【山羊座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<3/7~3/20> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「適切に茫然とする」
3月5日に「啓蟄」を迎え、青虫が蝶へと変わって春の立役者たちが次第に顔をそろえ始める中、3月13日にはうお座24度で満月を形成していきます。
今回のテーマは「開かれ」。すなわち、本能的に茫然として放心することで、特定の対象や他者につねに関わりを持ち続けることをやめ、より純粋で本質的な震撼にさらされていくこと。その意味で、「開かれ」とはまったくもって非合理な説明でしかないのですが、それはどこかこの時期特有の季語である「山笑ふ」という言葉にも通じていくように思います。
春の山の生き生きとして明るい様子を擬人化した表現なのですが、花や若葉の色合いなどがなんとなく淡くやさしく霞んだように見えるだけでなく、それが「ほほえみ」として決定的に到来するのが一体いつなのかは誰にも予測できません。
自分に都合のいいレッテルにしろ、本音を隠すのに便利なスタンプにしろ、いつも頭の中になにかしら張り付けてしまいがちな人ほど、自然で生気にみちたエロティックな生に入っていくのは難しいものですが、今回のうお座新月はこれまで惰性で続けてきてしまった習慣や言動にいかに休止符をはさんでいけるかが共通した課題となっていくでしょう。
そうして見えることしか見ないのではなく、見えないことも感じていくなかで、やっと人は自己の閉ざされから世界へと開かれていくことができるのです。
今回のテーマは「開かれ」。すなわち、本能的に茫然として放心することで、特定の対象や他者につねに関わりを持ち続けることをやめ、より純粋で本質的な震撼にさらされていくこと。その意味で、「開かれ」とはまったくもって非合理な説明でしかないのですが、それはどこかこの時期特有の季語である「山笑ふ」という言葉にも通じていくように思います。
春の山の生き生きとして明るい様子を擬人化した表現なのですが、花や若葉の色合いなどがなんとなく淡くやさしく霞んだように見えるだけでなく、それが「ほほえみ」として決定的に到来するのが一体いつなのかは誰にも予測できません。
自分に都合のいいレッテルにしろ、本音を隠すのに便利なスタンプにしろ、いつも頭の中になにかしら張り付けてしまいがちな人ほど、自然で生気にみちたエロティックな生に入っていくのは難しいものですが、今回のうお座新月はこれまで惰性で続けてきてしまった習慣や言動にいかに休止符をはさんでいけるかが共通した課題となっていくでしょう。
そうして見えることしか見ないのではなく、見えないことも感じていくなかで、やっと人は自己の閉ざされから世界へと開かれていくことができるのです。
山羊座(やぎ座)
今期のやぎ座のキーワードは、「演技の場を持つということ」
現代人は「労働(labor)」と「仕事(work)」をほとんど同義語として扱い区別をしていませんが、思想家ハンナ・アーレントは『人間の条件』において両者からうみだされる「生産物」の違いに着目して区別しました。
すなわち、「労働」が生み出す「生産物」は耐久性のない消費物であり、「仕事」が生み出す「生産物」は人間の消費過程をこえ、それにいわば抵抗して存続するように作られた、人間の個体の生命を越えて存続する「世界=製作物の総体」の一部であるとしたのです。
アーレントはこの区別の発想を「台所とタイプライター」から得たそうですが、そこにさらに第三の環境への働きかけとしての「活動」を加え、その例として笛吹きを挙げます。
笛吹きは笛を吹いている間だけしかその「生産物」は長続きしませんが、つまり活動の生産物とはここでは「演技(action)」であり、人と人とのあいだで行われる行為を指している訳です。
こうしてアーレントは人間の働きを以上の3つに分類したうえで、近代社会において物質的な「労働」と文明的な「仕事」ばかりが重視され、人間的な「活動」が貶められてきたことを批判し、演技の場である公的領域においてこそ、人びとは単に生きるための必要物(必然)から解放され、自由を獲得することができるのだと説きます。
「ギリシャ人ならareté(徳)と呼び、ローマ人ならvirtus(勇ましさ)と名付けたはずの卓越そのものは、いつの場合でも、人が他人に抜きんでて、自分を他人から区別することのできる公的領域のものであった。」
そうした意味では今期のやぎ座は、私的領域やその拡張されたものとしての社会の外に、いかに自分なりの公的領域を持ち、そこで自由に演技(action)していくことができるかが問われていくように思います。
参考:ハンナ・アーレント、志水速雄訳『人間の条件』(ちくま学芸文庫)
すなわち、「労働」が生み出す「生産物」は耐久性のない消費物であり、「仕事」が生み出す「生産物」は人間の消費過程をこえ、それにいわば抵抗して存続するように作られた、人間の個体の生命を越えて存続する「世界=製作物の総体」の一部であるとしたのです。
アーレントはこの区別の発想を「台所とタイプライター」から得たそうですが、そこにさらに第三の環境への働きかけとしての「活動」を加え、その例として笛吹きを挙げます。
笛吹きは笛を吹いている間だけしかその「生産物」は長続きしませんが、つまり活動の生産物とはここでは「演技(action)」であり、人と人とのあいだで行われる行為を指している訳です。
こうしてアーレントは人間の働きを以上の3つに分類したうえで、近代社会において物質的な「労働」と文明的な「仕事」ばかりが重視され、人間的な「活動」が貶められてきたことを批判し、演技の場である公的領域においてこそ、人びとは単に生きるための必要物(必然)から解放され、自由を獲得することができるのだと説きます。
「ギリシャ人ならareté(徳)と呼び、ローマ人ならvirtus(勇ましさ)と名付けたはずの卓越そのものは、いつの場合でも、人が他人に抜きんでて、自分を他人から区別することのできる公的領域のものであった。」
そうした意味では今期のやぎ座は、私的領域やその拡張されたものとしての社会の外に、いかに自分なりの公的領域を持ち、そこで自由に演技(action)していくことができるかが問われていくように思います。
参考:ハンナ・アーレント、志水速雄訳『人間の条件』(ちくま学芸文庫)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ