【最新12星座占い】<12/13~12/26>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー

12月13日から12月26日のSUGARの12星座占い

【SUGARさんの12星座占い】<12/13~12/26>の12星座全体の運勢は?

「いのちの感触」

 一年で最も太陽の力が弱まる時期である冬至を過ぎた最初の満月は12月30日に、しかも月の力が最も強まるかに座で迎えていきます。 

この満月のキーワードは、「ふれる」。あるいは、“知ること”をめぐる繊細な探求と、いのちあるものを理解することにおける半永久的なつかみどころのなさ。 

「琴線にふれる」という言葉が、心の奥に秘められた感じやすい心情を刺激し感動や共鳴を与えることを言うように、「ふれる」という体験はただちに相互的な関わりのきっかけとなり、個人という枠を超えて溢れだし、包み込むいのちの感覚につながっていくところがあります。 

しかし、これが「さわる」という言葉になった途端、人間的なあたたかみは消え失せて、ただモノとして確かめたり、操作したりといった一方的な関わりが思い起こされるはず。 

かつては日本では元日の朝に、一番に汲み取った「若返る水」を供えて神棚に供える風習があり、これは月に関連する最も古い伝承に基づくものでした。 

月というのは、本来私たちの中のもっともデリケートな部分であり、いつだって懐かしく心そそられる、生命の根源としてそこにあります。おおみそかの前日、年内最後の満月にはぜひとも自分自身や身近な人のやわらかな部分とふれあうような感覚を思い出し、新しい年に備えてみるといいでしょう。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「虫の眼」。

牡羊座のイラスト
過去の災厄と現在のコロナ禍を比較する歴史的まなざしは、新しい年を迎えていくにあたってますます重要になってきているように思いますが、精神科医の中井久夫は『昨日のごとく―災厄の年の記録』という本の中で、1995年の阪神・淡路大震災とその後をめぐって克明にその記録を記しています。 
 
本書において中井は「これは決して鳥の眼でみたこの一年ではない。地上をはいずりまわる虫の眼でみている私は多くを見落とし、多くをぼんやりと、多くを間違ってみているだろう」と自身のまなざしの在り方について書いています。 
 
これは災害下の精神科救急やボランティアの対応など、日々の仕事に終われ、ゆっくりと過去を振り返る暇などとても持てなかったであろう中井にとっては致し方ないことであったと同時に、そうしたまなざしからでしか見えてこない、それまでの日常では見えにくかった社会の断面を粘り強く切り開いていこうという意図もあったように思います。 
 
実際、1995年2月の記録にはアルコール依存による「較差(格差)」とともに、「何よりも、貧富の差がハサミ状に拡大するのが眼にみえるように思われた」という書き込みがあり、「社会的なパワーを持ち人脈の広い人」が有利であること、「故郷に地縁を残す人」、「友人の多い人」とそうでない人の差が意外なほど現れているさまを報告しています。 
 
当時はバブル経済がはじけたとはいえ、「一億総中流」という言葉がまだまことしやかに信じられていたこともあって、こうしたなまなましい現実はかなりの衝撃とともに受け止められたのではないでしょうか。 
 
社会における貧富の差はもはや当然の前提となり、その上で個々の自由が拡大されていく方向にある現在の社会を生き抜いていく上でも、こうした中井の「虫の眼」による記録はますますその重要性を増しているはず。 
 
今期のおひつじ座もまた、彼のような粘り強く思索を深めていく態度とともに、自身の「虫の眼」もまた改めて大切にしていきたいところです。 
 

参考:中井久夫他『昨日のごとく―災厄の年の記録』(みすず書房) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「クォリティー」。

牡牛座のイラスト
数々のシェイクスピア劇を演出してきた演劇界の生きる伝説ピーター・ブルックが、本物の舞台を生みだすため、長年にわたる実験と実践を重ねて作りあげた取り組みに「タイトロープ」というものがあります。 
 
世界中の役者たちが参加するこのワークショップを、五台の隠しカメラを使ってブルックの息子のサイモン・ブルックが2週間にわたり密着取材したドキュメンタリー『ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古』におさめられたブルックの言動から、まさにいま天王星(変革)と土星(試練)という緊張感のある二星のあいだで“綱渡り”をしているようなおうし座の後押しになるような言葉を引用してみましょう。 
 
理論は役立つし良い本もある。学校にもある程度長所がある。しかし演劇の本物の行為というものは、人の心に触れ、痕跡を残すこと。クォリティーと呼べるものまで、昇華された演劇は、より骨太で、より品格のあるものであり、演劇そのものに生命が息吹き人生が描かれるようになる。役者や演出家がたどる道筋を照らし教え導いてくれる。それこそがまさに深淵の上層に横たわる果てしない“綱渡り”なのだが、いつも人はその深淵にあまりにたやすく落ちてしまう。」 
 
この「クォリティー」というものについて、ブルックは別の箇所で次のようにも語っています。 
 
「手と身体と目が繋がっていると、感じられる瞬間がある。そのことを頭で考え集中しようとすると、クオリティは消え足が震えだす。でも演技のクオリティについて、頭で考えずに、自然に自由でいられるなら、動きに意味が与えられ、意識と呼応する。」 
 
つまり、何かを知識として学んだとしても、いつまでも頭で考えるばかりで、それが身体の動きや視線の置き方などに落とし込まれ、きちんと意味のある動きと連動していくのでなければ、誰かの心を動かし、痕跡を残すようなクオリティを発揮することはないということ。 
 
今期のおうし座もまた、そんな風に「何かに動かされる」ようにして、自らの足の運びや、視線の投げ方、指の動きのひとつひとつが繋がったところに、自分を超えた何かが生まれる瞬間を感じ取っていきたいところです。 


参考:『ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古パンフレット』(ピクチャーズデプト)

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「人生の<しっぽ>」。

ふたご座のイラスト
犬はうれしいことがあればしっぽを振るし、猿はしっぽをつかって気にぶら下がり、カンガルーは歩くときにしっぽを推進力にする。かわいらしかったり、便利だったり、立派だったり、あるいはちょこんとついているだけで特に何の役割も果たしていなかったり。そんなしっぽのある生きものが、どこかうらやましく感じられたことはないでしょうか。 
 
哲学者の山内志朗は『目的なき人生を生きる』という著書の中で、「人生にも<しっぽ>があるのだろうか」という問いを立てた上で、次のように述べています。 
 
報われることを、しかも功利主義的にコストとリターンの合理的関係や効率性を求めるのであれば、エコノミック・マシーンに改造してもらうのが一番よい。人生の<しっぽ>を生き延びるためには、依存症であろうと生きるスタイルを見つける必要がある。一番重要なのは、「時間を殺す(kill time)」ことだ。」 
 
ここでは人生の<しっぽ>というものが、特定の目的や利益に回収されない“余りもの”の時間として語られており、そういう時間をよりよく過ごす仕方として、よい結果を出して褒めてもらおうという応報思想的な行動様式の代わりに、純粋に目的そのものが追求され、行為の成果がその行為のなかに顕現するような修行的行動様式が推奨されている訳です。 
 
続けて、「熱狂しながら休らうことができること、それを「花」と呼ぼうと、アリストテレスのように「エネルゲイア」と呼ぼうとどちらでもよい」と語っていますが、特に意味はないのにどうしてもやめることができず繰り返してしまう癖のようなものという意味では、哲学することもケーキを食べることも『いただきストリート2』をプレイすることも、人生の<しっぽ>をよりよく生きるための試みなのかも知れません。 
 
そこで大切なのは、自分以外の誰かに誘導された「消費」を反復する装置にならないこと。今期のふたご座もまた、そんな“余りもの”を持て余さないでいられる、自分なりの人生の<しっぽ>の過ごし方への実感を深めてみるといいでしょう。 
 

参考:山内志朗『目的なき人生を生きる』(角川新書) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「遠く遥かなる感覚」。

蟹座のイラスト
昨今「ホモソーシャル」という言葉が、かつてなかったほどにネガティブな文脈で語られるようになりましたが、男たちの胸の内にはいつまでも疼いている少年期をめぐる淡い追憶と、胸ときめく危険への憧れとがこだましあっており、それは少女のそれとは決定的に異なる質感をもっているように思います。 
 
その本質について、例えば作家の稲垣足穂は『少年愛の美学』(1968年)において、こう記しています。 
 
女性は時間とともに円熟する。しかし少年の命はただの夏の一日である。それは「花前半日」であって、次回すでに葉桜である。(中略)少女と相語ることには、あるいは生涯的伴侶が内包されているが、少年と語らうのは、常に「此処に究まる」境地であり、「今日を限り」のものである。それは、麦の青、夕暮時の永遠的薄明、明方の薔薇紅で、当人が幼年期を脱し、しかもP意識の捕虜にならないという、きわどい一時期におかれている。」 
 
いかにも既存の男女をめぐるエロティシズムを脱構築するような筆致ですが、ここで稲垣は大人への成長のはざまにある「少年」を「P意識の捕虜」以前、つまりセックス以前の存在であると定義しており、大人同士のありふれた性愛にはない、何か特別なものをそこに見出していることが分かります。 
 
「「女心」がV感覚に出て、「男心」がP感覚に出て、「大人心」がVP混淆によるものならば、「幼な心」とはA感覚に出ているものでなければならぬ。」 
 
ここでいう「A感覚」とは、単に肉体的な意味でのA(肛門)の機能や用途うんぬんの話ではなく、「根源的遼遠におかれているとともに、遠い未来からの牽引」であり、「根源に向かって問いかけながら、それ自ら感覚的超越として諸可能性の中に飛躍していくところの、遠く遥かなる感覚」なのです。 
 
今期のかに座もまた、いわゆる「ホモソーシャル」でも、ありふれた性愛でもない、どこかA感覚に通じていくような他者との関わりがテーマになっていきそうです。 
 

参考:稲垣足穂『少年愛の美学』(河出文庫) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「無定形の不安」。

獅子座のイラスト
私たちはどこかで「日本は民主主義国家である」と考えるのと同じように、無意識に「大人は理性的である」ものと考えがち、と言うよりそうであってほしいと信じ込もうとするところがあります。 
 
その大元はおそらく『純粋理性批判』をはじめとした三大批判書によって、人間が認識しうる対象の外を「物自体」として括弧に入れ、輝かしい理性を絶対視していった哲学者カントにまで遡ることができるのではないでしょうか。 
 
しかし、ここで私たちはそうしたカントの代表的業績が誕生した震源が、カントの同時代に生きた霊能力者スウェーデンボリとの内的な対決にあったことを確認しておかなければなりません。 
 
スウェーデンボリは霊界との交信をするだけなく、ストックホルムの大火災を予言したことで有名になった人物で、それまでこの種の言説に興味を抱かなかったカントはなぜだか彼には興味を持ち、手紙で交流するまでになった結果、カントは霊魂や霊界について、生涯で一度だけ私小説的告白的手法で書いた『視霊者の夢』という著作まで残したのです。 
 
この著作において非理性的な対象との対峙を余儀なくされたカントは、自らの理性さえ疑っていくのですが、哲学者の坂部恵はそこにこそ真に根源的な思考があったのではないかと指摘しています。 
 
「心があらかじめ偏して」いる可能性を留保し、したがって、みずからのどんな「正当化の根拠」をも警戒することを止めない、というこの著作をいろどる二重性の究極の底にある態度は、けっして批判期前の過渡的なものとして割り切ってしまえるものではなく、むしろ(中略)きわめて積極的な貴重な本来の「知恵」あるいは、みずからをみずからたらしめるratio(理性ー根拠)をもあえて疑問に付し、夢とうつつの区別すらさだかでなくなる無定形な不安のうちにたゆたうことをあえてする、最もアラディカルな思考のあらわれと見なされるべきものではないのか」(『理性の不安』) 
 
今期のしし座もまた、理性のゆらぎの真っ只中にいたカントのように「夢とうつつの区別すらさだかでなくなる無定形な不安のうちにたゆたうこと」をあえて試みていくことがテーマとなっていくでしょう。 
 

参考:坂部恵『理性の不安―カント哲学の生成と構造』(勁草出版) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「芸能としての好色」。

乙女座のイラスト
宮廷の年中行事や風俗などについて、第84代順徳天皇(1197~1242)自身の手によって書かれた有名な書物である『禁秘抄(きんぴしょう)』には、「好色の道もほどほどに天子は身につけておけ」ということが書かれているそうです。 
 
ここでの「好色」とは15世紀以降の捉え方とはかなり違った捉え方がされており、歴史学者の網野善彦は、中世の非農民の職業世界を描いた『職人歌合』の中で、「それはセックスそのものが人の力を超えたものとの関わりでとらえられていた面があったから」だと述べています。 
 
遊女を、神仏ともかかわりをもつ職能民・職人ととらえた一つの背景はここにあるので、同じく神仏に捧げられる舞や歌の芸能ももちろん遊女の芸能ですが、ただそれだけではなく、「好色」の芸能そのもののとらえ方と深い関わりがあると思います。」 
 
遊女というと、どうしても私たちは江戸時代以降のいわゆる“娼婦”を思い浮かべますが、14世紀以前の女性の長者が統括していた遊女集団は、ひとつ所にとどまらず船で津や泊にあつまったり、神社に属していたりと、形はさまざまだったようですが、いずれにせよ社会的地位はそれほど低くはなかったようです。 
 
今期のおとめ座もまた、聖なるもの、人の力を超えた神仏との結びつきをもつ「芸能としての好色」ということについて、意識してみることでまた常日頃の営みについて、また違った感触を得ていくことができるかも知れません。 


参考:網野善彦『職人歌合』(平凡社ライブラリー) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「非知へ向かった着地」。

天秤座のイラスト
21世紀のわたしたちは、ここ10年を振り返ってもつくづく地震や津波や放射能や疫病をこうむっており、科学の営為とその限界ということについて嫌というほど突きつけられているように思います。つまり、端的に言って「知」は人を救うことができるのか、ということについて。 
 
これと同型の問題を、やはり同じような社会状況で迎えていたのが、鎌倉時代の仏教者・親鸞(しんらん)でした(自然科学の知ではなく宗教の知ではあれど)。鎌倉時代は、干ばつや風水害、疾病で大飢饉が起き、元寇の襲来もあった多難な時代であり、その時代に親鸞は仏教者という立場から、女性や身分の低い階層民の救済ということを大きな課題とし、自分にできうることは何かについて追求していったのです。思想家の吉本隆明は『最後の親鸞』という論考において、このことを次のように語り始めています。 
 
「「老若男女」の多くが、飢えのために眼の前で死んでゆくとき、ただ「生死無常」を説くことは、現実の世界を諦めによって不動なものと定めてしまい、そこからの絶対的な跳び超しを与えるにすぎないのではないか。」 
 
ただ念仏を唱え飢えない来世を約束することは、最終解決には導かない。絶対的な危機に対して、全能の対応も、手軽なハンドブックのようなノウハウなどありえないのだ、と。 
 
所属する宗派や教団が解体してしまっても構わないというギリギリのところで、親鸞は「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや(善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる )」という有名な「悪人正機」という教説さえをも超えていこうとするのですが、そんな親鸞の“態度”について吉本は次のようにも述べています。 
 
<知識>にとって最後の課題は、頂きを究め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまましずかに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。」 
 
言うまでもなくこの「そのまま」というのは誰しもが簡単にできることではありません。また、知において非知に着地することも、通常では困難でしょう。そう、あらゆる科学の知や、善意の行為もまた、必ず「非知」に突き当たって解体されるしかないのです(例えば「すべきだができない」というジレンマやそれが立ち現れる個別的状況において)。 
 
あるいは今期のてんびん座のテーマもまた、そんな“解体”にこそあるのかも知れません。 
 

参考:吉本隆明『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫)

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「生命力の純粋な発現」。

蠍座のイラスト
室町時代初期、当時まだ新興芸術の一つであった能を、約六百年後の現在にわたるまで脈々と生き延び続けるような伝統芸能へと大成させていったのは、何といっても世阿弥という一人の人物の功績によるものが大きいと言えます。 
 
彼は晩年に後継者へ向けて著者『風姿花伝』の中で、若さの魅力について「時分の花」と言い、年齢を超えて生きる芸の魅力について「まことの花」と言い、例えば次のように述べていました。 
 
いかなる名木であっても、花が咲いていないとき、その木に人は目を向けるだろうか。みすぼらしい桜の一重の花であっても、初花のいろいろと咲く方に目を惹かれるだろう」 
 
彼は「花」という言葉に何よりも「生命力の発現」を見ていたのでしょう。別の箇所にはこうあります。 
 
花といっても特別のものがあるのではない。奥義を極め万事につけて新鮮さの在り様を体得する以外に、花というものはないのだ」 
 
例えば、京都の今宮神社には今でも「鎮花祭」という花の祟りをなくすためのお祭りが残っていますが、世阿弥が「花と、感興と、新鮮さと、これら三つは同じことである」と言うときも、やはりそこには芸能が神事としての魂鎮めと結びついていくためのチャンネルが見出されていたのではないでしょうか。 
 
今期のさそり座もまた、ひとつ一瞬一瞬に咲いては萎れていく「時の花」になったつもりで、ただこの世に佇んでいくなかで、そうした「新鮮さの在り様」ということを掴んでいけるかも知れません。 


参考:野上豊一郎・西尾実校訂、『風姿花伝』(岩波文庫) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「四次元空間」。

射手座のイラスト
アメリカのSF作家カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』という小説があります。 主人公はビリー・ピルグリムという男で、時間の“くびき”から解き放たれた<けいれん的時間旅行者>。つまり、人生のいろんな場面に、自分の意志とは無関係にジャンプしてしまうというわけ。 
 
第二次大戦に従軍した際、ドイツのドレスデンで13万5000人もの命を奪った大空襲を経験し、除隊後は金持ちの娘と結婚して眼鏡屋になって成功し、結婚式の晩にトラルファマドール星人にさらわれて動物園に入れられて。そんな絶望的かつ直線的な人生を、小説ではあちこちに飛びながら読者も追体験していくのです。 
 
この小説におけるトラルファマドール星人は四次元空間に存在しており、すべての時間を同時に視ることができるのですが、小説のなかばで主人公に次のようなアドバイスをする一節があります。 
 
人生のなかばを過ぎるころ、トラルファマドール星人がビリーに助言することになる。幸福な瞬間だけに心を集中し、不幸な瞬間は無視するように──美しいものだけを見つめて過すように、永劫は決して過ぎ去りはしないのだから、と。もしビリーにその種の選択が可能であったなら、彼はもっとも幸福な瞬間として、馬車のうしろで日ざしをいっぱい浴びながらうたたねしたこのときを選んだことであろう。」 
 
人は永く生きていれば、必ずどこかで自分や他人の取り返しのつかないような愚かさに直面することがありますが、そうした事実を事実として受け止めたまま直線的に生き切ることは、人間にはおそらくできないでしょう。 
 
そして、断片としての耐えがたい事実をギリギリのところで繋ぎとめてくれるのは、トラルファマドール星人が示唆したような「幸福な瞬間」の記憶であるように思います。 
 
今期のいて座もまた、主人公ビリーのようにそんな瞬間を改めて選択して時間旅行にいそしんでみることをおすすめします。 


参考:カート・ヴォネガット・ジュニア、伊藤典夫訳『スローターハウス5』(ハヤカワ文庫) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「偶然の美学」。

山羊座のイラスト
哲学史の中でも「偶然」ということについて突き詰めて考察した著作を残した稀有な人物である九鬼周造は、偶然性の基本構造に芸術的な美の起源を見出していました。 
 
「ポール・ヴァレリーは一つの語と他の語との間に存する「双子の微笑(sourires jumeaux)」ということを云っているが、語と語との間の音韻上の一致を、双子相互間の偶然的関係に比較しているのである。」(『偶然性の問題』) 
 
これは例えば、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」という歌の「ふる(降る/経る)」「ながめ(長雨/眺め)」のような掛詞(かけことば)を想定してみると分かりやすいでしょう。 
 
偶然の音の重なりというによってまったく異なる意味の概念性が出会い、結びつけられていくことで出来上がる妙にも通じていきます。 
 
偶然ほど尖端的で果て無い壊れやすいものはない。そこはまた偶然の美しさがある。偶然性を音と音との目くばせ、言葉と言葉の行きずりとして詩の形式の中に取り入れることは、生の鼓動を詩に象徴することを意味している」(同上) 
 
音韻と意味とのあいだの「行きずり」の出会い、その「あわい(間/淡い)」において、はかなさだけでなく唯一性を見ようとしたのが九鬼の偶然論の本質であったように思います。 
 
今期のやぎ座もまた、ふと生じる邂逅や、一瞬の内に重なり、そしてまた離れていくような偶然的関係における“ふれあい”を大切にしていきたいところです。 


参考:九鬼周造『偶然性の問題』(岩波文庫) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「高頻度睡眠」。

水瓶座のイラスト
自ら「先見的デザインサイエンティスト」と自称した発明家のバックミンスター・フラーは、ジオデシック・ドームと呼ばれるドーム建築を普及させたり、飛行船のような形の三輪自動車ダイマクション・カーの原型を作ったり、「宇宙船地球号」というコンセプトを提唱したことなどで知られますが、その一方で、伝統的なライフスタイルについても異を唱え、自らを実験台にして研究していました。 
 
1920年代に空前の大繁栄をとげたアメリカでは、電気や水道、下水道が通り、ラジオ放送やレコードが普及するなど生活が一変していき、そうした社会の潮流を踏まえてフラーは1930年代初頭の時点で、それまでの睡眠時間は現代的なライフスイタイルには長すぎるので、訓練によって減らすことができないか模索し始めたのです。 
 
フラーは、1932年から翌年にかけて行った実験を通じて、疲れを感じたり眠くなったりするのは、体や頭脳を酷使しすぎた証拠であり、その時点で休憩をとって、疲労から回復しなければならないという確信にいたります。 
 
そこで、フラーは6時間仕事をするたびに、約30分仮眠する。あるいは、「集中力の崩壊」が起きたら6時間もたっていなくても寝る。それで彼はうまくいき、講義を10時間以上続けたり、つねにメモをとったり、模型を作ったり、本を読んだりと、七十代まで働き続けました。 
 
ただし、彼以外の同僚や学生の多くはうまくいかず、それこれも彼が三十秒もあれば眠りに落ちてしまう極めて寝つきの良い体質だったことが大きかったようです。 
 
今期のみずがめ座もまた、マジョリティに属する“ごく普通”のライフスタイルを当たり前のものとせずに、フラーのように自分の体質にあった睡眠ライフを模索してみるといいかも知れません。 


参考:ジェイ・ボールドウィン、梶川泰司訳『バックミンスター・フラーの世界―21世紀エコロジー・デザインへの先駆』(美術出版社) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「光源と影」。

魚座のイラスト
どんな時代にも、その時代に応じた一般的な「物語」というものがあります。昭和の時代のサラリーマンが終身雇用を得てマイホームを築こうとしたように、平安時代の貴族の男性であればまず官位の上昇ということがあり、女性の帰属であれば内裏に入って天皇の寵愛をうけて皇子を産むというのがそれで、それが可能な男女はその一般的な物語に沿って人生を生きようとしてきた訳です。 
 
ただ、日本初の長編小説『源氏物語』を自らの手で書き上げた紫式部は、そうした一般的な物語をそのまま生きようとはしませんでした。20代後半で貴族男性と結婚し、一女をもうけるものの結婚後3年ほどで夫と死別した彼女は、その現実を忘れるために物語を書き始めたのだと言います。 
 
ただ、そこには彼女が自分という一個人の内界に多彩な分身たちがうごめいていることに気付いていたという背景があったように思います。彼女は自らの影に潜む一人ひとりをなまなましく描き出すために、まず相手となる男性が必要だと考え、文字通り“光源”としての光源氏という男性を立てて、彼と女性たちとの物語を次々に展開させていったのでした。 
 
そしておそらく、物語を書き進めるうちに、作者の意図したとおりに都合よく動く人形であるはず光源氏が、作中で自らの意思を持ったようにこちらの意図とは無関係に振る舞い始め、彼女はそんな光源氏へ抵抗しつつ、ときに譲歩し、お互いを受け入れながら、筆のおもむく先へとたどり着いていったのではないでしょうか。 
 
それは現代人が有するのと同じような自己実現への欲求を、書くことで果たしていった偉大な先人の姿であり、だからこそ、『源氏物語』は1000年経ったいまでも、まるで現代小説のような奥行きと深みとをたたえているのかも知れません。 
 
今期のうお座もまた、自らの内部にうごめく分身たちを照らし出してくれる“光源”をまずは見つけ出してみるといいでしょう。 


参考:中沢新一『日本文学の大地』(角川学芸出版)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



--------占いの関連記事もチェック--------

他の占いもCheck!

Ranking

What's New

もっと見る