【最新12星座占い】<5/2~5/15>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい

2021年5月2日から5月15日のSUGARの12星座占い

【SUGARさんの12星座占い】<5/2~5/15>の12星座全体の運勢は?

「土壇場で人を救うもの」 

5月5日に「立夏」を過ぎると、野に煙る緑にまぶしい日差しと、初夏らしく気持ちのいい気候が続きます。昔は梅雨の晴れ間を指した「五月晴れ」も、今やすっかりこの時期特有のさわやかな晴天を指すようになりましたが、そんな中、5月12日にはおうし座21度(数え度数22度)で新月を迎えていきます。 

今回の新月はテーマは「(自分だけでなく周囲の)バイブレーションのレベルを上げていくこと」。古来より、飢饉の影響で出る死者は実は春から夏にかけてがピークだったと言われてきましたが、西郷信綱の『古代人と夢』によれば、疫病や飢餓などで人々がみな死に絶えてしまうような事態に陥ると、天皇は「神床(カムドコ)」に寝て夢のお告げを得ることで、やがて疫病はおさまり国家安平になったという逸話が伝えられているそうです。 

これはつまり、人間にとって本当の意味での危機的な状況とは、物質的な欠乏に加え霊的目標の飢餓に陥った状況を指し、逆にそれに飢えている人びとと霊的滋養―導きとなるようなイメージやビジョン等を分かちあうことができれば、乗り切ることも可能となるということではないでしょうか。 

四季にはそれぞれの到来を知らせる風があり、春ならば東風(こち)、冬は木枯らしと決まっていて、夏といえば「風薫る」。すなわち、青葉若葉を吹き抜けて、さあっと吹いて新緑の香りを運んでくる強めの南風がそれにあたりますが、同時にそれは、生きるか死ぬかという人間の土壇場で人を生かしてくれる“いのちの手触り”のようなものでもあったように思います。 

12日のおうし座新月前後までの今期は、そうした生きるか死ぬかの土壇場を乗り切っていく上で、自分なりの美学をいかに持てるかどうか、貫いていけるか否か、ということが問われていくでしょう。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「心身一如」。

牡羊座のイラスト
精神的な探究が深まれば深まるほど、肉体が崩壊を引き起こしていくという逆説は、プラトン以来の西洋の先鋭的な思想家や芸術家が伝統的に抱える矛盾でしたが、創造性や21世紀的ライフリテラシーなどの研究に長年従事してきた美学者の熊倉敬聡は、『瞑想とギフトエコノミー』(2014)の中でそのような事態に陥る原因を「呼吸を蔑ろにし、抑圧したからに他ならない」と断じています。 
 
そして、対する東洋ではブッダが実践したヴィパッサナー瞑想やヨーガなど、むしろ呼吸の鍛練に基づいて「心身一如」の境地を探究する伝統があったとして、次のように述べています。 
 
そこでは心の静まり、呼吸の静まり、体の静まりが、三つ巴となって深まりあいながら、いわば螺旋的に心身の構造化が蕩尽され、すなわち心身が脱構築化されて、解脱へと赴くのです。それは、心身の完璧な静まり、「止」を求めるとともに、その「止」の中で、生命のエネルギーが全焼することを求めます。」 
 
「心身の構造化の蕩尽=心身の脱構築化」や「止の中で生命エネルギーが全焼する」といったくだりは少し難解ですが、これは例えば、自己をありのままに見ることを徹底していくヴィパッサナー瞑想において、最終的に「見る」自己さえ失われ、<空>が開かれる過程を思い浮かべてみるといくらか腑に落ちるのではないでしょうか。 
 
そして、その<空>とは単に「から」なのではなく、逆に宇宙的な充溢が無限に静かに満ちる<空>なのであり、それは「エロスの浄楽」であり「大日如来の光臨」であり、「太陽からの純粋贈与」に近いものという風にも考えられます。 
 
今期のおひつじ座もまた、そうした東洋的な瞑想的探究の伝統に自身を繋げていく中で、自分なりの「心身一如」すなわち精神と肉体を同時に生かしていく道を見出していきたいところです。 


参考:熊倉敬聡『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「彼岸的な力との接触の印」。

牡牛座のイラスト
より実際のリアリティーに近づけるため現代の小説では、主人公は外面的かつ身体的に何も目立った欠陥を抱えていない反面、目につきづらい病気やとりわけ精神的外傷を病んでいることが重要なモチーフになっていることが多いですが、昔話や神話では逆に内心の悪も善もただ外面に身体的欠陥として現れることほとんどです。 
 
というより、のっけから欠陥や障害の外見をこれ見よがしにひけらかして登場してきたりするのであり、評論家の種村季弘は『畸形の神』の中で、そうした傾向について次のように言及しています。 
 
口伝承文芸学者マックス・リューティーによるなら、「昔話の主人公は欠けたところのある存在」(高木昌史訳『民間伝承と創作文学』)である。だから欠陥の外見は、当面は隠されている最終場面における価値の逆転のための伏線となり得る。「醜さや障害が作品の美に転換していることがあり得るというこの信仰に、昔話や神話は満ちている」」 
 
この「最終場面における価値の逆転」とは、例えば「足のおそい者がはやい者を捕らえる」といったものであり、物語序盤での足の麻痺や欠陥、ないし下半身の身体的束縛は、「善にしろ悪にしろ、彼岸的な力との接触の印」(リューティー)なのであり、「昔話や神話では、このようにしばしば障害は治癒の、場合によっては優越性の前提となることがある」のだそうです。 
 
今期のおうし座もまた、昔話や神話によって脈々と伝えられてきた「悪が善に、束縛が解放に、障害が救済に」どんでん返ししていく「魔術的」な能力や文脈の力を、どこまでみずからに取り込んでいけるかが問われていくことになるでしょう。 


参考:種村季弘『畸形の神 あるいは魔術的跛者』(青土社) 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「サイレント」。

ふたご座のイラスト
難しい内容をわかりやすく噛み砕いて伝えることは、確かに知識人の仕事の一つではありますが、決して唯一の仕事ではありません。わざわざこんなことをもっともらしく言わなければならないほどに、今の日本社会では「わかりやすさ」の価値が暴力的なまでに他を圧倒しているように感じます。 
 
ただ、翻訳小説や原作ありきの映画などの出来を批評する際、しばしば「原文or原作ならではのニュアンスが消えてしまった」といったことが言われるように、特に古典作品を現代語訳で読んでいく時に、私たちは「ただ分かりやすければいいというものではないんだな」ということを強く実感することができるはず。 
 
例えば漫画家のこうの史代の『ぼおるぺん古事記』は、日本神話を伝える『古事記』の原文(すべて漢字)を書き下したものだけを載せていて、現代語訳は一切出てきません。例えば、次の冒頭の一文。 
 
「臣安萬侶言。夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。」 
 
これは現代語にすれば「わたくし安萬侶(やすまろ)は、謹んで申し上げます。さて、宇宙が始まった頃、間もなく混沌が固まり、はじまりのもとが出来たのですが、天地の営みはまだ始まりませんでした。」となるのですが、「混元既凝」をただ「はじまりのもとが出来た」と言ってしまうことでなくなってしまう微妙な雰囲気というものがなんとなく感じられてこないでしょうか。 
 
なぜこうした伝え方を選んだのか、という点について、こうのさんは本書のあとがきで次のように述べていました。 
 
「漫画になるのを待っている!と感じました。だって、漫画にはサイレントという絵のみで展開させる手法があるのです。文字を使わず意味を伝えられるのだから、古文が付いたからといって読めなくなる筈がないのです」 
 
確かにこの本を通して古事記を追っていると、まるで古事記が難しい神話としてではなく、世にもおかしいただの「物語」として立ち上がってくるのです。 
 
今期のふたご座もまた、余計な省略や差し替えなどの手を加えず、物語が物語として立ち上がってくるプロセスをできるだけ邪魔をしないことで、かえって伝わるものがあるのだということを胸に刻んでいくといいかも知れません。 


参考:こうの史代『ぼおるぺん古事記』(平凡社) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「<私>からの救済」。

蟹座のイラスト
現代社会はいったい何を根拠に自分の人生や他人の生命の価値を信じているのでしょうか。例えば、近代合理主義の到来の火種となったプロテスタント的な考え方では、<私>を仕上げて実現することないし達成することこそが、生きるということの価値とされてきましたが、その一方で個人的な<私>から逃れ去り、その滅却こそに価値があるとする考え方もあるはずです。 
 
哲学者の山内志朗によれば、古来からの<私>をめぐる基本的思考は、「自己への救済」を求める枠組みと「自己からの救済」を求める枠組みの二つに大別され、それぞれに例外はあれど前者の典型がキリスト教であり、後者の典型が仏教なのだと指摘した上で次のように述べるのです。 
 
哲学もまた、<私>への救済と、<私>からの救済という二つのベクトルを合わせ含んでいると思います。デカルト以降、「<私>への救済」モデルが主流になってしまいましたが、「<私>からの救済」というモデルは、東洋においてばかりではなく、西洋においても二大主流の一つになっていたと思います。「汝自身を知れ」とか「我思う故に、我あり」という格率だけでは不十分なのです。」 
 
それは例えば、考える<私>は同時に<空>であるという感得であり、それはわたしがあなたであり、あなたがわたしであり、わたしが仏であり、仏がわたしであるような<私>を通じて宇宙創造が働くこととも言い換えることができるのではないでしょうか。 
 
恐らく同様のことを、鈴木大拙は「心なきところに働きが見える」と表わし、シモーヌ・ヴェイユはそれを好んで引用した「南の方に向かって北方の星を眺めよ」という禅の公案から広がる無心の世界に見出しました。 
 
今期のかに座もまた、自分なりの仕方で「<私>からの救済」のベクトルを追求してみるといいかも知れません。 


参考:山内志朗『小さな倫理学入門』(慶応義塾大学三田哲学会叢書) 
『世界哲学史 別巻』(ちくま新書) 

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「底の浅さを照らし切る」。

獅子座のイラスト
一見するともっともらしいことが言えたり、妙に魅力があったりする人間が今ほどチヤホヤされる時代もないのではないかと、SNSなどを見ているとついつい考えてしまいがちですが、徹底的に薄っぺらくきな臭い人物を描かせたら天下一品の文豪ドストエフスキーの作品を手に取ると、いつもそんな考えが一瞬で霧消してしまうのですから不思議です。 
 
例えば大作『悪霊』には、ロシアの大地の感覚から切り離され、生命に対する感性もなく、底の浅い考えではしゃぎまわる者たちが、とても覚えきれない数で登場してくるのですが、その中でもひと際味わい深い人物に、小心者の自由主義者ステパン氏がいます。 
 
彼は主人公でどこか『ちびまる子ちゃん』の花輪君を連想させる貴族の御曹司スタヴローキンの母親ワルワーラ夫人に寄生し、53歳にもなっていまだに家付き家庭教師として糊口を凌いでいる人物で、会話の端々にフランス語を交えるのが特徴。 
 
生活感覚がなく、しゃべる言葉にはリアリティが欠けており、息子にも軽蔑されきっているのですが、二十年の寄生生活にみずからピリオドを打とうと、旅に出る覚悟を固めた旨をワルワーラ夫人に告げるものの、夫人はまったく取り合いません。その際の夫人の言葉を引用してみましょう。 
 
わたしにわかっているのは一つだけ、これがみんな子供じみた空騒ぎだということですわ。あなたはどこへも行きやしませんよ、どんな商人のところへも。あなたはね、わたしから年金を受取って、火曜日にはあの得体の知れないお友だちを家に集めながら、結局はわたしの腕に抱かれて安らかに息を引き取ることになるんです。」 
 
強い、強すぎる。しかしこの強すぎるマザーであるワルワーラ夫人を絶対的な光源として、並みいる男たちのみじめさ底の浅さをどこまでも描き切っていくことこそがこの小説の真骨頂なのです。 
 
今期のしし座もまた、自身が照らされる側に回るにしろ照らす側を担うにせよ、人間の醜悪さと徹底的に切り結んでいくなかで、一度徹底的な救いのなさに沈んでみるといいでしょう。 


参考:ドストエフスキー、江川卓訳『悪霊』(新潮文庫) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「流れる身体の均衡と勇気ある忘却」。

乙女座のイラスト
五月の風が吹き始めると、すべてを新しくやり直したくなりますが、哲学者のアランは「どっしりと動かぬ田舎から帰ると」と題したエッセイの中で、同様の気分を綴ったのちに、「なぜなら航跡は何も記さないから」と書いていました。 
 
そして、嵐が去った後の海はいつだって新しい海であるのに対し、大地の上では「それぞれのものが自己の内で閉じて自己のために存在して」おり、「ここではわれわれは記憶にとらわれている。ここには運命が記されている」のだと続けます。 
 
そしてアランはこうした海と大地、水と岩、という相反する二つの性質を併せ持つ存在として人間を思い描いた上で、次のように主張します。 
 
人間のしるしのなかには、人がそれによって自分を描こうとし、いつまでも消えぬ入れ墨にしようとするあの文字(エクリチュール)とはちがうエクリチュールがあるように思う。ぼくは月の周期や、空気、風、そして地球の旅である季節が素描されているこの流れる縁をまねて、人間の顔を描きたい。」 
 
そうして絶えず自分を新たな自分に書き換え続けいくことでこそ、人のこころは安らかでいられるのだ、と。彼はこのエッセイを次のような言葉で結んでいます。 
 
大海の波で自己を洗う者は幸いである。また、なにひとつ洗い落とせないとする運命の不吉な考えを自分の精神から洗い落とす者は幸いである。それは眠ることを知ることだ。それはまた、大いなる知である。」 
 
今期のおとめ座もまた、岩と大地に刻まれた運命を、波と海とで洗い流してみてほしい。そうした「流れる身体の均衡と勇気ある忘却」の再発見こそが今のあなたのテーマと言えるでしょう。 


参考:アラン『四季をめぐる51のプロポ』(岩波文庫) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「霊的な遺伝」。

天秤座のイラスト
生物学の世界では有機体が次第に高等化していく発達過程は、残らず遺伝によって伝えられていくものと教えられていますが、シュタイナー教育で有名な神秘思想家のルドルフ・シュタイナーは、その著書『神智学』の中で、そうした現在の自然科学に則した発展法則にさらに「霊」という観点を加えるとき、「一人ひとりの人間それ自身がひとつの『種』である事にきがつくだろう」と述べました。 
 
この人間=ひとつの種という見方は、肉体的生命が以前の生活で味わったありとあらゆる労苦と経験は、死とその後にくる新しい誕生のあいだの霊の世界での生活において運命からの収穫物という形で練り上げられ、再び受肉した魂に前進的な発達の可能性を与えていくという「再受肉の思想」に基づいたもので、魂は繰り返し地上に再生されていくという人間観と表裏の関係にあります。 
 
つまり、人間は誰一人としてまったく白紙の状態で生まれてきた訳ではなくて、私たちの能力、素質、魂の傾向、弱さ、いたらなさなどという様々な形をとりながら、前世からの果実を携えて地上にやってきているという訳ですが、シュタイナーは人類に良い実りをもたらす発展のためには「この生まれる前の存在を否定する思考を克服する努力がどうしても必要」なのだと言います。 
 
というのも、そうして地上に生を享ける前にみずからが実在していたという認識は、自然と「みずからが神的・霊的世界から分かち与えられたものを、おそれと神聖な感情をもって受け取」る態度へと結びついていくから。その上で、シュタイナーは私たちが次のように問うことが大切なのだと訴えます。 
 
私の肉体としての人間の姿は、私の先祖から伝えられてきたものだ。しかし、私の生涯の記録の中に書かれる事柄を、私はどこから得たのだろう。肉体を持つ人間として、私は祖先たちの姿を繰り返しているのだが、霊的存在としての私は、一体何を繰り返しているのだろう。」 
 
今期のてんびん座もまた、そうしてひとつの種として自分が積み重ね、この地上へと携えてきた果実を改めて「おそれと神聖な感情をもって」受けとっていくべし。 


参考:ルドルフ・シュタイナー、高橋巌訳『神智学』(ちくま学芸文庫) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「恋の狂気」。

蠍座のイラスト
プラトンの対話篇『パイドロス』では、ソクラテスとアテネの若者パイドロスが、主に同性間におけるエロスをめぐって語り合っていきますが、その中で恋のはらむ狂気の側面を明らかに悪いものとして論じるパイドロスに対して、ソクラテスは真っ向から反論していきます。 
 
ソクラテスによれば、私たちの身に起こる多くのよいことのなかで最も偉大なものはその狂気を通じて生じるものではないかと自論を展開していくのです。というのも、恋は神から与えられる狂気であり、恋する魂のそれはイデアの知を愛し求める姿勢に通じるというのです。 
 
哲学者の佐藤康邦はこの点について、『古代ギリシャにおける哲学的知性の目覚め』の中で、真実在としてのイデアを見ることは「秘儀」の類に他ならず、「そのような秘儀に専心し、世の中の「あくせくとした営み」を忘れてしまった人、そこで真の哲人と呼ばれる人は狂気の人ともみなされうるであろう。しかし、それこそが、「恋する人」の真のあり方に他ならない」のだと指摘しています。 
 
そんな恋する人=真の哲人の狂いっぷりについて、ソクラテスが熱を込めて語っている箇所の一部を以下に引用してみましょう。 
 
この世の何びとをも、この美しい人より大切に思うようなことはない。彼は、母を忘れ、兄弟を忘れ、友を忘れ、あらゆる人を忘れる。財産をかえりみずにこれを失っても、少しも意に介さない。それまで自分が誇りにしていた、規則にはまったことも、体裁のよいことも、すべてこれをないがしろにして、甘んじて奴隷の身となり、人が許してくれさえすればどのようなところにでも横になって、恋いこがれているその人のできるだけ近くで、夜を過ごそうとする。」 
 
なるほど、「恋いこがれているその人」をイデア(真実在)の語に置き換えてみれば、プラトンによって定立された「哲学者」という生き様というものがどれだけ凄まじいものだったのかということが実感できるのではないでしょうか。 
 
今期のさそり座もまた、そうした類の狂気をこそ見習っていきたいところです。 


参考:プラトン、藤沢令夫訳『パイドロス』(岩波文庫) 
佐藤康邦『古代ギリシャにおける哲学的知性の目覚め』(放送大学叢書) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「境界的な行為としての交易」。

射手座のイラスト
古来より河原や中州、浜や崎、坂や峠などの少しさみしいような場所は、自然と人間の世界との境、聖界と俗界の境とされ、神仏の力が及んでいると考えられてきました。 
 
歴史学者の網野善彦の一連の著書によれば、そうした場所はのちに人間の社会活動に位置づけられ、道や橋、市や渡(わたし)、津、泊(とまり)、さらに墓所など人為的な施設が設けられた後も、以前として「境界」としての性格を持ち続け、それが自覚的にとらえられた時、「無縁」や「公界(くがい)」の場としてとらえられるようになるのだそうです。 
 
それはすなわち、モノであれヒトであれいったん神に捧げるために、後腐れなくモノをモノとして交換することができる特異な、境界的な空間であり、現代であれば東京湾の埋立地である東京ビックサイトで行われるコミケ(同人誌即売会)などもそれにあたる訳ですが、網野はそうした特定の場・空間だけでなく、交易という行為そのものも「境界的な行為」なのだと言います。 
 
交易は神仏との関わりにおいてはじめて行い得るわけですから、この交易を業とする人、市や道で活動する商工民、遍歴する商人、職人はやはり境界的な人びととして、神仏に関わりを持たざるをえなくなってくることになります。」 
 
交易というと特別なことのように思いますが、要は貨幣もしくは物品と物品の交換(売買)行為のことですから、メルカリやヤフオクで物を買うのが当たり前になり、さらに電子マネーの浸透によって、今や私たちはあらゆるところで交易行為に関わっており、どうしたって境界的な存在として生きざるを得ないような状況に立たされているように思います。 
 
しかし、元来は交易という行為であれ、無縁や公界などの場であれ、未開なマジカルなものの力が生きていたのであり、現代社会は文明化された高度な制度によってそうしたなまなましい感覚を覆い隠してしまっていることも確かでしょう。 
 
今期のいて座は、日常のはしばしで「自分は何をしているのか?」と問い直すことで、そうした交易という行為に本来ともなっていた未開でマジカルな感覚を取り戻していくことがテーマになっているのだと言えるかもしれません。 


参考:網野善彦『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』(洋泉社) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「毛穴から沁みるもの」。

山羊座のイラスト
作家の車谷長吉は、宗派にとらわれない仏教総合月刊誌『大法輪』へ「佛の教えは毛穴から」というエッセイを寄稿していますが、これは三十歳の時に東京で身を持ち崩し、無一文で郷里へと逃げ帰った時、実際に母親に言われた一言なのだそうです。 
 
言われた当時は何のことかわからなかったとありますが、その後9年間にわたり住所不定で関西各地のタコ部屋を転々とする日々を送るうち、少しだけ身に沁みてきたのだと。 
 
それは、佛の教えというのは、えらい人が書いた佛教書を読めば「目から」入るのでもなければ、高名な坊さんの話を聞いて「耳から」入るわけのものでもなく、日々、骨身を砕いてその日その日を生きていれば、ある苦さとして「毛穴から」沁みるということである。」 
 
佛への信仰とは、己れが人間であることのおぞましさを、全身の「毛穴から」思い知った、その先にあることではないか。言うなれば、自己の中の悪に呪われた「生霊のうめき」のようなものではないだろうか。」 
 
そして、車谷は百姓として過酷な農作業に従事してきた母親の、次のような言葉でエッセイを締めくくります。 
 
えらい目に逢うたら、佛の教えは毛穴から沁みる。うちは生きて極楽浄土を見るがな。」 
 
この前段で、母親は自分たちのような百姓は「日に日に田んぼでえらい目に」逢っているが、「秋になって広い田んぼに黄金色の稲穂が稔ったら」「ここがうちの極楽や、と思うがな」とも語っています。 
 
翻って、私たちの「極楽浄土」はどこにあるのでしょうか。今期のやぎ座は、自分が日々何を毛穴から沁みさせているのか、改めて振り返ってみるといいでしょう。 


参考:車谷長吉『業柱抱き』(新潮文庫) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「レジスタンス」。

水瓶座のイラスト
長年の心理カウンセラーとしての活動に裏打ちされた一連の著作を通して、これまでも「生きづらさ」という言葉を浸透させるきっかけを作ってきた信田さよ子は、近著『家族と国家は共謀する』の中で、日本の家族を的確に言い当てた言葉として政治学者・丸山眞男の「抑圧委譲」という言葉を取りあげています。 
 
これは権力者の抑圧が下のものへ順々に発散される構造や仕組みのことで、かつては日本軍内部で行われていた上官からの過酷な暴力、私刑をともなう軍国支配への反省から生まれた言葉ですが、今やヘイトスピーチを氾濫させるネトウヨから、上層階の住民が下層階の住民を差別するタワマン事情や職場や学校でのいじめまで、社会の隅々にまで浸透しているように感じます。 
 
そして、こうした強者による権力行使をそのまま自分より弱い立場の者に向かって同じように権力行使してしまう抑圧委譲の対極にあるのが「レジスタンス(抵抗)」です。例えば、信田は家庭内暴力の被害者が繰り返し思い出されるフラッシュバックを避けるために飲酒やセックス、ギャンブルなどに耽溺していく行為を一つのレジスタンスとして捉えます。 
 
レジリエンスと言ってしまうと、あたかも能力であるかのように誤解される。そうではなく、力だととらえるべきではないだろうか。(省略)このように「人間として扱われない」事態を想定すれば、「人間として」という表現にも意味が生じる。まさにレジスタンスとは、受けた衝撃に人間としてそれをどう認識し、どう対処し、強いられた変化に抗して(抵抗して)昨日と同じ日常を生きるか、他の人と同じ人間として生きるかということを表わしているのではないか。」 
 
安易に「病気」や「症状」などのレッテルを貼ってしまうのではなく、DV被害者の女性たちの明るさや論理性なども、彼女たちが夫ないし元夫からの暴言や暴力に抵抗して生きるために身につけたレジスタンスなのだと認識すること。 
 
同様に、今期のみずがめ座もまた、こうした政治的(ポリティカル)な解釈を身近な人間関係や支配構造に取り入れてみることで、自分なりの変革の可能性を見つけていくことがテーマと言えるかもしれません。 


参考:信田さよ子『家族と国家は共謀する』(角川新書) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「宇宙的尺度で人間を」。

魚座のイラスト
飛行機の操縦士であり作家であったサンテグジュペリの『人間の大地』には、「飛行機とともに、われわれは直線を知った」という一文が出てきます。 
 
この短い文章は、それまで牛や羊に依存していた人びとによって作られたくねくねと歪んだ道をたどってきた社会的通念が、都市と都市とを直線でつなげることを知った空からの視点を人間が手に入れた時代のそれとは大きく変わってしまうはずだということを端的に指し示している訳ですが、実際にサンテグジュペリは空から地球を見るようになってと書いています。 
 
わたしたちは、(中略)宇宙的尺度で人間を判断することになったのだ。人間の歴史をもういちどさかのぼって読むことになったのだ。」 
 
同時に、彼は「なにゆえ、憎みあうことがあろう?」と問いかけ、こんな風にも書いています。 
 
おなじ遊星によって運ばれるわたしたちは、連帯責任を担っているし、おなじ船の乗組員だ。新しい綜合をはぐくむために諸文明が対立するのはよいことだが、たがいに喰い合いをするなどとんでもないことだ。」 
 
こうした文章が1939年に発表されていたことを知ると、私たちは愕然とせざるを得ないのではないでしょうか。 
 
わたしの目は、アルゼンチンでの最初の夜間飛行の折り、星々のように、草原のなかに散在する数少ない灯火がまたたいているだけの、暗い夜の模様が永遠に灼きついている。(中略)たがいに結びつくように試みなければならない。田園のなかにぽつんぽつんと燃えているそれらの灯のいくつかと通じ合うよう努力しなければならない。」 
 
今期のうお座もまた、こうした宇宙飛行士の視点に通じるところから、改めて地上に生きる自分が担うべき責任ということを改めて問い直してみるといいかも知れません。 


参考:サン=テグジュペリ、堀口大學訳『人間の大地』(新潮文庫) 
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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