【蠍座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<12/13~12/26> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「いのちの感触」
一年で最も太陽の力が弱まる時期である冬至を過ぎた最初の満月は12月30日に、しかも月の力が最も強まるかに座で迎えていきます。
この満月のキーワードは、「ふれる」。あるいは、“知ること”をめぐる繊細な探求と、いのちあるものを理解することにおける半永久的なつかみどころのなさ。
「琴線にふれる」という言葉が、心の奥に秘められた感じやすい心情を刺激し感動や共鳴を与えることを言うように、「ふれる」という体験はただちに相互的な関わりのきっかけとなり、個人という枠を超えて溢れだし、包み込むいのちの感覚につながっていくところがあります。
しかし、これが「さわる」という言葉になった途端、人間的なあたたかみは消え失せて、ただモノとして確かめたり、操作したりといった一方的な関わりが思い起こされるはず。
かつては日本では元日の朝に、一番に汲み取った「若返る水」を供えて神棚に供える風習があり、これは月に関連する最も古い伝承に基づくものでした。
月というのは、本来私たちの中のもっともデリケートな部分であり、いつだって懐かしく心そそられる、生命の根源としてそこにあります。おおみそかの前日、年内最後の満月にはぜひとも自分自身や身近な人のやわらかな部分とふれあうような感覚を思い出し、新しい年に備えてみるといいでしょう。
この満月のキーワードは、「ふれる」。あるいは、“知ること”をめぐる繊細な探求と、いのちあるものを理解することにおける半永久的なつかみどころのなさ。
「琴線にふれる」という言葉が、心の奥に秘められた感じやすい心情を刺激し感動や共鳴を与えることを言うように、「ふれる」という体験はただちに相互的な関わりのきっかけとなり、個人という枠を超えて溢れだし、包み込むいのちの感覚につながっていくところがあります。
しかし、これが「さわる」という言葉になった途端、人間的なあたたかみは消え失せて、ただモノとして確かめたり、操作したりといった一方的な関わりが思い起こされるはず。
かつては日本では元日の朝に、一番に汲み取った「若返る水」を供えて神棚に供える風習があり、これは月に関連する最も古い伝承に基づくものでした。
月というのは、本来私たちの中のもっともデリケートな部分であり、いつだって懐かしく心そそられる、生命の根源としてそこにあります。おおみそかの前日、年内最後の満月にはぜひとも自分自身や身近な人のやわらかな部分とふれあうような感覚を思い出し、新しい年に備えてみるといいでしょう。
蠍座(さそり座)
今期のさそり座のキーワードは、「生命力の純粋な発現」。
室町時代初期、当時まだ新興芸術の一つであった能を、約六百年後の現在にわたるまで脈々と生き延び続けるような伝統芸能へと大成させていったのは、何といっても世阿弥という一人の人物の功績によるものが大きいと言えます。
彼は晩年に後継者へ向けて著者『風姿花伝』の中で、若さの魅力について「時分の花」と言い、年齢を超えて生きる芸の魅力について「まことの花」と言い、例えば次のように述べていました。
「いかなる名木であっても、花が咲いていないとき、その木に人は目を向けるだろうか。みすぼらしい桜の一重の花であっても、初花のいろいろと咲く方に目を惹かれるだろう」
彼は「花」という言葉に何よりも「生命力の発現」を見ていたのでしょう。別の箇所にはこうあります。
「花といっても特別のものがあるのではない。奥義を極め万事につけて新鮮さの在り様を体得する以外に、花というものはないのだ」
例えば、京都の今宮神社には今でも「鎮花祭」という花の祟りをなくすためのお祭りが残っていますが、世阿弥が「花と、感興と、新鮮さと、これら三つは同じことである」と言うときも、やはりそこには芸能が神事としての魂鎮めと結びついていくためのチャンネルが見出されていたのではないでしょうか。
今期のさそり座もまた、ひとつ一瞬一瞬に咲いては萎れていく「時の花」になったつもりで、ただこの世に佇んでいくなかで、そうした「新鮮さの在り様」ということを掴んでいけるかも知れません。
参考:野上豊一郎・西尾実校訂、『風姿花伝』(岩波文庫)
彼は晩年に後継者へ向けて著者『風姿花伝』の中で、若さの魅力について「時分の花」と言い、年齢を超えて生きる芸の魅力について「まことの花」と言い、例えば次のように述べていました。
「いかなる名木であっても、花が咲いていないとき、その木に人は目を向けるだろうか。みすぼらしい桜の一重の花であっても、初花のいろいろと咲く方に目を惹かれるだろう」
彼は「花」という言葉に何よりも「生命力の発現」を見ていたのでしょう。別の箇所にはこうあります。
「花といっても特別のものがあるのではない。奥義を極め万事につけて新鮮さの在り様を体得する以外に、花というものはないのだ」
例えば、京都の今宮神社には今でも「鎮花祭」という花の祟りをなくすためのお祭りが残っていますが、世阿弥が「花と、感興と、新鮮さと、これら三つは同じことである」と言うときも、やはりそこには芸能が神事としての魂鎮めと結びついていくためのチャンネルが見出されていたのではないでしょうか。
今期のさそり座もまた、ひとつ一瞬一瞬に咲いては萎れていく「時の花」になったつもりで、ただこの世に佇んでいくなかで、そうした「新鮮さの在り様」ということを掴んでいけるかも知れません。
参考:野上豊一郎・西尾実校訂、『風姿花伝』(岩波文庫)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ