12星座全体の運勢

「土壇場で人を救うもの」 

5月5日に「立夏」を過ぎると、野に煙る緑にまぶしい日差しと、初夏らしく気持ちのいい気候が続きます。昔は梅雨の晴れ間を指した「五月晴れ」も、今やすっかりこの時期特有のさわやかな晴天を指すようになりましたが、そんな中、5月12日にはおうし座21度(数え度数22度)で新月を迎えていきます。 

今回の新月はテーマは「(自分だけでなく周囲の)バイブレーションのレベルを上げていくこと」。古来より、飢饉の影響で出る死者は実は春から夏にかけてがピークだったと言われてきましたが、西郷信綱の『古代人と夢』によれば、疫病や飢餓などで人々がみな死に絶えてしまうような事態に陥ると、天皇は「神床(カムドコ)」に寝て夢のお告げを得ることで、やがて疫病はおさまり国家安平になったという逸話が伝えられているそうです。 

これはつまり、人間にとって本当の意味での危機的な状況とは、物質的な欠乏に加え霊的目標の飢餓に陥った状況を指し、逆にそれに飢えている人びとと霊的滋養―導きとなるようなイメージやビジョン等を分かちあうことができれば、乗り切ることも可能となるということではないでしょうか。 

四季にはそれぞれの到来を知らせる風があり、春ならば東風(こち)、冬は木枯らしと決まっていて、夏といえば「風薫る」。すなわち、青葉若葉を吹き抜けて、さあっと吹いて新緑の香りを運んでくる強めの南風がそれにあたりますが、同時にそれは、生きるか死ぬかという人間の土壇場で人を生かしてくれる“いのちの手触り”のようなものでもあったように思います。 

12日のおうし座新月前後までの今期は、そうした生きるか死ぬかの土壇場を乗り切っていく上で、自分なりの美学をいかに持てるかどうか、貫いていけるか否か、ということが問われていくでしょう。 

射手座(いて座)

今期のいて座のキーワードは、「境界的な行為としての交易」。

射手座のイラスト
古来より河原や中州、浜や崎、坂や峠などの少しさみしいような場所は、自然と人間の世界との境、聖界と俗界の境とされ、神仏の力が及んでいると考えられてきました。 
 
歴史学者の網野善彦の一連の著書によれば、そうした場所はのちに人間の社会活動に位置づけられ、道や橋、市や渡(わたし)、津、泊(とまり)、さらに墓所など人為的な施設が設けられた後も、以前として「境界」としての性格を持ち続け、それが自覚的にとらえられた時、「無縁」や「公界(くがい)」の場としてとらえられるようになるのだそうです。 
 
それはすなわち、モノであれヒトであれいったん神に捧げるために、後腐れなくモノをモノとして交換することができる特異な、境界的な空間であり、現代であれば東京湾の埋立地である東京ビックサイトで行われるコミケ(同人誌即売会)などもそれにあたる訳ですが、網野はそうした特定の場・空間だけでなく、交易という行為そのものも「境界的な行為」なのだと言います。 
 
交易は神仏との関わりにおいてはじめて行い得るわけですから、この交易を業とする人、市や道で活動する商工民、遍歴する商人、職人はやはり境界的な人びととして、神仏に関わりを持たざるをえなくなってくることになります。」 
 
交易というと特別なことのように思いますが、要は貨幣もしくは物品と物品の交換(売買)行為のことですから、メルカリやヤフオクで物を買うのが当たり前になり、さらに電子マネーの浸透によって、今や私たちはあらゆるところで交易行為に関わっており、どうしたって境界的な存在として生きざるを得ないような状況に立たされているように思います。 
 
しかし、元来は交易という行為であれ、無縁や公界などの場であれ、未開なマジカルなものの力が生きていたのであり、現代社会は文明化された高度な制度によってそうしたなまなましい感覚を覆い隠してしまっていることも確かでしょう。 
 
今期のいて座は、日常のはしばしで「自分は何をしているのか?」と問い直すことで、そうした交易という行為に本来ともなっていた未開でマジカルな感覚を取り戻していくことがテーマになっているのだと言えるかもしれません。 


参考:網野善彦『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』(洋泉社) 
12星座占い<5/2~5/15>まとめはこちら
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ