2021年11月14日から11月27日のSUGARの12星座占い
[目次]
  1. 【SUGARさんの12星座占い】<11/14~11/27>の12星座全体の運勢は?
  2. 【SUGARさんの12星座占い】12星座別の運勢
    1. 《牡羊座(おひつじ座)》
    2. 《牡牛座(おうし座)》
    3. 《双子座(ふたご座)》
    4. 《蟹座(かに座)》
    5. 《獅子座(しし座)》
    6. 《乙女座(おとめ座)》
    7. 《天秤座(てんびん座)》
    8. 《蠍座(さそり座)》
    9. 《射手座(いて座)》
    10. 《山羊座(やぎ座)》
    11. 《水瓶座(みずがめ座)》
    12. 《魚座(うお座)》

【SUGARさんの12星座占い】<11/14~11/27>の12星座全体の運勢は?

「あえて空気を読まない」 

落葉の季節である「小雪」をいよいよ迎えていこうかという11月19日に、今年2回目の月食満月がおうし座27度(数えでは28度)で起きていきます。 

そんな今回の満月のテーマは「逆張りによる自己解放」。それは与えられる幸せや恵みをただ素朴に受け取り、自然な流れとして黙って従っていくのではなく、むしろ世の中の「普通」やこれまでの自分だったら「当然」と感じるような展開に思い切って反することで、人生に対する新しい見方・考え方を抱くことをみずから可能にしていくということに他なりません。 

つまり、迷ったらあえて大変そうだな、とか普通ならこうしないな、という方を選んでいくということで、これは変に豊かな経験にとらわれた愚かさから脱却し、結果的に心からの「若返り」を図っていくということでもあります。 

たとえば、今でこそ本来の季節以外でも手に入る花が増えましたが、昔は冬には花は咲かないのが普通でした。そんな中でキンセンカの花は歳時記では春の季語ですが、花期がひときわ長いために、「時不知(ときしらず)」と呼ばれ、冬でも咲いています。 

しかし本来、おそらく一番の時不知は私たち人間でしょう。ときに時間の流れや法則さえも超えてしまうことこそが人間の自然な本質でもあり、年齢や性別、社会的立ち位置などに囚われず、行動していくことは人間的な愉しみの原点でもあるように思います。その意味で、今期のあなたもまた、そんな「時不知」のひとつとなって、狂い咲いていくことになるかも知れません。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「停滞と循環」。

牡羊座のイラスト
「これって、あたしの権利はどうなっているんですか?」 
契約書を前にして彼女が、心配そうに不動産屋にたずねた。 
「連名で作ることもできますが、そうなさいますか?」 
印鑑を捺す手をピクッと止めて、彼は彼女の判断を待った。連名の方がもちろん安心だけど、この段階で契約書を作り直すのはかなりの手間だ。どっちみち予定通り結婚すれば、男性の名義でいいわけだし……という空気を読んで、彼女は意見を引っ込めた。」 
 
これは山内マリコの連作短編集『選んだ孤独はよい孤独』に収録された「あるカップルの別れ理由」という小説の冒頭の一節。しかし結婚を前提としていたはずのカップルの同棲は、一年も経たないうちに彼女が出ていくという形で唐突に終焉を迎えてしまう。 
 
それでも、一人で住むにはちょっと広い1LDK45平米の家に、彼はその後も住みつづけます。ある日ひょっこり彼女が帰ってきて、何事もなかったようにまた同棲生活が再開し、そのまま結婚することをどこかで期待して。 
 
しかし、そんな淡い期待はある日ネットのインタビュー記事で、すっかり肌が小麦色に焼け、はじけるような笑顔の彼女を見つけたことで崩され去ります。スーツケース一つで出ていった彼女は、しばらく友人の家を転々とした後、英会話学校で英語を学び、ニュージーランドへワーキングホリデーへ行ったことをきっかけにサーフィンに魅了され、現地のニュージーランド人と結婚して、今では現地のサーフショップで忙しく働いていました。 
 
その一方、「やさしい彼氏」を自認しつつも鈍感だった彼の方はと言えば、彼女が出ていってから4年経過した今も、部屋の様子や家具の配置は何一つ変わっておらず、しかしどこか空気がどんより淀んでいるだけでなく、「あらゆる場所がベタベタしていた」。そしてそこに次のような描写が続くのです。 
 
彼はいまだに、自分のどこがどうダメだったのか、別れた直接の原因はなんだったのか、まったくピンときていなかった。彼女はどうして出て行ったのか。それは永遠に謎のままだ。」 
 
おそらく彼は、自分でも気付かない内に、ゆっくりと生活も精神も蝕まれていったのでしょう。今のあなたなら、彼と彼女のどちらにより自分の姿を重ねますか。 
 
 
参考:山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』(河出文庫) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「ブラヴァッキーの真意」。

牡牛座のイラスト
ここのところ似たような無差別的なテロ事件が立て続けに起こっていますが、こうしたニュースに触れると、個人的にはどうしても1995年の地下鉄サリン事件という大規模なテロ事件を起こしたオウム真理教のことが思い出されます。 
 
どうして彼らがあのような事件を起こしえたのかという問いには、そもそも彼らが理系のエリート集団であったことや、当時はまだインターネットの規制がゆるく、現在なら機密情報として厳重に取り扱われなければならない情報が簡単に手に入ったことなど、さまざまな理由が挙げられますが、その根幹には現在世界を支配している動物的種族から神的種族へと「種の入れ換え」をしなければならないという麻原の考えや、そのベースとなった「霊性進化論」という価値観がありました。 
 
大田俊博の『現代オカルトの根源』では、その「進化」という近代特有の概念を「霊性」というオカルトの次元に適用した「霊性進化論」の源流を19世紀後半にアメリカで神智学協会を結成したヘレナ・ブラヴァッキーという大変に毀誉褒貶の著しい人物に求めつつ、その当時のアメリカ社会や時代背景を踏まえて、彼女について次のように説明しています。 
 
伝統的なキリスト教が全体として弱体化・狭隘化する一方、新たな科学的世界観として台頭する進化論と、新たな宗教的世界観として流行を見せる心霊主義―。こうしたアメリカ社会の状況に、ブラヴァッキーはどのような仕方で対峙したのだろうか。表面的には彼女は、進化論と心霊主義の両者を、截然と否定した。すなわち、進化論に対しては、生命の物質的側面のみに着眼した誤った理論であると批判し、心霊主義に対しては、「夢魔」のような低級霊に憑依されることによって生じた幻の現象に過ぎないと断じたのである。とはいえ、ブラヴァッキーの真意が、この両者を単に否定し去ろうとすることであったとは思われない。むしろ彼女は、進化論と心霊主義の構想を巧みに融合させ、人間の生きる目的は、高度な霊性に向けての進化にあることを明らかにしようとしたのである。」 
 
この「進化論」の箇所を「新自由主義」に、そして「心霊主義」の箇所を「陰謀論」や「霊能(者)好き」に置き換えれば、そっくり現代の日本社会であることに気付きます。彼女の活動には数々の自説の過度な神秘化やごまかしが含まれていたことは確かですが、それでも彼女の「夢想」の影響は巨大なものであり、その後もさまざまに形を変えて幾度も反復され支持されており、そうした状況は私たちにおいてもそう変わらないでしょう。 
 
今期のおうし座もまた、そうした自分の立っている社会的、ないし時代的な文脈にただ座ったまま、固まったままでいるのでなく、どうやってそうした影響に反してみせることができるか、実際の動きのなかで考えてみるといいでしょう。 
 
 
参考:大田俊博『現代オカルトの根源―霊的進化論の光と闇』(ちくま新書)

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「特別な木を新しく切り出すこと」。

ふたご座のイラスト
現代社会が単に物を欲望する社会を通り越し、物のもつ記号性を消費する社会も通り越して、欲望そのものを欲望し、欲望そのものの生産を目がける社会に移行した、という話はこれまでも既に繰り返しされてきました。 
 
つまり、必要だから買うのでも、カッコいいから買うのでもなく、定期的に買い替えたり、なんとなく買った方がいい気がするから買う。そこでは過去の自分との縁を切断し、たえず自分自身を更新することだけが大切なことである、という感覚が日常化しており、それこそが消費社会の行き着いた果て、その核心であると。 
 
ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが1938年から翌年にかけて書いた「セントラルパーク」において以下のように言及していたのも、そういうことの裏返しでしょう。 
 
今日の人間のあり方からすれば、根本的に新しさはひとつしかない。それはつねに同じ新しさである。すなわち、死。」 
 
恋愛であれ仕事であれ、現代社会ではどんな新しいものもいずれ廃れるものとして、あるいは、いつだったかに見たことのある光景に似たものとして出会われる。そこでは、ベンヤミンの言うように、絶対に取り返しのきかないことを除いては本当に新しいものは何もなくなっていきます。しかし、果たして本当にそうでしょうか? 
 
たとえば、定年だとか、おばさんだとか、賞味期限だとか、そうした相対的で限定的な「時」を生きることがない者にとっては、少なくともそういう「時」以外の「時」に触れている者にとっては、やはり相対的で限定的な新しさには意味がありません。 
 
そこでは新しさを不可能にするもの、すなわち、永遠(に感じられるもの)、大きな生命の循環(サイクル)、あるいは、そうしたものによって地上にもたらされるすがすがしい風といったものだけが、本当の意味で新しいと言えるのではないでしょうか(語源的に「新」という漢字は神さまの意思によって選ばれた特別な木を新しく切り出すことの意)。 

そして今期のふたご座もまた、使い古された「時」の使用に反旗を翻していきたいところです。 
 
 
参考:ヴァルター・ベンヤミン、浅井健二郎ほか訳『ベンヤミン・コレクションⅠ 近代の意味』(ちくま学芸文庫)

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「静かなるコミットメント」。

蟹座のイラスト
今から15年ほど前に刊行された村上春樹と河合隼雄の対談『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』では、二人それぞれの海外への移住や留学経験をもとに、日本社会では、なかなか「個人」ということを体感としてわかるということは難しいという話題が取り上げられていました。 
 
例えば、会社の同じ部署やチームなんかで、みんなで飲みに行こうというときに、断りでもしようものなら、おまえは付き合いが悪いと言われてしまう。つまり個人の自由を許さない訳です。それは単に付き合いというだけに限らず、会社への貢献という点でも、全体的になにかとベタベタとコミットしているやつが立派なやつで、自分の考えで勝手なことをしていると、サボっていると言われてろくに評価してもらえない、ということがどこのコミュニティでもいまだに起きているのではないでしょうか。 
 
それで、かつてはそういうコミットメント(関わり)ということが推奨されていたのが、だんだん若い人を中心にデタッチメント(関わりのなさ)であるのをクールで格好いいという風に思われるようになってきた。端的に言えば、コミットするやつはバカだと。ただ一方で、河合は阪神の震災ボランティアやオウム事件のときは、逆に若者たちがものすごくコミットしたのだとも指摘していました。つまり、彼らも潜在的にはコミット先を求めてはいるんだけど、方法論が分からないのではないかと。 
 
ベタベタと、シラケと。そういう極端なモードの行き来のなかで、結局は、政治であれ人間関係であれ、「個人として何かにコミットする」ということが難しい問題として残り続けてしまう。そういう中で、河合は自身が留学先で学んできたことの中に、上記のどちらでもない「静かなるコミットメント」というものがあるのだという話をしています。 
 
これは自分が精神分析を受けてみて、いかに分析家がその仕事にコミットしているか、コミットメントなくして分析治療は進まないのだということが分かったが、それは一般的に考えるように「なんでもしてやろう」とか「頑張ってやろう」というのではなく、外見的にはむしろデタッチしているかのようにさえ見えるのだといいます。 
 
今期のかに座もまた、頭だけではなく、自分の全存在をコミットさせることとしての「静かなるコミットメント」をどうやって学び、実践していけるかが問われていくはず。 
 
 
参考:村上春樹、河合隼雄『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(新潮文庫)

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「世間から転がり落ちる」。

獅子座のイラスト
例えば、最近ではワクチン接種などがそうですが、日本社会というのは暗黙のルールに従わない人を放っておいてはくれないものです。接種していないことが分かるや否や、いたるところから、「お前一人で生きているのではない」だとか、「みんなのお蔭で生きているんだから」といったお説教(しかも大抵は「あなたのために言うけれど」と付け加えてくる)が聞こえてくることもあるはず。 
 
こういうことはむろん今に始まった話ではありません。戦後すぐの1948年に発表された太宰治の『人間失格』には次のようなやり取りがあります 
 
「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな。」 
世間とは、いつたい、何の事でせう。人間の複数でせうか。どこに、その世間といふものの実体があるのでせう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こはいもの、とばかり思つてこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にさう言はれて、ふと、「世間といふのは、君ぢやないか。」といふ言葉が、舌の先まで出かかつて、堀木を怒らせるのがイヤで、ひつこめました。 
(それは世間が、ゆるさない。)(世間ぢやない。あなたが、ゆるさないのでせう?) 
(そんな事すると、世間からひどいめに逢ふぞ。)(世間ぢやない。あなたでせう?) 
(いまに世間から葬られる。)(世間ぢやない。葬むるのは、あなたでせう?)」 
 
こういう「世間」や「普通」といった言葉を使って人に物を言う人というのは、いつの時代もマジョリティの漠然と正しい了見の真ん中に自分を置き、世間を無視する者や知らぬふりをしている(ように見える)者をつかまえては、しつこく攻撃しようとする訳です。 
 
ここで今期のしし座が考えなければいけないのは、ではどうしたらこうした轟轟たる「世間」からの攻撃を逃れることができるかということ。それも、仏門に入ったり、森の奥に引っ込んで暮らしたりするのでなく、普通に暮らしていながらも、「あいつは仕方ないか」と見逃してもらえるようになるためには……と。 
 
おそらくそのための一番の近道は、「善良な市民」や「健全な社会人」をやめて、むしろ社会から転落することでしょう。とりあえず、会いたくない人にはできるだけ会わないようにすることから始めてみるといいかも知れません。 
 
 
参考:太宰治『人間失格』(新潮文庫) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「私の背後にある何ものか」。

乙女座のイラスト
雪深い山形県出身の哲学者である山内志朗は、「東京で溺れない哲学」のなかで、都会というのは「一年中、吹雪が吹き荒れているようにしか感じられない」のだと述べつつも、それは結果的には、哲学をするにはもってこいの環境だったのかも知れません。 
 
山内はこう言います。「薄暗い、灰色の空から、雪が音もなく、静かに降り積もるとき、雪は降る。音もなく降る。上から下へと降る」。そうやって「降る雪が哲学していると感じることもあった」のだと。 
 
また、山内は大学を留年し、ギャンブルに溺れ、酒をあおって荒んだ生活をしていた自身の過去を「都会に溺れていた」と振り返りつつ、「哲学とは何か。考えたことを書き、思ったことを話せばよい、そういう単純なことがあまり分かっていなかった」し、「表現とは知性の辛苦と喘ぎを通してのみ成立することだと思っていた」と述べています。 
 
都会で溺れないためには、泳ぎ方を覚えなければなりませんが、それは少なくとも山内にとっては、「雪のごときものに埋もれて」いる自分自身を見出し、その背後にある自然のはたらきをはるかな起源へと遡っていくことに他ならなかったのでしょう。 
 
山内は自身の仕事の大半を占めてきた原稿書きについても、そうした意味で「背後にある何ものかが、私を駆り立てている限りで、書いている」とした上で、こうも述べています。 
 
文章とは、水と空気と風と熱などのエレメントに発するものではないのか。海から上る水蒸気は、空に至り、雨滴になったり雪になったりする。それは、風が聖霊のような働きをして、天にあるものを遠くに運び、地上に届けるような様子と似ているような様子と似ているような気もする。文章は天気と似ている。海から発して最後には海に帰っていく。」 
 
ひるがえって、あなたは今どんなものに埋もれているでしょうか? そしてそれは、どこからやって来て、あなたをどんな風に苦しめ、そしてどこへと帰っていこうとしているのでしょうか。今期のおとめ座は、ひとつそんな意味での「哲学すること」を大切にしてみるといいかもしれません。 
 
 
参考:山内志朗『わからないまま考える』(山内志朗)

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「偶然を飼い馴らさない」。

天秤座のイラスト
なにか「あっ!」と驚くことが起きた時、私たちはしばらくのあいだ自分の身に起こったことをどう捉えていいのか分からず、困惑してしまうことがあります。そして、そうした混乱状態に我慢がきかずに、目の前の事態をさっさと「単なる偶然」か「起こるべく起きた必然」のどちらかに帰着させようとしてしまいがちではないでしょうか。 
 
前者の連続は精神に非常にストレスになりますから、どうしても私たちは後者として判断しがちであり、結果的に「最近何も変わったことが起きない」という心理へと結びついていったり、それが集積して「いつまでも政治が変わらない」という話になったりしていく。 
 
こういう話を見聞きしたとき、いつも思い出す一節があります。それは「たまたま」や「ふと」という事態について真剣に取り組んだ稀有な哲学者のひとりである九鬼周造の『偶然性の問題』の次のようなくだり。 
 
偶然性に等価する感情はいかなる感情か。「奇遇」「奇縁」などの語の存在が示すごとく、偶然性の感情等価は驚異の情緒である。必然性が平穏という沈静的感情を有つのは、問題が分析的明晰をもって「既に」解決されているからである。それに反して偶然性が驚異という興奮的感情をそそるのは問題が未解決のままに「眼前に」投出されるからである。驚異の情緒は偶然性の時間性格たる現在性に基いている。要するに、必然はその過去的決定的確証性のために、弛緩および沈静の静的な弱い感情より有たないが、可能および偶然は問題性のために、緊張および興奮の動的な強い感情をもたらすのである。」 
 
ここで「驚異の情緒は偶然性の時間性格たる現在性に基いている」と書いているのが、先の「あっ!」にあたる訳ですが、九鬼がここで言わんとしているのは、偶然と必然というのは本来まったく対立する概念ではないということ。 
 
ただ、偶然はつねに「現在性」という時制に基づいて「驚異という興奮的感情」をもたらす一方で、必然はそれを「過去」という時制に基づいて、「既に解決済み」の出来事として取り扱おうとするだけで、私たちはいつも偶然を必然に読み替えていこうとしているし、それがうまく成功したとき、新しい「物語」が発生し、それを「運命」と感じるのです。 
 
その意味で、今期のてんびん座は、そうした「読み替え」が自然に起きてくるまで、「偶然」やそれがもたらす「驚異」ないし「困惑」を、下手に飼い馴らそうとせず、あえて放置していくだけの我慢強さが問われていくことでしょう。 
 
 
参考:九鬼周造『偶然性の問題』(岩波文庫)

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「「(居)場所への暴力/危害」への解像度」。

蠍座のイラスト
日本社会はいま、ますます一般庶民にとって「安心」が損なわれた社会へと零落し続けていますが、そのすべてを一部の政党や政治家のせいにしようとするとき、どこかで躊躇したり、何か違うのではないかと感じる人も少なくないのではないでしょうか。 
 
というのも、日本のような社会に暮らしていると当たり前すぎて意識にのぼりにくいですが、そもそもの話として、フツーにしていれば危害にさらされることはまずないという「安心」は、それ自体がきわめて貴重な公共財であり、私たちはそれがいかにして傷ついてしまうか、ということにいささか鈍感であり過ぎたのかも知れません。 
 
例えば、ヘイトスピーチなどが分かりやすいですが、それは直接的ないし物理的な暴力を伴うものではありませんが、警察や軍隊、ないし警備員や用心棒などのあからさまなものに頼ったり、意識的に確保などしなくても「安心」は毀損されない、という人びとの無意識的な社会への信頼を破壊してしまいます。 
 
哲学者の飯野勝己は、こうした「ここにとりあえずは安らって居られる」というあり方としての人びとの「安心」を破壊するあらゆる活動や表現の根底にあるものを「(居)場所への暴力/危害」と呼び、それは私たちの「いつでもどこかの場所に居るほかなく、その場の環境とたえまなく交感し、だから場所の質にのべつ影響を被りつつ生きるほかないという、私たちの否応ない存在様式」を否応なく照らし出すのだと述べています(「ひとつの暴力、いくつもの暴力―「場所への暴力」試論」)。 
 
そうすると、私たちはただ一部の政治家や政党について、選挙のときだけ糾弾するだけでは足らず、普段から利用する電車やバスなどの交通機関だったり、また普段から閲覧しているSNSや買い物サイトなどのインターネットなどを含んだ生活インフラといった「場所」における「安心」が、少なくともどのようなリスクや暴力に晒されつつあるかにもっと繊細に注意を払い、目を光らせ、場合によってはみずからの手でそれを防いだり、声をあげて指摘していかなければならない訳です。 
 
その意味で今期のさそり座もまた、国家というものに暴力は必然的に伴われるのだと、と簡単に了解するのではなく、幾層にもわたって多岐に展開される「(居)場所への暴力/危害」に対する解像度をいかに高め、それに抗していけるかということが自然と問われていくように思います。 
 
 
参考:飯野勝己・樋口浩造編著『暴力をめぐる哲学』(晃洋書房) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「単に日々やっていること」。

射手座のイラスト
「ワーカホリック(仕事中毒)」という言葉がいつから日常的に使われるようになったのか分かりませんが、この言葉はいささか頻繁に、しかも多くの場合あやまった仕方で使われ過ぎているように思います(「鬱」という言葉と同じくらい)。 
 
それはどんなに人びとが「仕事」という言葉に含まれるもろもろのことを憎んでいるか、にも関わらず、「中毒」という病気めいた言葉とセットでないとそれを無暗に中断したり、休みをとることが難しいかということをよく表してもいる訳ですが、例えば、進化生物学者で作家のスティーブン・J・グールドがインタビューに答えた次のような一節を聞いていると、私たちは決して「仕事をしすぎている」のではなく、むしろ「仕事」という固定観念に囚われ過ぎているのかも知れないという疑念が湧いてきます。 
 
私は毎日仕事をする。週末も、夜も……それをはたから見ると、“仕事中毒”という現代的な言葉で表現できるかもしれないし、“強迫観念にとりつかれている”とか、”破滅的”といえるかもしれない。だが、私にとって、仕事は仕事じゃない。単に日々やっていることで、それが私の生活なんだ。家族ともじゅうぶんな時間をいっしょに過ごし、歌もうたうし、野球の試合もみにいく。フェンウェイパーク球場には年間予約席ももってるから、しょっちゅう行ってる。つまり、単調な生活を送っているわけじゃない。だが、基本的には、終始仕事をしている。テレビはみない。だが、これは仕事じゃない。仕事じゃなくて、生活だ。毎日やっていることで、やりたいことなんだ。」 
 
私たちが、何もかも「仕事」として呼んでそこにはまりこむことを「中毒(ホリック)」すなわち異常状態と呼ぶのは、それらがどこまでも“押しつけられたもの”でしかなく、みずから選び取り、親しんでいる「生活」にまで至っていないからなのではないでしょうか。 
 
その意味で今期のいて座は、どんな仕事をしたいかではなく、どんな生活をしたいか、そしてそこにどれだけ、またはどんな類の「仕事」が含まれているか、という仕方で、自身のQOL(クオリティ オブ ライフ)の向上をはかっていくことがテーマとなっていきそうです。 
 
 
参考:メイソン・カリー、金原瑞人・石田文子訳『天才たちの日課』(フィルムアート社) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「一生の問い」。

山羊座のイラスト
禅のさまざまな公案のうちでも、いちばん難しいとされ、もっとも卒業しにくいものとされる公案に「婆子焼庵(ばすしょうあん)」というものがあります。これは逆に言えば、この問題がある限りは決して修行を卒業できず、生きている限り禅の修行は一生続くのだと考えられていたということでもある訳です。 
 
ざっと公案の大意を説明すると、あるお婆さんが一人の青年僧の衣食住すべての世話をして、二十年がたったところで、年頃の娘に飯を運ばせ始めます。そしてある日、娘に青年僧へぴたりと抱きつかせて「このあたしをどうしてくれます」と言わせたのです。それに対して、青年僧は「枯木寒巌に倚りて、三冬暖気なし」とあらかじめ用意していた出来あいの句で答えた。ところが、娘の報告を聞いたお婆さんは、あれは俗物のニセモノだとして、青年僧を追い出し、草庵を焼き棄ててしまったのです。 
 
さあ、この話をどう捉えたらいいか。柳田聖山の『一休 「狂雲集」の世界』という本によれば、一休はこの老婆は親切が過ぎており、さながら泥棒にはしごを貸してやるような老練なやり口だとして、ポジティブに捉えたのだそうです。どういうことか。 
 
娘の誘惑を拒否した青年僧は立派ではあれど、「枯れ木が寒さ厳しさにすっかり馴染んでいる(ように俺は娘になんか眼中にない)」というその答えはいかにも四角四面であり、温かみや柔らかさに欠ける訳ですが、一休はそれに「枯れ木に再び春が巡って、青い芽を吹く」という詩を付したのです。 
 
これはつまり、老婆が娘を与えるという余計なこと(老婆心の発揮)をしたばかりに、書物や先人に教わるだけでは決して会得することができなかった、「内側から芽生えてくる力」が青年僧に促されたのであり、柳田によればそれくらい、「禅と言えども、男女の問題だけは決まった解答を出せない」し、「自分自身で処理していく他はない」のだと考えられていたのであり、むしろ、禅の修行者ゆえに、それが求められるということを、まさに一休の答えは象徴しているのだと言うのです。 
 
同様に、今期のやぎ座もまた、自分自身も「枯木寒巌に春が巡って、花が咲く」ために、あらかじめ答えが決まっている訳でもない、一筋縄ではいかない問題にどうぶつかっていくべきか、ということが多かれ少なかれ問われていくことでしょう。 
 
 
参考:柳田聖山『一休 「狂雲集」の世界』 (人文書院) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「人間的であるということ」。

水瓶座のイラスト
建築や都市が「人間的」でなければならないという話は、今日ではほとんど自明とされる主張ではありますが、日本を代表する建築家のひとりで、幕張メッセやテレビ朝日本社ビル、ヒルサイドテラスなどの設計者としても知られる槇文彦は、『記憶の形象―都市と建築との間で』におさめられた文章のなかで、次のように述べています。 
 
われわれはここで、いわゆる人間的であるということを、たんに人間に対応したスケールの確保、ゆっくりした生活のテンポ、緑と太陽、静寂、歴史の保存といった形でのみとらえてはならない。真に人間的であるということは、どのくらいその時点において人間であることが尊重されているか、ということにほかならないからである」 
 
これは捉えようによってはかなり過激な一節ですが、現代社会がますます人間であることを尊重しない世界になってきていることは大方の人が同意するところではないでしょうか。 
 
たとえばつい先日、山手線が工事のために「このホームには当分のあいだ電車がきません」というアナウンスが流れているにも関わらず、そのままボーっとホームで何事もなかったかのように電車を待っている人がかなりいたことに驚いたことがありましたが、それが進化なのか退化というべきかはさておき、個人的にはあきらかに一種の機械のようになっている人が以前より増えている印象があります。 
 
それをより過激に表現すれば、ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、完全に受動的な、機械的な反応しか示さない「ロボット人間」とでも言えるかも知れません。そうしたロボット人間にとっては、「ゆっくりした生活のテンポ、緑と太陽、静寂、歴史の保存」などよりも、「いつも忙しく慌ただしいこと、コンクリートと蛍光灯、喧噪、流行に乗っていくことによる自己更新」の方が、よほど「人間的」なデザインと言えるはず。 
 
そして今期のみずがめ座もまた、自分にとって「人間的」であるとはどのようなデザインや建築を指すのか、そしてそこではどれくらい人間であることが尊重されているのか、改めて見直してみるといいでしょう。 
 
 
参考:槇文彦『記憶の形象―都市と建築との間で』(筑摩書房) 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「スナフキン」。

魚座のイラスト
あえて空気を読まない」ということで思い出される人物のひとりに、ムーミンシリーズに欠かせない登場人物であるスナフキンがいます。 
 
例えばシリーズ五作目の『ムーミン谷の夏まつり』という作品では、公園を管理する公園番が「~するべからず」という禁止看板をあちこちに立てているのを見て、スナフキンは怒りが爆発。そこで公園番をやっつけるために使ったのが、体に電気を帯びている不思議な生きものニョロニョロでした。公園にニョロニョロのたねをまいて、公園番を感電させ、お仕置きしたのです。 
 
原作ではこうしたある意味で無邪気なキャラクターが垣間見えるスナフキンなのですが、彼が他の登場人物たちと決定的に違うところは、自分ひとりになることを恐れていないところでしょう。ハーモニカで作曲をしているとき、メロディーが降りてくる瞬間をなによりも大切にしている。創作って独りにならないと、できないものですよね。人間関係がイヤなのではなく、霊感、インスピレーションを自然から受け取りたいから、あえて独りになる。スナフキンはそんな芸術家なんじゃないかな、と思います。 
 
ムーミン作品の登場人物は、作者であるトーベ・ヤンソンの周りの実在の人物が投影されていることが多いそうですが、スナフキンの場合、それはトーベが若い頃に結婚まで考えたアトス・ヴィルタネンという男性だったと言われています。哲学者、政治家、詩人でもあった彼は、スナフキンとよく似た緑のとんがり帽子をかぶっていたのだとか。 
 
ムーミンはスナフキンに憧れがあって、旅に出るスナフキンについて行きたいのですが、邪魔になっちゃうから、自分は帰ってくるのを待っている。そんなところに、当時の男女の関係が投影されていたのかもしれません。トーベと彼は長く付き合っていましたが、政治的なことや戦争など様々な事情で結婚には至らず、そのうちトーベに同性の恋人ができて、結局アトスとは破局しました。 
 
しかしそれでも、スナフキンは主人公ムーミンの親友として描かれ、自由と旅を愛しつつ、ムーミンたちと過ごす時間も大切にし、大好きな作曲を邪魔されてムッとしたかと思えば、ムーミン谷の住人たちと無邪気に、ときには過激に戯れもするのです。 
 
今期のうお座は、ひとつそんなスナフキンをロールモデルに自身の生活パターンを見つめ直してみるといいでしょう。 


参考:トーベ・ヤンソン、下村隆一訳『ムーミン谷の夏まつり』(講談社文庫)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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文/SUGAR イラスト/チヤキ