【乙女座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<2/7~2/20> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「未来を肌で感じていく」
前回の記事では、2月12日のみずがめ座新月は「社会/時代の空気を読み、実感をもってそれに応えること」がテーマであり、それは立春から春分までに吹く最初の南風である「春一番」を察知して、肌身で感じていくことにも通じていくということについて書きました。
じつはこれは今年3度にわたって起きる土星と天王星のスクエア(90度)という、2021年の時勢の動きを象徴する配置の1回目が2月18日にあることを踏まえての話でした(2回目と3回目は6月と12月)。
土星(体制)と天王星(革新)がぶつかり合って、互いに変化を迫るこの緊張感あふれる配置が形成される時というのは、しばしば世の中の常識や秩序の書き換えが起こりやすく、これまでなんとなく受け入れてきた無目的な制限や命令の押しつけに対し、多くの人が「もう我慢ならない」と感じやすいタイミングと言えますが、同時にそれは、これまで考えもしなかったようなところから人生を変えるチャンスが転がってきたり、新たな希望の気配が差し込んでくるきっかけともなっていきます。
一方で、それは突然の出来事や予期しなかった展開を伴うため、現状を変えたくないという思いが強い人にとってはこの時期何かと振り回されたり、くたびれてしまうこともあるかも知れません。
しかしそれも、最初の「春満月」を迎えていく2月27日頃には、行き着くところまで行ってみればいいじゃないかという、ある種のカタルシス感が出てきて、朧月(おぼろづき)さながらに、ほのぼのとした雰囲気も漂ってくるように思います。
古来、春という新たな季節は東から風によって運ばれてくるものと考えられてきましたが、12日の新月から27日の満月までの期間は否が応でも感覚が研ぎ澄まされ、予想だにしなかった未来の訪れを少しでも実感に落としていけるかということが各自においてテーマになっていくでしょう。
じつはこれは今年3度にわたって起きる土星と天王星のスクエア(90度)という、2021年の時勢の動きを象徴する配置の1回目が2月18日にあることを踏まえての話でした(2回目と3回目は6月と12月)。
土星(体制)と天王星(革新)がぶつかり合って、互いに変化を迫るこの緊張感あふれる配置が形成される時というのは、しばしば世の中の常識や秩序の書き換えが起こりやすく、これまでなんとなく受け入れてきた無目的な制限や命令の押しつけに対し、多くの人が「もう我慢ならない」と感じやすいタイミングと言えますが、同時にそれは、これまで考えもしなかったようなところから人生を変えるチャンスが転がってきたり、新たな希望の気配が差し込んでくるきっかけともなっていきます。
一方で、それは突然の出来事や予期しなかった展開を伴うため、現状を変えたくないという思いが強い人にとってはこの時期何かと振り回されたり、くたびれてしまうこともあるかも知れません。
しかしそれも、最初の「春満月」を迎えていく2月27日頃には、行き着くところまで行ってみればいいじゃないかという、ある種のカタルシス感が出てきて、朧月(おぼろづき)さながらに、ほのぼのとした雰囲気も漂ってくるように思います。
古来、春という新たな季節は東から風によって運ばれてくるものと考えられてきましたが、12日の新月から27日の満月までの期間は否が応でも感覚が研ぎ澄まされ、予想だにしなかった未来の訪れを少しでも実感に落としていけるかということが各自においてテーマになっていくでしょう。
乙女座(おとめ座)
今期のおとめ座のキーワードは、「たましいの創造」。
自分が失うはずがないと思っていたものが奪われ、壊れるはずがないと思っていたものが壊れる。そんな、まさか、と思うようなことに何でもないような顔をして現実に起きていく状況が「危機」であるとして、村上春樹は『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』の中で、「欠落を埋める」ための試みとしての芸術行為ということについて、次のように書いています。
「ひとつ確認しておきたいのは、欠落そのものは(あるいは病んでいることは)人間存在にとって決してネガティブなものではないということです。欠落部分というのはあって当然です。ただし人が真剣に何かを表現しようと思うとき、「欠落はあって当然で、これでいいんだ」とは思わないものです。それをなんとか埋めていこうとする。その行為に結果的な客観性がある場合には、それは芸術になることもある。そういうことです」
こうした「表現を通して欠落を埋める」という観点から考えると、そもそも人間というのは多かれ少なかれ生まれた時から欠落部分を抱えているもので、「危機」というのはそこで初めて何かが失われたと言うよりは、既に失っていたことに気付いたり、実感が湧いてきたタイミングのことを言うのであって、そうして喪失を受け止めることができて初めて、表現や物語が始まっていくのだと言えます。
この後で、今度は河合隼雄が「物語」に対する仮説を述べています。
「物語というのはいろいろな意味で結ぶ力を持っているんですね、いま言われた身体と精神とか、内界と外界とか、男と女とか、ものすごく結びつける力を持っている。というより、それらをいったん分けて、あらためて結びつけるというような意識を持つのはわれわれ現代人であって、あの当時はそれらがいまのように分かれていないところに、物語があったのです」
「あの当時」というのは、竹取物語とか宇治拾遺物語とか説話文学が出てきた日本の中世のことで、そこで展開される物語というのは、いわゆる日本の昔話のことですね。
どうもそうした“現実と溶けあった物語”というのを人は危機に陥ると求めるし、最終的にはそれを自分なりに紡いでいかなければ、いつまでも欠落は埋まらないのではないでしょうか。
例えばジェイムズ・ヒルマンのような心理学者はそのことを「soul-making(たましいの創造)」と言ったのだと思いますが、今期のおとめ座もまたいわゆる“大人”になるための自我形成から「soul-making」へと改めて歩みを進めていこうとしているのかも知れません。
参考:村上春樹+河合隼雄『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』(新潮文庫)
「ひとつ確認しておきたいのは、欠落そのものは(あるいは病んでいることは)人間存在にとって決してネガティブなものではないということです。欠落部分というのはあって当然です。ただし人が真剣に何かを表現しようと思うとき、「欠落はあって当然で、これでいいんだ」とは思わないものです。それをなんとか埋めていこうとする。その行為に結果的な客観性がある場合には、それは芸術になることもある。そういうことです」
こうした「表現を通して欠落を埋める」という観点から考えると、そもそも人間というのは多かれ少なかれ生まれた時から欠落部分を抱えているもので、「危機」というのはそこで初めて何かが失われたと言うよりは、既に失っていたことに気付いたり、実感が湧いてきたタイミングのことを言うのであって、そうして喪失を受け止めることができて初めて、表現や物語が始まっていくのだと言えます。
この後で、今度は河合隼雄が「物語」に対する仮説を述べています。
「物語というのはいろいろな意味で結ぶ力を持っているんですね、いま言われた身体と精神とか、内界と外界とか、男と女とか、ものすごく結びつける力を持っている。というより、それらをいったん分けて、あらためて結びつけるというような意識を持つのはわれわれ現代人であって、あの当時はそれらがいまのように分かれていないところに、物語があったのです」
「あの当時」というのは、竹取物語とか宇治拾遺物語とか説話文学が出てきた日本の中世のことで、そこで展開される物語というのは、いわゆる日本の昔話のことですね。
どうもそうした“現実と溶けあった物語”というのを人は危機に陥ると求めるし、最終的にはそれを自分なりに紡いでいかなければ、いつまでも欠落は埋まらないのではないでしょうか。
例えばジェイムズ・ヒルマンのような心理学者はそのことを「soul-making(たましいの創造)」と言ったのだと思いますが、今期のおとめ座もまたいわゆる“大人”になるための自我形成から「soul-making」へと改めて歩みを進めていこうとしているのかも知れません。
参考:村上春樹+河合隼雄『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』(新潮文庫)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ