【最新12星座占い】<2/21~3/6>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい

2021年2月21日から3月6日までのSUGARの12星座占い

【SUGARさんの12星座占い】<2/21~3/6>の12星座全体の運勢は?

「風の便りを受け取って」 

2月19日には節気も「雨水」に変わり、雪や氷が溶けていよいよ春に向けて草木も芽吹き始めますが、そんな折の2月27日にはおとめ座で満月を迎えていきます。 

今回の満月は、2月18日に体制と制約の土星と激しくぶつかり合った変革と解放の天王星と歩調を合わせつつ、後者の影響力を一気に押し広げていくような配置となっていますが、そのテーマを端的に表すとすれば「癖や偏りの昇華」となるでしょう。 

つまり、無理にエネルギーを集中させて単発的に興奮していくというのではなく、みずからの身体の要求を素直に聞いて、瞬間瞬間の生命の流れにうまく乗っていくなかで、ふつふつと静かな快感が湧いてきて、ごく自然に発散が起きてくるというイメージです。 

ちょうどヒヤシンスの花が開いていく時期でもありますが、幕末に伝わったこの花には「風信子」という漢字が当てられています。「風信」は風の便りという意味も持っており、風に漂うほのかな香りがそっと春の便りを届けてくれますが、今期はそうした微細な変化の流れにきちんと身をもって反応・順応していけるかどうかが、各自においていつも以上に問われていくのではないでしょうか。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「疎外された労働の向こう側」

牡羊座のイラスト
「働き方改革」のもと昨年より労働者派遣法の法改正が続き、「同一労働同一賃金」の推進が叫ばれている昨今ですが、とはいえそれで「派遣労働」の問題点そのものがなくなる訳ではありません。 
 
派遣先に「頑張れば正社員になれるよ」などと言われて頑張ってみるものの結局正社員になれず切られて悔し涙を流すといったケースはまだまだ決して少なくなく、派遣労働者のキャリア上の困難や生活への不安に関する相談は減ることなく寄せられ続けています。 
 
そうした派遣労働の問題点について、すでに180年前に若きカール・マルクスが資本主義批判を目的とした『経済学・哲学草稿』のなかで次のように指摘していました。 
 
さて、労働の外化とはどんな形を取るのか。 
第一に、労働が労働者にとって外的なもの、かれの本質とは別のものという形を取る。となると、かれは労働のなかで自分を肯定するのではなく否定し、心地よく感じるのではなく不仕合わせに感じ、肉体的・精神的エネルギーをのびのびと外に開くのではなく、肉体をすりへらし、精神を荒廃させる。だから、労働者は労働の外で初めて自分を取りもどし、労働のなかでは自分を亡くしている。(中略)(かれの労働は)欲求を満足させるものではなく、自分の外にある欲求を満足させる手段にすぎない。肉体的強制その他が存在しないとき、労働がペストのように忌み嫌われ遠ざけられるところに、労働のよそよそしさがはっきりと示されている。外からやってきて人間を外化する労働は、自己犠牲の労働であり、辛苦の労働なのだ。」 
 
ここで使われている「外化」という言葉は「疎外」という言葉にも置き換えることができますが、いずれにせよ実現された物や実現の行為が他人に奪い取られるという否定的な意味で使われていることが分かります。 
 
「最後に、労働が労働者にとって外的なものだということは、労働がかれ自身のものではなく他人のものであり、他人に属すること、労働のなかでかれが自分ではなく他人に帰属していることのうちに見て取れる。」 
 
こうした疎外された労働の姿の向こうには何が広がっているのでしょうか。青年マルクスは、そこに人間と自然、そして人間と人間が豊かに交流し発展してゆく“本来の労働”を透視せずにはいられませんでした。その意味で、今期のおひつじ座もまたそうしたマルクスのまなざしに自身のそれを重ねていくことになるかも知れません。 


参考:カール・マルクス、長谷川宏訳『経済学・哲学草稿』(光文社古典文庫) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「生存の技法」

牡牛座のイラスト
過酷な現実世界と有限な人間とのあいだの緊張という問題を追求しつづけた思想家ハンス・ブルーメンベルクは、『われわれが生きている現実』という著作の中で、生活世界の機械化や自動化といった近代科学の所産としてのテクノロジーの人間への影響について、次のように述べています。 
 
「フッサールの考えによれば、人間は技術化を進めることで、根源的直観の上に成り立つ明白な実践的遂行に忠実たることをやめるのだ。[…]技術化によって、人間はみずからを悟性の可能性へと限定し、理性の要請から逃げてしまう」 
 
ここでいう「悟性」とは、感性によってぼんやりとキャッチされたイメージを「ああ、これはテーブルだ」などと判断する機能のことですが、それは人間が生存していく上でとても便利な必要不可欠な機能である一方で、技術によってひたすらその効率や結果のみを目指すようになっていけば、事柄の真の理解をさしおいてしまうようになり、ブルーメンベルクはそのことを「理性の要請からの逃亡」といい、「洞察が失われていくことが逆に喜ばしいことになる」とも指摘している訳ですが、これは現代の日本人の言論に対する態度をピタリと予言しているようにも思えます。 
 
では、AIの登場によって技術化がますます浸透していくであろう現状に対して、私たちはどうすればいいのか。ブルーメンベルクはつねに完了態にある科学に対し、いつでも新たに着手する哲学的思考こそが「新たな生の意志」を把握することができるというフッサールの構図にならって、こう述べます。 
 
それは、純然たる客観的存在の事実性によってのみ有意味なものとなる(技術的)世界に抵抗し、自己に忠実であるように訴え、そしていったん把握した同一の意味を目的論的にどこまでも追求し続けるよう呼びかけるのである」 
 
目的論的に、すなわち、何のために。今期のおうし座もまた、たまたま中の原理が気になった人工物であれ、ふと日常生活でひっかかりを感じた自動化されたプロセスであれ、自分の理性の要請からいかに逃げず、哲学的思考を展開させられるかが問われていくのではないでしょうか。 


参考:ハンス・ブルーメンベルク、村井則夫訳『われわれが生きている現実』(法政大学出版局) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「うたかたの家」

ふたご座のイラスト
日本三大随筆のひとつ『方丈記』と言えば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」という書き出しがとにかく有名で、人の世の無常とかけた「ゆく河の流れ」や「うたかた(泡)」の話だと思われがちですが、実際に鴨長明が語っていたのはそれを受けた人と栖(すみか)、住宅の話でした。 
 
長明は彼がかくれ住んだ京都郊外の日野山の小屋の「ありよう」について、次のように叙述しています。 
 
東に三尺余りの庇(ひさし)をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚(あかだな)をつくり、北によせて障子をへだてて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、まへに法華経をおけり。東のきはには蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊棚を構へて、黒き皮籠(かわご)三合をおけり。すなはち、和歌・管絃・往生要集ごときの抄物(しょうもの)を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張をたつ。いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。仮りの庵のありよう、かくのごとし。」 
 
家具だけでなく、琴や琵琶までが組み立て式であることを、どこか突き抜けたような、弾んだ調子で語るこの文体の特徴を一言で言えば「軽み」でしょう。少なくとも、50歳前後の「老」を匂わせるそれではなく、もう少し軽ければ「若」さえ漂っていたはず。 
 
ちなみにここで言う「障子」とは今でいう「ふすま」のことですが、江戸時代の俳聖・松尾芭蕉のように乞食の境涯を理想とする向きとは全然違って、こちらはどこか優雅なミニマリズムを感じさせます。 
 
長明は頭をそって僧衣をまとっていたとは言え、仏道修行者である以前に歌人であり音楽家でもありましたから、ここに書かれたささやかな財産目録はそのまま彼の生きてきた軌跡でもあり、その表現でもあったのです。 
 
今期のふたご座もまた、どうしたら自分の生きてきた来歴を、できるだけ「軽み」をもって表現ないし配置していくことができるかということがテーマになってくるでしょう。 


参考:鴨長明、浅見和彦訳『方丈記』(ちくま学芸文庫) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「せかい一れつ」

蟹座のイラスト
少し前に歌人の佐々木定綱さんが、「男が男の歌を引用して評論を書いて男の歴史を作ってきたのだ」ということを女性の歌人の先輩に教えられ、自身の評論を振りかえったら確かに男性歌人の比率が高くて衝撃を受けたという旨をツイートしていましたが、日本の思想史や仏教史においても光明皇后などの例外をのぞいて女性はほとんど出てきません。 
 
邪馬台国の卑弥呼のような指導的な立場の女性シャーマンが出てくるのは江戸時代から幕末にかけてですが、こと宗教の創唱ということであれば、その典型と言えるのは天理教の開祖・中山みきでしょう。 

中山は大和の地主の主婦でしたが、長男の足の病気を治すために山伏の祈祷を受けた際、みずから神がかりして「天の将軍」が中山の身体を「神の社」としてもらい受けると宣言したのです。これは中山自身にとっても思いがけないことであり、幾度も自殺をはかったものの死にきれず、家は没落して貧乏のどん底に落とされましたものの、次第にその祈祷が病気なおしと安産にきくと話題を呼んで信者を増やし、単なる現世利益をこえて社会への批判を含んだ教理を展開していったのです。 
 
明治維新直前に発表された『みかぐらうた』には、「かみがでゝ なにかいさい(委細)を とくならバ せかい一れつ いさ(勇)むなり」と、神のもとでのあらゆる人間の平等をとき、「一れつに はやくたすけを いそぐから せかいのここゝろも いさめかけ」と神と人間とで力を合わせて世直しを急がなければならないと、歌をリズムにのせて呼びかけていきました。 
 
このように、既存の宗教が硬直したシステムと組織の論理に縛られる中で、宗教的資質に優れた女性の力を最大限生かし、自由な思想と行動を展開してきた新宗教には、いま改めて見直すべき側面が大いにあるのではないでしょうか。 
 
今期のかに座もまた、多様な人間を広く大きく包み込む女性的力をどうしたら慣習にとらわれない仕方で発揮していけるか問われていくことでしょう。 


参考:『みかぐらうた おふでさき』(東洋文庫) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「なぜだか分からないけど陥ってしまうもの」

獅子座のイラスト
占いの仕事などしていると、必然的に恋愛相談というのをそれはもうたくさんされるようになる。「相性はどうですか?」とか「彼と結婚できそうですか?」という相談は、まだいい。初めはまごついたとしても、占術の知識の幅を広げたり場数を踏んでいくことである程度応えていけるようになる。 
 
ただ、「どうして好きになってしまったんでしょう?」、これは困る。 
 
人を好きになるのは、能動的に好きになろうと思ってなれるものではないし、もちろんだからといって受動的に好きになられるから好きになるという訳でもない。 
 
なぜだかわからないけど不意に陥ってしまうものであり、いわばそうした想定外の状況のさ中で何だか判別のつかない感情が、その人を<場>として立ち現れてくるものだから。 
 
これを捉えるには、能動態―受動態ではなく、より自然展開的な中動態と呼ばれる古い用法を頭においていく必要がある。 
 
能動態では、動詞は、主語から出発して主語の外で実行される過程を示す。中動態はこれとの対立によって定義されるべき態であるが、そこにおいて動詞は、主語が過程の座にあるような過程を示し、主語は過程に対し内的である。」(エミール・バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』) 
 
「主語が過程の座にある」とか、「主語は過程に対し内的である」という下りは少し分かりづらいけれど、これは能動態の主語が、動詞によって引き起こされる過程に巻き込まれることなく、その外部で元のままであり続けることと対比してみると幾らか分かりやすいだろう。 
 
例えば、ギリシャ語やサンスクリット語で「眠る」「想像する」「成長する」などは中動態の動詞とされているが、日本語であれば「(別に見ようとした訳ではないのに自然と目の前に浮かぶように何かが)見える」などが中動態の動詞にあたり、そこでは確かに「見えた」ことによって主語としての私が何らかの仕方で影響をこうむっている。 
 
その意味で、「好きになる」「恋をする」ということも、「恋愛をする」という能動態とは違って、それによって変わりたい、影響をこうむりたい、という心理がその根底にあるのかもしれない。 
 
今期のしし座もまた、自分の意志や意図とは関係のないところで、自分の身に起きてくる、ふりかかってくるものをきちんと見定めていきたいところ。 


参考:エミール・バンヴェニスト、河村正夫訳、岸本通夫監訳『一般言語学の諸問題』(みすず書房) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「禅をつらぬく」

乙女座のイラスト
一休さんと言えば、とんちで大人をやりこめる聡明な少年僧のイメージばかりが先行しますが、これは江戸時代につくられたある種の虚像で、実際の一休は奇行で知られた反骨僧でした。 
 
その詩集『狂雲集』には、例えば次のような一節が出てきます。 
 
「風狂の狂客 狂風を起す 
来往す 婬坊(いんぼう) 酒肆(しゅし) 
具眼(ぐげん)の衲僧(のうそう) 誰か一拶(いっさつ) 
南を画し北を画し 西東を画す」 
 
柳田聖山の現代訳によれば、「狂いっぱなしの狂客が狂った旋風を巻き起こす/女郎屋と酒屋を往ったり来たり/力量のある禅坊主でも誰が一突きできようか/東西南北どう枠づけしても捕まらない」の意で、偽悪的なまでにとことん酒と女と破戒の世界に溺れ込んでいったその後ろ姿が伺えます。 
 
当時の乱れた禅宗の世界にあって、自分こそが唯一正当な禅の正当な継承者であるという強力な自負を持っていた一休は、ただ表面だけを整えて内実の無いものを厳しく糾弾し、つじつまのあった合理性ではなく、それをはみ出す暗い世界に沈潜し、地獄の底まで射通すことこそ禅の精髄だと考えていたのでしょう。 
 
その圧巻と言えるのは、盲目の女性・森侍者(しんじしゃ)との狂おしいほどの老いらくの性愛であり、情愛に溺れるあまり断食自殺さえ考えた末に、次のような詩を残して『狂雲集』は終わっています。 
 
木ゆらぎ葉落ちて、更に春を回す、緑を長じ花を生じて、旧約新たなり。森也が深恩、もし忘却せば、無量億劫、畜生の身」 
 
つまり、一休はここで生命の再生を喜ぶとともに、森侍者への感謝を忘れたら未来永劫畜生だと、その恩の深さを詠っているのです。一休はその後、大徳寺の住職を拝命して一日だけで辞めたものの、その後も応仁の乱で荒廃した大徳寺の復興・再建に尽力するなど、八十歳を超えてなお精力的に活動していきました。 
 
今期のおとめ座もまた、一休ほどではないにせよ、乱れたこの世界にあって、どうしたら禅の概念をぶち抜けるかを試されているのだと言えるでしょう。 


参考:一休宗純、柳田聖山訳『狂雲集』(中公クラシックス) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「「わたしたち」のきっかけ」

天秤座のイラスト
昨年から続くコロナ禍の影響によって、何かと言うと物理的な距離を取ることがもはや当たり前の常識のようになっている世の中ですが、そこでは接触する人としない人との線引きの問題や、接触がない場での親密さや信頼の形成というコミュニケーションにおける新たな課題もまた生じてきています。 
 
そんな中で、改めて注目しておきたいのが脳神経科学者アントニオ・ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」です。「ソマティック」とは「身体の、肉体の」という意味で、従来の合理的判断において身体の反応や感情は無関係ないし邪魔になるという“常識”に反して、むしろ瞳孔や手汗などの身体の調節系の反応が多数の選択肢から適切なものを選択する意思決定の際の標識(マーカー)として機能し、相補的に働いているというもの。 
 
つまり、身体がもたらす一種の直感のことであり、ダマシオは「費用便益分析(…)を行う前に、そして問題解決に向けて推論をはじめる前に、あるきわめて重要なことが起こる。たとえば、特定の反応オプションとの関連で悪い結果が頭に浮かぶと、いかにかすかであれ、ある不快な「直感」を経験する」という言い方でそれを表しています。 
 
ここで大事な点は、ソマティック・マーカーは目の前に他者がいたり、実際に接触が生じる可能性が高い状況においては、より強く働くということ。そして、それはとかく競争原理や損得勘定と繋がりやすい「わたし」と「あなた」(他者)を分けて考える発想を乗り越えた、「わたしたち」という自己観が形成されるための最も強力なきっかけとなっていくのです。 
 
他者との具体的な触れ合いが制限された状況下で、例えばVR空間でのコミュニケーションを可能にするテクノロジーの試みは今後もますます盛んになっていくことが予想されますが、その前にまずひとりひとりが自身の身体状況や他者の反応に“触れる”ことの大切さを痛感していく必要があるように思います。 
 
今期のてんびん座もまた、意識にとってもっとも身近でありながら、つねに遠い存在でもある自身の“身体”と触れ合い、その反応に敏感になることで、改めて「わたしたち」という総体としての自己の輪郭を確かめてみるといいでしょう。 


参考:アントニオ・ダマシオ、田中三彦訳『生存する脳』(講談社)

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「米粒のなかで天地はひとつ」

蠍座のイラスト
いま日本の経済成長はいよいよ行き詰まり、政治も経済もすっかりいきいきとしたパワーを失ってしまっているように見えますが、忘れてはならないのは日本がもともと農耕社会であり、1960年頃までは季節にしたがって種を撒き、収穫するというサイクルを約二千年くりかえしてきたのだということ。 
 
そこでは、誰か何かと戦って勝つ力よりも、人知の及ばない巨大な自然と折り合い、仲良くしていく術が求められてきましたし、そうした知恵の積み重ねのなかにこそ、日本の文化的叡智はまだまだ眠っているはず。そして、そんな農の思想を大成したのが江戸時代の安藤昌益でした。 
 
秋田藩出身の医師であった安藤は飢饉に見舞われた東北の厳しい環境の中で、仏教も儒教も何の役にも立たないことを身をもって痛感し、また当時の身分制社会を公然と批判したことで、日本的な社会主義の祖としても知られていますが、その真髄はやはりその独自の世界観にありました。 
 
彼の代表的著作である『続道真伝』によれば、この世界は始めも終わりもない自然の運動で、それは通(下から上への垂直運動)・横(水平運動)・逆(上から下への垂直運動)からなり、通により転定(天地のこと)が成り立ち、横により人間の住む世界が確立し、逆により穀物が生ずるとされ、穀物の中でも米こそが転定を凝縮したものであり、この米粒から人間も生まれるものと構想されたのです。 
 
米粒にすばらしい働きが具わっているのが、転定(天地)の太陽や月であり、人の霊魂である。(中略)米粒に転の穀物、定の穀物が具わり、転の穀物に定の穀物が具わり、定の穀物に転の穀物が具わっているのは、転定が一体ということである。男女は、男の中に女が具わり、女の中に男が具わり、男女で一人だということである。」 
 
小さな米粒のひとつひとつに人の原形がこめられ、それを食べることで人の命も継続する。ここには経済を回すより、いのちの継続を願い、それを世界と人間との一体化を実践していくことで実現していく安藤の思想には、現代の日本人が改めて自然の中の人間の在り方を取り戻していくための大きなヒントがあるように思います。 
 
今期のさそり座もまた、合理主義的で直線時間的な進歩成長至上主義から脱して、いかに社会や世界との一体感やその豊かさを感じ直すための礎を確かめていけるかがテーマになっていくでしょう。 


参考:安藤昌益『続道真伝 上』(岩波文庫) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「ショックの正体」

射手座のイラスト
気付くといつの間にか行きつけにしていた店が閉店していた。そんな事態がもはや日常的光景にさえなってきてしまっている昨今ですが、その他にも不意に飛び込んだ電車やお店にほとんど人がいなかったり、急速にその様相を変えていく都市に何がしかショックを受けている人も少なくないはず。あるいは、ショックを受けていること自体が標準状態になってしまっているのではないでしょうか。 
 
そんな現代人の内的状況に通じるものがあるであろう書物のひとつに、ヴァルター・ベンヤミンの「ボードレールにおけるいくつかのモチーフについて」があります。 
 
19世紀に現れた大都市の群衆は、それ自体が文学者たちに途方もなく大きく、強い印象を与えていきましたが、中でもベンヤミンはエドガー・アラン・ポーの群衆の描写に目を向けます。 
 
大都市の群衆は、それをはじめて目のあたりにした人びとの心に、不安、嫌悪、戦慄を呼び起こした。ポーにおける群衆にはなにか野蛮なところがある。規律は彼らをかろうじて制御しているにすぎない」 
 
しかしボードレールにとっては、群衆は決して厭わしいものではありませんでした。 
 
大都市の群衆は否応なしに彼を引きつけ、遊歩者としてその一員にしたのだが、この群衆が非人間的な性格を持っているという思いは、そのときでもやはり彼の心を去らなかった。彼は自分を群衆の共犯者とし、しかもほとんど同じ瞬間に、群衆から離れる。」 
 
こうした群衆への愛憎半ばする思いこそがボードレールの詩作の基盤となっていった訳ですが、ベンヤミンはこうした都市の群衆の一員として「遊歩者」になっていくことを、次のようにも捉えていました。 
 
生産過程が(機械によって)加速されるとともに、そこでの退屈が生まれてくる。遊歩者は悠然とした態度を誇示することで、この生産過程に抗議する。」 
 
そもそも生まれた時から当たり前のように都市の中に自分を置いてきた私たちですが、コロナ禍の都市で受けるショックの根源にあるものの正体もまたここにあるのかも知れません。つまり、それはほとんど機能していないように見える行政や新自由主義経済への黙認に伴われる“憂鬱”に他ならず、そこではみずからが「遊歩者」であることへの自覚が改めて促されているのではないかと。 
 
今期のいて座もまた、いま都市と群衆に対して自分がどんな印象を受け取っているのか、そしてそれが自分の今後の活動においていかなる前提条件となっているのか、存分に振り返ってみるといいでしょう。 


参考:ヴァルター・ベンヤミン、久保哲司訳+浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクションⅠ―近代の意味』(ちくま学芸文庫) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「未知の記憶」

山羊座のイラスト
自身の口で「一種の文学的絶縁とニヒリズム」と語った孤高の文学者・稲垣足穂の処女作にして代表作である『一千一秒物語』というショートショート集は、どれも「人間的な温かさは全然感じられず、あらゆるものは無機物のレトルトによる金属性血液を注入されて自由自在に飛び回って」いるのですが、まずはそのうちの一つでも読んでみてください。 
 
以下は、「月をあげる人」という短いお話です。 
 
ある夜おそく公園のベンチにもたれていると うしろの木立に人声がした 
「おくれたね」 
「大いそぎでやろう」 
カラカラと滑車の音がして 東から赤い月が昇り出した 
「OK!」 
そこで月は止まった それから歯車のゆるゆるかみ合う音がして 月もゆっくり動きはじめた 自分は木立のほうへとんで出たが 白い砂利道の上には只の月の光が落ちて きこえるものは樅の梢をそよがす夜風の音ばかりだった」 
 
それは実際に起きた出来事ではないにも関わらず、なんだかまるで記憶が知覚に追いつくように、じわじわと宇宙的郷愁を伴って何かがじつに懐かしく思い出されてくるはず。 
 
そして、もしいま窓の外に、まん丸の月が鼻唄でも歌っているように、ぶらりんぶらりんと揺れているのなら、歯車にガタが来てしまっているのかも知れません。 
 
今期のやぎ座は、そんな“模型細工”としての月を吊りあげる滑車の修理に取りかかる大道具さんのごとく、自身なりの小宇宙を形成し直していくといいでしょう。  


参考:稲垣足穂『一千一秒物語』(新潮文庫) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「善友」

水瓶座のイラスト
考えてみれば、異界をすっぱりと遮断してしまった東京のような大都会の方が歴史的にも特殊で不自然なのであって、むしろ長い間人間は死者や異界の者たちと共存して生きてきましたし、そうした感覚は決してすべてを迷信として斥けきれない大事なものを含んでいるのではないでしょうか。 

例えば、平安の都は陰謀によって死に追いやられた早良親王(桓武天皇の弟)たちの亡霊につきまとわれていた訳ですが、実際に個人の死後のことが大きな問題となっていったのは平安中期であり、そのきっかけとなったのが源信の『往生要集』でした。 

一箱の肉体はまったく苦である。貪り耽ってはならない。四方から山が迫ってきて逃げるところがないのに、人びとは貪愛(とんあい)によって覆われ、深く色・声・香・味・触の欲望に執着している。永遠でないのに永遠に続くと思い、楽しみでないのに楽しみと思っている。(中略)まして刀山・火湯の地獄がそこに迫っている。」 

本書に出てくる地獄を含む六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を輪廻するという死生観は、その後絵画や説教などを通して日本人のあいだに広く定着していきました。現世への執着を捨て、心乱すことなく臨終を迎えることで浄土に往生するという浄土教の教えは当時の人びとにとって決して観念的なものではなく、きわめて現実的で切実な祈念でした。 

そして、ここで注目すべきは恐らく源信自身が指導者となって結成された「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」というもので、極楽往生を目指すという目的で集まった二十五人で結社を結び、お互いの念仏行を助け合いながら立派に臨終を迎えていくべく、毎月一五日に共に不断念仏として修したのだとか。 
 
今期のみずがめ座もまた、自身の願いを遂げるための「善友」として互いの行を助け合えるような結びつきを一つ一つたぐり寄せていきたいところです。 


参考:川崎庸之・秋山虔・土田直鎮/訳『往生要集 全現代語訳』(講談社現代文庫)

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「時代の病いを引き受ける」

魚座のイラスト
明治35年(1902)に三十五歳で亡くなった正岡子規は、短歌や俳句、評論、詩など多方面での活動を通して現代日本語の書き言葉を完成させ、日本の近代文学に多大な影響を及ぼしたことで知られていますが、少し調べても分かるのがその異常とも言えるほどの人間的魅力であり、実際、生前はじつに多くの友や同志に囲まれていた人生だったということ。 
 
死までの7年間はほとんど病臥の身であった子規は、どうしてこんなにも人の心を揺り動かすことができたのでしょうか。例えば、関川夏央による力作評伝『子規、最後の八年』には次のような場面が出てきます。 
 
(明治三十年)十二月二十四日、子規は第一回蕪村忌を自宅でひらき、みなで記念撮影した。(略)蕪村忌は盛会であった。会した二十名のうちには、碧梧桐、鳴雪のほか、虚子の顔もあった」 
 
肺結核と、それから広がったカリエスによって「まさに地獄だ」というほどの苦痛にあえぎながらも、精力的な活動を続ける子規のもとに、歌人や俳人が集まっては歌会や句会や勉強会が開かれていきましたが、実はこれこそが現代まで続いている結社の原型となっていったのだそうです。 
 
歌にも俳句の「座」を持ちこむ。会した面々が相互批評のうちに刺激を受けあい、その結果、歌のあらたなおもしろさが引出される、それが子規のもくろみであった。人好きな子規は、どんな文学のジャンルであれ、他者との関係を重んじずにはすまなかった」 
 
こう関川が説いているように、「座」の文芸として、人との直接的な関わりから花開いていくものとして、俳句も短歌も近代化を遂げたのであり、その中心ないし深淵には、つねに病魔と向きあい続ける子規がいたのであり、その意味で子規の魅力の秘密は、時代の病いを全身で受け止めた「結核文学」にあったのだとも言えるのではないでしょうか。 
 
今期のうお座もまた、子規ほどではないにせよ、個人的な病いや不安を乗り越えた先で社会や時代の病いや不安をいかに自分事として背負うことができるかが問われていくように思います。 


参考:関川夏央『子規、最後の八年』(講談社文庫) 
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



--------占いの関連記事もチェック--------

他の占いもCheck!

Ranking