【蟹座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<9/19~10/2> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「主観の結晶化」
昼と夜の長さが等しくなる「秋分」を2日後にひかえた9月21日には、うお座28度(数えで29度)で満月が形成されていきます。
そんな今回の満月のテーマは、「画竜点睛」。すなわち、物事を完成させるための最後の仕上げの意。前回の記事の中では、9月7日のおとめ座新月から21日のうお座満月までの期間は「かつて否定した自分自身(の実感や衝動)との和解」ということがテーマになると書きましたが、それは以前なら単なる主観でしかないとして切り捨てていた個人的な思いや直感が改めて検証され、そこには顧みるべき何らかの意味や価値があるのではないかといった“読み解き”が促されていきやすいという意味でした。
つまり、先の「仕上げ」とは、権威や影響力があるとは言えど誰か他の人の意見や考えや根拠をうのみにするのではなく、あくまでみずからの主観的な確信を熟慮のうえで結晶化していくことに他ならないのだということです。
例えば、藤原定家の「見渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という有名な歌があります。浜辺であたりを見まわしてみても何もないという意味で、表向きには何にもない景観です。そもそも、花は春、紅葉は秋ですから、同時に観れる訳がない。ただ、「ない」とあえて否定することで、うっすらとその痕跡が重層的にイメージされ、その上に実際の「秋の夕暮れ」が見えてくると、もはやそれはただのさびしい風景ではなく、心的空間における仮想現実体験のような積極的なニュアンスをもつまでに至るのです。無駄を省いて、一つだけ残ったものとしての秋の夕暮れ。何でもないような一日をあらんかぎりの高度な手法をもって大切に締めくくるという意味で、実に今回のテーマに即した作品と言えるのではないでしょうか。
同様に、今期は他の人が何と言おうとも、自分にとってこれだけは大切な体験・体感なのだということを、手を尽くして結晶化してみるといいでしょう。
そんな今回の満月のテーマは、「画竜点睛」。すなわち、物事を完成させるための最後の仕上げの意。前回の記事の中では、9月7日のおとめ座新月から21日のうお座満月までの期間は「かつて否定した自分自身(の実感や衝動)との和解」ということがテーマになると書きましたが、それは以前なら単なる主観でしかないとして切り捨てていた個人的な思いや直感が改めて検証され、そこには顧みるべき何らかの意味や価値があるのではないかといった“読み解き”が促されていきやすいという意味でした。
つまり、先の「仕上げ」とは、権威や影響力があるとは言えど誰か他の人の意見や考えや根拠をうのみにするのではなく、あくまでみずからの主観的な確信を熟慮のうえで結晶化していくことに他ならないのだということです。
例えば、藤原定家の「見渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という有名な歌があります。浜辺であたりを見まわしてみても何もないという意味で、表向きには何にもない景観です。そもそも、花は春、紅葉は秋ですから、同時に観れる訳がない。ただ、「ない」とあえて否定することで、うっすらとその痕跡が重層的にイメージされ、その上に実際の「秋の夕暮れ」が見えてくると、もはやそれはただのさびしい風景ではなく、心的空間における仮想現実体験のような積極的なニュアンスをもつまでに至るのです。無駄を省いて、一つだけ残ったものとしての秋の夕暮れ。何でもないような一日をあらんかぎりの高度な手法をもって大切に締めくくるという意味で、実に今回のテーマに即した作品と言えるのではないでしょうか。
同様に、今期は他の人が何と言おうとも、自分にとってこれだけは大切な体験・体感なのだということを、手を尽くして結晶化してみるといいでしょう。
蟹座(かに座)
今期のかに座のキーワードは、「自律した個人などいない」。
コロナ禍以降、他者との目に見える距離とともに目に見えない距離もまた広がり続けているように感じます。少なくとも、私たちは以前そうしていた仕方で、当たり前のようにみなで集まったり、なんとなく誰かと会ったりといったことはもはや当面のあいだ難しいでしょう。
しかし現代社会において、個人と個人は果たして結びつきえるか。あるいは、実際のところ、私たちは愛し合うことなどできるのか、という命題に1930年の時点で真正面から取り組んでいたのが、『チャタレイ夫人の恋人』の作者でとして知られる作家のD・H・ロレンスでした。その答えは、もちろん否定的なものです。以下、『黙示録論』より引用。
「近代の男女は個人として以外に自分自身のことを考ええないのだ。ゆえに、彼等のうちにある個性は、ついにおなじく自分たちのうちの愛し手を殺さねばならぬ宿命となる。というのは、自分の愛する対象を殺すというのではない。おのおのが自分の個性を主張することによって、自己のうちの愛し手を殺すということなのだ。」
試みに愛しあおうとしてみれば、そこに次第に露出してくるものは、他人を支配しようとする我意であり、それは彼等が自身で考えているような「純粋なる個人」などではないのだとロレンスは言うのです。
「個人は愛することができない。個人がひとたび愛するならば、もはや彼は純粋な個人ではなくなってしまう。そこで彼はふたたび自己をとりもどし、かくして愛することをやめねばならぬのだ。これこそ現代の教えるもっとも驚愕すべき教訓でなくしてなんであろう。」
こうした自己矛盾があるにも関わらず、現代人は(ロレンスはその前提にキリスト教を置いていますが)「自分たちのうちの我意を愛他思想のうちにひっくるめてしまおうとする(福田恆存)」。そして、それゆえに「抑圧された我意はゆがんだ権力欲へと噴出口を求める」のであると。
では、そんな歪んだ欲望に振り回されがちな私たちはどうすればいいのか。ロレンスは次のように結んでいます。
「吾々の欲することは、虚偽の非有機的な結合を、殊に金銭と相つらなる結合を打破し、コスモス、日輪、大地との結合、人類、国民、家族との生きた有機的な結合をふたたびこの世に打ち立てることにある。まず日輪と共に始めよ。そうすればほかのことは徐々に、徐々に継起してくるであろう。」
いささか楽観的な物言いですが、今期のかに座もまた、自身が結ぼうとしている結合が非有機的なものか、有機的なものであるのかを改めて見定めていくべし。
参考:D・H・ロレンス、福田恆在訳『黙示録論 現代人は愛しうるか』(ちくま学芸文庫)
しかし現代社会において、個人と個人は果たして結びつきえるか。あるいは、実際のところ、私たちは愛し合うことなどできるのか、という命題に1930年の時点で真正面から取り組んでいたのが、『チャタレイ夫人の恋人』の作者でとして知られる作家のD・H・ロレンスでした。その答えは、もちろん否定的なものです。以下、『黙示録論』より引用。
「近代の男女は個人として以外に自分自身のことを考ええないのだ。ゆえに、彼等のうちにある個性は、ついにおなじく自分たちのうちの愛し手を殺さねばならぬ宿命となる。というのは、自分の愛する対象を殺すというのではない。おのおのが自分の個性を主張することによって、自己のうちの愛し手を殺すということなのだ。」
試みに愛しあおうとしてみれば、そこに次第に露出してくるものは、他人を支配しようとする我意であり、それは彼等が自身で考えているような「純粋なる個人」などではないのだとロレンスは言うのです。
「個人は愛することができない。個人がひとたび愛するならば、もはや彼は純粋な個人ではなくなってしまう。そこで彼はふたたび自己をとりもどし、かくして愛することをやめねばならぬのだ。これこそ現代の教えるもっとも驚愕すべき教訓でなくしてなんであろう。」
こうした自己矛盾があるにも関わらず、現代人は(ロレンスはその前提にキリスト教を置いていますが)「自分たちのうちの我意を愛他思想のうちにひっくるめてしまおうとする(福田恆存)」。そして、それゆえに「抑圧された我意はゆがんだ権力欲へと噴出口を求める」のであると。
では、そんな歪んだ欲望に振り回されがちな私たちはどうすればいいのか。ロレンスは次のように結んでいます。
「吾々の欲することは、虚偽の非有機的な結合を、殊に金銭と相つらなる結合を打破し、コスモス、日輪、大地との結合、人類、国民、家族との生きた有機的な結合をふたたびこの世に打ち立てることにある。まず日輪と共に始めよ。そうすればほかのことは徐々に、徐々に継起してくるであろう。」
いささか楽観的な物言いですが、今期のかに座もまた、自身が結ぼうとしている結合が非有機的なものか、有機的なものであるのかを改めて見定めていくべし。
参考:D・H・ロレンス、福田恆在訳『黙示録論 現代人は愛しうるか』(ちくま学芸文庫)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ