【牡牛座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<6/13~6/26> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「断ち切るための旅に出よう」
今年は6月21日に太陽の位置が最も高くなる夏至を迎え、夜も最も短くなったなかで、6月25日にはやぎ座3度(数えで4度)で満月を形成していきます。
今回の満月のテーマは、「運命的な旅の始まり」。すなわち、慣れ親しんだ居場所やこれまで繰り返してきた習慣から離れ、あるいは、習慣そのものが変わってしまうような機会に応じていくこと。
ちょうど6月の末日には各地の神社で「夏越の祓(なごしのはらえ)」が行われます。これは一年の折り返しに際して半年分の穢れを落とし、これから過ごす半年間の無病息災を祈願する行事なのですが、その際、多くの場合、「茅の輪くぐり」といって神社の境内に建てられた茅(かや)製の直径数メートルほどの大きな輪をくぐっていくのです。
そして、旅の始まりには、往々にしてこうした「禊ぎ」の儀式を伴うもの。例えば、ジブリ映画『もののけ姫』の冒頭でも、主人公アシタカはタタリ神から受けた呪いを絶つために、まず髪を落としてから、生まれ育った村を去り、はるか西に向けて旅立っていきました。
ひるがえって、では私たちはどんな汚れを落とし、その上で、どちらに旅立っていけばいいのでしょうか?
おそらくそれは、アシタカがタタリ神に鉄のつぶてを撃ち込んだ真相を知ろうとしていったように、いま自分が苦しんでいる状況の根本に何があって、何が起きており、その震源地の中心に少しでも近づいていこうとすることと密接に繋がっているはず。
今回の満月では、いま自分はどんなことを「もうたくさんだ」と感じているのか、そもそも何について知れば「こんなこと」は起きないですむのか。改めて考えてみるといいかも知れません。
今回の満月のテーマは、「運命的な旅の始まり」。すなわち、慣れ親しんだ居場所やこれまで繰り返してきた習慣から離れ、あるいは、習慣そのものが変わってしまうような機会に応じていくこと。
ちょうど6月の末日には各地の神社で「夏越の祓(なごしのはらえ)」が行われます。これは一年の折り返しに際して半年分の穢れを落とし、これから過ごす半年間の無病息災を祈願する行事なのですが、その際、多くの場合、「茅の輪くぐり」といって神社の境内に建てられた茅(かや)製の直径数メートルほどの大きな輪をくぐっていくのです。
そして、旅の始まりには、往々にしてこうした「禊ぎ」の儀式を伴うもの。例えば、ジブリ映画『もののけ姫』の冒頭でも、主人公アシタカはタタリ神から受けた呪いを絶つために、まず髪を落としてから、生まれ育った村を去り、はるか西に向けて旅立っていきました。
ひるがえって、では私たちはどんな汚れを落とし、その上で、どちらに旅立っていけばいいのでしょうか?
おそらくそれは、アシタカがタタリ神に鉄のつぶてを撃ち込んだ真相を知ろうとしていったように、いま自分が苦しんでいる状況の根本に何があって、何が起きており、その震源地の中心に少しでも近づいていこうとすることと密接に繋がっているはず。
今回の満月では、いま自分はどんなことを「もうたくさんだ」と感じているのか、そもそも何について知れば「こんなこと」は起きないですむのか。改めて考えてみるといいかも知れません。
牡牛座(おうし座)
今期のおうし座のキーワードは、「見る者がアート/ゲームをつくる」
いまオリンピックの是非をめぐって、いよいよ世論がそのうねりを激しくしています。スポーツ界が開催の可否についてほぼ沈黙を決め込んでいる一方で、管総理の「コロナに勝った証としての開催」を筆頭に、政治家たちは何が何でも開催しかないのだと鼻息を荒くして前のめりになっている。こうした現状に、なにかきな臭いものを感じる人は今後ますます増えていくでしょう。
ここで一つだけはっきり言えるのは、パンデミック以前であればこうしたことは起きなかっただろうということ。その意味で、パンデミックがスポーツやオリンピックへの社会的関心の在り方を根本的に変えてしまったのだと言えますが、それはとりもなおさず「スポーツないしゲームとは何のためにあるのか」という問いが再提起されているということでもあるのではないかでしょうか。
そして、こうした問いを再考する上で思い出さなくてはならない人物に、マルセル・デュシャンがいます。彼は“美術史”において、アートを放棄したあとチェスに熱中し、フランスを代表するチェス・プレイヤーになったことで知られていますが、実際には少年期に絵画とチェスを同時に始め、その2つの活動はつねに継続され、結果的にチェスだけが生涯を通じて途切れることなくプレイされていたに過ぎなかったのだと言えます。
つまり、デュシャンという人は、アーティストであり、チェス・プレイヤーでもあったのか、それとも、チェス・プレイヤーであり、アーティストでもあったのか、いまいち判然としない人物だった訳です。
そもそも、デュシャンはアートとゲームとを明確に区別しておらず、アートというものを「アーティストと見物人のあいだのちょっとしたゲーム」なのだと考えていたようですし、70歳となった1957年には次のように語っていました。
「芸術家は一人では創造行為を遂行しない。鑑賞者は作品を外部世界に接触させて、その作品を作品たらしめている奥深いものを解読し解釈するのであり、そのことにより鑑賞者固有の仕方で創造過程に参与するのである。こうした参与の仕方は、後世がその決定的な審判を下し何人かの忘れられた芸術家を復権するときに、一層明らかになる。」
この「見る者がアート/ゲームをつくるのだ」というデュシャンの宣言を、今回の東京オリンピックの文脈に接続してみると、政治家たちがつくろうとしているアート/ゲームと、一般民衆がつくろうとしているそれとが、いつの間にかまったく別物になっているのだという印象がより一層際立って感じられてくるはず。
今期のおうし座もまた、改めて自分が見たいアート/ゲームとは何で、見たくないそれとは何なのかということを、明確にしてみるといいでしょう。
参考:マルセル・デュシャン、北山研二訳『マルセル・デュシャン全著作』(未知谷)
ここで一つだけはっきり言えるのは、パンデミック以前であればこうしたことは起きなかっただろうということ。その意味で、パンデミックがスポーツやオリンピックへの社会的関心の在り方を根本的に変えてしまったのだと言えますが、それはとりもなおさず「スポーツないしゲームとは何のためにあるのか」という問いが再提起されているということでもあるのではないかでしょうか。
そして、こうした問いを再考する上で思い出さなくてはならない人物に、マルセル・デュシャンがいます。彼は“美術史”において、アートを放棄したあとチェスに熱中し、フランスを代表するチェス・プレイヤーになったことで知られていますが、実際には少年期に絵画とチェスを同時に始め、その2つの活動はつねに継続され、結果的にチェスだけが生涯を通じて途切れることなくプレイされていたに過ぎなかったのだと言えます。
つまり、デュシャンという人は、アーティストであり、チェス・プレイヤーでもあったのか、それとも、チェス・プレイヤーであり、アーティストでもあったのか、いまいち判然としない人物だった訳です。
そもそも、デュシャンはアートとゲームとを明確に区別しておらず、アートというものを「アーティストと見物人のあいだのちょっとしたゲーム」なのだと考えていたようですし、70歳となった1957年には次のように語っていました。
「芸術家は一人では創造行為を遂行しない。鑑賞者は作品を外部世界に接触させて、その作品を作品たらしめている奥深いものを解読し解釈するのであり、そのことにより鑑賞者固有の仕方で創造過程に参与するのである。こうした参与の仕方は、後世がその決定的な審判を下し何人かの忘れられた芸術家を復権するときに、一層明らかになる。」
この「見る者がアート/ゲームをつくるのだ」というデュシャンの宣言を、今回の東京オリンピックの文脈に接続してみると、政治家たちがつくろうとしているアート/ゲームと、一般民衆がつくろうとしているそれとが、いつの間にかまったく別物になっているのだという印象がより一層際立って感じられてくるはず。
今期のおうし座もまた、改めて自分が見たいアート/ゲームとは何で、見たくないそれとは何なのかということを、明確にしてみるといいでしょう。
参考:マルセル・デュシャン、北山研二訳『マルセル・デュシャン全著作』(未知谷)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ