【牡牛座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<3/6~3/19> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「二元論的枠組みからの脱却」
天文学には春の始まりであり、占星術的に一年の始まりである特別な節目の「春分」をいよいよ直前に控えた3月18日に、おとめ座27度(数えで28度)で満月を迎えていきます。
前回3月3日のうお座新月は、冥王星(パワーへの飽くなき欲求)と火星(アクション)が重なる日でもあり、現在の緊迫した世界情勢がどちらへ傾いていくのかを占う上でも非常に大切な節目でしたが、18日の満月はそんな冥王星を緩和させる形で配置されており、「二元論の否定」ということがテーマとなってきます。
すなわち、善か悪か、光か闇か、神か悪魔かという二元性の世界にどっぷり没入して、「〇〇〇〇が悪い」「こっちが良くて、あっちはダメ」「制裁、消去」と単純に決めつけていくのではなく、そうした二者択一的/二元論的な枠組みそのものから脱却するべく、否定できない真実をえぐり出していくのです。
もちろんそれは「言うは易く行うは難し」ではありますが、ちょうど春分をはさんだ七日間を春の「お彼岸」といい、中日である春分が煩悩に満ちたこの世界(此岸)を超えた極楽浄土(彼岸)に最も近づける日だとされてきたように、混迷にみちた現在のこの世において、見失ってはいけないポイントを自分なりに見出し、感じ入っていくには今回の満月前後がもってこいのタイミングなのだとも言えるでしょう。
その際、春の陽気をぞんぶんに取り入れて、できるだけ世の中や自分自身に対して冷笑的にならないよう努めることが大切であるように思います。世間一般からすれば些細なこと、つまらないことでもいい。自分にとって、これだけは忘れないでおこうと思える何かを見つけ出していきたいところ。
前回3月3日のうお座新月は、冥王星(パワーへの飽くなき欲求)と火星(アクション)が重なる日でもあり、現在の緊迫した世界情勢がどちらへ傾いていくのかを占う上でも非常に大切な節目でしたが、18日の満月はそんな冥王星を緩和させる形で配置されており、「二元論の否定」ということがテーマとなってきます。
すなわち、善か悪か、光か闇か、神か悪魔かという二元性の世界にどっぷり没入して、「〇〇〇〇が悪い」「こっちが良くて、あっちはダメ」「制裁、消去」と単純に決めつけていくのではなく、そうした二者択一的/二元論的な枠組みそのものから脱却するべく、否定できない真実をえぐり出していくのです。
もちろんそれは「言うは易く行うは難し」ではありますが、ちょうど春分をはさんだ七日間を春の「お彼岸」といい、中日である春分が煩悩に満ちたこの世界(此岸)を超えた極楽浄土(彼岸)に最も近づける日だとされてきたように、混迷にみちた現在のこの世において、見失ってはいけないポイントを自分なりに見出し、感じ入っていくには今回の満月前後がもってこいのタイミングなのだとも言えるでしょう。
その際、春の陽気をぞんぶんに取り入れて、できるだけ世の中や自分自身に対して冷笑的にならないよう努めることが大切であるように思います。世間一般からすれば些細なこと、つまらないことでもいい。自分にとって、これだけは忘れないでおこうと思える何かを見つけ出していきたいところ。
牡牛座(おうし座)
今期のおうし座のキーワードは、「理性をはたらかせる」。
いつの時代も、大衆は惑うものであり、認識よりも救済を求めるもの。だからどうしたって面倒な手間のかかる事態の正確な把握よりも、何をどうすればいいのかという具体策を知りたがる。その結果、ネットやSNSには根拠が薄弱な誤情報や、でたらめなフェイクニュースがあふれかえり、それに流され翻弄される人が後をたたない。
けれども、そういう人たちを安直だとなじっている者とて、そもそも「生きて死ぬ」とはどういうことなのか、どこに両者の境があるのか、ということをわかっていないという点では、根本的には変わらないのかも知れません。
古来、人間は生死の不分明な境界に広がる空白地帯や、言葉を失うことしかできないような不条理に対し、想像力を働かせることで、宗教や哲学、文学をうみだし、近代以降は科学がそうした想像力を規定してきた訳ですが、科学技術のもたらす恐ろしい弊害を知った現代では、大衆はますますどこに救いをもとめていいか分からない袋小路に陥っているのだと言えます。
ただ、哲学者の池田晶子はそうした大衆の歩むべき道について、2003年刊行の『あたりまえのことばかり』に収録された「生命操作の時代」というエッセイの中で、次のように述べています。
「科学か宗教か、という古典的な二者択一を越える第三の道は、理性の道である。何よりまずそれが必要だと私は思う。科学と宗教の、もしくは西洋と東洋の「融合」といった道を先に唱えるのは、同じくらいに安直である。とにかくまず自ら考えられているのでなければ、そこに何を持ってこようが同じことの繰り返しだからである。」
池田は、別の個所で「知性」ではなく「理性」をはたらかせることの大切さを強調しています。知性ということなら、かつてのオウム真理教などは高学歴の理工系の信者が多かったことで知られていますし、理性の働きというのは、学歴や知識の多寡とは無関係であって、あくまで「永劫の不可解に直面した人類が、その絶句と引き換えに手に入れた」事象一般への洞察であり、「それへの態度のとり方」をいうのだと。
そうして、これからの大衆に向け「信じるな、まず考えなさい」と結ぶのですが、それは他のどの星座よりも、自分の星座から数えて「生の実感」を意味する5番目のおとめ座で満月が起きていく今期のおうし座にとって大きな指針となっていくでしょう。
参考:池田晶子『あたりまえのことばかり』(トランスビュー)
けれども、そういう人たちを安直だとなじっている者とて、そもそも「生きて死ぬ」とはどういうことなのか、どこに両者の境があるのか、ということをわかっていないという点では、根本的には変わらないのかも知れません。
古来、人間は生死の不分明な境界に広がる空白地帯や、言葉を失うことしかできないような不条理に対し、想像力を働かせることで、宗教や哲学、文学をうみだし、近代以降は科学がそうした想像力を規定してきた訳ですが、科学技術のもたらす恐ろしい弊害を知った現代では、大衆はますますどこに救いをもとめていいか分からない袋小路に陥っているのだと言えます。
ただ、哲学者の池田晶子はそうした大衆の歩むべき道について、2003年刊行の『あたりまえのことばかり』に収録された「生命操作の時代」というエッセイの中で、次のように述べています。
「科学か宗教か、という古典的な二者択一を越える第三の道は、理性の道である。何よりまずそれが必要だと私は思う。科学と宗教の、もしくは西洋と東洋の「融合」といった道を先に唱えるのは、同じくらいに安直である。とにかくまず自ら考えられているのでなければ、そこに何を持ってこようが同じことの繰り返しだからである。」
池田は、別の個所で「知性」ではなく「理性」をはたらかせることの大切さを強調しています。知性ということなら、かつてのオウム真理教などは高学歴の理工系の信者が多かったことで知られていますし、理性の働きというのは、学歴や知識の多寡とは無関係であって、あくまで「永劫の不可解に直面した人類が、その絶句と引き換えに手に入れた」事象一般への洞察であり、「それへの態度のとり方」をいうのだと。
そうして、これからの大衆に向け「信じるな、まず考えなさい」と結ぶのですが、それは他のどの星座よりも、自分の星座から数えて「生の実感」を意味する5番目のおとめ座で満月が起きていく今期のおうし座にとって大きな指針となっていくでしょう。
参考:池田晶子『あたりまえのことばかり』(トランスビュー)
<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ