12星座全体の運勢

「心の奥底の実感を」 

4月20日に太陽がおうし座へ移り、二十四節気の「穀雨」に入ると、稲の苗もすくすくと伸びていき、いよいよ緑したたる季節へ。そんな中、4月27日にさそり座7度(数え度数8度)で満月となります。 

今回のテーマは「内面の静けさ」。すなわち、これから初夏にかけて存分に生命を燃やし、またそれに必要な備えや人手を取り入れていくべく、ますます賑やかな季節を迎えていくにあたって、今回の満月が「本当にそれでいいの?」と自分自身に最終確認をとっていく期間となるのだということ。 

ちょうど、この季節に使われる季語に「霞(かすみ)」があります。これは水蒸気の多い春に特有の、たなびく薄い雲を総称してそう呼ぶのです。麗らかな春の日にふと動きをとめて、水筒の麦茶でも飲みながら、遠くの霞を眺めているうちに、ふっと何かを思い出したり、妙な気持ちになったことがあるという人も少なくないのではないでしょうか。 

そうして周囲の音が一瞬遠くなったように感じられた時、既存の手垢のついた言葉では形容することのできなかった微妙な感情や、名状しがたい衝動がこころの表面によみがえり、急になまなましく感じられてきたり、実感が追いついてきたり。あるいは、春の夜空に浮かぶ霞たなびく朧月を眺めている時、ふと心のどこかにひっかかっていた違和感が鮮烈に立ち上がってきたり。 

今期はそんな風に、ゆっくりと、ないし、しみじみと心の奥底の実感を浮き彫りにしていくべく、自分のこころやからだと静かに向きあっていく時間を持っていきたいところです。 

双子座(ふたご座)

今期のふたご座のキーワードは、「臣下としての私」。

ふたご座のイラスト
長期にわたるコロナ禍は新自由主義経済のもと貧富の格差がますます広がりつつあることを浮き彫りにしましたが、そこでは「自己責任」という言葉がすっかり搾取と分断の代名詞のようになってしまったように感じます。 
 
「責任」という言葉がどうしてこのように巧妙に罪責性を糾弾するような仕方で使われることになってしまったのかはともかく、別の仕方で「責任」という言葉を使うことはできないのでしょうか。 
 
例えば、20世紀を代表する哲学者の一人であるエマニュエル・レヴィナスはラジオ講座を収録した『倫理と無限』の中で、「責任とは他人に対するもの」であり「他人との絆はただ責任として結ばれ」るのだと述べた上で、責任とは「いかなる対話にも先立つ奉仕」であり、「他人のなかにみられる表情(人間の身体全体も、その意味では多かれ少なかれ、顔なのですが)」によって差し向けられるものなのだと言うのです。 
 
当然、聞き手はレヴィナスのこうした考えに対し、他人もまた私に対して責任があるのでは?と質問するのですが、彼は次のように答えています。 
 
私が他人に臣従するのは、まさに他人と私の関係が相互的なものではないからであって、その意味で、私は本質的に「主体=臣下(subject)」なのです。すべてを引き受けるのはこの私の方なのです」 
 
この「臣下としての私」とは、現代社会で個人に罪をなすりつけるために使われる「自己責任」とはまったく異なるものです。それは人間としてある限り、拒否することのできないものであると同時に、レヴィナスの言葉を借りれば「この重荷は唯一者にとっての最高の栄誉に他なら」ず、つまりは「譲り渡すことのできない私の主体的な自己同一性」なのです。 
 
今期のふたご座もまた、こうしたある種のサーヴァント・リーダーシップに基づいて、他人との近さの中で積極的に責任を負っていきたいところです。 


参考:エマニュエル・レヴィナス、西山雄二訳『倫理と無限』(ちくま学芸文庫) 
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<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ