【最新12星座占い】<4/4~4/17>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい

2021年4月4日から4月17日のSUGARの12星座占い

【SUGARさんの12星座占い】<4/4~4/17>の12星座全体の運勢は?

「いい風吹かそう」

4月4日に二十四節気も「清明」に移り、すべてのいのちがいきいきと輝きだす季節となっていきますが、そんな中4月12日にはおひつじ座22度(数え度数で23度)で新月を迎えていきます。 
 
今回のテーマは「風になる」。つまり、もはや東から吹いて草花や木々を芽吹かせていく春の風を感じ取るだけでなく、自分自身が「創造的な風のエネルギー」そのものとなって何かを始めたり、新しい動きをしていくなかで、見てくれている人々を感化していくこと。 
 
ちょうど、はるか南の国で冬を越したツバメが、故郷である日本へ戻ってくる時期でもありますが、昔から人びとは「ツバメが巣をつくった家は栄える」として、その帰還を歓迎してきました。 
 
すばやく空中を横切り、背をひるがえして方向転換する独特の動きや、大きな口をあけてエサを待つヒナたちにつがいで協力し合いながら子育てをする姿に、日本人は「清浄明潔」な精神を見出し、積極的にその風を呼び込もうとしてきたのかも知れません。 
 
その意味で、今期はここにこそ“いい風=創造的なエネルギー”を吹かせていきたいと願うような相手や人びと、場所、業界などをどれだけ具体的にイメージしていけるかが大事になってくるように思います。

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「超越」。

牡羊座のイラスト
風の時代の「風」というのは、つねに異なる二つの地点のあいだに吹いていくものですが、例えば近代アメリカを代表する詩人ラルフ・ウォルドー・エマソンはユニテリアン派の教会の牧師をしながら詩作をしていたことで知られていました。いわば、神学と文芸のあいだに吹いた新風だったのです。 
 
エマソンが参加していたユニテリアニズムとは、プロテスタンティズムにおいて「一(ユニティ)」の確立を目指し、それを徹底しようとしたキリスト教改革運動のこと。それは父と子と聖霊の三位一体という「三(トリニティ)」の虚偽に対する絶対の「一」だったのですが、エマソンは次第にそんなユニテリアニズムという神学体系をさらに乗り越える「超越主義」を主張し始め、文字通りそれを「超越」という言葉の意味を根底から変えることで実践していったのです。 
 
エマソンらの超越主義によれば、神は人間や自然の世界とまったく隔絶した、絶対的な世界に存在しているのではない。むしろ、人間の中に、有限の存在を「超越」して神と一体化する能力が宿っている。そして自然もまた神から隔絶した純然たる被造物なのではなく、自然を超越した精神世界の「記号」を宿している。それゆえ、人間は自然と一体となることを通じて、それ自身が内にもつ潜在的な超越者としての性格を具体的に表現していくことになるのである」 
 
つまり、エマソンの言う「超越」とは、この世界から断絶した神に与えられる性質なのではなく、なによりも人間がその内に秘めた能力のことなのです。その内在的な能力によって人間は自然と、さらには神と一体化することができる、と。 
 
こうした考え方を、エマソンは天界という不思議の国を旅した偉大なる旅行者で大思想家であったエマヌエル・スウェーデンボルグの影響から練り上げていきました。 
 
そして今期のおひつじ座もまた、異なる文脈や分野をつらぬき一つに繋げていくような力強い信念(エマソンはそれを「内なる光」とも表した)が求められていくことでしょう。 


参考:『哲学の歴史 第八巻「社会の哲学 18-20世紀 進歩・進化・プラグマティズム」』(中央公論新社) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「まず振る舞い」。

牡牛座のイラスト
「風」といっても、それはひとりでに巻き起こってくれるものではありません。そのかすかな兆しを無視せず拾いあげ、大切に大切にしていくなかでそれでも不意にどこかへ行ってしまったり、無事に育ってくれてひとつの詩や音楽やビジョンになっていくのだ、と言った方が近いでしょう。 
 
作家や歌い手、絵描きや新政府内閣総理大臣など、マルチな活躍をし続けている坂口恭平は、著書『現実脱出論』のなかで、そうして時どき頭のなかをよぎり、自分を突き動かしてしまう「風」のようなものを「死者からの付箋」と呼んでいました。 
 
それは「太古からの人類の本能のようなものが伝達されている瞬間」であり、「突然どこか異国のラジオの電波が間違って入り込んだような感触」とともに訪れ、坂口の場合はそれを発見すると「言葉にしたいというエネルギーを持ち」、「勢いよく歩いたり、人とより会おうとしたりする」のだと言います。 
 
そして、「機が熟すると台所へ向かい、妻の前でああでもない、こうでもないと振る舞いはじめる。体をひねる。壁に頭をぶつける。手を伸ばす。貧乏揺すりをする。そうこうしていると、少しずつ、蛇口から水が出るように言葉が出てくる。」 
 
坂口はそこに「演劇の起源」を見て取っていく。通常はまず台本があって、そのセリフを覚え、それを演技にする訳ですが、この順序を逆にして、まず何かを察知した人間が唐突に動き出し、言葉にならない音を発しつつ、次第次第にそれが一つの定まった動作となり、バラバラだった音が音楽になっていき、やがて判別可能な意味が宿ってくるのだと。 
 
確かなことは、「言語の前に、まずは振る舞いがあるのだ」ということ。今期のおうし座もまた、周囲に怪しまれようと邪険にされようと、皮膚で感じとった何かがあるのなら、まずは体を動かし、よじり、ふるわすところから始めてみるべし。 


参考:坂口恭平『現実脱出論』(講談社現代新書) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「ホモ・パティエンス(病むひと)」。

ふたご座のイラスト
「べてるの家」をご存知でしょうか。1984年に北海道の水産の街である浦河の街はずれの教会に開設された、統合失調症や双極性障害などの精神疾患体験者、アルコール依存症などの人たちが共に暮らすグループホームであり、共同作業所です。 
 
創設者のひとりである向谷地生良(むかいやちいくよし)さんは自らについて、社会復帰を促さないソーシャルワーカーをめざしてきたと語ります。どうして「治さない」のだろうか。取材した哲学者の鷲田清一さんは次のようにまとめています。 
 
「苦労」という言葉を向谷地さんはよく口にする。苦労は生きているひとみんなにある。「治る」というのは生きていくうえでの別の苦労に戻ることでしかない。「だから病気を治すとか克服するということではなくて、人間には生きていくうえでいろんな苦労があるよね。どの苦労を選ぶ?そのセンスを重視するのです。「どんな苦労を選びたい?」と問いかけるのです。苦労を避けて通るとか回避したりするのではなくて、どっちにコロんだって人間苦労だよね、って」と、向谷地さんはいう。」 
 
一方で、やはりべてるの家の活動に参画してきた自称「治せない医者」の川村敏明さんはこう語っています。 
 
分裂症の症状、たとえば幻聴の症状をとることに生涯をついやすよりも、いまのように自分に幻聴があるんだということをみんなの前でおおらかに話せる社会を作るほうがいい。病気があっても損しない社会ですよ。(中略)いいではないですか、再発したって。ぼくはいつも言いますよ、もう二、三回入院しないといけないとか、予定どおり再発するよねとかね。病気に対しても構えがおおらかであるということ自体がとてもたいせつなんです。」 
 
直接口には出さなくても、治療者や支援者の側の「病気はよくないもの」という態度自体が、病んでしまった人たちの生きづらさを余計に生み出す。無理に病気をなくそうとするのではなく、「ひとがそれぞれに抱え込んでいる生きづらさをいっしょに担うこと、いっしょに考えること」こそが大切なのだということを、二人は痛いほど分かっているのでしょう。 
 
今期のふたご座もまた、そんな「ホモ・パティエンス(病むひと)」としての人間の本質についてそっと寄り添い、語りかけるところから、「いい風が吹いている」という状態について考え動いてみるといいかも知れません。 


参考:鷲田清一『<弱さ>の力』(講談社学術文庫) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「外部の召喚」。

蟹座のイラスト
情報インフラやSNSの発達によって私たちは日々大量の情報に接していますが、それによってひとつひとつのリアリティに対する実感はますます希薄になってきているのではないでしょうか。 
 
日常的現実がどのように成り立っているのかを扱った科学者・郡司ペギオ幸夫の『やってくる』では、では逆にどうしたらリアリティを取り戻せるのかという問題を巡って、自身の小学生の頃の情景を取りあげ、実に見事に説明しています。 
 
それは関東ではお好み焼きと呼ばれる薄焼きが焼けて昼食をとっているときに、近隣の家々から「NHKのど自慢」のメロディが流れ、そこに遠くから製材所で材木を切る音が重なってくる。その香りと音の作る空間こそがけだるい日曜の昼下がりのリアリティを立ち上げてくれていたのだと。特に、遠くに響く製材所の音の大切さを強調し、「意識すれば聞こえるものの、意識しなければ背景に溶け込んで聞こえないもの」の果たす役割の象徴性について次のように述べています。 
 
つまり、リアリティに欠かせないものとは具体的な要素ではなく、いつこの空間に参与するかわからない空間外部の潜在性なのです。窓を見ると、上空を旋回する鳩の群れが視界に一瞬飛び込んでくるかもしれず、遠くから猫の声が飛び込んでくるかもしれない。これらの到来を待つ構えこそが、リアリティを感じる私を作り出していたのです。」 
 
これは裏を返せば、リアリティの喪失とは、外部からの到来を待つ構えの喪失に他ないということでもあります。すなわち、「私の視界や、いまここにある世界から何か失われるというのではなく、逆に、何かがやってくるかもしれぬという可能性が喪失する」とき、世界から一切の色彩や輝き、流動性が失われ、時間が止まってしまったかのように動きを止めていく。 
 
その意味で、みずからが「風になる」ということはそのままリアリティの回復であり、外部からの到来にきちんと開かれていくということでもあるはず。 
 
今期のかに座もまた、どうしたらより外部を召喚できるのかということを自分なりに追求してみるといいでしょう。 


参考:郡司ペギオ幸夫『やってくる』(医学書院) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「メディアとしての夢」。

獅子座のイラスト
中世の絵巻には、そのストーリー展開とともにしばしば「夢見の場面」が登場し、そこでは神仏や死者からビームのような光が発せられ、眠っている者のもとに夢を届ける様子が描かれています。つまり、暗黙裡に夢は自分の内部からやってくるものと考えている現代の常識とは異なり、中世社会においては夢は外部からやってくるものであり、盛んに夢語りがなされるだけでなく、まるで商品のように価値あるものとして流通していたのだと言います。 
 
こうした中世社会の夢語りのシステムにおける神仏や死者たちの位置づけや構造について、精神科医の新宮一成は『メディアと無意識 「夢語りの場」の探求』の終章「無意識のメディアを生きる」の中で次のように述べています。 
 
私はかねてより、「あの世」という観念の起源は、「夢の中から見た覚醒の世界」にあるという理解を提示してきた。すなわち、夢を見ている主体たちは、「醒めたら、共通の言葉の世界の中で、この夢を語り合うだろう」ということをあらかじめ夢の中で知っていて、その知のもとに夢を見ているのであり、覚醒後の綾成す夢語りの世界は、夢中の自分にとっては、まさに神仏の世界に相当するものなのである。」 
 
つまり、「夢見る主体と醒めた言語活動の関係」は、そのまま「個人と神仏の関係」に平行的に当てはめることができるということであり、中世的な夢語りシステムはトンデモ話などではなく、むしろ日々の生活体験に徹底的に支えられていたのではないか、と言っている訳です。 
 
こうした理解の仕方は、一見すると神秘的なテレパシーを否定するだけのドライな世界観へと繋がるようにも取れますが、夢であれインスピレーションであれ、普通なら気のせいで流してしまいがちな個人的な体験に積極的に「解釈」を加えていくことでその実現を促していくという点で、きわめて実践的な豊かさを孕んでいたように思います。 
 
今期のしし座もまた、こうしたメディアとしての夢を活用していくことで、みずからの日常にインスピレーションという風を積極的に呼び込んでいきたいところです。 


参考:新宮一成『メディアと無意識 「夢語りの場」の探求』(弘文堂) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「操られてみる」。

乙女座のイラスト
世の中にはどうした理由からか、自分と波長の合う人と合わない人とがいて、相性がいい人と話している時の自分とそうでない人といる時の自分とではまるで別人のように違ってしまうということが確かにあるものです。 
 
なぜ、私たちはそうした相性のいい相手を選んで、一緒にいようとするのでしょうか。あるいは、そうした志向や行動は、本当にわたし自身が行っているのでしょうか? 
 
それ以外の可能性、すなわち自分自身でも知らないうちに、わたしではない「なにか」によって背後から操られ、しかもこの「操られている」という状況に気づかないよう仕組まれているのではないでしょうか。 
 
精神科医の木村敏は、相性のいい相手を選ぶなどこうした「なにか」が現れる時こそ、「個人の意識の背後に貼りついた「無意識」が範囲をはみ出して」くる瞬間なのだと指摘しています。 
 
つまり、しばしば「アイデンティティ」と呼ばれる個々の自己意識とは別に、互いに結びつくことで「われわれ」という統一的な自己意識が存在し、どうしても前者は後者の得体の知れない力に吸い寄せられ、流されていくのではないか、と。 
 
現代では何かと他の人とは異なる「個性」だとか、個人の自由意志にもとづいた選択が尊ばれており、それは「個人主義信仰」とさえ呼べる代物ですが、よくよく考えてみると、私たちの人生をより大きな力で動かしているのは木村のいう「無意識」、統一的な「われわれ」なのではないでしょうか。 
 
その意味では、今期のおとめ座もまた、そうしたわたしを背後から操る「なにか」に積極的に身をゆだねてみることで、変化を加速化させていくことがテーマとなっているのだと言えます。 


参考:木村敏『偶然性の精神病理』(岩波現代文庫) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「人間は動物と変わらない」。

天秤座のイラスト
東北地方に古くから伝わる馬と娘の悲恋にまつわるオシラサマ信仰などに限らず、昔から日本では人間と動物は現代人が思っているよりもずっと近い存在として見なされてきました。逆に言えば、その境い目をことさらに強調し始めたのは、比較的近代に入ってからの例外的な事態なのではないでしょうか。 
 
例えば、同じアジア圏のエスキモーには「かにと結婚した女」という民話があります。いくらか短縮したあらすじを、小澤俊夫の『昔話のコスモロジー』という著書から引用してみます。 
 
美しい娘をもつ漁師がいた。娘は若者たちが求婚してきたが、すべて断った。ある夜、娘の寝ている毛皮の帳の蔭から奇妙な笑い声が聞こえた。両親は、娘が大きなかにと結婚していることを知った。しかし、かには恥ずかしがって、いつも帳の蔭に隠れていた。やがて冬になり、父親は「娘が立派な漁師の若者を選んでいたらよかったのに、こんなに役立たずの婿をもって、なんとも恥ずかしい」という。ある吹雪の日に、祝い歌とともに、三頭の大きなアザラシが家に投げ込まれた。かにが人間の姿をして漁に出かけ、獲物を持ち帰ったのだ。古老の話では、「生き物はみな人間の姿と形になることができる」という。それ以来、かには妻とその両親のために獲物を獲り、一家はなに不自由なく暮らした。」 
 
このエスキモーの異類婚姻譚について、小澤は「これは異類婚ですらないのかもしれない」という大変興味深い解釈を示しています。人間の娘とかにの結婚ではありますが、異類のあいだの結婚ではなく、同類としての人間とかにの結婚といった方がよく、その根底には「人間をほとんど動物と変わらないものとして考える思想」があったのではないかというのです。 
 
今期のてんびん座もまた、自分を含めた人間をあくまで自然の中の一部として、あるいは動物の一種として見做してみることで、日常において何かとつきまとう不自然さを少しでも解消していくべし。 


参考:小澤俊夫『昔話のコスモロジー: ひとと動物との婚姻譚』(小澤昔ばなし研究所) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「意志信仰の解除」。

蠍座のイラスト
現代という時代は意志的なるものを信じきってその存在を疑わず、何かと「意志」「意思決定」「選択」ということを持ち出しつつ、自己責任論のもとで人びとを追い詰めているように感じます。 
 
例えば、これだけの選択肢があります。はい、これがあなたの選択ですね。ということはつまり、これはあなたが自分の意志で決めたことです。確かに自分の意志で選択した訳ですから、その責任はあなたにあります、といったように。 
 
ところが、17世紀の哲学者スピノザはこういう論法で使われるような「自由意志」を真っ向から否定するのだと、『はじめてのスピノザ』の著書である國分功一郎さんは書いており、それは例えば、スピノザの主著『エチカ』の次のような一節から明らかにされます。 
 
例えば人間が自らを自由であると思っているのは、すなわち彼らが自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである」(第二部定理三五備考) 
 
注意すべきは、ここでスピノザは自分たちの中に意志なるものの存在を感じること自体は否定していないということ。つまりスピノザが言わんとしているのは、「確かに私たちはそのような意志を自分たちの中に感じとるけれども、それは自由ではない、自発的ではないということ」つまり「意志もまた、何らかの原因によって決定されている」ということなのです。 
 
これは言われてみれば当たり前のことではあるのですが、私たちの行為はただ「意志によってのみ」決定されているのではなくて、身体性や無意識や他人からの影響やその時どきの気分など、さまざまな要因から多元的に決定されているのです。 
 
だから、何でもかんでも行為の原因を意志にのみ押しつけるのではなく、むしろそうした意志への信仰を解除していくことで、「私たちはもう少しだけ自由になることができるのではないか」と、そう國分さんは訴えます。 
 
今期のさそり座もまた、あらためてみずからの行為を一元的に決定することなどできないし、また自分は「自由」ということをまだよく知らないのだという前提に立ち返ってみるべし。 


参考:國分功一郎『はじめてのスピノザ』(講談社現代新書) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「倫理的実践としてのことば選び」。

射手座のイラスト
エネルギー分野であれ医療分野であれ、最新のテクノロジーが「生命」や「幸福」など、既存の価値観にたえず揺さぶりをかけ、現在進行形の、未決定でホットな問題にするような現代社会では、テクノロジーが関わる分野で「倫理」という言葉が頻繁に使われます。 
 
これは杓子定規に「~すべし」と命ずるだけの道徳と違って、倫理には「迷い」や「悩み」がつきものであるということの何よりの証左であると思うのですが、とすれば、倫理とは何かを問うことは定まった二者択一の外部に出たり、明確な答えがない不安定な状態を乗り切るような、ある種の創造性の秘密に触れていくことでもあるのではないでしょうか。 
 
例えば、倫理学者のアンソニー・ウェストンは、「倫理には創意工夫が欠かせない」と断言しています。著書である『ここからはじまる倫理』の中で、彼はやはり道徳と倫理を区別しながら次のように述べています。 
 
この場合にはこうしなさいと道徳的に説いたり指図することは、一般的に言って、倫理の目的ではない。その真の目的は、考えるための道具を与え、考え方の可能性を広げることにある。世の中にはそんなに単純で明確なことなどめったにないということを認め―これは倫理の根本である―、それを踏まえて、困難な問題を考えていく、そのために倫理はさまざまな可能性を示すのである。だから、進むべき道を求めて格闘し、不確かなまま進んでいく、それなしには倫理はありえない。」 
 
ここで述べられている「考えるための道具を与え、考え方の可能性を広げるもの」としての倫理、という定義は非常に重要であり、個人的には、これはそのまま占いや占星術の位置づけにも当てはめることができるのではないかと思いますが、そのための具体的な方法のひとつとして、ウェストンは「ことばを慎重に選ぶ」ということを推奨しています。 
 
例えば、今や大人気芸人として冠番組をたくさん持っている千鳥の大悟さんは、いかつい風貌にも関わらず女性のことを指すときに必ず「女の子」という一貫した言葉を使っています。もちろん、これはすべての人に推奨すべき唯一の正解ではないですが、少なくともそこには普段の何気ない言い回しにおける倫理的な気遣いがあり、彼らの人気の一端はそうした「言葉選び」にあるように思うのです。 
 
今期のいて座もまた、そうした日常生活における些細な、けれど決定的なことば選びから、みずからの倫理的な創意工夫を改めて実践してみるといいでしょう。 


参考:アンソニー・ウェストン、野矢茂樹+高村夏輝+法野谷俊哉訳『ここからはじまる倫理』(春秋社) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「野蛮人の体力」。

山羊座のイラスト
ここのところ空手の東京五輪代表に内定している女性選手が、指導者からの暴力的な指導やパワハラ行為が日常的に行われていたことをブログで告白し、ニュースになっていました。 
 
教師やコーチによる体罰問題というのは昔から指導との区別という文脈で追及や議論の俎上にあがってきましたが、それが暴力であれ親切であれ、いずれにせよ外部から余計な影響を与えて、かえって体の勢いを消してしまうということはよくあることなのだと野口晴哉は述べていました。 
 
「野口整体」を創始し、日本の東洋医学を代表する一人でもあった野口は、例えば著書『整体入門』において、人のからだに力を呼び起こすのは「勢い」であるという自論に基づいて次のように書いています。 
 
近頃は人間の意識が発達したためか、笑うのでも、こんなことを笑ったら他人に笑われはしまいかと、あたりを見回してからでないと笑えない。泣くのでもそうである。体中を震わせて、泣いたり怒ったりすることが珍しくなった。しかし体の勢いをつくり、体の力を発揮するためには、笑う時には声をあげて笑わなければならない。泣くときは泣き、怒るときは怒る。気取りのために、体中で泣き、笑い、怒ることもできないようなことをしていては、活気が興ってこない。」 
 
野口は、現代人は自分の発揮できる力を過小評価するようになってしまった、という言い方もしています。つまり、怒りであれ悲しみであれ、顔の表面から消してしまえばなくなるというものではなく、潜在している感情もまた自分の力であり、それを自覚して自発的に発露させる=勢いに乗せれば、想像以上の活力が呼び起こされてくるのだと。 
 
今期のやぎ座もまた、「野蛮人の体力を得て今日の文明生活を見直す」ことが一つの指針となっていくように思われます。 


参考:野口晴哉『整体入門』(ちくま文庫) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「からだ=風の如きもの」。

水瓶座のイラスト
「話す」の語源は「放す」にあるという説を聞いたことがありますが、他者に話しかけるということ一つとってみても、おのれの身内に動く感情やイメージのリアリティに囚えられしまえば、言葉にうまくまとまらず口ごもり、あるいは逆に発散するばかりで、リアリティを「ことば」として他者に手渡すことも、架橋することもできません。 
 
声としてのことばがわが身から離れて、相手のからだに伝わってはじめて、「ことば」は成立する訳ですが、演出家の竹内敏晴は長年の演劇指導経験から次のようにも指摘しています。 
 
自分がほんとに言いたいことがはっきりし、ことばとして充実して組み立てられ、さて相手をまっすぐ見、まちがいなく声で相手のからだにふれられた、となる(中略)盟友の語るセリフなども多くこれに類するだろう。ではこれが最上の話しことばか、となると、私にはどうもなにか一つ物足りない感じが残る。(中略)単純に言い切ってしまえば、そこには、「今」がない、のだ。」 
 
ここで竹内が言っている「今」とは、生きて働いている「からだ」のことであり、この場合の「からだ」とは古代ギリシャの哲学者たちの「魂」であり、深層心理学者のユングにおける「アニマ(無意識的なイメージ像)」にあたり、つまり「からだが働いている」とは通常の意味での「わたし」を超えた運命的な「なにか」に突き動かされている状態を指しているのではないでしょうか。 
 
つまり、ただ「話しかける」という日常的な些細な一事においても、「私が真に私であるとき、私はすでに私ではない」のであり、「ただ生きて働いているからだがあるだけ」となる場合もあるというのです。 
 
竹内によれば、そういう「からだ」とはすなわち「風の如きもの」であり「あるともないとも言えず、突如として」「巻き起こる」ものなのだとも述べています。 
 
今期のみずがめ座もまた、「話しかける」ことをめぐる幾つかのレベルを意識しつつ、「からだ」が働いていく感覚に近づいてみるべし。 


参考:竹内敏晴『ことばとからだの戦後史』(ちくま学芸文庫) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「第三の直観」。

魚座のイラスト
人間の内面に吹きわたる風というと、直観のはたらきと深い関係にあるように思われますが、世界的な数学者である岡潔は『春宵夜話』という随筆で、直観には三種類あると述べていました。 
 
「第一種は人に実在感や肯定感を与えるもの」で、「信じるという働きがここから出てくるもの」でもあり、「精神集中から精神統一へという昔の剣術家の努力もこの働きを十分に出させるのを目指していた」のだといいます。 
 
また「第二種の直観は、たとえば俳句や歌の良いしらべを良いと断定する直観」で、「これがあるゆえに真善美が存在し得る」のであり、「学問や芸術もここに基礎をおいている」のだと述べます。 
 
そして第三種の直観は、例えば「立ち上がろう」と思ったその発端の気持ちそのものであったり、「無意識に言ったり行動したりした後からそれに気づく、そんな直観」で、「この種の直観は自然界には実に多く」、ここまで行くと「一つの生涯を一つの行為にあてることができる」のだと言います。 
 
人間がこれらを経験していこうとすれば、順序として、まず第一種、第二種の直観を養って、それから第三種に入れるかどうかということになり、最後の直観を指して岡は次のように結んでいます。 
 
この直観があれば生涯は瞬間的現象にすぎないものとなり、また一つの行為を実践する一つの機会としか感じられない。そしてその底には宇宙の本体が悠久なものだという確信が伴っているのである。」 
 
今期のうお座もまた、そうしたある種の運命的瞬間としての「第三の直観」ということを、おそらく岡自身もそうしたように、中長期的なスパンにおいて自分の身に起きうることとしてイメージしてみるといいでしょう。 


参考:岡潔『春宵夜話』(光文社文庫) 
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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