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<5/17~5/30>の12星座全体の運勢は?
「自分を変えるための学びを」
木々の若葉が青葉に変わり、夏の兆しが一気に濃くなっていく二十四節気の「小満」が5月20日。その直後にあたる5月23日に、私たちは双子座で新月を迎えていきます。今回の全体キーワードは「学力の形成」。これは何か本を読んだり出来事を向きあったときに、「それでいったい何が解ったことになるのですか」と自問するということであり、「解ることによって自分が変わる」ということを身に沁みて感じていくということでもあります。今回の新月前後は「自分を変えるための学び」をどこに見出し、そこに手間をかけていけるかを改めて意識していきたいところ。
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今週のおひつじ座のキーワードは、「うつる」。
『徒然草』の有名な一節に、「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住みはつる習ひならば、いかにものゝあはれもなからむ。世は定めなきこそいみじけれ。」というものがあります。
「あだし野」というのは京都の墓場のような場所で、そこに降りる「露」とは人の死を悲しむ自然の涙のこと。また「鳥部山」は死体焼き場ですから、その「煙」は人の死のサインであり、それらがもし消えず立ち去らずずっと続いているような世の中だったならば、と著者は無茶苦茶な想像をここでしている訳です。
そして、そんな世の中は‟もののあはれ”つまり情緒や感動もへったくれもない、と。世は定めがないからこそ、つまりたえず移りゆくものであるからこそ「いみじ(興趣がある、ホントである)」と言うのです。
ここでは「この世=現(うつ)し世」というものが、「移ろい」ゆくもの、何ものかが投影されている「映ろう」世界でしかない、と感じ取られていたことが示されていますが、それは後ろ向きで暗い世界観というより、むしろ不思議なほどのたおやかな明るさを世界観でもありました。
「元の日常に戻る」だけが希望なのではない、むしろあわくはかないものとして変化していく日常を過ごしていく感覚を研ぎ澄ますことの中にこそ、いまは学びがあるはずです。
参考:兼好法師『新版 徒然草 現代語訳付き 』(角川ソフィア文庫)
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今週のおうし座のキーワードは、「思う」。
『論語』に「学んで思わざれば則ち罔(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」という一節があります。
これは、学んでばかりいて自分の頭で考えないと何も見えてこないし、ひとりで思ってばかりで他人から学ぼうとしなければ、ひとりよがりになって危険だという意味なのですが、ここで言う「思う」とは、決してただ抽象的な理論や理屈をいじりまわすことなどではありません。
『岩波古語辞典』をひくと、「思ふ(おもふ)」とは「胸のうちに、心配・恨み・執念・望み・恋・予感などを抱いて、おもてに出さず、じっとたくわえている意が原意」とあります。つまり、何かを「思う」ということはもともと沈黙する時間を持つということだった訳です。
そして沈黙するとは、深く感じるということであり、深く感じる力を自分の中に育てられないと、何も見えてこないし、ただ学んでも仕方がないというのが、『論語』の先の一節の主旨でもあったのではないでしょうか。
深く感じる力とは、困難な事態に出会ったときの姿勢の問題でもあります。感情を振り乱してわめき立てるのでもなく、ただボーっとするままに崩れてしまうのでもなく、背筋をしゃんとして事態に臨んでいく。今のおうし座は、そんな「おもう」力を存分に育てていきたい。
参考:宇野哲人『論語新釈』(講談社学術文庫)
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今週のふたご座のキーワードは、「あわい」。
日本民俗学の父・柳田國男は『毎日の言葉』という著作の「よいアンバイに」という言葉を取りあげた箇所で、次のように書いています。
「アンバイは物を適当に配列することでもなく、また料理の塩加減などでもなく、本来は「あはひ」すなわち間(ま)ということだったのであります。それがアワイと発音せられる時代になって、ワ行の字音はいつとなくバ行にうつったのかと思われます。」
「あわい」に似た言葉として「あいだ」がありますが、こちらは休日だったり、恋人と逢えずにいる時間など、何か意義ある二つのもの同士の距離やそこに広がる静的な空白が強調されています。
それに対して、「あわい」はより動的であり、二つのものが両方から出会いながら、重なったり交わったり、ときに逆らったり背いたり、せめぎ合ったりしている状態や関係を表したもの。
つまり、孤立した‟つぶつぶ”として関係して欠けや脱けに意識を置くのではなく、互いに干渉しあう‟波”として関係しつつそのグラデーションを楽しんでいくことにこそ、「あわい」の美学はあるのだということです。
だからこそ、きちんと「あわい」に立つのはそう簡単なことではない訳ですが、今のふたご座にとっては、そんなチャレンジこそが大切になってきているのではないでしょうか。
ひとつ波乗りをするサーファーになったつもりで、「あわい」の感覚を楽しんでみてください。
出典:柳田國男『毎日の言葉』(角川ソフィア文庫)
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今週のかに座のキーワードは、「なつかしい」。
誰しも「はじめて見知ったことなのに、なつかしい」と感じて、不思議な心持ちになった経験が一度や二度はあるはず。
『日本国語大辞典』によれば、「なつかしい」とは動詞「なつく」の形容詞化したものであり、もともとは猫が「なつく」ように、いま目の前に存在する対象に「心が惹かれ離れたくないさま」を表す言葉であったのが、やがて過去や離れているものへの想いとして転用されてきたのだと言います。
つまり、一度しか接したことのないような疎遠な対象であったとしても、「心が惹かれ、離れたくない」と想わされたなら、それは「なつかしい」のです。
中でも、失われた何ものかは、記憶の再浮上を通してのみ出会うことができますから、格別になつかしさを想起させられ、結果として冒頭のような印象を私たちに与えることになるのかも知れません。
「質の高い記憶イメージは心の中ので「動く」。音も出すし、匂いや味もする。触れれば当然、あたたかかったり冷たかったりする。いわば五感を総動員した共感覚的な特質を具えているのだ。」(桑木野幸司『記憶術全史』講談社選書メチエ)
遠くもあり、近くもある。そんな不思議な距離感を覚える対象を、あなたは持っているでしょうか。
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今週のしし座のキーワードは、「信じる」。
例えば信頼を前提に交渉が行われていく外交の世界において「believe」という言葉の位置は非常に重く、首相や大統領に信念を問う時などに使われ、当然それを軽く使えば相応の批判が向けられます(皮肉にも日本の政治家においては日常的によく見られる光景)。
これは日本語では「信じる」という言葉にあたりますが、『常用字解』によれば「人と、言を組み合わせた形。言は口(神への祈りの文である祝詞を入れる器の形)の上に、刑罰として加える入れ墨用の大きな針を置いて神に誓いをたてることばをいう。神に誓いをたてた上で、人との間に約束したことを信という」とあり、信という言葉の重さは神への誓いに由来しているのだと述べられています。
つまり、信とはこちらの勝手な期待を投げかけるような「当てにする」とは決定的に異なっており、思い通りにいかず、裏切られたとしても、それを当たり前のごとく受け入れていくのでなければ本来の意味での「信じる」とは言えないのです。
『常用字解』では、先の言葉にさらに「それで「まこと、まことにする」の意となる。また「しるし」の意味に用い」と続けていますが、それは並大抵のことではないでしょう。
おそらく、自分が立ち得るもっとも低い場所に立ち、嘘いつわりのない器となって、啓示に開かれるのでなければ、本来は使えない言葉なのかも知れません。
それでも誰か何かを「当てにする」ばかりでなく、「信じる」ことのできる自分であること。そう願うこと。それこそが、今のしし座のテーマなのではないでしょうか。
出典:白川静『常用字解』(平凡社)
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今週のおとめ座のキーワードは、「あう」。
「出会い」の偶然性を問い続けた九鬼周造は、主著『偶然性の問題』の最後に、「遭うて空しく過ぐる勿(なか)れ」という浄土論の言葉を引いて論を閉じました。
これは「あう」ことがいかに難しいものであるかということを九鬼が痛いほどに感じていたからこそ紡げた言葉と言えますが、逆に言えば、誰かと「出会い」、何かと「合う」ことは、当人の感性や知性ぬきには語れないということであり、出逢いの現場で何かを一目みて‟いい”と直感できるようになるためには、それ相応の努力や、その蓄積である実力が必要不可欠なのだということでもあります。
例えば、月に「逢う」というようなことであっても、あつい雲のあいだから月が出るか出ないかは、ひとりの人間の力ではどうすることもできません。それでも、頭を高くあげて雲の切れ目を見つめ続けていない限り、月を見つけて逢うことはできません。
そうした、「やっとこうしてうまく逢うことができた」という‟めぐりあわせ”には、必ず自分の力を超えた働きへの感受性が伴なわれているのです。
そのことをよく踏まえた上で、いま一度先の九鬼の引用に立ち戻られたい。
よい出逢いの感受を実現するためには、そのための然るべき前準備が必要不可欠であり、そこに手間暇をかけていく時間をこそ、今のおとめ座は大切にしていくといいでしょう。
出典:九鬼周造『偶然性の問題』(岩波文庫)
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今週のてんびん座のキーワードは、「面白い」。
竹取物語には「月のおもしろう出でたるを見て」という表現が出てきますが、もともと「面白し」とはパッと開けた正面になにか明るい「白い」ものを見たり、その際の野や山の様子が「面白い」のであって、そこから時代を経るごとに見た人の側の心理の方に主眼が置かれて、その晴れ晴れとした気持ちや、愉快だ、感興がある、ということを意味するようになっていったようです。
また平安時代の神道資料である『古語拾遺』では、「面白し」という言葉の語源をより限定的に人の顔色(面)として捉えています。
いわく、天照大神が天の岩戸に隠れ、世界がまっくらやみになったとき、八百万の神々たちが岩戸の前で大神の期限を取り持とうと神楽を奏し舞う。やがて岩戸が開かれると、大神の光に照らされて神々の顔(面)が白く喜びにつつまれ輝き、「あな(非常に)おもしろ」と言ったことから、「面白し」という言葉が出来たというのです。
いずれにせよ、「面白い」とはテレビでお笑い芸人が視聴者のウケを取るための手段などではなく、この世界の根源で働いているような大いなる働きと言うべきものに触れたときの深い感慨のことを言いました。
今あなたがそこに何か人為的に加えられることがあるとすれば、そういう感慨をさらに促進させようとするための努力や工夫と関係しているのではないでしょうか。
出典:
『竹取物語ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(角川ソフィア文庫)
斎部広成『古語拾遺』(岩波文庫)
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今週のさそり座のキーワードは、「悼む」。
天童荒太の長編小説『悼む人』には、主人公が次のように語っている箇所がある。いわく、自分を「<悼む>人にしたものは、この世にあふれる、死者を忘れ去っていくことへの罪悪感」であり、「いいのか、それでいいのかと、突き上げるような痛み」であったのだと。
そう、「いたむ(悼む)」とは、もともと肉や野菜や果物などが悪くなったり、腐ったりしたときに使う「傷む」と同じで、何らかの原因があって「悲しんで、心を痛める」ことを言い、漢字の「悼」は「心」と「卓(抜け出る)」から成り、まるで心が抜け落ちたかのような悲しみを表しているのだそう。
現代社会では「いたましい」心持ちや、そうした時間はできるだけ短く、少ない方がいいと、もっぱら少しでもポジティブにすることや、気分転換が推奨されやすい傾向にありますが、「悼む」という言葉は、痛ましく思うところからさらにその原因となった相手を「いたわしく」感じて大切にする・気遣うという「労わる」ところへと発展していくための出発点でもあり、ただ単純になくしてしまえば、それは人間性の大切な一部分を失うことに等しいのではないでしょうか。
折にふれて物思い、「悼む」という感覚を思い出す。それもまた人の生きる道でしょう。
出典:天童荒太『悼む人』(文藝春秋)
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今週のいて座のキーワードは、「ご大切」。
個人的な話をすると、以前久しぶりにあった友人との会話の中で、何気なしに「恋愛はしてるの?彼女とかさ」と話を振ったとき、「恋をしています」とだけ返され、以来その友人のことをどこか尊敬の念をもって見るようになったことがありました。
考えてみれば、日本人が「愛」という言葉を今のようなポジティブな意味合いで使うようになったのは、明治時代に「Love」の翻訳語として「愛する」という言葉を使い始めたことに端を発している訳ですが、キリスト教の考え方ではもともと自己中心的な人間には「愛」は不可能であり、それゆえに絶対的存在としての神を要請し、その神の命令や、神への祈りや懺悔を介して、わずかに可能になりえものとして追求されてきたのです。
つまり、絶対的存在としての神などという発想や、懺悔などの慣習をもたない日本人が、しんどい部分は見ないで口当たりのいい分だけをすくって「愛する」とか、そこから派生した「恋愛」などという言葉を使っても、それは多分に欺瞞や虚偽が含まれていて当然なのはないでしょうか。
『岩波古語辞典』によれば、キリスト教が日本に伝来してきたとき、キリシタンはキリストのLoveを「愛」と訳さず、「ご大切」と言ったとあります。
願わくば。いて座の人には、今とりわけ情熱を傾けるべき対象へ、どこか歯の浮くような言葉を投げたり、便利ではあるけれど心の奥底と直結していない行動をとるばかりでなく、自分に実感に深く根差した言葉や態度をきちんと選んで臨んでみてほしい。そんな風に思います。
出典:大野晋ほか『岩波古語辞典 補訂版』(岩波書店)
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今週のやぎ座のキーワードは、「すむ」。
13世紀のはじめ、中央で歌人として活躍した後、晩年になってこの世の無常と草庵での簡素で素朴な暮らしを描いた鴨長明は、『方丈記』の冒頭で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶ泡沫(うたかた)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」と書き出したことでよく知られていますが、のちに世阿弥は能「養老」で、その最後の部分が「久しく澄める色とかや(澄んだ色をしていることよ)」と書き換えています。
この「すむ」という言葉について『岩波古語辞典』をひくと、「浮遊物が全体として沈んで静止し、気体や液体が透明になる意」をくんだ「澄む」の他に、「済む」のすむと、「住む」のすむとがあり、この三種類の「すむ」の意味を重ねて使っても不自然でない受け止め方をしてきたのだということが分かります。
「済む」は、「済みません」という言葉にも残っているように、片を付けたこと、つまり借りを返し、もはや何の負い目もないという含みが込められた言葉であり、「住む」はあちこち動き回るものが一つ所に落ち着き、定着することを言います。
その意味で、この「すむ」という言葉はまさに鴨長明の生き様そのままであり、今のやぎ座にも少なからず響くものがあるのではないでしょうか。
出典:鴨長明『方丈記』(光文社古典新訳文庫)
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今週のみずがめ座のキーワードは、「楽しく」。
『万葉集』に登場する大伴旅人には、「酒」というモチーフだけでなく「楽しい」という言葉を使った歌が多いのですが、例えばその中に「この世にし楽しくあらば来(こ)む世には虫にも鳥にも我はなりなむ」という歌があります。
これは「この世で遊び呆けていたら、来世では畜生道に落ちるなんて坊さんが言われるが、この世さえ楽しかったら、来世は虫にでも鳥にでも、俺はならうよ」という意味ですが、「虫」や「鳥」といった言葉から連想されるように、「楽しい」状態とはここではすなわち重い荷物を背負わされる「苦しい」状態と対置されるように想定されており、そうした苦しみから解放されているという意味が込められているように思われます。
また漢字の「楽(旧字 樂)」は、もともと「柄のある手鈴の形」で、「舞楽のときにこれを振って神をたのしませるのに使用した」とあり、さらに「また病気のとき、シャーマン(神がかり状態となって予言や病気を治すことなどを行う巫女)がこれを振って病魔を祓った」のだそうです。
大将軍という大任を任され、遠征に従事したこともある大伴旅人だからこその説得力ではありますが、こうした「楽しく」という姿勢は今のみずがめ座にとっても必要なものと言えるのではないでしょうか。
出典:
山本健吉『万葉集秀歌鑑賞』(飯塚書店)
白川静『常用字解』(平凡社)
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今週のうお座のキーワードは、「夢」。
夜にみた夢がいつもより鮮明に感じられ、不思議に思ったことはないでしょうか。
ユダヤ神秘主義のカバラには、自然がみずからの姿をよく見るために自分自身を夢によって生み出したという解釈が存在しますが、私たち日本人においても「人生は夢である」という感覚は古くから社会や生活の根底に消えることなく継承され続けてきました。
それゆえに、夢というはかなくあやうい仮の生から脱して、彼岸や浄土で永遠の平穏を得ようというという動きも出ましたし、一方で、疫病などが流行った際により深い夢を見ることによって神意を得て、それを人々に伝えるのも古代において王(天皇)の重要な仕事でもありました。
仏教やシャーマニズムなどを援用しつつ、夢とは何かを深く掘り下げて論じたミンデルの『24時間の明晰夢―夢見と覚醒の心理学』では、私たちが夢にコミットしていこうとするのは、この世での嫌なことを忘れるためといった現実逃避的な動機付けだけでなく、<私>が帰するところに対して視点を深めようとしているからなのだと言います。
「すべての物事がそこから生起する、分(節)化していない全体的な世界の感覚に注意を払うこと」で、私たちは「夢よりも深い覚醒」に至るのだ、と。こうした理解は、おそらく自己の基盤を確かなものにしようとしている今のうお座においても、とても大切なものと言えるでしょう。
出典:A・ミンデル『24時間の明晰夢―夢見と覚醒の心理学』(春秋社)