【水瓶座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<1/24~2/6> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「春一番を察知する」
2月3日に「立春」を迎え、まだまだ寒さは厳しいものの梅のつぼみがほころび始め、少しずつ春の香りがひろがっていこうとしているなか、2月12日にはみずがめ座で新月が形成されていきます。
今回のみずがめ座新月のテーマは「徹底的に空気を読み、それに応える」。
古来より、季節というのはただ待っていれば自動的にやってくるものではなく、東からやってくる風が春を連れてくるものと考えられてきました。そして、立春から春分までに吹く最初の南風を「春一番」と言いますが、この場合、それは物理的な風というよりも、ぐっと気温をあげてこの世界を住みやすいものにしてくれる新たな希望の到来であり、その気配のこと。
春一番が吹いても、またすぐに冷たい風が吹いて寒くなるのですが、それでも春二番、春三番と同じような風が吹くたびに、春は少しずつこの世界に招かれてくるはず。
ますます混迷を極め、暗澹たる思いが立ち込めるように思える世相において、たとえかすかなものであれ希望の光となるような流れがどこから射し込んでくるのか。新月に向かっていく今期においては、自分個人の幸せや願望の成就というより、そうした「どんな世界になってほしいのか?」という社会的な願いに焦点をあてて、その兆しや可能性を追求していきたいところです。
今回のみずがめ座新月のテーマは「徹底的に空気を読み、それに応える」。
古来より、季節というのはただ待っていれば自動的にやってくるものではなく、東からやってくる風が春を連れてくるものと考えられてきました。そして、立春から春分までに吹く最初の南風を「春一番」と言いますが、この場合、それは物理的な風というよりも、ぐっと気温をあげてこの世界を住みやすいものにしてくれる新たな希望の到来であり、その気配のこと。
春一番が吹いても、またすぐに冷たい風が吹いて寒くなるのですが、それでも春二番、春三番と同じような風が吹くたびに、春は少しずつこの世界に招かれてくるはず。
ますます混迷を極め、暗澹たる思いが立ち込めるように思える世相において、たとえかすかなものであれ希望の光となるような流れがどこから射し込んでくるのか。新月に向かっていく今期においては、自分個人の幸せや願望の成就というより、そうした「どんな世界になってほしいのか?」という社会的な願いに焦点をあてて、その兆しや可能性を追求していきたいところです。
水瓶座(みずがめ座)
今期のみずがめ座のキーワードは、「物来たりて我を照らす」。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」と対照的な響きをもつこの西田幾多郎の言葉は、前者において対象は明示的に現れてすらいないのに対して、後者においては対象の側に我と同等かそれ以上の重点が置かれていることが分かります。
この西田の言葉について精神病理学者の兼本浩祐は『なぜ私は一続きの私であるのか』という本のなかで、次のように解説してくれています。
「つまり、「靴」という名前で呼び続け、犬を「犬」という名前で呼び続けることこそが、翻って私を確定するのであって、まず私というものがどこかにあってそれが犬を犬、靴を靴と呼ぶわけではおそらくない。つまり物が来たりて物が一つの名前で照らし出されるとその残照として私というものがマッチ売りの少女のマッチの火のように後付けで明滅するのではないか、そのように私は西田の言葉を受け取っています。つまり、私達は私達として存在するためには、ものに触発され続け、ものの名前を名付け続けなければならないのではないか。そうでなければ、しばらくは残照としてそれでも明滅してはいるものの、早晩私達は私達であることを保てなくなるのではないか」
確かに私たちは日頃なんとなく自分の方が対象を名指しているのだと錯覚していますが、実際には対象を名指すことを通して私たちの方が名指され、対象の残照ないし残響として私たちはかろうじて一続きのものである外観を保てているという話には、一定の確からしさがあります。
そもそも、人生のどこかでそうした鮮烈な残照体験を通して、私たちは世界と出会い、自分が何者であるのかということを告げ知らされるのだとして、そうした体験を実際に経ているのかと問うた時、たとえ優秀な人材として職場で評価され、結婚して家庭を築いていたとしても、いまだそうした残照体験をしたことがないという場合だって大いにあり得るはず。
今期のみずがめ座もまた、そうして「物が来りて我を照らし」、初めて世界のうちに自分という存在が差し込まれ、自分が何者かを知っていくという感覚をどこかで実感していくことができるのではないでしょうか。
参考:兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか』(講談社選書メチエ)
この西田の言葉について精神病理学者の兼本浩祐は『なぜ私は一続きの私であるのか』という本のなかで、次のように解説してくれています。
「つまり、「靴」という名前で呼び続け、犬を「犬」という名前で呼び続けることこそが、翻って私を確定するのであって、まず私というものがどこかにあってそれが犬を犬、靴を靴と呼ぶわけではおそらくない。つまり物が来たりて物が一つの名前で照らし出されるとその残照として私というものがマッチ売りの少女のマッチの火のように後付けで明滅するのではないか、そのように私は西田の言葉を受け取っています。つまり、私達は私達として存在するためには、ものに触発され続け、ものの名前を名付け続けなければならないのではないか。そうでなければ、しばらくは残照としてそれでも明滅してはいるものの、早晩私達は私達であることを保てなくなるのではないか」
確かに私たちは日頃なんとなく自分の方が対象を名指しているのだと錯覚していますが、実際には対象を名指すことを通して私たちの方が名指され、対象の残照ないし残響として私たちはかろうじて一続きのものである外観を保てているという話には、一定の確からしさがあります。
そもそも、人生のどこかでそうした鮮烈な残照体験を通して、私たちは世界と出会い、自分が何者であるのかということを告げ知らされるのだとして、そうした体験を実際に経ているのかと問うた時、たとえ優秀な人材として職場で評価され、結婚して家庭を築いていたとしても、いまだそうした残照体験をしたことがないという場合だって大いにあり得るはず。
今期のみずがめ座もまた、そうして「物が来りて我を照らし」、初めて世界のうちに自分という存在が差し込まれ、自分が何者かを知っていくという感覚をどこかで実感していくことができるのではないでしょうか。
参考:兼本浩祐『なぜ私は一続きの私であるのか』(講談社選書メチエ)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ