2021年4月18日から2021年5月1日までのSUGARの12星座占い
[目次]
  1. 【SUGARさんの12星座占い】<4/18~5/1>の12星座全体の運勢は?
  2. 【SUGARさんの12星座占い】12星座別の運勢
    1. 《牡羊座(おひつじ座)》
    2. 《牡牛座(おうし座)》
    3. 《双子座(ふたご座)》
    4. 《蟹座(かに座)》
    5. 《獅子座(しし座)》
    6. 《乙女座(おとめ座)》
    7. 《天秤座(てんびん座)》
    8. 《蠍座(さそり座)》
    9. 《射手座(いて座)》
    10. 《山羊座(やぎ座)》
    11. 《水瓶座(みずがめ座)》
    12. 《魚座(うお座)》

【SUGARさんの12星座占い】<4/18~5/1>の12星座全体の運勢は?

「心の奥底の実感を」 

4月20日に太陽がおうし座へ移り、二十四節気の「穀雨」に入ると、稲の苗もすくすくと伸びていき、いよいよ緑したたる季節へ。そんな中、4月27日にさそり座7度(数え度数8度)で満月となります。 

今回のテーマは「内面の静けさ」。すなわち、これから初夏にかけて存分に生命を燃やし、またそれに必要な備えや人手を取り入れていくべく、ますます賑やかな季節を迎えていくにあたって、今回の満月が「本当にそれでいいの?」と自分自身に最終確認をとっていく期間となるのだということ。 

ちょうど、この季節に使われる季語に「霞(かすみ)」があります。これは水蒸気の多い春に特有の、たなびく薄い雲を総称してそう呼ぶのです。麗らかな春の日にふと動きをとめて、水筒の麦茶でも飲みながら、遠くの霞を眺めているうちに、ふっと何かを思い出したり、妙な気持ちになったことがあるという人も少なくないのではないでしょうか。 

そうして周囲の音が一瞬遠くなったように感じられた時、既存の手垢のついた言葉では形容することのできなかった微妙な感情や、名状しがたい衝動がこころの表面によみがえり、急になまなましく感じられてきたり、実感が追いついてきたり。あるいは、春の夜空に浮かぶ霞たなびく朧月を眺めている時、ふと心のどこかにひっかかっていた違和感が鮮烈に立ち上がってきたり。 

今期はそんな風に、ゆっくりと、ないし、しみじみと心の奥底の実感を浮き彫りにしていくべく、自分のこころやからだと静かに向きあっていく時間を持っていきたいところです。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「エロティシズムの源泉」。

牡羊座のイラスト
日本人はいつごろからか、悪や暴力性など本来なら宗教と関わるような問題に対して口を閉ざし、代わりに手軽なスピリチュアルをカジュアルに消費するようになりました。 
 
しかしそんな日本も伝統的に見れば、空海などは自分のエロティシズムと真正面から向きあいましたし、彼が中国から京都の東寺にもたらした両界曼荼羅などを見ると、やはり人間というのがいかに快楽的でエロティックな存在かということに対してきわめて自覚的だったのではないかと思わずにはいられません。 
 
というのも、宗教学者の山折哲雄の『悪と日本人』によれば、「戦後になりまして、写真家の石元泰博さんが、その両界曼荼羅を克明に写真に撮ったわけです。そうしたら驚くなかれ、一つ一つの仏菩薩、大日如来が婉然と笑ったコケティッシュな女の集団として描かれているということが明らかになった」というのです。 
 
女性たちが薄絹を着て、豊満な肉体をして、笑ったり、コケティッシュな目つきをしたりしているその様子について、山折は「遊郭の世界のよう」とも評していますが、それが我が国では最も古い由緒ある曼荼羅として、千年以上にわたり礼拝や瞑想の対象とされてきた訳です。 
 
人間の暴力性とエロティシズムは深いつながりがありますから、空海はそういうエロティシズムの恐ろしさを知っていて、宗教とエロティシズムのあいだを深いレベルで行ったり来たりできるようにすることを大切にしていたのでしょう。 
 
つまり、まず自分自身の快楽の源泉、エロティシズムの源泉を見つめよう、と。そこに向きあい、あるいは超えていくということがなければ、宗教的な悟りであったり、神秘体験というものもあり得ないのだ、と。そういう考え方があったのだと思います。 
 
今期のおひつじ座もまた、そんな風に自身のエロティシズムというものと改めて向きあってみるといいでしょう。 


参考:山折哲雄『悪と日本人』(東京書籍) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「はかない刺繍」。

牡牛座のイラスト
気軽に見れるネット上の動画コンテンツの増加や、性風俗サービスの多様な展開に伴って、現代社会においてセックスに対する偏見はなんとなく薄まったように思われがちですが、考えようによっては過剰に理想化され過ぎてしまって、より偏狭で、不自然なものになっているのではないでしょうか。 
 
性(セクシャリティ)は大いなる生命活動を代表するものですが、だからこそ、人間に限らず欲望を抱いた動物たちの形態と行動様式は途方もない多様性をもっており、本来単なる効率的な魅了や生殖に還元しえるものではありません。 
 
例えば、西欧の人間中心主義への反省から、動物たちへの哲学的な分析を重ねてきた思想家のジャン=クリストフ・バイイは、ニューギニアとオーストラリア北部のコヤツクリ科の鳥のオスが、周辺のくずを拾い集めてほとんど芸術的なまでの小さな箱庭を作ってメスを誘惑する習性を取りあげて次のように述べています。 
 
生きる意志は、食糧や性的パートナーを探す時期に最も強くなるが、実は動物を混乱させ、ひどい目にあわせもする。それは、出来あいの答えを提供するのではなく、たくさんの作業(障害の克服、計略の練り直し、通り道の再開削など)を通して、絶えざる問いかけとなって現れる。動物がまだ多く生存する場所に足を踏み入れた途端に私たちがいつも感じる、あの絶えず忙しそうな感じ、休みなく活動しているという印象は、そこから来る。まるで私たちの周りのいたるところで、生命が自らを探索しながらざわついているかのようだ。」 
 
つまり、コヤツクリ科の鳥のオスにとって、求愛行動は単なる美しい儀式などではなく、いつでも不意に何か不測の緊急事態が現われ得る、果てしない悩みの種であるかも知れず、潜在するリスクの海の中でたまたま何事もなく表出したものが、はかない刺繍のように人間側に見えているに過ぎないのだと考えられるだろうと。 
 
いずれにせよ、動物というのは同一の種であっても、大人数で行う二人三脚のようにいっせいに歩調を合わせて歩んでいくものではなく、星のように散らばり、きらめきながら、てんでばらばらな方向を向いて冒険を試みていくものです。 
 
今期のおうし座もまた、そんな定型から外れた動きと、たえざる問いかけとを、自身の性(セクシャリティ)に取り戻していくことになるでしょう。 


参考:ジャン=クリストフ・バイイ、石田和男・山口俊洋訳『思考する動物』(出版館ブック・クラブ) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「臣下としての私」。

ふたご座のイラスト
長期にわたるコロナ禍は新自由主義経済のもと貧富の格差がますます広がりつつあることを浮き彫りにしましたが、そこでは「自己責任」という言葉がすっかり搾取と分断の代名詞のようになってしまったように感じます。 
 
「責任」という言葉がどうしてこのように巧妙に罪責性を糾弾するような仕方で使われることになってしまったのかはともかく、別の仕方で「責任」という言葉を使うことはできないのでしょうか。 
 
例えば、20世紀を代表する哲学者の一人であるエマニュエル・レヴィナスはラジオ講座を収録した『倫理と無限』の中で、「責任とは他人に対するもの」であり「他人との絆はただ責任として結ばれ」るのだと述べた上で、責任とは「いかなる対話にも先立つ奉仕」であり、「他人のなかにみられる表情(人間の身体全体も、その意味では多かれ少なかれ、顔なのですが)」によって差し向けられるものなのだと言うのです。 
 
当然、聞き手はレヴィナスのこうした考えに対し、他人もまた私に対して責任があるのでは?と質問するのですが、彼は次のように答えています。 
 
私が他人に臣従するのは、まさに他人と私の関係が相互的なものではないからであって、その意味で、私は本質的に「主体=臣下(subject)」なのです。すべてを引き受けるのはこの私の方なのです」 
 
この「臣下としての私」とは、現代社会で個人に罪をなすりつけるために使われる「自己責任」とはまったく異なるものです。それは人間としてある限り、拒否することのできないものであると同時に、レヴィナスの言葉を借りれば「この重荷は唯一者にとっての最高の栄誉に他なら」ず、つまりは「譲り渡すことのできない私の主体的な自己同一性」なのです。 
 
今期のふたご座もまた、こうしたある種のサーヴァント・リーダーシップに基づいて、他人との近さの中で積極的に責任を負っていきたいところです。 


参考:エマニュエル・レヴィナス、西山雄二訳『倫理と無限』(ちくま学芸文庫) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「マラーノ文学」。

蟹座のイラスト
本来「マラーノ」とは、キリスト教徒による領地奪還後もスペインに留まり続けたユダヤ教徒やイスラム教徒がキリスト教徒のふりをして、彼らと変わりない日常を演技することで生き延びた、過酷な異端審問の時代において、隠れユダヤ人への蔑称(「豚」の意)として使われた言葉でした。 
 
ところが、比較文学者の四方田犬彦はこの語をそうした歴史的文脈から解放し、「ひとが本来の出自を社会的に隠して生き延びねばならぬ状況一般に用い」て、在日朝鮮人や被差別部落出身者など、みずからの民族的、宗教的、文化的出自を偽って展開した言説を「マラーノ文学」と呼んでみせました。 
 
例えば、四方田は長年の映画批評家としての活動から、戦後の日本の芸能史がそうしたマラーノ的状況を生きている映画人や芸能人によって支えられてきたことに言及しつつ、日本におけるマラーノ文学について次のようにまとめ的に言及しています。 
 
李香蘭の日本人としての出自の隠蔽は、戦後に彼女が日本に帰国したあとには解除されたが、立原立秋は生涯にわたって強引に日本人たろうと努力し、朝鮮という出自を過度に虚構化した。一方、寺山修司は日本人でありながらも、みずからの出自を告白するために、逆説的に朝鮮人という虚構を借り受けなければならなかった。中上健次と帷子燿は現代詩のなかにあって、出自をめぐり対照的な作風を示した。松田優作は最後まで出自に言及することを拒んだが、玄月と宋敏鎬はもとより朝鮮系であることを前提として文学活動を行っている。どの詩人と小説家も出自に対して異なった態度を示しており、そのひとつをして典型として採用したり、安易なモデル化を行うことは慎まなければならない。」 
 
四方田はセルバンテスの『ドン・キホーテ』と島崎藤村の『破戒』の二つの作品をマラーノ文学の古典として取り上げているのですが、これらはいずれも世界のシステムが旧から新へと大きく移り変わってしばらくして書かれた作品でした。そして現在の日本社会もまた、急速に多民族化や多言語化の波に直面しており、マラーノという観念を持ち出さずともマラーノ的な状況を生きざるを得なくなっている人やそういう人間と接触する機会は今後ますます増えていくのではないでしょうか。 
 
今期のかに座もまた、部外者が軽々しく踏み込むことのできない固有の事情に対する葛藤がどれだけ自身や周囲の人間の表現活動に影響しているのかということを、改めて考えてみるといいでしょう。 


参考:四方田犬彦『日本のマラーノ文学』(人文書院) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「身体とリズム」。

獅子座のイラスト
近代以前と違って、現代社会では私たちの身の周りにあるのはあるがままの豊かな自然というよりも、まずもって商品や情報であり、それらが次々と生み出されては流れていく奔流と言っていいでしょう。そこでは、一つ一つのモノの実感は際限なく軽くなっていき、そうして私たちは自然を見失ってきたのだと言えます。 
 
ところが、そうして個が強くなって自然が客体化され、あるがままの自然が解体されていくと、今度は「解体できない自然」としての生身の身体がますます鋭敏に反応するようになり、内なる自然、宇宙との連続性ないし断絶が、本人の生の実感として露わになってしまっているようにも思えます。 
 
現代人が直面しているこうした事態について、俳句の実作者の立場からより切実な実感を持ってきたであろう長谷川櫂は『俳句の宇宙』の中で、次のように述べています。 
 
そして、今次の新しい大変動に立ち会っているのかもしれない。「自然」から「宇宙」へ。「宇宙」と言い換えることで新しく見えてくるものは何だろうか。一番大きな違いは、「自然」は人間の外側を取りまいているものだったが、「宇宙」は人間の外側にあると同時に内側にも見出されるだろうということだ。」 
 
「「自然」から「宇宙」への変動によって滅んでゆく季語と生まれてくる季語があるだろう。(中略)リズム――人間が宇宙と呼吸を合わせるためのリズムは今までよりももっと意識された大事なものになってゆくだろう」 
 
ここで言われている「宇宙と呼吸を合わせるためのリズム」の一つが、例えば俳句の五七五であり、また月の満ち欠けであったり、日が昇っては沈んでいくという太陽の動きに基づいたサーカディアンリズムであったりする訳です。 
 
今期のしし座もまた、自分なりの「宇宙と呼吸を合わせるためのリズム」ということを大切にしつつ、身体がそれにどう反応していくかということを鋭敏に感じ直してみるといいでしょう。 


参考:長谷川櫂『俳句の宇宙』(中公文庫) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「それ以前の不安」。

乙女座のイラスト
20世紀が戦争の時代と呼ばれたように、21世紀は不安の時代と呼ぶことができるかも知れません。現実世界の不安に耐えられなくなった人びとが、安住できる世界観を求め、それらしい言説や流行に吸い寄せられていく……。 
 
詩人の野村喜和夫は、そうした時代の気分のようなものを21世紀に入る直前の1999年に刊行された『狂気の涼しい種子』という詩集の中で、既に打ち出していました。次に紹介するのは、「症例ササ Ⅰ(非常口)」という詩の冒頭です。 
 
私はササ/きみもササ 
この奇妙な名において共同の/からだの非常口のようなものはささやく 
ひとりでも群れてね/ひとりでも群れたら/抱かれてあげる 
月とともにふくらみ/発芽する血と記号の雫(しずく) 
ササきみはササ/ササ私もササ」 
 
おそらく、自分の精神状態の揺れのようなものを表わしたいのだと思いますが、この人がなぜ、そんなに不安なんだろうと考えると、それはどこまでも難しいのです。 
 
一つ一つの暗喩がどういう不安からきているのかは、わかるような、わからないような仕方で、あくまで靄(もや)の向こう側にあって、ただ少しの不安感だけが伝わってくるのです。きっと、この詩人にとっては「どういう」という形で問われる事実よりも、それ以前の不安の方が大切だったのでしょう。 
 
今期のおとめ座もまた、そうした湿ってもいなければ、カラカラに乾いている訳でもないような、「それ以前の不安」という直接的で原初的な感情を、自分なりに吐き出してみるといいかも知れません。 


参考:野村喜和夫『狂気の涼しい種子』(思潮社) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「カーニヴァル」。

天秤座のイラスト
野が青々と茂る初夏はいよいよ万物が成長するべく、これまで以上に栄養を必要としていきますし、私たち人間も活動量を増やしていくためのエネルギーを確保していかなくてはなりません。 
 
私たちは日々他の生物を殺して食べている訳ですが、その意味で、飲み食いというのはもっともグロテスクな生活現象であり、世界との相互作用における暴力性や未完成性のもっとも具体的かつ明瞭なあらわれこそが「食べる」という行為に他ならないのだと言えます。 
 
この点について、例えばロシア文化学者の桑野隆は、「カーニヴァル」という語を用いて人びとが「新しい、純粋に人間的な関係のためにまるで生まれ変わった」かのような体験をしていくことを分析してみせた思想家のミハイル・バフチンの思想を次のような箇所から紹介しています。 
 
カーニヴァルには演技者と観客の区別はない。カーニヴァルには、たとえ未発達の形式においてですらフットライトなるものは存在しない。フットライトがあれば、カーニヴァルはぶちこわしになろう(逆にフットライトをなくせば、演劇的見世物はぶちこわしになろう)。カーニヴァルは観るものではなく、そのなかで生きるものであって、すべてのひとが生きている。というのも、カーニヴァルはその理念からして、全民衆的なものだからである。」 
 
さらに、バフチンがカーニヴァルの特徴として、誕生と死、祝福と呪詛、称賛と罵言、痴愚と英知、青春と老年、顔と尻、上と下など、対をなすものの逆転や転覆などのコントラストに満ち溢れていることに着目したことを強調して、桑野は「カーニヴァルは、「交替するそのものではなくて、交替それ自体、つまり交替というプロセスそのものを祝う」のだと述べ、そこに消化と排泄といった内臓のイメージを重ねていきます。 
 
これは身体のトポグラフィーの中心であって、上と下がたがいに移行しあっている。(中略)このイメージは、殺し、生み、食いつくし、食いつくされるアンビヴァレントな物質的・身体的下層にとってお気に入りの表現であった」 
 
今期のてんびん座もまた、自身のさまざまな「むさぼり食い」を通して、そこにいかなる「交替のプロセス」が進行しつつあるのか、改めて感じ直してみるといいかも知れません。 


参考:桑野隆『バフチン』(平凡社ライブラリー) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「手を伸ばす」。

蠍座のイラスト
快楽と幻想と記号の世界。都市というのは経済の中心地であり、そうであるがゆえに経済を回すための欲望が無限に喚起され続けるように出来ています。 
 
そんな東京で暮らしていて、「まず狂うのは金銭感覚だ」と言い切っていたのは、18歳で九州から上京し、それまで以上の年月を東京で過ごした36歳の年に『東京で生きる』というエッセイ集を出版したライターの雨宮まみさんでした。 
 
のっけから「東京に来て、私は「お金がなければ、楽しいことは何もない」という宗教に入ったのだと思う」というあけすけな言葉から始まる本書は、「お金」「欲情」「美しさ」「タクシー」「殻」「泡」「血と肉」「居場所」「暗闇」「指」「眼差し」など、目次に並ぶ各章のタイトルを眺めるだけでも思わず声が漏れてしまいそうです。 
 
読んでいると、東京という異常な欲望喚起システムにあえて乗っかっていくことが、雨宮さんなりの東京の生き方なのだということがつくづく感じられてくるのですが、一方で彼女は次のようにも書いています。 
 
過激なことを望んでは、ほんとうに満たされることを、もしかしたら自分は知らないのかもしれない、しらないからこんなに求めてしまうのかもしれない、と不安になる。」 
 
その意味で、東京の怖さの正体とは、あまりに深い欲望の深淵に触れていく中で自分というものが溶けてなくなってしまうということに尽きるのだと思います。 
 
自分の知らない深淵が、そこにあるのだと感じる、私なんかの知らない、深い深い快楽の世界が。そんなもの幻だと、絶対に手に入らないものだと、思いきれたらどんなに楽だろうか。でも、東京ではそれはいつも目の前にある。(中略)どこか私の知らない、深い深い快楽がある。それに向かってどのように手を伸ばせばいいのか、私にはまだわからない。でも、きっと、最初はどこかのカウンターで、誰かの手に向かって、手を伸ばすのだろう。」 
 
今期のさそり座もまた、どこかで怖れつつも、そんな風に自分の知らない深い深い快楽へと手を伸ばしていくことになるのではないでしょうか。 


参考:雨宮まみ『東京を生きる』(大和書房) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「待ち伏せに備えて」。

射手座のイラスト
最近、「SDGs」という言葉を色んな場所で聞くようになりました。これは貧困や飢餓、健康や教育、さらには安全な水など17項目にわたる「持続可能な開発目標」を指しており、いかにもどんな問題にも漏れなく対処していて、世界はよくなっていきますよという露骨なメッセージ性を感じて、逆になんだかモヤモヤしてしまう人も少なくないはず。 
 
というのも、いつだって現実というのはいびつで、でこぼこしていて、そんなに綺麗に語り切れるはずのものではないから。例えば、かつて「SDGs」に感じるのと似たような違和感を覚えたものが、村上春樹が行ったオウム真理教の元信者へのインタビューでした。 
 
彼らはいずれの自分の正しさの担保のために人がうなずいてくれることは必要としていても、他人から「それおかしいんじゃない?」と言われることは何も欲していませんでした。むしろ、おかしいんじゃないと言われたら、自分がおかしくないことを証明しようとする。 
 
あるいは、自分のやりやいことだけをやっていたい。自分の頭の中にある理想像ばかりが好き。そして、そんな彼らの話を聞き続けた後、村上春樹は次のように述べました。 
 
現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです。」 
そして一見整合的に見える言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除できたと思っても、その排除された現実は、必ずどこかで待ち伏せしてあなたに復讐することでしょう。」 
 
これは本当にそうでしょう。けれど、トランプがそうだったように、分かりやすい言葉というのは、ある意味、現実よりもずっと引力が強く、人のこころを強くとらえて離しません。 
 
残念なことだが、現実性を欠いた言葉や論理は、現実性を含んだ(それ故にいちいち夾雑物を重石のようにひきずって行動しなくてはならない)言葉や論理よりも往々にして強い力を持つ。」 
 
今期のいて座もまた、そうした排除された現実を、安易な手段でごまかすことなく、手探りしていきたいところです。どこかに必ず待ち受けているだろう待ち伏せに備えて。 


参考:村上春樹『約束された場所で』(文春文庫) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「穴だらけ」。

山羊座のイラスト
ジェンダーにしろ国籍にしろ、日本社会でも「多様性」という言葉がそこかしこで叫ばれるようになって久しいですが、まだまだ実態が伴わずひたすら空々しく響いているように思われてなりません。 
 
例えば、里山というと、ジブリ映画の『もののけ姫』のイメージもあって、どうしても「緑豊かでのどかな自然」のイメージがついてまわったり、自然保護活動の合言葉のようになっていますが、奈良の里山で米と大豆と鶏卵を自給しながら他の生物と格闘しながら共生している東千茅さんを中心とする里山制作集団つち式が発行している『つち式』を読んでいると、そうしたイメージがいい意味でことごとく覆されていくように感じます。 
 
いわく、「共生とは、一般にこの語から想起されるような、相手を思いやる仲睦まじい平和的な関係ではなく、それぞれが自分勝手に生きようとして遭遇し、場当たり的に生じた相互依存関係」であり、「里山は、歪(いびつ)で禍々しい不定形の怪物」なのだと。それでもそんな里山で、他の生物たちとなんとかやっていくには、「粗放―「穴だらけ」であること」が大事なのだと言います。 
 
実際、彼らは大きな金稼ぎや食糧自給率の向上などの目的意識でガチガチに自分の輪郭や境界線を定めるのではなく、失敗や問題は多くとも、気楽に、いい加減に、ある種のお遊びとして「小さな農(業ですらないものも含む)」を多発させていくという自分たちなりのやり方で、豊かさを取り戻そうとしています。 
 
さて、あたりを見回してみよう。生き物たちは皆、だましだまし生きている。もちろん失敗や死はその辺に口を開けて待ち構えている。穴だらけだ。それでも生物界が大きな破綻に至りにくいのは、それぞれの繕いの応酬が絶え間なく続いているからで、繕う無数の微細な穴が大きな穴の空くのを防いでいる。大穴は小さな穴によって縫合される。団粒構造を想起したい。多くの小さな生物の働きによって、土の粒子が無数の小さな集合体となり団子状になって、そのすき間に適度な水分と養分が保持される。この豊かな穴だらけの土壌は、生物たちの捕食や分解といった他者への攻撃によって生まれる。破綻をきたさず、むしろ縫合するには、小さな孔隙/攻撃が重要なのだ。」 
 
その意味で今期のやぎ座もまた、まずは自分や生活を共にしているパートナーたちに空いている小さな穴を認めた上で、だましだまし共生していく道を見据えていきたいところです。 


参考:東千茅ほか『つち式 二〇二〇』(里山制作団体 つち式) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「薄情的爽快」。

水瓶座のイラスト
1971年に刊行された作家・深沢七郎の人生相談本である『人間滅亡的人生相談』は、この手の本にしては珍しく滅法面白いのですが、いったい何がそんなに面白いのかと考えてみると、深沢の情の無さがどこか爽快なのだと思います。 
 
例えば、自分が考えついたことを自分が本当にしたいのかどうか自信がないという、来年大学受験を控える18歳の男性から寄せられた相談。 
 
「今の生活は死ぬのが恐いから、だから生きているって感じ」で「つまらないし、さみしい」から、何か「アドバイスあるいは、サジェスション、また仕事の楽しさ、愛の喜び―何でも良いです。言葉をかけてください」と、そう訴える青年に対し、深沢は「生きているのは怖いからは満点です」と持ち上げつつも、次のように答えるのです。 
 
貴君にかける愛の喜びの言葉なんてものは存在しません、ありません。アドバイスとしては何も考えないことです。何もしたくないそうですがそれが最高です。何かしようとする。何かすれば誰かが「悪いとか」「良いとか」認めます。何もしなければそれも「悪い」と言われるかも知れません。最高の生活でも態度でも社会という奴は妙な眼で見ます。社会的に偉いとか認められた人に私は好きな人物はありません。「社会が悪い」という言葉はそういうことに使う言葉だと私は思います。」 
 
どこかで深沢は人間は滅びてしまって良いと書いていた気がしますが、それは人間なんて最低だと考えている訳ではなくて、むしろ「人間の生き死にはちゃんと虫の生き死にに匹敵する」というニュアンスでそう考えているのでしょう。普通の人は、どこか無条件で人間は虫より偉いと思ってしまうのに、深沢にはそれがない。当然、「社会的な偉さ」なんて信じてやいないでしょう。 
 
したがって、彼は人間の手前勝手な相談にはあくまで無責任に、薄情に答えるだけであり、相談者の望む解決になんか話を向ける気はなく、だからこそ相談者も安心して相談してくるのです。 
 
今期のみずがめ座もまた、深沢ほどまでとはいかずとも、人間の目論見になどあくまで無頓着を心がけていくべし。 


参考:深沢七郎『人間滅亡的人生案内』(河出書房) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「レンマ」。

魚座のイラスト
俳句の17音という短さと季語という制約は、何よりも論理性をことごとく排除してしまいますが、意識において論理は最も世界と身体の連続性を断ち切る志向性があるため、むしろ俳句の制約は論理を捨てるために意図的に設けられたのではないか、という風にも考えられます。 
 
逆に、季語というのは身体を自然界につなぎとめる上で大いに機能していきます。例えば、春は頭に一番気が集まる時期で、それで何となくボーっとしてしまったり、眠たかったり、景色もうすぼんやりして、首や肩の緊張が緩んでくるのだそうです。 
 
そういう季節感を伴った世界と見事に身体を連続させてみせた句としては、例えば松尾芭蕉の「ゆく春や鳥啼(なき)魚の目は泪(なみだ)」という有名な句が挙げられるでしょう。 
 
「春」が去っていくのを惜しんで、詩を詠んでいる「私」と空を飛ぶ「鳥」と水中の「魚」とが、共鳴しあってひとつの空間を形成し、その空間全体で激しく嗚咽し、慟哭しているのです。 
 
宗教学者の中沢新一は、「ここではレンマが最大限の能力を発揮しています」として、レンマという語について次のように説明しています。 
 
ギリシャ人や古代のインド人は、ロゴスとは異なるこの理性の機能を「レンマ」と名付けました。ロゴスを超えた理性の働きです。全体と部分が一体となっている相互相関を直感で理解する能力を言います。ロゴスでは、おしぼりと水差しは同じ場所を占めることができません。二つの違うものが同じ場所にあるのは矛盾です。そういう矛盾を認めないのが、ロゴスの働きです。ところがレンマはそうではありません。個物は一つとして孤立しておらず、全体が関連しあっている。そういう全体の一部を取り出して、そこでおこっていることをロゴスの言語で表現しようとすると、矛盾になりますが、レンマの認識はそういう矛盾をむしろ肯定します。全体即個物、個物即全体です。」 
 
その意味で今期のうお座もまた、論理=ロゴス的理性とは異なるレンマ的理性をいかに働かせつつ、身体を世界と接続していけるかということがテーマになっていきそうです。 


参考:中沢新一、小澤實『俳句の海に潜る』(角川書店) 
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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文/SUGAR イラスト/チヤキ