【最新12星座占い】<12/26~1/8>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモい
【SUGARさんの12星座占い】<12/26~1/8>の12星座全体の運勢は?
「持ち越して行くべきもの」
いよいよ激動の2021年も終わり、年が明けてすぐの1月3日にはやぎ座12度(数えで13度)で2022年初となる新月を迎えていきますが、そんな今回の新月のテーマは「超越への意志」。
ちょうどこの時期は七十二候で言うと「雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)」にあたり、この雪の下で芽を伸ばす麦のことを、別名「年越草(としこしぐさ)」と呼んだりするのですが、これは秋に発芽して冬を越し、次の年になって実を結ぶ植物(一年草に対して越年草とも言う)の代表が麦であるということに由来しています。
同様に、年が改まったからと言って、それまでのものが何もかも終わってしまう訳ではなく、むしろ次の年へと何が何でも持ち越していかなければならないものが必ずあるはず。それは大切な人との縁であれ、経験を通じて得られた学びであれ、まだ解決できないままくすぶっている問題であれ、事柄の種類は何であっても構いません。いずれによせ大切なのは、それが確かに在るからこそ自分が強くなれたり、エネルギーが一気に引き揚げられたり、また、人生が未来へと開けていきそうだと心から感じられるかどうかなのです。
もしそういうものが一つでも見つかったならば、改めて今回の新月の期間には、岩に忘れてはならない教えや掟を刻むがごとく、旧年から持ち越していくべきものとの合一や血肉化を試みてみるといいでしょう。
ちょうどこの時期は七十二候で言うと「雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)」にあたり、この雪の下で芽を伸ばす麦のことを、別名「年越草(としこしぐさ)」と呼んだりするのですが、これは秋に発芽して冬を越し、次の年になって実を結ぶ植物(一年草に対して越年草とも言う)の代表が麦であるということに由来しています。
同様に、年が改まったからと言って、それまでのものが何もかも終わってしまう訳ではなく、むしろ次の年へと何が何でも持ち越していかなければならないものが必ずあるはず。それは大切な人との縁であれ、経験を通じて得られた学びであれ、まだ解決できないままくすぶっている問題であれ、事柄の種類は何であっても構いません。いずれによせ大切なのは、それが確かに在るからこそ自分が強くなれたり、エネルギーが一気に引き揚げられたり、また、人生が未来へと開けていきそうだと心から感じられるかどうかなのです。
もしそういうものが一つでも見つかったならば、改めて今回の新月の期間には、岩に忘れてはならない教えや掟を刻むがごとく、旧年から持ち越していくべきものとの合一や血肉化を試みてみるといいでしょう。
《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)
今期のおひつじ座のキーワードは、「がんばらない努力」。
電車に乗ってなんとなく広告を見ていると、「脱毛してないとかありえないし、借金返済なんてすぐできる、死ぬな、病気になるな、生きろ、ハゲるな、ついでに英語もしゃべれるといいぞ」と、勢いのあるメッセージがたくさん脳内に流れこんできて、なんだか操り人形になって目に見えない糸であべこべに動かされているような気持ちになってきます。
そうしてがんばって、がんばって、そのぶん快楽にはまってお金を落として、しっかり立派でマジメな依存症になれば、企業にとっては自分を犠牲にして貢いでくれる存在ができあがって、さぞかしありがたいでしょう。
ともかく、欲望をたくさん持つことが資本主義社会におけるイケてる人であるというイメージが朝から晩までばらまかれ、それに人々がなんとなく適応しているうちに、どこかでがんばらない人は悪い人であるかのような風潮になってしまっている訳です。
こうしたガンバリズムの哲学的基礎について、哲学者の山内志朗は「努力の量的蓄積によって成功につながるという発想」があると指摘し、ガンバリズムを否定したい訳ではないと断りつつ、次のように述べています。
「がんばることが自己目的化して、強迫神経症的に猪突猛進することが倫理的な美徳であるかのように捉えられている。お神輿を担いで、ワッショイワッショイ、あれこそ「がんばる」ことの純粋形態である。/がんばった人が努力した人として褒められる。がんばることが美徳として褒めそやされている。がんばることを褒める倫理学、なにか大事なことが抜け落ちていないか」
「「分かっているんだ、でもがんばることをやめるなんて、恥ずかしくてできないんだよオジちゃんは」。そこに日本人としての恥じらいと美学を見つけるのも一つなのだが、マゾヒズム的に「オレはこれだけ苦しんでいるんだから、正しいんだ、きっと誰かが認めてくれる」と思いつつ、誰にも助けられないまま朝から焼酎を飲む生活は、日本人の美学にかなっているのかどうか」
今のおひつじ座の人たちであれば、もちろんその答えはNOに違いないはず。2022年のおひつじ座はそうした、「がんばらない努力」ということをテーマにしてみるといいでしょう。
参考:山内志朗『目的なき人生を生きる』(角川新書)
そうしてがんばって、がんばって、そのぶん快楽にはまってお金を落として、しっかり立派でマジメな依存症になれば、企業にとっては自分を犠牲にして貢いでくれる存在ができあがって、さぞかしありがたいでしょう。
ともかく、欲望をたくさん持つことが資本主義社会におけるイケてる人であるというイメージが朝から晩までばらまかれ、それに人々がなんとなく適応しているうちに、どこかでがんばらない人は悪い人であるかのような風潮になってしまっている訳です。
こうしたガンバリズムの哲学的基礎について、哲学者の山内志朗は「努力の量的蓄積によって成功につながるという発想」があると指摘し、ガンバリズムを否定したい訳ではないと断りつつ、次のように述べています。
「がんばることが自己目的化して、強迫神経症的に猪突猛進することが倫理的な美徳であるかのように捉えられている。お神輿を担いで、ワッショイワッショイ、あれこそ「がんばる」ことの純粋形態である。/がんばった人が努力した人として褒められる。がんばることが美徳として褒めそやされている。がんばることを褒める倫理学、なにか大事なことが抜け落ちていないか」
「「分かっているんだ、でもがんばることをやめるなんて、恥ずかしくてできないんだよオジちゃんは」。そこに日本人としての恥じらいと美学を見つけるのも一つなのだが、マゾヒズム的に「オレはこれだけ苦しんでいるんだから、正しいんだ、きっと誰かが認めてくれる」と思いつつ、誰にも助けられないまま朝から焼酎を飲む生活は、日本人の美学にかなっているのかどうか」
今のおひつじ座の人たちであれば、もちろんその答えはNOに違いないはず。2022年のおひつじ座はそうした、「がんばらない努力」ということをテーマにしてみるといいでしょう。
参考:山内志朗『目的なき人生を生きる』(角川新書)
《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)
今期のおうし座のキーワードは、「驚きと出逢い」。
2021年はオリンピックや衆院選などをはじめ、眞子さまのご結婚や、大谷選手の活躍、複数の無差別刺傷事件など、何かと驚かされることがたくさん起きすぎて、ちょっとやそっとのことではもう驚かなくなってしまった人も少なくないのではないでしょうか。
しかし、この現実世界が偶然的存在である以上、デカルトが「すべての情緒の中の第一のものである」と書いていたように、起きることが善いことであれ悪いことであれ、それをきちんと判断していくためには、どんなに目減りしても人は驚きの情ということと向き合っていかざるを得ない訳です。
例えば、哲学者の九鬼周造は「驚きの情と偶然性」のなかで、「驚きという情は、偶然的なものに対して起る情である。偶然的なものとは同一性から離れているものである。同一性の圏内に在るものに対しては、あたり前のものとして、驚きを感じない。同一性から離れているものに対して、それはあたり前ではないから驚くのである」と述べていますが、運命というものが「偶然の内面化」であるとすれば、もし驚く力が弱まっていけば私たちのなかで運命というものもまた雲散霧消してしまうのです。
九鬼はまた、こうした外に与えられた大きな偶然を意志活動の枠内に引っ張りこむことによって作り出される「運命」をめぐって、占星術/占いの観点に言及して「ギリシャではエンペドクレスの宇宙論にあって、偶然の概念が重要な役割を演じている。すべての事物は、地、水、火、風の四元素が偶然「出逢った」から出来るというのが根本思想である」とも述べています。
九鬼の言い方を借りれば、何を見聞きしても驚かなくなったという状態は、こうした現実を構成する基本的な要素同士の「出逢い」に鈍感になってしまったり、そもそもお決まりの組み合わせでしか物事を捉えられなくなってしまったことの証しに他ならない訳です。
その意味で、まだまだ人生に精神の冴えと覚醒をもたらす天王星の影響が続いていくおうし座にとって、昨年に引き続き2022年もまた、人生に新たな「出逢い」と驚きをもたらしていくことに貪欲になってみるといいでしょう。
参考:九鬼周造『偶然と驚きの哲学』(書肆心水)
しかし、この現実世界が偶然的存在である以上、デカルトが「すべての情緒の中の第一のものである」と書いていたように、起きることが善いことであれ悪いことであれ、それをきちんと判断していくためには、どんなに目減りしても人は驚きの情ということと向き合っていかざるを得ない訳です。
例えば、哲学者の九鬼周造は「驚きの情と偶然性」のなかで、「驚きという情は、偶然的なものに対して起る情である。偶然的なものとは同一性から離れているものである。同一性の圏内に在るものに対しては、あたり前のものとして、驚きを感じない。同一性から離れているものに対して、それはあたり前ではないから驚くのである」と述べていますが、運命というものが「偶然の内面化」であるとすれば、もし驚く力が弱まっていけば私たちのなかで運命というものもまた雲散霧消してしまうのです。
九鬼はまた、こうした外に与えられた大きな偶然を意志活動の枠内に引っ張りこむことによって作り出される「運命」をめぐって、占星術/占いの観点に言及して「ギリシャではエンペドクレスの宇宙論にあって、偶然の概念が重要な役割を演じている。すべての事物は、地、水、火、風の四元素が偶然「出逢った」から出来るというのが根本思想である」とも述べています。
九鬼の言い方を借りれば、何を見聞きしても驚かなくなったという状態は、こうした現実を構成する基本的な要素同士の「出逢い」に鈍感になってしまったり、そもそもお決まりの組み合わせでしか物事を捉えられなくなってしまったことの証しに他ならない訳です。
その意味で、まだまだ人生に精神の冴えと覚醒をもたらす天王星の影響が続いていくおうし座にとって、昨年に引き続き2022年もまた、人生に新たな「出逢い」と驚きをもたらしていくことに貪欲になってみるといいでしょう。
参考:九鬼周造『偶然と驚きの哲学』(書肆心水)
《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)
今期のふたご座のキーワードは、「二人称の性」。
2021年の東京オリンピック開催の経緯や衆院選の結果などを振り返ってみると、日本社会というのは、一見すると多神教的だけれど、しかし思考や行動においては一神教的なところへ傾いていく危険性を潜ませているし、それは決して過去のことではなく、現在進行形であるという思いを改めて抱かされました。
一神教を額面通りに考えたら、自分の神以外に正しいものはありえないし、他の宗教と共存するなんて考えられないということになるんですが、現実的には自分とぜんぜん違う神様を信じていたり、考え方も習慣も異質な人たちとも共存しなければいけない。ただ、そうした共存のための理論や枠組みというのがまだできていないために、ともすると白か黒か、科学か宗教か、正義か悪かの二者択一的な思考や行動に逆戻りしてしまう。
こういう思考法はまさに20世紀の残滓でもある訳ですが、臨床心理学者の河合隼雄とノンフィクション作家の柳田邦男の対談『心の深みへ「うつ社会」脱出のために』では、じつはそうした思考法が性の問題においては、「三人称の性」という形になってセックスレス・シンドロームとも結びついているのだと指摘されています。
「河合 現実にそういうカップルが増えている。なぜなら、技術として知ってしまうと、そんなにおもしろくないからです。関係として追求したらこれは答えが出ないんだけど、単なる経験や技術というのは、人間関係の怖さとか恐ろしさとかおもしろさと違う次元にある。そこでもういっぺんセックスというものを発見しなくちゃならないんですが、残念なことに非常に早くから違う知識をたたきこまれているから、それを破って発見するというのは難しいことなんですね。そういう意味でもいまの若者は気の毒ですよ。
柳田 そうですね。いちばん大事な関係性になると自分でつくっていくよりしようがないですからね。そういうものも含めてこれからは、もう一度、文学とか哲学とか、ようするに文科系的なものが再認識され、あるいは表舞台に出てこなきゃいけない。」
要するに、性的な行為そのものと男女の愛、あるいは深い人間関係というのは同じではないし、そう考えるとセックスレスという状態も必ずしも悪いことではなく、あるいは知識や技術としての「三人称の性」を超えつつも、その先にある、不可解きわまりない「二人称の性」というもののとっかかりをつかめないグレーゾーンにあるということなのかも知れません。
今期のふたご座もまた、そうした誰も答えが言えないほどわけの分からないものを、自身のうちに改めて抱え込んでいきたいところです。
参考:河合隼雄、柳田邦男『心の深みへ「うつ社会」脱出のために』(新潮文庫)
一神教を額面通りに考えたら、自分の神以外に正しいものはありえないし、他の宗教と共存するなんて考えられないということになるんですが、現実的には自分とぜんぜん違う神様を信じていたり、考え方も習慣も異質な人たちとも共存しなければいけない。ただ、そうした共存のための理論や枠組みというのがまだできていないために、ともすると白か黒か、科学か宗教か、正義か悪かの二者択一的な思考や行動に逆戻りしてしまう。
こういう思考法はまさに20世紀の残滓でもある訳ですが、臨床心理学者の河合隼雄とノンフィクション作家の柳田邦男の対談『心の深みへ「うつ社会」脱出のために』では、じつはそうした思考法が性の問題においては、「三人称の性」という形になってセックスレス・シンドロームとも結びついているのだと指摘されています。
「河合 現実にそういうカップルが増えている。なぜなら、技術として知ってしまうと、そんなにおもしろくないからです。関係として追求したらこれは答えが出ないんだけど、単なる経験や技術というのは、人間関係の怖さとか恐ろしさとかおもしろさと違う次元にある。そこでもういっぺんセックスというものを発見しなくちゃならないんですが、残念なことに非常に早くから違う知識をたたきこまれているから、それを破って発見するというのは難しいことなんですね。そういう意味でもいまの若者は気の毒ですよ。
柳田 そうですね。いちばん大事な関係性になると自分でつくっていくよりしようがないですからね。そういうものも含めてこれからは、もう一度、文学とか哲学とか、ようするに文科系的なものが再認識され、あるいは表舞台に出てこなきゃいけない。」
要するに、性的な行為そのものと男女の愛、あるいは深い人間関係というのは同じではないし、そう考えるとセックスレスという状態も必ずしも悪いことではなく、あるいは知識や技術としての「三人称の性」を超えつつも、その先にある、不可解きわまりない「二人称の性」というもののとっかかりをつかめないグレーゾーンにあるということなのかも知れません。
今期のふたご座もまた、そうした誰も答えが言えないほどわけの分からないものを、自身のうちに改めて抱え込んでいきたいところです。
参考:河合隼雄、柳田邦男『心の深みへ「うつ社会」脱出のために』(新潮文庫)
《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)
今期のかに座のキーワードは、「ひっくり返しの発想」。
青空の中に浮かぶ月というのは、淡くてきわどくて、どこかさわると壊れてしまう立体的な夢がそこに現われたようなところがあって、思わず「月に触れてみたい」という感じがしてくる。
そういう内と外を越えるというか、境界線が溶けちゃうというか、それでなんだか自分や現実というものがわからなくなるところにフッと吸い込まれるような「感じ」というのは、原稿を書くにせよ、作品をつくるにせよ、誰かと一緒に何かを始めるにせよ、じつはすごく大事になってきますし、逆にそういう「感じ」がないと、ただいたずらに言葉を書き連ねているだけだったり、いくらやっても作品としてまとまらなかったり、関係性を通していまいち人生が開けていかない、といったことになりがちなわけです。
そのあたりの感覚について、編集工学研究所の松岡正剛と物理学者の佐治晴夫が、非常にうまいことを言っているので、下記にふたりのやりとりの一部を引用しておきます。
「佐治 誰しもいつもは、やっぱり「自分」と「自分以外」のものを分けていますよね。だからそれがうまい具合に行き来できて、自分が向こうに行って、向こうのものが自分に入るということができるとすごく楽になるんでしょうね。荘子は有名な蝶々のことを言っていますよね。私は夢の中で蝶々が舞っているのを見た、と。
松岡 蝶々が夢を見ているのか、夢が蝶々を見ているのか、どっちかわからない。
佐治 そう。それで目が覚めたら、ああ、あれは夢だったと気付く。しかし、そこで終わらないで、じゃあここにいる私というのは、あの蝶々が見ている夢かも知れない。
松岡 「胡蝶の夢」。
佐治 このひっくり返しがいいですよね。実はね、数学を解くときにほんとうはそれがあるんですよ。何か易しい幾何で問題をご一緒に解いてみるといいと思うんですけれど、その発想があるとじつに明快に解けるわけです。幾何学でも補助線をどういうふうに引くかということですが、補助線を引くのではなくて、その補助線を引かれた反対側から見ると解けるんですね。
松岡 それは、「編集」という場でもたくさんおこるんです。それがフッとわかる瞬間に何とかうまく出会っていくと、パッと開くんですね。」
これは、自分の側からばかり見るのではなく、自分の外から自分を見ていると、まったく自分の想像をこえた発見が出てきたりする、というようなことでもあります。今期のかに座もまた、そうしたひっくり返しの発想を改めて大切にしてみるといいでしょう。
参考:松岡正剛、佐治晴夫『二十世紀の忘れもの』(雲母書房)
そういう内と外を越えるというか、境界線が溶けちゃうというか、それでなんだか自分や現実というものがわからなくなるところにフッと吸い込まれるような「感じ」というのは、原稿を書くにせよ、作品をつくるにせよ、誰かと一緒に何かを始めるにせよ、じつはすごく大事になってきますし、逆にそういう「感じ」がないと、ただいたずらに言葉を書き連ねているだけだったり、いくらやっても作品としてまとまらなかったり、関係性を通していまいち人生が開けていかない、といったことになりがちなわけです。
そのあたりの感覚について、編集工学研究所の松岡正剛と物理学者の佐治晴夫が、非常にうまいことを言っているので、下記にふたりのやりとりの一部を引用しておきます。
「佐治 誰しもいつもは、やっぱり「自分」と「自分以外」のものを分けていますよね。だからそれがうまい具合に行き来できて、自分が向こうに行って、向こうのものが自分に入るということができるとすごく楽になるんでしょうね。荘子は有名な蝶々のことを言っていますよね。私は夢の中で蝶々が舞っているのを見た、と。
松岡 蝶々が夢を見ているのか、夢が蝶々を見ているのか、どっちかわからない。
佐治 そう。それで目が覚めたら、ああ、あれは夢だったと気付く。しかし、そこで終わらないで、じゃあここにいる私というのは、あの蝶々が見ている夢かも知れない。
松岡 「胡蝶の夢」。
佐治 このひっくり返しがいいですよね。実はね、数学を解くときにほんとうはそれがあるんですよ。何か易しい幾何で問題をご一緒に解いてみるといいと思うんですけれど、その発想があるとじつに明快に解けるわけです。幾何学でも補助線をどういうふうに引くかということですが、補助線を引くのではなくて、その補助線を引かれた反対側から見ると解けるんですね。
松岡 それは、「編集」という場でもたくさんおこるんです。それがフッとわかる瞬間に何とかうまく出会っていくと、パッと開くんですね。」
これは、自分の側からばかり見るのではなく、自分の外から自分を見ていると、まったく自分の想像をこえた発見が出てきたりする、というようなことでもあります。今期のかに座もまた、そうしたひっくり返しの発想を改めて大切にしてみるといいでしょう。
参考:松岡正剛、佐治晴夫『二十世紀の忘れもの』(雲母書房)
《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)
今期のしし座のキーワードは、「普通を志す」。
中学生のころ、『普通を誰も教えてくれない』という本を図書館で借りて読んだことがあったが、その時は結局生きていく上で本当に拠り所となる「普通」というのがどういうことなのか、よくわからなかった。
しかし、その後いくらか生きてみて、少なくとも社会によっていったん色づけされ、ラベルを貼られた存在が「普通になる」ということがとても難しいこと、そしてラベルを引き剥がし、捨てたりして「無徴」になることもまた、みずからの出自や生きてきた軌跡を隠し、否定しながら生きなければならないという意味でとても辛いことなのだということがわかるようになってきた。
では、その先は? ということがなんとなくあやふやになっていたところを、丁寧に継いでくれたように感じたのが、社会学者・岸政彦の『断片的なものの社会学』の「普通であることへの意志」に取り上げられたある高齢の異性装者のブロガーの話だった。
そのブログは個人がひっそりとやっているもので、天気の話やその時々の時事問題や身近な社会問題への感想や苦言が時に昔の思い出話を交えて淡々した筆致で書かれているのですが、ただ、どの記事にも最後にさまざまに背景や衣装を変えて写るブログ作成者本人の写真が、何の説明もなく、ただ静かにそこに並んでおり、それが「全体として、このブログを、なにか独特のものにしている」のだという。
岸は、いったんラベルということについて、普通はそうした「差別を乗り越える、ということは、ラベルについて「知らないふりをする」ということではなく、「ラベルとともに生きる」ということなのだ」と指摘しつつ、異性装者のブロガーについて次のように述べている。
「彼女は誰とも、何とも闘ってはいない。そうした闘いを飛び越えて、最初からそういうしんどい闘いが存在していなかった世界を、自分だけの小さな箱庭で実現しているのである。/誰も、誰からも指を指されない、穏やかで平和な世界。自分が誰であるかを完全に忘却したまま、自由に表現できる世界。それは、私たちの社会が見る夢である。」
今期のしし座もまた、自分がただなんとなく多数派的な意味での普通に甘んじているのか、それとも、異性装者のブロガーのように普通であることに意志をもって臨んでいるのか、あるいは、どのような「普通」を夢見ているのか、改めて考えてみるといいでしょう。
参考:岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)
しかし、その後いくらか生きてみて、少なくとも社会によっていったん色づけされ、ラベルを貼られた存在が「普通になる」ということがとても難しいこと、そしてラベルを引き剥がし、捨てたりして「無徴」になることもまた、みずからの出自や生きてきた軌跡を隠し、否定しながら生きなければならないという意味でとても辛いことなのだということがわかるようになってきた。
では、その先は? ということがなんとなくあやふやになっていたところを、丁寧に継いでくれたように感じたのが、社会学者・岸政彦の『断片的なものの社会学』の「普通であることへの意志」に取り上げられたある高齢の異性装者のブロガーの話だった。
そのブログは個人がひっそりとやっているもので、天気の話やその時々の時事問題や身近な社会問題への感想や苦言が時に昔の思い出話を交えて淡々した筆致で書かれているのですが、ただ、どの記事にも最後にさまざまに背景や衣装を変えて写るブログ作成者本人の写真が、何の説明もなく、ただ静かにそこに並んでおり、それが「全体として、このブログを、なにか独特のものにしている」のだという。
岸は、いったんラベルということについて、普通はそうした「差別を乗り越える、ということは、ラベルについて「知らないふりをする」ということではなく、「ラベルとともに生きる」ということなのだ」と指摘しつつ、異性装者のブロガーについて次のように述べている。
「彼女は誰とも、何とも闘ってはいない。そうした闘いを飛び越えて、最初からそういうしんどい闘いが存在していなかった世界を、自分だけの小さな箱庭で実現しているのである。/誰も、誰からも指を指されない、穏やかで平和な世界。自分が誰であるかを完全に忘却したまま、自由に表現できる世界。それは、私たちの社会が見る夢である。」
今期のしし座もまた、自分がただなんとなく多数派的な意味での普通に甘んじているのか、それとも、異性装者のブロガーのように普通であることに意志をもって臨んでいるのか、あるいは、どのような「普通」を夢見ているのか、改めて考えてみるといいでしょう。
参考:岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)
《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)
今期のおとめ座のキーワードは、「自分の意識を消すこと」。
2021年は前年から続くコロナ禍に加え、オリンピックに衆院選に、眞子さまの結婚問題など、とにかくみなが過剰に力んでいて、それはそれで楽しいんだけど、でもやっぱりどこかで疲れてしまった人も多かったのではないでしょうか。
世界にはいろいろなレイヤーがありますが、心身が力んでくると、どうしてもそれを単一のレイヤーで捉えてしまったり、別のレイヤーがあるということ自体を忘れてしまったりしてしまいます。
そういうときは少し、アップテンポになりすぎた精神をチューニングしてスローダウンしてくれるような何かが必要になってくる訳ですが、それには呼吸とかピントを意図的に狂わせる何か、例えば池澤夏樹の『スティル・ライフ』のような小説を読むというのも非常に効果的なように思います。
この小説は染色工場でバイトしている主人公が、佐々井という男に出会って、奇妙な仕事を頼まれ、それが終わると佐々井が去っていくという短い物語なのですが、この佐々井がなかなかに不思議な男で、不意に宇宙の話なんかをしたりするのです。
「ぼくたちはそれから川の写真を見た。それは前のと違って、川を降る小舟の舳先から下流に向けられたカメラによって連続的に撮られた一連の写真で、狭い急な渓流が次第に広く緩やかになり、堤防に囲まれ、橋の下をくぐり、一段と濃い青に輝く海が正面に真一文字に見える河口まで延々と続いていた。映画以上の動きがあり、それがなかなかの快感だった。川が終わると、佐々井はまた山に戻った。次第にこういう写真の見方が身についてきて、最初に見た時よりずっと自分の意識を消すことがうまくなった。ぼくの全体が風景を見てとる目に還元された。
部屋のどこかが開いているのか、わずかな風が入ってきて、壁に貼ったシーツを揺らした。映った光景がふわっと動き、それはまるで宇宙全体の背景が一瞬揺れたような印象を与えた。見ていたぼくの脳髄が揺れたのかもしれない。雲となって空中を浮揚し、風のままにゆっくりと流されているような解放感だった。」
今期のおとめ座もまた、現代社会の“速さ”に対する意図的な“遅さ”や“抜きどころ”をつくることのもたらす効果を、改めて引き継いでみるといいでしょう。
参考:池澤夏樹『スティル・ライフ』(中公文庫)
世界にはいろいろなレイヤーがありますが、心身が力んでくると、どうしてもそれを単一のレイヤーで捉えてしまったり、別のレイヤーがあるということ自体を忘れてしまったりしてしまいます。
そういうときは少し、アップテンポになりすぎた精神をチューニングしてスローダウンしてくれるような何かが必要になってくる訳ですが、それには呼吸とかピントを意図的に狂わせる何か、例えば池澤夏樹の『スティル・ライフ』のような小説を読むというのも非常に効果的なように思います。
この小説は染色工場でバイトしている主人公が、佐々井という男に出会って、奇妙な仕事を頼まれ、それが終わると佐々井が去っていくという短い物語なのですが、この佐々井がなかなかに不思議な男で、不意に宇宙の話なんかをしたりするのです。
「ぼくたちはそれから川の写真を見た。それは前のと違って、川を降る小舟の舳先から下流に向けられたカメラによって連続的に撮られた一連の写真で、狭い急な渓流が次第に広く緩やかになり、堤防に囲まれ、橋の下をくぐり、一段と濃い青に輝く海が正面に真一文字に見える河口まで延々と続いていた。映画以上の動きがあり、それがなかなかの快感だった。川が終わると、佐々井はまた山に戻った。次第にこういう写真の見方が身についてきて、最初に見た時よりずっと自分の意識を消すことがうまくなった。ぼくの全体が風景を見てとる目に還元された。
部屋のどこかが開いているのか、わずかな風が入ってきて、壁に貼ったシーツを揺らした。映った光景がふわっと動き、それはまるで宇宙全体の背景が一瞬揺れたような印象を与えた。見ていたぼくの脳髄が揺れたのかもしれない。雲となって空中を浮揚し、風のままにゆっくりと流されているような解放感だった。」
今期のおとめ座もまた、現代社会の“速さ”に対する意図的な“遅さ”や“抜きどころ”をつくることのもたらす効果を、改めて引き継いでみるといいでしょう。
参考:池澤夏樹『スティル・ライフ』(中公文庫)
《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)
今期のてんびん座のキーワードは、「共生を通じた哲学」。
何かを学ぶにせよ、成果を出すにしろ、ひとりの力では限界があるけれど、みんなの力を借り、共同で行っていけば驚くような学びが得られたり、成果を出すことができる。それがてんびん座にとって2021年から2022年へと引き継ぐべき思いであったのではないかと思います。
同様に、思想は書物だけで受け継がれるわけではなく、そこには必ず生きた会話や交流が必要となってきますが、例えば古代ギリシャでは数々の「学派」や「学校」が誕生したことで、集団で思想や活動を共有し、共同研究で成果や資料を蓄積して次世代に引き継ぐ文化的な役割を果たしていきました。
なかでも、プラトンが開いた学園アカデメイアは、与えた影響と存続した期間の長さで群を抜いた存在でしたが、彼は師であるソクラテスの刑死から、日常生活の空間で自由に議論することの危険をよく認識し、あえて空間を限ることで、学問の自由と発展を可能にする場を作り出したのでしょう。
古代ギリシャ哲学に関する国内の権威である納富信留は、『世界哲学史2』の第一章「哲学の世界化と制度・伝統」の中で、前4世紀に開かれたアカデメイアが実際にどのような内実をもっていたのかをめぐって、推定であると断りつつ、次のように描写しています。
「アカデメイアでは授業料を取らなかった。入門は身分や性別を問わず、女性の成員もいた。特定の教育プログラムはなく、レヴェルに応じた議論や研究がなされた。プラトン自身はほとんど講義しなかった。共同食事など共生を通じた哲学が目指された。現代で言えば、学校というより研究所に近い組織かもしれない。(中略)比較的自由で自律的な仕組みによって代々の学頭によって運営されていたのであろう。途中で衰退や断絶の時期があったかもしれないが、学園は後五二九年に東ローマ工程ユシティニアヌス一世(483~565)が異教徒の学校閉鎖令を出すまで九〇〇年あまり存続し、多くの哲学者たちの修練の場となると共に、西洋哲学のシンボルとして後世に語り継がれることになる。」
今期のあなたもまた、自身の学びや研鑽において、いかに「共生」ということが可能か、ということを改めて新しい年の抱負と結びつけつつ、考えてみるといいでしょう。
参考:納富信留ほか『世界哲学史2 古代Ⅱ 世界哲学の成立と展開』(ちくま新書)
同様に、思想は書物だけで受け継がれるわけではなく、そこには必ず生きた会話や交流が必要となってきますが、例えば古代ギリシャでは数々の「学派」や「学校」が誕生したことで、集団で思想や活動を共有し、共同研究で成果や資料を蓄積して次世代に引き継ぐ文化的な役割を果たしていきました。
なかでも、プラトンが開いた学園アカデメイアは、与えた影響と存続した期間の長さで群を抜いた存在でしたが、彼は師であるソクラテスの刑死から、日常生活の空間で自由に議論することの危険をよく認識し、あえて空間を限ることで、学問の自由と発展を可能にする場を作り出したのでしょう。
古代ギリシャ哲学に関する国内の権威である納富信留は、『世界哲学史2』の第一章「哲学の世界化と制度・伝統」の中で、前4世紀に開かれたアカデメイアが実際にどのような内実をもっていたのかをめぐって、推定であると断りつつ、次のように描写しています。
「アカデメイアでは授業料を取らなかった。入門は身分や性別を問わず、女性の成員もいた。特定の教育プログラムはなく、レヴェルに応じた議論や研究がなされた。プラトン自身はほとんど講義しなかった。共同食事など共生を通じた哲学が目指された。現代で言えば、学校というより研究所に近い組織かもしれない。(中略)比較的自由で自律的な仕組みによって代々の学頭によって運営されていたのであろう。途中で衰退や断絶の時期があったかもしれないが、学園は後五二九年に東ローマ工程ユシティニアヌス一世(483~565)が異教徒の学校閉鎖令を出すまで九〇〇年あまり存続し、多くの哲学者たちの修練の場となると共に、西洋哲学のシンボルとして後世に語り継がれることになる。」
今期のあなたもまた、自身の学びや研鑽において、いかに「共生」ということが可能か、ということを改めて新しい年の抱負と結びつけつつ、考えてみるといいでしょう。
参考:納富信留ほか『世界哲学史2 古代Ⅱ 世界哲学の成立と展開』(ちくま新書)
《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)
今期のさそり座のキーワードは、「学校の勉強とは違う勉強」。
ソーシャルディスタンスが叫ばれ、濃厚接触が絶対悪かのように糾弾され続けた期間が突如終わったのは、今年の秋頃だったでしょうか。唐突に、飲食店が遅くまで営業するようになり、外出や外食が可能な日常に戻って、かえって戸惑ってしまう人が増えたことが印象的でした。それはとりもなおさず、あれはダメだ、これはよくないと、人から×をつけられることで安心しようとする他者とうまく向き合えなかったからに他ならなかったのではないでしょうか。
「あんたは、すごく自由に見えるわ。そこが、私は好きだったの。他の子たちみたいに、あれこれと枠を作ったりしないから。でもね、自由をよしとしてるのなんて、本当に自由ではないからよ。」
たとえば、山田詠美の『ぼくは勉強ができない』の主人公・秀美くんは、そんな彼女の言葉を受け止め、高校生ながらこう考えます。
「もしかしたら、ぼくこそ、自然でいるという演技をしていたのではなかったか。変形の媚を身にまとっていたのは、まさに、ぼくではなかったか。ぼくは、媚や作為が嫌いだ。そのことは事実だ。しかし、それを遠ざけようとするあまりに、それをおびき寄せていたのではないだろうか。人に対する媚ではなく、自分自身に対する媚を。」
ここで行われているのは学校の勉強とは違う「勉強」ですが、すっかり大人になったはずの私たちのなかで、彼ほどまっすぐに他人の言葉を受け止め、そこから何かを学ぶことができている人がどれだけいるでしょうか。
他にも、学校の廊下にコンドームをうっかり落としてしまい、生活指導の先生に激怒されてしまった場面では、彼はこう自問自答してみせます。
「生活指導のために落ち込んでいる訳にはいかないのだ。ぼくは、ぼくなりの価値判断の基準を作って行かなくてはならない。忙しいのだ。何と言っても、その基準に、世間一般の定義を持ち込むようなちゃちなことを、ぼくは、決してしたくはないのだから。ぼくは、自分の心にこう言う。すべてに、丸をつけよ。とりあえずは、そこから始めるのだ。そこからやがて生まれて行く沢山のばつを、ぼくは、ゆっくり選び取って行くのだ。」
今期のさそり座もまた、こうした意味での「勉強」を今改めてし直そうとしているのだと思って過ごしてみるといいでしょう。
参考:山田詠美『ぼくは勉強ができない』(新潮文庫)
「あんたは、すごく自由に見えるわ。そこが、私は好きだったの。他の子たちみたいに、あれこれと枠を作ったりしないから。でもね、自由をよしとしてるのなんて、本当に自由ではないからよ。」
たとえば、山田詠美の『ぼくは勉強ができない』の主人公・秀美くんは、そんな彼女の言葉を受け止め、高校生ながらこう考えます。
「もしかしたら、ぼくこそ、自然でいるという演技をしていたのではなかったか。変形の媚を身にまとっていたのは、まさに、ぼくではなかったか。ぼくは、媚や作為が嫌いだ。そのことは事実だ。しかし、それを遠ざけようとするあまりに、それをおびき寄せていたのではないだろうか。人に対する媚ではなく、自分自身に対する媚を。」
ここで行われているのは学校の勉強とは違う「勉強」ですが、すっかり大人になったはずの私たちのなかで、彼ほどまっすぐに他人の言葉を受け止め、そこから何かを学ぶことができている人がどれだけいるでしょうか。
他にも、学校の廊下にコンドームをうっかり落としてしまい、生活指導の先生に激怒されてしまった場面では、彼はこう自問自答してみせます。
「生活指導のために落ち込んでいる訳にはいかないのだ。ぼくは、ぼくなりの価値判断の基準を作って行かなくてはならない。忙しいのだ。何と言っても、その基準に、世間一般の定義を持ち込むようなちゃちなことを、ぼくは、決してしたくはないのだから。ぼくは、自分の心にこう言う。すべてに、丸をつけよ。とりあえずは、そこから始めるのだ。そこからやがて生まれて行く沢山のばつを、ぼくは、ゆっくり選び取って行くのだ。」
今期のさそり座もまた、こうした意味での「勉強」を今改めてし直そうとしているのだと思って過ごしてみるといいでしょう。
参考:山田詠美『ぼくは勉強ができない』(新潮文庫)
《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)
今期のいて座のキーワードは、「丹田こそが自己の根本」。
社会が徐々にアフターコロナに向かい始め、異常事態の興奮から平常時の建設的議論へと移行していった2021年は、いて座の人たちにとっても、人生の難問を突きつけられ、あるいは、みずからもそれに果敢に取り組んでいった一年だったのではないでしょうか。
しかし、難問や難題というのは思っている以上に心身に大きな負荷をかけるものであり、だからこそそういう難題や難問と取り組むことが当たり前の世界である学問や宗教の世界では、伝統的に心身をケアするための教えもまた連綿と受け継がれてきました。
例えば、近世禅の復興者として知られる白隠(はくいん)は、中世に中国から入ってきた公案(古人の言動を問題として与え、それを体得することで同じ悟りに達する)を中心とする禅を体系づけ、道筋を明確化するとともに、禅の世界を分かりやすい言葉で表し、身近なものにした人物ですが、その著作の中でも最も読み継がれてきたのが『夜船閑話』です。
そしてここで説かれていたのが、白隠が若いころに座禅に行き詰まり、身体に変調をきたした際、京都白川の洞窟に住む白幽という仙人から教わった内観の法についてなのですが、それは道教と仏教を織り交ぜた養生法であり、健康術でした。
「もしこの秘要を修行しようというのであれば、しばらく参禅をやめ公案から離れ、まず熟睡して目覚めなさい。まだ眠りに入らず、瞼を合わせない前に、長く両脚を伸ばし、強く踏みそろえ、体中の気をへそ下の下腹部、腰・足、土踏まずに集め、その時に応じて、この丹田こそが自己の根本であると心を集中しなさい。」
とにかく精神的な事柄に意識が飛んでいきがちないて座にとっても、今期は改めて現世的な身体へのまなざしをきちんと深めていくことをテーマにしつつ、新年に臨んでいきたいところです。
参考:芳澤勝弘訳注『白隠禅師法語全集 第四冊 夜船閑話』(禅文化研究所)
しかし、難問や難題というのは思っている以上に心身に大きな負荷をかけるものであり、だからこそそういう難題や難問と取り組むことが当たり前の世界である学問や宗教の世界では、伝統的に心身をケアするための教えもまた連綿と受け継がれてきました。
例えば、近世禅の復興者として知られる白隠(はくいん)は、中世に中国から入ってきた公案(古人の言動を問題として与え、それを体得することで同じ悟りに達する)を中心とする禅を体系づけ、道筋を明確化するとともに、禅の世界を分かりやすい言葉で表し、身近なものにした人物ですが、その著作の中でも最も読み継がれてきたのが『夜船閑話』です。
そしてここで説かれていたのが、白隠が若いころに座禅に行き詰まり、身体に変調をきたした際、京都白川の洞窟に住む白幽という仙人から教わった内観の法についてなのですが、それは道教と仏教を織り交ぜた養生法であり、健康術でした。
「もしこの秘要を修行しようというのであれば、しばらく参禅をやめ公案から離れ、まず熟睡して目覚めなさい。まだ眠りに入らず、瞼を合わせない前に、長く両脚を伸ばし、強く踏みそろえ、体中の気をへそ下の下腹部、腰・足、土踏まずに集め、その時に応じて、この丹田こそが自己の根本であると心を集中しなさい。」
とにかく精神的な事柄に意識が飛んでいきがちないて座にとっても、今期は改めて現世的な身体へのまなざしをきちんと深めていくことをテーマにしつつ、新年に臨んでいきたいところです。
参考:芳澤勝弘訳注『白隠禅師法語全集 第四冊 夜船閑話』(禅文化研究所)
《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)
今期のやぎ座のキーワードは、「切に望む」。
この2年間にわたるコロナ禍は、それはみずからの日頃の習慣によって感染もすれば防ぐこともできるという意味で、3.11以上に死というものを改めて身近に感じさせる大きな契機となりましたが、そうした経験はしばしば人を切実にしてくれます。
ただそうなると、いろんなノウハウを覚えて、それを自分に適用・応用させて、なんとなくうまくいけばそれでいいといった「アプリな人生」では済まなくなってきて、今度は「切に望む」だけの何かがあるかどうかということが問われてくる訳です。
たとえば、三島由紀夫の唯一のSF小説である『美しい星』には、ふと「空飛ぶ円盤」を見たことから、自分たちだけが宇宙人であることに気付いた一家が出てきて、彼らはそれぞれに核兵器の恐怖による世界滅亡の危機を本気で救おうとしていきます。
そして、その過程で人間やこの世界への憎悪や賛歌が噴出していく訳ですが、それもこれも彼らが「自分たち/自分は宇宙人である」と強く思い込んだゆえのことであり、考えてみればそれは何かを美しいと思ったり、夢見たり、大切にしたりとすることと同じくらい気持ち悪く、同時に、切実であるということだったのだと思います。
「だが、もし人類が滅んだら、私は少なくともその五つの美点をうまく纏めて、一つの墓碑銘を書かずにはいられないだろう。この墓碑銘には、人類の今までやったことが必要かつ十分に要約されており、人類の歴史はそれ以上でもそれ以下でもなかったのだ。その碑文の草案は次のようなものだ。
地球なる一惑星に住める/人間なる一種族ここに眠る。
彼らは嘘をつきっぱなしについた。/彼らは吉凶につけて花を飾った。
彼らはよく小鳥を飼った。/彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
そして彼らはよく笑った。
ねがわくはとこしえなる眠りの安らかならんことを」
1月3日に自分自身の星座であるやぎ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、そんな一家のごとく、周囲の人がどんなにドン引きしようと、自分なりの真実を切実に追究していきたいところです。
参考:三島由紀夫『美しい星』(新潮文庫)
ただそうなると、いろんなノウハウを覚えて、それを自分に適用・応用させて、なんとなくうまくいけばそれでいいといった「アプリな人生」では済まなくなってきて、今度は「切に望む」だけの何かがあるかどうかということが問われてくる訳です。
たとえば、三島由紀夫の唯一のSF小説である『美しい星』には、ふと「空飛ぶ円盤」を見たことから、自分たちだけが宇宙人であることに気付いた一家が出てきて、彼らはそれぞれに核兵器の恐怖による世界滅亡の危機を本気で救おうとしていきます。
そして、その過程で人間やこの世界への憎悪や賛歌が噴出していく訳ですが、それもこれも彼らが「自分たち/自分は宇宙人である」と強く思い込んだゆえのことであり、考えてみればそれは何かを美しいと思ったり、夢見たり、大切にしたりとすることと同じくらい気持ち悪く、同時に、切実であるということだったのだと思います。
「だが、もし人類が滅んだら、私は少なくともその五つの美点をうまく纏めて、一つの墓碑銘を書かずにはいられないだろう。この墓碑銘には、人類の今までやったことが必要かつ十分に要約されており、人類の歴史はそれ以上でもそれ以下でもなかったのだ。その碑文の草案は次のようなものだ。
地球なる一惑星に住める/人間なる一種族ここに眠る。
彼らは嘘をつきっぱなしについた。/彼らは吉凶につけて花を飾った。
彼らはよく小鳥を飼った。/彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
そして彼らはよく笑った。
ねがわくはとこしえなる眠りの安らかならんことを」
1月3日に自分自身の星座であるやぎ座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、そんな一家のごとく、周囲の人がどんなにドン引きしようと、自分なりの真実を切実に追究していきたいところです。
参考:三島由紀夫『美しい星』(新潮文庫)
《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)
今期のみずがめ座のキーワードは、「さようなら」。
2020年の年末から1年間にわたって、世の中の潮流を司る木星と土星という二つの惑星がみずがめ座に滞在していた特別期間が2021年の年末で終わり、みずがめ座の人たちにとっては今回のやぎ座新月が次なる新たなステップに踏み出していくにあたって、これまでの総決算のタイミングとなっていきそうです。
そして、こうしたタイミングにぴったりなのが、日本語の「さようなら」という言葉なのです。哲学者の竹内整一の『やまとことばで哲学する』によれば、一般に世界の分かれ言葉は①「グッドバイ」のように神の加護を願うもの、②「再見(サイチェン)」のようなまた会うことを願うもの、③「アンニョンヒ、ケセヨ」のような「お元気で」と願うものの3タイプに分かれるそうなのですが、「さようなら」や「さらば」はそのどれにもあてはまらないのです。
竹内によれば、そこには「別れに際して、「さようであるならば」と、いったん立ち止まり、何事かを確認することによって、次のことに進んで行こうとする(逆に、そうした確認がないと次に進んでいきにくい)という、日本人に独特な発想がある」わけですが、それは自分が為してきたあれやこれやを、バラバラなまま放置してしまうのではなく、ひと繋ぎにまとめて「物語」にしていくということに他ならないのではないでしょうか。
「つまり、「さようなら」には、これまでの過去をふまえて現在を「さようであるならば」、あるいは「そうならねばならないならば」と、どれほどかは確認する意味が込められている。/如意の「みずから」と不如意の「おのずから」とは、両方からせめぎ合いながら、その「あわい」で人生のさまざまな出来事が起きている。「さようであるならば」の確認とは、そのふたつながらの(むろんあいさつとして、いつも意識的ではありえないが、含意としての)確認・総括なのである。/先につながる事柄の何たるかは問わないままに、ともあれ「こちら」を生き切ることによって、「向こう」の何かしらとつながっていく、といった発想を日本人が持っていたということである。」
世の中には出会いや別れも含めて、自分の力だけではどうにもならないことがありますが、「さようなら」にはそれをそれとして静かに引き受け、物語に昇華していくことで、その「向こう」の何かしらと繋がっていくある種の儀式的なパワーがあったのだと思います。
今期のみずがめ座もまた、そんな儀式に臨んでいくつもりで過ごしてみるといいでしょう。
参考:竹内整一『やまとことばで哲学する』(春秋社)
そして、こうしたタイミングにぴったりなのが、日本語の「さようなら」という言葉なのです。哲学者の竹内整一の『やまとことばで哲学する』によれば、一般に世界の分かれ言葉は①「グッドバイ」のように神の加護を願うもの、②「再見(サイチェン)」のようなまた会うことを願うもの、③「アンニョンヒ、ケセヨ」のような「お元気で」と願うものの3タイプに分かれるそうなのですが、「さようなら」や「さらば」はそのどれにもあてはまらないのです。
竹内によれば、そこには「別れに際して、「さようであるならば」と、いったん立ち止まり、何事かを確認することによって、次のことに進んで行こうとする(逆に、そうした確認がないと次に進んでいきにくい)という、日本人に独特な発想がある」わけですが、それは自分が為してきたあれやこれやを、バラバラなまま放置してしまうのではなく、ひと繋ぎにまとめて「物語」にしていくということに他ならないのではないでしょうか。
「つまり、「さようなら」には、これまでの過去をふまえて現在を「さようであるならば」、あるいは「そうならねばならないならば」と、どれほどかは確認する意味が込められている。/如意の「みずから」と不如意の「おのずから」とは、両方からせめぎ合いながら、その「あわい」で人生のさまざまな出来事が起きている。「さようであるならば」の確認とは、そのふたつながらの(むろんあいさつとして、いつも意識的ではありえないが、含意としての)確認・総括なのである。/先につながる事柄の何たるかは問わないままに、ともあれ「こちら」を生き切ることによって、「向こう」の何かしらとつながっていく、といった発想を日本人が持っていたということである。」
世の中には出会いや別れも含めて、自分の力だけではどうにもならないことがありますが、「さようなら」にはそれをそれとして静かに引き受け、物語に昇華していくことで、その「向こう」の何かしらと繋がっていくある種の儀式的なパワーがあったのだと思います。
今期のみずがめ座もまた、そんな儀式に臨んでいくつもりで過ごしてみるといいでしょう。
参考:竹内整一『やまとことばで哲学する』(春秋社)
《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)
今期のうお座のキーワードは、「「周縁」を担う」。
2021年はオリンピックやさまざまな政治情勢を通じて、国家をも飲みこんだ新自由主義経済が、決して人間に幸せを約束してくれるものではないということが、改めて浮き彫りになった1年だったとも言えますが、その上で、2022年のうお座の人たちは、“からめ手”から世の中に変動をもたらしていく急先鋒となっていくのではないでしょうか。
からめ手とは、人々の注意があまり向かない裏門や裏手のことを指しますが、そのことを文化人類学の立場から説いたのが山口昌男でした。山口は、社会構造を日常的な「中心」と非日常的な「周縁」とに分け、両者の葛藤から文化の力強さは生まれるという「中心と周縁」論を説き、負けは勝ちの、よそ者は共同体の、異常は正常の、闇は光の本質を反映的に深くあらわしており、その物語の深部を示しているのだと主張したのです。
例えば、明治元年にあたる1868年に始まった薩長を中核とした新政府軍と旧幕府軍と東北諸藩の連合軍が戦った日本最大の内戦である戊辰戦争で破れた諸藩側の出身の人物は、藩閥や軍閥などの階層秩序からことごとく排除されたことはよく知られていますが、山口の『「敗者」の精神史』の「敗者の生き方」という章では、さまざまな人物を取りあげることでその後の近代日本の歴史を逆照射していきます。
「例えば東条英機の父英教(ひでのり)も岩手藩出身であったため、主流から排除され、せいぜい陸大教官どまりの中将、理論家としての枠に閉じ込められる生涯を送った。このような場合、子弟の反応は一般的に、やや反体制の側に赴くか、逆に、さらに体制に忠誠を尽くすことによって父祖の汚名をそそごうとする方向に赴く。東条英機の場合は後者の途を執った。そして、それは、昭和日本に破滅的な結末を与えることになった。」
山口は他に、文部省に出仕する形で働きながら日本初の近代的国語辞典である「言海(げんかい)」を編纂した大槻文彦や、早々に官職を引退して自由奔放な知識人としての生き方を貫いた兄の大槻如電、作家の幸田露伴をはじめ知的遊び人集団である根岸党の一員であった人物、日本浮世絵協会の創設に尽力し、明治文化研究会の設立に関わった文化史家の石井研堂に加え、同志社大学の創立者としても知られ、初期の京都府政を初代の府議会議長として指導した山本覚馬を取りあげた上で次のように述べています。
「さて、これまで敗け派、東北同盟の諸藩の中からのさまざまに屈折した反応が、日本近代に独特の陰翳を添えてきたことをたしかめてきた。(中略)結局、覚馬も先に挙げた人物たち同様、近代日本の公権力を中心に築かれた空間の異人にとどまったと言うべきであろうか。」
こうした敗け派の人たちは、明治以降の社会において中心に対する「周縁」を結果的に担っていった訳ですが、その背景にあったであろう「どうせ」から「いっそ」への転換こそが、その後に栄えた文化のダイナミズムの原動力ともなっていったのではないでしょうか。
その意味で、今期のうお座もまた自身の「負け」「よそ者」「異常」をきちんと背に回した上で、自分なりの社会参加の流れを中長期的に展望していきたいところです。
参考:山口昌男『「敗者」の精神史』(岩波書店)
からめ手とは、人々の注意があまり向かない裏門や裏手のことを指しますが、そのことを文化人類学の立場から説いたのが山口昌男でした。山口は、社会構造を日常的な「中心」と非日常的な「周縁」とに分け、両者の葛藤から文化の力強さは生まれるという「中心と周縁」論を説き、負けは勝ちの、よそ者は共同体の、異常は正常の、闇は光の本質を反映的に深くあらわしており、その物語の深部を示しているのだと主張したのです。
例えば、明治元年にあたる1868年に始まった薩長を中核とした新政府軍と旧幕府軍と東北諸藩の連合軍が戦った日本最大の内戦である戊辰戦争で破れた諸藩側の出身の人物は、藩閥や軍閥などの階層秩序からことごとく排除されたことはよく知られていますが、山口の『「敗者」の精神史』の「敗者の生き方」という章では、さまざまな人物を取りあげることでその後の近代日本の歴史を逆照射していきます。
「例えば東条英機の父英教(ひでのり)も岩手藩出身であったため、主流から排除され、せいぜい陸大教官どまりの中将、理論家としての枠に閉じ込められる生涯を送った。このような場合、子弟の反応は一般的に、やや反体制の側に赴くか、逆に、さらに体制に忠誠を尽くすことによって父祖の汚名をそそごうとする方向に赴く。東条英機の場合は後者の途を執った。そして、それは、昭和日本に破滅的な結末を与えることになった。」
山口は他に、文部省に出仕する形で働きながら日本初の近代的国語辞典である「言海(げんかい)」を編纂した大槻文彦や、早々に官職を引退して自由奔放な知識人としての生き方を貫いた兄の大槻如電、作家の幸田露伴をはじめ知的遊び人集団である根岸党の一員であった人物、日本浮世絵協会の創設に尽力し、明治文化研究会の設立に関わった文化史家の石井研堂に加え、同志社大学の創立者としても知られ、初期の京都府政を初代の府議会議長として指導した山本覚馬を取りあげた上で次のように述べています。
「さて、これまで敗け派、東北同盟の諸藩の中からのさまざまに屈折した反応が、日本近代に独特の陰翳を添えてきたことをたしかめてきた。(中略)結局、覚馬も先に挙げた人物たち同様、近代日本の公権力を中心に築かれた空間の異人にとどまったと言うべきであろうか。」
こうした敗け派の人たちは、明治以降の社会において中心に対する「周縁」を結果的に担っていった訳ですが、その背景にあったであろう「どうせ」から「いっそ」への転換こそが、その後に栄えた文化のダイナミズムの原動力ともなっていったのではないでしょうか。
その意味で、今期のうお座もまた自身の「負け」「よそ者」「異常」をきちんと背に回した上で、自分なりの社会参加の流れを中長期的に展望していきたいところです。
参考:山口昌男『「敗者」の精神史』(岩波書店)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
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文/SUGAR イラスト/チヤキ