12星座全体の運勢

「適切に茫然とする」 

3月5日に「啓蟄」を迎え、青虫が蝶へと変わって春の立役者たちが次第に顔をそろえ始める中、3月13日にはうお座24度で満月を形成していきます。 

今回のテーマは「開かれ」。すなわち、本能的に茫然として放心することで、特定の対象や他者につねに関わりを持ち続けることをやめ、より純粋で本質的な震撼にさらされていくこと。その意味で、「開かれ」とはまったくもって非合理な説明でしかないのですが、それはどこかこの時期特有の季語である「山笑ふ」という言葉にも通じていくように思います。 

春の山の生き生きとして明るい様子を擬人化した表現なのですが、花や若葉の色合いなどがなんとなく淡くやさしく霞んだように見えるだけでなく、それが「ほほえみ」として決定的に到来するのが一体いつなのかは誰にも予測できません。 

自分に都合のいいレッテルにしろ、本音を隠すのに便利なスタンプにしろ、いつも頭の中になにかしら張り付けてしまいがちな人ほど、自然で生気にみちたエロティックな生に入っていくのは難しいものですが、今回のうお座新月はこれまで惰性で続けてきてしまった習慣や言動にいかに休止符をはさんでいけるかが共通した課題となっていくでしょう。 

そうして見えることしか見ないのではなく、見えないことも感じていくなかで、やっと人は自己の閉ざされから世界へと開かれていくことができるのです。 

射手座(いて座)

今期のいて座のキーワードは、「新規の神々の創作」

射手座のイラスト
哲学者というと、ともすると“むずかしい内容の本を書く偉い学者”といったイメージを思い浮かべる人が多いのではないかと思いますが、古代においては第一級の危険人物であり、そろいもそろってろくな死に方をしていない浮浪者同然の存在でした。 
 
例えば、プラトンの師であり哲学者の元型的存在とも言えるソクラテスは、いつも酩酊している、醜い喜劇役者のような老人でした。例えば彼は、セミしぐれの炎天下で突然道で立ち尽くし、動かなくなる。かっと目を見開いたまま、夜が明けても同じ姿勢で立ち続け、太陽(アポロン)に祈りを捧げたという逸話が『饗宴』に語られています。 
 
「あれはあの人の癖で、ときどき、どこでもおかまいなしに、道にそれては入りこみ、そこに立ち尽くしてしまうのです。」 
 
ここで言う「あれ」とはダイモーン、すなわち神と人間とのあいだにあるものであり、ソクラテスはこのダイモーンの声をきき、前途ある青年をその道に引っ張り込んでは人心を乱した門で死刑を宣告され、それを受け入れて毒をあおって死んだのでした。 
 
哲学者の古東哲明は『現代思想としてのギリシャ哲学』のなかで、そんなソクラテスについて次のように描写しています。 
 
かれが処刑されたのは、かれが叡智者、つまり「ダイモーン的な人間」だったからだ。それは一種のシャーマン。シャーマンとは、五感的現実を超えた超自然性(非知)との交流に、みずからの思想や言葉や行為の源泉をおくもの、というほどの意味である。<いのちの息吹>としてのプシューケーが、超自然界との交流回路となる。そのプシューケーが、肉体的で五感的な現実からフッとトリップし、トランス(脱魂)状態に入り込む。このトリップ状態のなかで、至高性(神的なもの)がたましいに入って充たすエントゥーシアスモス(神充体験)がおこる。(中略)そんな至高体験を、みずからの思考と言葉と行為の起点にする者という意味で、ダイモーン的人間としてのソクラテスは、シャーマンだった。だから、「新規な神々を創作して、古来の神々(オリンポスの神々)を認めない者」として、バレシウス(当時の宗教裁判所)に告訴されたわけだ。」 
 
現代の感覚からすれば、ソクラテスはずいぶんと宗教的な人ですが、皮肉にもその本質はまさに彼の罪状でもあった「新規な神々の創作」という点にあったように思います。ただ、その創作には確かな内的根拠と全精力をかけた徹底的な対話の上に築かれたものだったのです。 
 
今期のいて座もまた、そんなソクラテスの爪の垢でも煎じて、ギリギリの緊張感のなかでみずからの“哲学”を研ぎ澄ませていくといいでしょう。 


参考:古東哲明『現代思想としてのギリシャ哲学』(ちくま学芸文庫) 
12星座占い<3/7~3/20>まとめはこちら
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ