体的に何かがあるわけではない。それは他者の他者性の根源ともいうことができ、ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の持つ両義性とも比せられる。」
このヴィシュヌ神の両義性とは、生成と消滅、統合と滅亡、穏やかさと狂暴さのことですが、末木は自然と同じように、私もまた得体の知れない存在であり、その得体の知れなさに接近していくことができたとき、科学技術では決して解明も制御もできないような「戦慄すべき何か」であり、「墜ちていく闇」であり、しかし「逆に光が生まれてくる場所」でもあるような、見えざる世界が顕わになっていくのではないかと述べています。
4月1日におとめ座から数えて「変容を伴う関わり」を意味する8番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自然や環境との関わりを通して、他ならぬ私の得体の知れなさに接近していくようなアプローチを、自分なりに実践してみるといいでしょう。
参考:末木文美士『草木成仏の思想』(サンガ文庫)
《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)
今期のてんびん座のキーワードは、「異なる性としての私」。
批評家の安藤礼二は、「鏡を通り抜けて 江戸川乱歩『陰獣』論」のなかで、作家・江戸川乱歩は書くことによって「女」になろうとし、それこそが彼を作品づくりへと駆り立てた根源的な夢想だったとした上で、そのために乱歩は作品を通して「私」を徹底的に分断し、自らの想像力のみを駆使してまったく新しい理想の「女」として再構築していったのではないか、と指摘しています。
ここで誤解を避けるために言及しておかなければならないのは、乱歩は書くことの延長線上に女の肉体や、それとの交合を望んだわけでは決してないということ。安藤はその点に次のように述べています。
「女になること。その場合の女とは、肉体的な現実をもった女ではない。乱歩の「女」とは、生物学的な「差異」でも、制度的な「差異」でもない。逆にその「女」はさまざまな「差異」を生み出す地平、絶対的な「官能性」とでも名づけるほかない領域に存在する。それは森羅万象のすべてを官能として受容する純粋な感覚世界の新たな想像であり、その感覚の全面的な解放である。」
例えば、乱歩の最高傑作との呼び声も高い『陰獣』の、秋の博物館において探偵小説家である「私」が人気のない展示室で木彫りの菩薩像に見入っている時、誰かがそっと後ろから近づいてきて、「私は何かしらゾッとして、前のガラスに映る人の姿を見た。そこには、今の菩薩像と影を重ねて、黄八丈のような柄の袷を着た、品のいい丸髷姿の女が立っていた。女はやがて私の横に肩を並べて立ち止まり、私の見ていた同じ仏像にじっと眼を注ぐのであった」というシーンについて、安藤はこう言い表しています。
「「ガラス」を通して、両性具有のエロティックな「菩薩」と「私」の女の鏡像が重なり合う。ここに天人にして獣―「陰獣」とは猫のような魔性の「陰気なけもの」という意味であった―という乱歩にとって理想の「女」の像がほぼ完全に描かれることになる。」
乱歩ほど徹底的に実行できるかはさておき、4月1日にてんびん座から数えて「相補い合うもの」を意味する7番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたにも、「私」を再構築することへの鬼気迫る情熱のようなものを感じてなりません。自分が一体何を望んでいるのか。その夢想の根底へと一歩ずつ、しかし着実に歩を進めていくといいでしょう。
参考:安藤礼二『光の曼荼羅』(講談社文芸文庫)
ここで誤解を避けるために言及しておかなければならないのは、乱歩は書くことの延長線上に女の肉体や、それとの交合を望んだわけでは決してないということ。安藤はその点に次のように述べています。
「女になること。その場合の女とは、肉体的な現実をもった女ではない。乱歩の「女」とは、生物学的な「差異」でも、制度的な「差異」でもない。逆にその「女」はさまざまな「差異」を生み出す地平、絶対的な「官能性」とでも名づけるほかない領域に存在する。それは森羅万象のすべてを官能として受容する純粋な感覚世界の新たな想像であり、その感覚の全面的な解放である。」
例えば、乱歩の最高傑作との呼び声も高い『陰獣』の、秋の博物館において探偵小説家である「私」が人気のない展示室で木彫りの菩薩像に見入っている時、誰かがそっと後ろから近づいてきて、「私は何かしらゾッとして、前のガラスに映る人の姿を見た。そこには、今の菩薩像と影を重ねて、黄八丈のような柄の袷を着た、品のいい丸髷姿の女が立っていた。女はやがて私の横に肩を並べて立ち止まり、私の見ていた同じ仏像にじっと眼を注ぐのであった」というシーンについて、安藤はこう言い表しています。
「「ガラス」を通して、両性具有のエロティックな「菩薩」と「私」の女の鏡像が重なり合う。ここに天人にして獣―「陰獣」とは猫のような魔性の「陰気なけもの」という意味であった―という乱歩にとって理想の「女」の像がほぼ完全に描かれることになる。」
乱歩ほど徹底的に実行できるかはさておき、4月1日にてんびん座から数えて「相補い合うもの」を意味する7番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたにも、「私」を再構築することへの鬼気迫る情熱のようなものを感じてなりません。自分が一体何を望んでいるのか。その夢想の根底へと一歩ずつ、しかし着実に歩を進めていくといいでしょう。
参考:安藤礼二『光の曼荼羅』(講談社文芸文庫)
《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)
今期のさそり座のキーワードは、「些細なことを面白がる」。
身近な人間関係の中で戦争体験を語り継いでくれる存在がますます減っている現代の日本人にとって、戦争に巻き込まれた人間が実際に生死の境目において何をどう感じていくのか、なかなかリアルに想像するのは難しいかも知れません。
その点、『水木しげるのラバウル戦記』は若かりし頃の水木しげるが過酷な南洋の戦地での日々を絵日記でつづった戦争体験記であると同時に、戦地なのに読むと行きたくなるという意味では優れた紀行文とも言える不思議な内容となっており、今こそ読み返すべき一冊と言えます。
いわく、派兵先では上官にひっぱたかれてばかりのダメダメ兵士だった水木さんですが、なぜか原住民たちには好待遇を受けて友情を育んでいったのだそう。それでも、敵の急襲で片腕を失ったり、マラリアにかかって死にかかっているはずなのに、すごくあっけらかんとしていて、そのあまりの呑気さや楽天ぶりが読んでいるとおかしくてたまらない。
兵士として空気が読めずルールにも無頓着でおかしな奴だと思われていた水木さんですが、英語の単語と手ぶりだけで、なぜか現地の人びとと意気投合できた秘訣について、「お互いに異邦人を面白がる性質だったのだろう」と回想しています。きっと原住民たちも、そんな水木さんが戦争という狂った事態のただ中に置かれた数多の異邦人たちの中で、数少ないまっとうな人間であることを肌で感じ取っていたのでしょう。
暴力がどこまでも連鎖していく地獄のような異常事態において、水木さんは自分を理解し、受け入れてくれた土人たち(敬意を込めて彼らをそう呼んでいた)と牧歌的な日々を過ごし、戦争が終わって船で島を離れる時も、やっと帰れる喜びでみなが泣いている中、ひとり本気で原住民たちと別れることが悲しくて泣いていたそうです。
4月1日にさそり座から数えて「適切な健全さ」を意味する6番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、日常がすでに非日常化し、多くの人が正気を失ってしまっている状況のいまの社会において、誰とどんな状況でいる時にもっとも「まっとう」な自分でいられるのか、あらためて把握しておくといいでしょう。
参考:水木しげる『水木しげるのラバウル戦記』(ちくま文庫)
その点、『水木しげるのラバウル戦記』は若かりし頃の水木しげるが過酷な南洋の戦地での日々を絵日記でつづった戦争体験記であると同時に、戦地なのに読むと行きたくなるという意味では優れた紀行文とも言える不思議な内容となっており、今こそ読み返すべき一冊と言えます。
いわく、派兵先では上官にひっぱたかれてばかりのダメダメ兵士だった水木さんですが、なぜか原住民たちには好待遇を受けて友情を育んでいったのだそう。それでも、敵の急襲で片腕を失ったり、マラリアにかかって死にかかっているはずなのに、すごくあっけらかんとしていて、そのあまりの呑気さや楽天ぶりが読んでいるとおかしくてたまらない。
兵士として空気が読めずルールにも無頓着でおかしな奴だと思われていた水木さんですが、英語の単語と手ぶりだけで、なぜか現地の人びとと意気投合できた秘訣について、「お互いに異邦人を面白がる性質だったのだろう」と回想しています。きっと原住民たちも、そんな水木さんが戦争という狂った事態のただ中に置かれた数多の異邦人たちの中で、数少ないまっとうな人間であることを肌で感じ取っていたのでしょう。
暴力がどこまでも連鎖していく地獄のような異常事態において、水木さんは自分を理解し、受け入れてくれた土人たち(敬意を込めて彼らをそう呼んでいた)と牧歌的な日々を過ごし、戦争が終わって船で島を離れる時も、やっと帰れる喜びでみなが泣いている中、ひとり本気で原住民たちと別れることが悲しくて泣いていたそうです。
4月1日にさそり座から数えて「適切な健全さ」を意味する6番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、日常がすでに非日常化し、多くの人が正気を失ってしまっている状況のいまの社会において、誰とどんな状況でいる時にもっとも「まっとう」な自分でいられるのか、あらためて把握しておくといいでしょう。
参考:水木しげる『水木しげるのラバウル戦記』(ちくま文庫)
《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)
今期のいて座のキーワードは、「孤独感=背負うことのできなさ」。
現代人は孤独を感じやすいと言われていますが、それはわたしが存在するということの成立要件が見えにくくなり、リアリティを失ってしまったからかも知れません。ただ、「存在する」という言葉は、普段あたかもそれ単独で文の主成分になることができるかのように語られていますが、実際に存在の歩みを進んだり、存在することを成立させることはそう単純でも簡単でもありません。
というのも、私たちは自分ひとり単独で存在している訳ではなく、生物的にも社会的にも必ず他者との関わりを通して存在しているからであり、言い換えれば、人はそうして他者との関わりのなかで責任を担っているからです。
そして、この「責任」という言葉が使われる文脈の窮屈さや息苦しさ、貧しさこそが、現代人が孤独感を深めていることの要因となっているように思うのですが、そもそも「責任」とはある個人の罪責性を糾弾し、吊るしあげるためのものだったのでしょうか。
この点について例えばユダヤ人哲学者レヴィナスは、ラジオ講座を収録した『倫理と無限』の中で、責任とは「いかなる対話にも先立つ奉仕」であり、「他人の近さとは、他人が空間的に私に近いとか、親族のように近いというだけではなく、その他人に対して私が責任をとるかぎり―私に責任があるかぎり―他人は本質的に私に近い」のであって、「私には、あらゆる他者を、他者におけるすべてを、さらには他者の責任をも引き受ける全面的な責任に対する責任がある」のだとさえ述べています。
これは宮沢賢治が『春と修羅』において「あらゆる透明な幽霊の複合体」とか「すべてがわたくしの中のみんなである」といった仕方で表そうとしていたものを、別の言い方で表わしたものと言えるかも知れません。つまり、他者への責任とは、人間として存在する限り拒否することのできない事態であり、レヴィナスはそれを「譲り渡すことのできない私の主体的な自己同一性」なのであり、その意味で現代人の孤独感とは、「(他人を)背負うことのできなさ」に他ならないのだと言えます。
4月1日にいて座から数えて「与える愛」を意味する5番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、どうしたら他人に近さを感じ、背負うべき責任を背負うことができるかという観点から、みずからが「存在する」ということの成立要件について検討してみるといいでしょう。
参考:エマニュエル・レヴィナス、西山雄二訳『倫理と無限』(ちくま学芸文庫)
というのも、私たちは自分ひとり単独で存在している訳ではなく、生物的にも社会的にも必ず他者との関わりを通して存在しているからであり、言い換えれば、人はそうして他者との関わりのなかで責任を担っているからです。
そして、この「責任」という言葉が使われる文脈の窮屈さや息苦しさ、貧しさこそが、現代人が孤独感を深めていることの要因となっているように思うのですが、そもそも「責任」とはある個人の罪責性を糾弾し、吊るしあげるためのものだったのでしょうか。
この点について例えばユダヤ人哲学者レヴィナスは、ラジオ講座を収録した『倫理と無限』の中で、責任とは「いかなる対話にも先立つ奉仕」であり、「他人の近さとは、他人が空間的に私に近いとか、親族のように近いというだけではなく、その他人に対して私が責任をとるかぎり―私に責任があるかぎり―他人は本質的に私に近い」のであって、「私には、あらゆる他者を、他者におけるすべてを、さらには他者の責任をも引き受ける全面的な責任に対する責任がある」のだとさえ述べています。
これは宮沢賢治が『春と修羅』において「あらゆる透明な幽霊の複合体」とか「すべてがわたくしの中のみんなである」といった仕方で表そうとしていたものを、別の言い方で表わしたものと言えるかも知れません。つまり、他者への責任とは、人間として存在する限り拒否することのできない事態であり、レヴィナスはそれを「譲り渡すことのできない私の主体的な自己同一性」なのであり、その意味で現代人の孤独感とは、「(他人を)背負うことのできなさ」に他ならないのだと言えます。
4月1日にいて座から数えて「与える愛」を意味する5番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、どうしたら他人に近さを感じ、背負うべき責任を背負うことができるかという観点から、みずからが「存在する」ということの成立要件について検討してみるといいでしょう。
参考:エマニュエル・レヴィナス、西山雄二訳『倫理と無限』(ちくま学芸文庫)
《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)
今期のやぎ座のキーワードは、「割りきれない問いを持ち続けること」。
戦争が起きると、その苦しみは大抵の場合、最終的に社会の中の弱き存在、すなわち子供や病人などにしわ寄せがいきます。持てる大人が栄え、持たざる子供が亡くなる。その意味するところは何なのでしょうか。
例えば、精神科医ロバート・コールズが長年かけて子供たちの内面世界における神秘体験を集めた『子どもの神秘体験 生と死、神・宇宙をめぐる証言』という本に、次のようなエピソードがあります。
それはイスラム教の子供と話し合っていたとき、その子はいじめられっ子でしたが、何とか自分を強くしてほしいと頼んだら、アッラーが力を与えてくれたのか、ぐっと相手を睨みつけることが出来たのだと語ったと言います。
けれど、話はそこで終わらずに、いじめられっ子が自分を強くしてくださいと神に祈ったらどうなのかという疑問が生まれ、これに答えてほしいとその子はアッラーに祈った。すると、神の声が聞こえてきて、「一生悩み続けていいのだ。悩みをしまいこんで忘れないよう祈りなさい」と語ったそうです。
そして神の答えに、この子は当惑してしまった。神ならばもっと明快な答えを与えてくれると期待していたのに。けれど、その後もしばらく考え続けるうちに、「悩み続けることに意味がある」ことを悟ったのだと言うのです。
このエピソードには、子供たちが大人の体験するそれをはるかに超えた純粋な光を感じることがある一方で、大人の計り知れぬ闇をもまた経験しているのだという事実を垣間見ることができるのではないでしょうか。
4月1日にやぎ座から数えて「心の支え」を意味する4番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、子供に負けぬように、世界を狭く小さくしてしまわないように、簡単には割り切れない悩みを抱えてみるのもいいのではないでしょうか。
参考:ロバート・コールズ、桜内篤子訳『子どもの神秘体験 生と死、神・宇宙をめぐる証言』(工作舎)
例えば、精神科医ロバート・コールズが長年かけて子供たちの内面世界における神秘体験を集めた『子どもの神秘体験 生と死、神・宇宙をめぐる証言』という本に、次のようなエピソードがあります。
それはイスラム教の子供と話し合っていたとき、その子はいじめられっ子でしたが、何とか自分を強くしてほしいと頼んだら、アッラーが力を与えてくれたのか、ぐっと相手を睨みつけることが出来たのだと語ったと言います。
けれど、話はそこで終わらずに、いじめられっ子が自分を強くしてくださいと神に祈ったらどうなのかという疑問が生まれ、これに答えてほしいとその子はアッラーに祈った。すると、神の声が聞こえてきて、「一生悩み続けていいのだ。悩みをしまいこんで忘れないよう祈りなさい」と語ったそうです。
そして神の答えに、この子は当惑してしまった。神ならばもっと明快な答えを与えてくれると期待していたのに。けれど、その後もしばらく考え続けるうちに、「悩み続けることに意味がある」ことを悟ったのだと言うのです。
このエピソードには、子供たちが大人の体験するそれをはるかに超えた純粋な光を感じることがある一方で、大人の計り知れぬ闇をもまた経験しているのだという事実を垣間見ることができるのではないでしょうか。
4月1日にやぎ座から数えて「心の支え」を意味する4番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、子供に負けぬように、世界を狭く小さくしてしまわないように、簡単には割り切れない悩みを抱えてみるのもいいのではないでしょうか。
参考:ロバート・コールズ、桜内篤子訳『子どもの神秘体験 生と死、神・宇宙をめぐる証言』(工作舎)
《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)
今期のみずがめ座のキーワードは、「死者とのコミュニケーション」。
21世紀に入ってすでに20年以上あまりが経過したいま、改めて「戦争の世紀」であった20世紀とは決定的に異なる21世紀的ライフリテラシーを掲げるとするならば、その筆頭に挙げられるべきは、おそらく「近代合理主義の克服」でしょう。
科学技術が必ずしも人類を幸せにはしないことを嫌というほど痛感させられたにも関わらず、近代合理主義を適切に相対化してくれるような発想の見直しはあまり進んでいないように思えますが、例えば神道の世界においてやはり近代合理主義が疑問視されて以降、見直されるようになった人物に国学者の平田篤胤がいます。
もともと神道というのは現世の問題が中心であり、死後の霊魂の行方などはほとんど仏教任せで議論されることもなかったのですが、篤胤(あつたね)は主著とされる『霊の真柱』において、死者の行く場所はこの世から隔絶された「黄泉」の世界などではないとして独自の説を提示しました。
「死者の行く冥府というのは、この生者の住む顕国を離れて別の場所にあるのではない。この顕国の内のどこにでもあるのだが、幽冥であって、現世とは隔たっており、見えない。(…)さて、その冥府からは人のしていることがよく見えるようだが、顕世(うつしょ)からは、その幽冥を見ることができない。」
来世、すなわち死者の行く場所は、地下深くの「黄泉」や、はるか遠方の「極楽浄土」などではなく、むしろ生者にきわめて身近なところにあるのだと考えたのです。この近傍霊界論ともいわれる篤胤の立場においては、死者は「社、または祠などを建て祀りたるは、そのところに静まり坐れども、しからぬは、その墓の上に鎮まり」いるのだと言うのです。
死者の世界から生者の世界を見ることはできるが、生者から死者を直接見ることはできないとしながらも、篤胤は両者のコミュニケーションやネゴシエーション自体を否定することはなく、むしろそうしたコミュニケーションによってたえず動的に揺れ動くものとして霊魂の行方をとらえたわけです。
4月1日にみずがめ座から数えて「コミュニケーション」を意味する3番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、みずからのコミュニケーションを規定する世界観に、いかに近代合理主義とは異なるアイデアや発想を取り入れていけるか、ということがテーマになっていきそうです。
参考:子安宣邦/校注『霊の真柱』(岩波文庫)
科学技術が必ずしも人類を幸せにはしないことを嫌というほど痛感させられたにも関わらず、近代合理主義を適切に相対化してくれるような発想の見直しはあまり進んでいないように思えますが、例えば神道の世界においてやはり近代合理主義が疑問視されて以降、見直されるようになった人物に国学者の平田篤胤がいます。
もともと神道というのは現世の問題が中心であり、死後の霊魂の行方などはほとんど仏教任せで議論されることもなかったのですが、篤胤(あつたね)は主著とされる『霊の真柱』において、死者の行く場所はこの世から隔絶された「黄泉」の世界などではないとして独自の説を提示しました。
「死者の行く冥府というのは、この生者の住む顕国を離れて別の場所にあるのではない。この顕国の内のどこにでもあるのだが、幽冥であって、現世とは隔たっており、見えない。(…)さて、その冥府からは人のしていることがよく見えるようだが、顕世(うつしょ)からは、その幽冥を見ることができない。」
来世、すなわち死者の行く場所は、地下深くの「黄泉」や、はるか遠方の「極楽浄土」などではなく、むしろ生者にきわめて身近なところにあるのだと考えたのです。この近傍霊界論ともいわれる篤胤の立場においては、死者は「社、または祠などを建て祀りたるは、そのところに静まり坐れども、しからぬは、その墓の上に鎮まり」いるのだと言うのです。
死者の世界から生者の世界を見ることはできるが、生者から死者を直接見ることはできないとしながらも、篤胤は両者のコミュニケーションやネゴシエーション自体を否定することはなく、むしろそうしたコミュニケーションによってたえず動的に揺れ動くものとして霊魂の行方をとらえたわけです。
4月1日にみずがめ座から数えて「コミュニケーション」を意味する3番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、みずからのコミュニケーションを規定する世界観に、いかに近代合理主義とは異なるアイデアや発想を取り入れていけるか、ということがテーマになっていきそうです。
参考:子安宣邦/校注『霊の真柱』(岩波文庫)
《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)
今期のうお座のキーワードは、「立ち止まってはいけない」。
フランス革命を大きく後押しした政治哲学者で、人間の理想的な状態は文明や社会の中にではなく、自然の中にこそあると説いたジャン=ジャック・ルソーは、晩年に著した『孤独な散歩者の夢想』の中で次のように書いていました。
「わたしが集中できるのは歩いている時だけだ。立ち止まると考えは止まる。わたしの精神は足がともなう時だけ働くようだ」
これは文字通り日ごろの生活習慣として受け取ることもできると同時に、幼少期から出奔と放浪を余儀なくされ、移動し続けることを半ば運命づけられていたかのような、ルソー自身の人生の軌跡を比喩的に言い表したものとしても受け取ることができるように思います。
その意味で、いまだ猛威をふるう新型コロナウイルスの弊害で、自由な移動やふるまいを制限されている現在の状況を鑑みれば、こうしたルソーの言葉はほとんどの現代人にとって、みずからの思考停止の危機に警鐘を鳴らすものとして響いてくるのではないでしょうか。
好きなところを歩き回る自由を奪われることは、自分の頭で考える自由を喪失することに他ならない。日頃から自身の言動をこまめに振り返る習慣のある人なら、私たちが知らず知らずのうちにみずからの自由をすすんで放棄し、自主的に隷従状態に置かれることを欲する生きものでもあることをよく知っているはずです。
その点、無目的な旅や散歩ひとつとっても、それは普段の生活システムの外へと飛び出してまなざしを反転させ、「外」からその限界だったり不足だったりを明らかにしていく決定的なきっかけとなりうるのだということを、ルソーはよく知っていたのでしょう。
4月1日にうお座から数えて「身体性に基づいた深い実感」を意味する2番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自身の自由なふらつきを確保するだけに留まらず、少なくとも自分だけでも周囲の人たちの自由を奪ったり制限したりするのではなく、むしろその逆の言動をしていけるよう心掛けていきたいところです。
参考:ジャン=ジャック・ルソー、今野一雄訳『孤独な散歩者の夢想』(岩波文庫)
「わたしが集中できるのは歩いている時だけだ。立ち止まると考えは止まる。わたしの精神は足がともなう時だけ働くようだ」
これは文字通り日ごろの生活習慣として受け取ることもできると同時に、幼少期から出奔と放浪を余儀なくされ、移動し続けることを半ば運命づけられていたかのような、ルソー自身の人生の軌跡を比喩的に言い表したものとしても受け取ることができるように思います。
その意味で、いまだ猛威をふるう新型コロナウイルスの弊害で、自由な移動やふるまいを制限されている現在の状況を鑑みれば、こうしたルソーの言葉はほとんどの現代人にとって、みずからの思考停止の危機に警鐘を鳴らすものとして響いてくるのではないでしょうか。
好きなところを歩き回る自由を奪われることは、自分の頭で考える自由を喪失することに他ならない。日頃から自身の言動をこまめに振り返る習慣のある人なら、私たちが知らず知らずのうちにみずからの自由をすすんで放棄し、自主的に隷従状態に置かれることを欲する生きものでもあることをよく知っているはずです。
その点、無目的な旅や散歩ひとつとっても、それは普段の生活システムの外へと飛び出してまなざしを反転させ、「外」からその限界だったり不足だったりを明らかにしていく決定的なきっかけとなりうるのだということを、ルソーはよく知っていたのでしょう。
4月1日にうお座から数えて「身体性に基づいた深い実感」を意味する2番目のおひつじ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自身の自由なふらつきを確保するだけに留まらず、少なくとも自分だけでも周囲の人たちの自由を奪ったり制限したりするのではなく、むしろその逆の言動をしていけるよう心掛けていきたいところです。
参考:ジャン=ジャック・ルソー、今野一雄訳『孤独な散歩者の夢想』(岩波文庫)
<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
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文/SUGAR イラスト/チヤキ