2022年5月1日から5月14日のSUGARの12星座占い
[目次]
  1. 【SUGARさんの12星座占い】<5/1~5/14>の12星座全体の運勢は?
  2. 【SUGARさんの12星座占い】12星座別の運勢
    1. 《牡羊座(おひつじ座)》
    2. 《牡牛座(おうし座)》
    3. 《双子座(ふたご座)》
    4. 《蟹座(かに座)》
    5. 《獅子座(しし座)》
    6. 《乙女座(おとめ座)》
    7. 《天秤座(てんびん座)》
    8. 《蠍座(さそり座)》
    9. 《射手座(いて座)》
    10. 《山羊座(やぎ座)》
    11. 《水瓶座(みずがめ座)》
    12. 《魚座(うお座)》

【SUGARさんの12星座占い】<5/1~5/14>の12星座全体の運勢は?

「見せるための花はいらない」 

すでに青葉若葉が目に鮮やかになってきましたが、暦の上で夏の始まりを告げる「立夏」にほど近い5月1日には、おうし座10度(数えで11度)で新月を迎えていきます。 

おうし座11度のサビアンシンボルは「花の畝に水を撒く女」。みずからを耕し、ケアすること、洗練させることを象徴する度数であり、さらに今回の新月は「理想と刷新」の天王星と重なる形で起きていきますから、自分を取り巻く世界を変えるためにいつも以上に大胆な態度表明を行ないやすいタイミングといえます。 

それを踏まえた上で、今回の新月のテーマをあえて一言でいうならば、「見せるための花はいらない」ということになるのではないでしょうか。 

例えばイチジクの花は、花が見えないまま、いきなり果実が育ち始め、花はその果実の真ん中に隠れていますが、人間に置き換えてみるとそのような人は滅多に見かけないはずです。 

というのも、いまの社会ではいかに自分をよく見せ、市場価値や評価を高められるか、高くもしくは長く買ってもらうかということが過剰に重視されており、結果的に自意識にがんじがらめになったり、生い茂る雑草のような自分の目立たない側面を過小評価したり、身体的ないし精神的な健康ということが疎かになったりして、美しいとは本来どういうことなのか、ますます分からなくなっているように感じるからです。 

その意味で、今回の新月ではどんなに常識に反してもいい、モテなくても見向きもされなくていい、他ならぬ自分自身を喜ばすための時間を確保し、そうした取り組みに方向性を切り替えていくために、どれだけそれ以外の部分、すなわち「誰かに見せるための花」やそのための手間ひまを、思い切って切り捨てることができるかが問われていくでしょう。 

《牡羊座(おひつじ座)》(3/21〜4/19)

今期のおひつじ座のキーワードは、「裏の聖地感覚」。

牡羊座のイラスト
いわゆる「パワースポット」という言葉が広くいわれ、「聖地巡礼」がブーム化してからすでに10年以上が経ちますが、そこには現世利益的な意味で「いかにパワーをもらえるか」という以上の意図がどうしても見出せなくなってしまっているように思います。 
 
その点について、宗教学者の鎌田東二は『聖地感覚』において、聖地にはかならず表と裏、前と奥があって、「「裏」や「奥」が見えなければ、けっしてこの世ならざる光景を目撃することはな」く、したがって、自分が生きているという現実感覚がこの世界の大いなる循環とつながり、深まっていくことはないのだと指摘した上で、「裏の聖地感覚」の好例として、太宰治の岩木山と弘前の町の感じ方を挙げています。 
 
あれは春の夕暮だつたと記憶しているが、弘前高等学校の文科生だつた私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立つて、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひつそりと展開しているのに気がつき、ぞつとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはづれに孤立してるものだとばかり思つてるたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひつそりうづくまつてゐたのだ。ああ、こんなところにも町があつた。(…)私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したやうな気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちでは無いと思つた。」(『津軽』) 
 
太宰がここでいう「夢の町」の「ひつそりうづくまってゐ」ながらも、「ぞつと」するほどの圧倒的な存在感をもって迫って来るリアリティこそが、聖地の裏や奥をまなざす感覚であり、それが目の前で雄大にそびえたつ岩木山とセットとなったとき、太宰にとってそれまで単なる生まれ故郷の土地以上のものではなかった「津軽」が、はじめて名実ともに自身の聖地となったのだと言えます。 
 
ひるがえって、あなたは自身の生まれ故郷であれ、いま現在暮らしている土地であれ、ここと決めた自分自身にとって縁のある場所であれ、こうした裏や奥をまなざす感覚を抱けたことはあるでしょうか。 
 
5月1日におひつじ座から数えて「実質」を意味する2番目のおうし座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自分が心から繋がることのできる土地や場所を持つことがいかに大切なことか、そしてそうした「聖地」に助けられて初めて息の長い活動が可能となることを、改めて痛感していくことになるかも知れません。 
 
 
参考:鎌田東二『聖地感覚』(角川学芸出版) 

《牡牛座(おうし座)》(4/20〜5/20)

今期のおうし座のキーワードは、「さわる」。

牡牛座のイラスト
詩人・大岡信のよく知られている詩のひとつに、戦後詩のアンソロジーなどでもよく取りあげられる「さわる」という作品があります。 
 
さわる。 
木目の汁にさわる。 
女のはるかな曲線にさわる。 
ビルディングの砂に住む乾きにさわる。 
色情的な音楽ののどもとにさわる。 
さわる。 
さわることは見ることか おとこよ。」 
 
しかし、YouTubeやInstagramにTikTok、ARにVRなど、視聴覚メディアが限りなく発達している今の時代において、「さわる」ことは通常、「見る」や「聞く」と比べてあまり重要とはされておらず、あくまで‟ついで”に行われる動作とされることがほとんどです。 
 
ところが、この「さわる」という詩では、通常なら触覚の対象とされないような、さまざまな対象に対して「さわる」という言葉を適用していくことで、そうした感覚的常識を異化し、「さわる」という感覚を第一義に近い位置へと転倒させていこうとしているのです。 
 
なお、「おとこよ」とあるのは、細い指を持つ人は触覚においてより敏感であるという発表もされているように(「the Journal of Neuroscience」,2009年)、一般的に女性は男性よりも指が細く、触覚に優れているという前提を踏まえれば、この詩の意図する転倒が男性優位に作られた社会や文脈まで睨んだものであるということが分かってきます。 
 
さわる。 
時のなかで現象はすべて虚構。 
そのときさわる。すべてにさわる。 
そのときさわることだけに確かさをさぐり 
そのときさわるものは虚構。 
さわることはさらに虚構。 
どこへゆく。 
さわることの不安にさわる。 
不安が震えるとがった爪で心臓をつかむ。 
だがさわる。さわることからやり直す。 
飛躍はない。」 
 
5月1日に自分自身の星座であるおうし座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、すべてがでたらめで、確からしいものなどほとんどないように感じられる今の時代の見取り図を、「触覚」を通して改めて描き直してみるといいでしょう。 
 
 
参考:大岡信「さわる」『ユリイカ2017年7月臨時増刊号 大岡信の世界』所収 

《双子座(ふたご座)》(5/21〜6/21)

今期のふたご座のキーワードは、「恐るべき行為」。

ふたご座のイラスト
名エッセイストで知られるアニー・ディラードが、文章を書く上で大切にしている秘訣について綴った『本を書く』という本のなかに、次のような一節があります。 
 
あなたが放棄しなければならないのは、単にもっともよく書けた文章というだけでなく、皮肉なことに、今まで書いたものの中でももっとも核になる部分なのだ。それはもともとの主要な一節である。そこからほかの文章が派生する部分であり、そのためにあなた自身その作品を書く勇気と得たというエッセンシャルな部分である。」 
 
つまり彼女は、ここだけは決して切り捨ててはいけないし、その必要などないと心底思える最良の部分をこそ放棄せよ、それが文章術だと言っている訳で、はじめて読んだときはぶったまげたものでした。 
 
いや、正直に言うと、いまだに納得はいっていません。しかし、書き手はそれを書くのに苦労した文章ほど、自分がどれだけ苦労したか、ねぎらいや称賛が必要かを知ってもらうために、最後まで頑固に残そうとするというアニーの指摘にぐうの音もでないでいる自分がいることもよく分かっているのです。 
 
つまり、それは本当の意味で作品に必要だから書かれた文章ではなく、誰かに見せるために、しかも作品の本質とは無関係な理由のために取っておかれてある場合が多い訳で、それをアニーは「作家がへその緒を切る勇気がなかった作品はたくさんあ」り、それは「正札を外さなかったプレゼント」に他ならないのだ、というじつにうまい言い方でばっさりと切って捨てています。確かに、読者からすれば、書き手からのプレゼントはともかく、それを書くのに幾らかかったなど知りたくもないでしょう。アニーは続けます。 
 
道そのものは作品ではない。あなたがたどってきた道には早や草が生え、鳥たちがくずを食べてしまっていればいいのだが。全部捨てればいい、振り返ってはいけない。」 
 
5月1日にふたご座から数えて「秘密」を意味する12番目のおうし座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自分が紡ぎ出す世界を変えるためにも、誰も見ていないところでどれだけアニーがいうような「恐るべき行為」を実行できるかどうか問われていくでしょう。 
 
 
参考:アニー・ディラード、柳沢由美子訳『本を書く』(田畑書店) 

《蟹座(かに座)》(6/22〜7/22)

今期のかに座のキーワードは、「無限ゲーム」。

蟹座のイラスト
先日、タカラトミーの人気ボードゲームシリーズ『人生ゲーム』の令和版が、お金を稼いで億万長者になるという設定から、インフルエンサーとなって獲得したフォロワー数によって勝敗が決まるという設定に変わったということを知って、もはやゲームと現実の境い目がほとんどなくなってしまったような複雑な気分になりました。 
 
ただ、一口にゲームといっても、人生ゲームのような明確なルールと定義された終わりがあり、勝つことを目的にプレイする「有限ゲーム」と、プレイし続けることそれ自体が目的であり、ルールに難があればゲーム遂行のために変えていくことのできる「無限ゲーム」の少なくとも2種類があって、例えば、ゲームクリエイターのイアン・チェンは『美術2020年8月号特集ゲーム×アート』に収録されたインタビューの中で、両者をプレイして得られる実感の違いについて次のように述べています。 
 
われわれにとって人生は、締め切り、取引、ランキング、日程、選挙、スポーツ、大学、戦争、ポーカー、宝くじといった有限ゲームに満ちている。有限ゲームで勝っても、ベース・リアリティ(実感の基礎)に立ち戻ることができず、その接点に介在する無限ゲームのフィールドの中で目覚める。われわれが無限ゲームに生きるのは、それが肉体的、精神的な健康とは無関係なベース・リアリティに意味をもたらすからだ」 
 
ここでいう無限ゲームとは、具体的には子供を持つことだったり、会社を設立することだったり、ヴァーチャル空間で新たな人格を開発したり、まったく架空のファンタジー世界をつくることなどが挙げられ、もちろん進化する生命もまた無限ゲームな訳ですが、こうした観点に立ってみると、人間という存在は、言わば「意識」をテーマにした無限ゲームをプレイしているプレイヤーなのだとも言えます。 
 
チェンはさらにそれを「ホームを求めるか、驚きを求めるか」という目的軸と、「物語による操縦か、本能的直感による操縦か」という操作感軸という2つの軸によって作られる4つのアーキタイプに分類した上で、プレイヤーは基本的に4つすべてに関わっているが、特定の仕事の中で、人生のある段階で、異なる割合になっていくのだと述べています。 
 
例えば、慣習や前例を無視した自由な思考実験をしている時などは「ハッカー(驚き×直感)」が強まり(アクションゲーム系)、人工知能の研究など進化し続ける対象やストーリーを創造したり、それを維持していくことに熱を傾けていれば「エミッサリー(驚き×物語)」が強まる(RPGゲーム系)。また、特定のテーマや世界観を構築し、そこで多くの人に楽しんでもらえるようなコンテンツを運営していけば「ディレクター(ホーム×物語)」になりますし(シュミレーション系)、もっと特例のプレイや課題に夢中になったり、やり込み度をとことん追求していけば「カートゥーンニスト(ホーム×直感)」になる訳です(ボードゲー系)。 
 
ひるがえって、今のあなたはどんなプレイスタイルで無限ゲームに参加しているのか。まずは上記のチェンの類型で確認してみるといいでしょう。 
 
 
参考:『美術手帖2020年8月号 ゲーム×アート』(美術出版社)

《獅子座(しし座)》(7/23〜8/22)

今期のしし座のキーワードは、「神話を取り戻す」。

獅子座のイラスト
日本には昔から大ナマズが地下で活動することによって地震が発生するという民間信仰がありますが、実際に1855年の安政の大地震(死者数千人、倒壊した家屋は一万数千軒と言われる)の後には、ナマズを題材に描かれた浮世絵が大量に出版されて飛ぶように売れ、その種類だけでも軽く百を越えたという記録が残っているそうです。 
 
ただ、これは単に当時の人々が迷信深かったという話ではなくて、例えばオランダの文化人類学者アウエハントの『鯰絵ーー民族的想像力の世界』によれば、日本社会ではそうした天変地異を神話的な構造へと定着させることで、倒幕運動などの集団的なムーブメントの原動力をつくりだすために利用してきたのです。 
 
そこでは江戸の庶民たちが地震をただ非日常的な大災害として見ているだけではなく、人間と自然を対等にとらえ、「ナマズの行為」という概念を仲立ちさせることで、ひとつの統一的な全体として考え、自分たちの身に起こった複合的な意味合いをすべからく結びつけようとしていった訳です。 
 
そして、自分の頭をおさえつけていた要石をどうにか外すことに成功し、からだを一ゆすりさせることで、大地の安定性どころか経済の均衡さえも崩してしまう張本人の姿を描いた鯰絵に、古い秩序の破壊者にして世直しをもたらす創造者としての「トリックスター」元型を見出していたのだ、と。 
 
つまり、人類に普遍的な神話的思考の産物であり、そこには人間社会を超越した「外なるまなざし」から眺めることで、ある種の客観性が宿り、同時にその距離感から独特のクールさや軽み、何よりユーモアが生じていたのです。 
 
トリックスターにおいては、秩序をつくり出す原理とそれを壊して原初に連れ戻す初期化の原理という対立項が混然一体となっているのですが、鯰絵ではそれが地下深くに潜んで大地を揺るがす大鯰と、要石によって大鯰を封じ込める秩序の象徴としての鹿島神宮の祭神・武甕槌大神の「タッグ」として構想され、また図式化されたのです。 
 
こうした神話的思考を通して、揺れ動く“浮き世”は、文字通り「仮想現実(バーチャルリアリティ)」として江戸庶民に了解され、彼らはそこからそれぞれの未来を生き抜いていく力を得ていったのではないでしょうか。 
 
その意味で、5月1日にしし座から数えて「世間」を意味する10番目のおうし座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自分がいま接している世間を「外なるまなざし」から眺め、そのなかを生き延びていく力を与えてくれるようなナマズに代わる新たな神話的イメージを、どうしたら取り戻していけるかが問われているのだと言えそうです。 
 
 
参考:C・アウエハント、小松和彦ほか訳『鯰絵 民族的想像力の世界』(岩波文庫) 

《乙女座(おとめ座)》(8/23〜9/22)

今期のおとめ座のキーワードは、「ギリシャ悲劇的な意志観」。

乙女座のイラスト
悲劇というのは、主人公が何らかの抗しがたい運命に巻き込まれ、自分の思うとおりに行為できないものですが、その意味で、現代人の多くはしらずしらずのうちに何らかの形で悲劇を生きているのかも知れません。 
 
こうしたいけど、なかなかできない。または、何気なくやってしまったことが思いがけない結果をもたらしてしまう。仕事であれ婚活であれ人間関係であれ、私たちは日々、手綱のきかない暴れ馬のような現実に振り回されているかのようです。 
 
ただ、興味深いことに悲劇が盛んに作られ、語られた古代ギリシャには、今日の近代的な自立した人間像を共有している私たちがイメージするような意味での意志の概念をあらわす言葉さえありませんでした。その点について、ギリシャ学者のヴェルナンは『ギリシャ思想の起原』において、悲劇における登場人物たちには加害者である側面と被害者である側面が混ざり合っているけれど、それらは決して混同されることなくその両方の側面があるのだという、大変重要な指摘をしています。 
 
もちろん近代的な考え方ではそんな矛盾した立場は認められませんが、ヴェルナンは運命の強制力と人間の自由意志の力の両方を肯定していくところこそが、ギリシャ悲劇の不思議さであり、魅力なのだと考えたていたのです。 
 
例えば、『オイディプス王』において、オイディプスはダイモーン(神霊)によって引き起こされた自身の身に起きた不幸(そうとは知らずに父を殺し、母を娶った)と自分で引き起こした不幸(目を潰した)について、同時に語りつつも、決してそのどちらか一方を他方のせいにしたりはしませんでした。 
 
コロス:おお、恐ろしいことをなされたお人、どうしてこのようにお目を損なわれた。いかなる神がそそのかした。 
オイディプス:アポロンだ、友よ、アポロンだ、この、おれのにがいにがい苦しみを成就させたのは。だが眼をえぐったのは、誰でもない、不幸なこのおれの手だ。なにとて眼明きであることがあろう、眼が見えたとて何一つ楽しいものが見えぬおれに。」 
 
同様に、5月1日におとめ座から数えて「探求」を意味する9番目のおうし座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自身の現実や人生に対して、神霊的な力によってある種運命的にもたらされた側面を認めていくことによって、かえって自分自身の選択によってもたらした側面やもたらしていけるだろう未来がはっきりとしてくるはずです。 
 
 
参考:J.P.ヴェルナン、吉田敦彦訳、『ギリシャ思想の起原』(みすず書房) 

《天秤座(てんびん座)》(9/23〜10/23)

今期のてんびん座のキーワードは、「現代社会病」。

天秤座のイラスト
現代は“誰もが穏やかではいられない時代”であるとも言えるのではないでしょうか。ことに、日本社会はいま平成の「失われた30年」のツケをじわじわと払わされつつある苦しい状況にある訳ですが、それは経済水準の低下という目に見える困難以上に、誰もが病や、少なくともそれに近い症状を抱え込んでいるという、目に見えない困難という形で社会を侵食しつつあるように思います。 
 
そうしたものの中でも知っておくべきなのは、精神病とも神経症などのいずれとも異なるために「境界性(ボーダーライン)」と呼ばれ、今日ではその根底に自己愛の問題があるために、境界性パーソナリティ障害と名付けられている一群のグループです。 
 
医学者で作家の岡田尊司の『境界性パーソナリティー障害』(2009)によれば、そうした悩みを抱えている人たちは90年代以降急増しているため、もはや「現代社会病」と呼んでも差し支えない面があり、「アメリカのデータでは、一般人口の2%、精神科外来患者の11%、入院患者の19%が、境界性パーソナリティ障害の診断基準に該当する」とされ、「日本もその水準に近づきつつあ」り、特に「若い年齢性」や「女性」に多く、その頻度は男性の約4倍であるが、次第に男女間の差も縮まりつつあるのだと言います。 
 
もちろん、境界性パーソナリティ障害と一口に言っても、ベースの性格によってさまざまなタイプに分かれるのですが、その一例として、これもやはり「現代社会病」の一つである自己愛性パーソナリティ障害と合併したケースについての一節を引用しておきます。 
 
傲慢で、自己特別視が強く、情よりも利で動くタイプを自己愛性パーソナリティと呼ぶが、自己愛性パーソナリティ自体は、強い自信によってストレスをはね除ける力をもつ、安定した人格ということが多い。しかし境界性とオーバーラップしたタイプでは、自己愛性の特徴に加えて、非常に不安定で衝動的で、自己破壊的な傾向が加わることで、本人の激しさも周囲はしばしば苦しめられることになる。本人も見かけの強さからはうかがえない、脆さや孤独、劣等感を内面に抱えており、依存対象を必要とする。特定の一人、二人の人間だけにその弱さを見せるということもあるが、その部分をうまく受け止めてもらえないと、激しい攻撃や支配、パラドキシカルな反応を見せる。」 
 
では、こうした障害を自身や親しい相手が抱えてしまった場合、どうしたらいいのか。岡田は「境界性パーソナリティ障害は、自己を確立するための産みの苦しみ」であり、「それは、病というよりも、一人の人間が、これまで背負ってきたものを一旦清算し、大人として生まれ変わり、再生するための試練」に他ならないのだといい、もし本人だけでなく、支えている人たちの気力が尽きになることがあれば、「そんなときは、結果を急ぎすぎているのだ」とも言及しています。 
 
その意味で、5月1日にてんびん座から数えて「絆」を意味する8番目のおうし座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自身や身近な相手との深く関わる上で知っておかなければならないこと、受け止めていかなければならないことを見定めていきたいところです。 
 
 
参考:岡田尊司『境界性パーソナリティー障害』(幻冬舎新書) 

《蠍座(さそり座)》(10/24〜11/22)

今期のさそり座のキーワードは、「サービス行為としての悪口」。

蠍座のイラスト
「若者の未来の自由は、親を切り捨て、古い家族関係を崩すことから始まる―。愛情過多の父母、精神的に乳離れできない子どもにとって、ほんとうに必要なことは何なのか?」 
 
そう銘打たれた寺山修司の『家出のすすめ』が1972年に刊行されてから、今年でちょうど50年がたちました。50年といえば、47歳で没した寺山本人の人生よりも長い月日であり、これは寺山がすでに現代人にとって父の世代から祖父の世代の人物となったことの証しでもあるように思います。 
 
本書は表題にもなっている「家出のすすめ」のほか、「悪徳のすすめ」「反俗のすすめ」「自立のすすめ」という4つの章からなっていますが、このうち「悪徳」の箇所から目を引いた一節を引用しておきます。 
 
だいたい、他人の悪口をいうというのは、サービス行為であります。いいながら、自分もすこしは爽快な気分になりますが、いわれる相手がつねに主役であり、いっている自分が脇役であるということを思えば、「いわれている当人」ほど爽快な気分とはいえません。キリストは「右の頬を打たれたら、左の頬をさし出せ」と言ったそうですが、これは右手で百円もらったら、左の手もさし出せ」というのと論理的におなじであり、かなり物欲しい教えであるようにおもわれます。だから、悪口をいわれたら、悪口をもってこたえねばならない。それが友情であり、義理というものであります。」 
 
寺山は「友情」という言葉を使っていますが、何かと世間の評判やSNSでのちょっとした言動がフューチャーされがちな現代においては、こうした意味での友情はきわめて成り立ちにくいものとなってしまったように思います。 
 
代わりに、互いの傷をなめあうジメジメとした沼のような集まりや、当たり障りのない世間話や自己愛を担保するための社交辞令ばかりが飛び交う“大人”の集まりが目立ちつつも、じつは「心は孤独な現代人」というオチに回収され続けている訳ですが、それもこれも、寺山が言うところの「物欲しい教え」を卑しいとか美しくないと感じる感覚や美意識がすっかり麻痺してしまっているからなのかも知れません。 
 
その意味で、5月1日にさそり座から数えて「パートナーシップ」を意味する7番目のおうし座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、無意識のうちになれ合いに陥っていた関係性を脱し、あるべき大人の交友をするべく、「悪口にたいして悪口でこたえる」くらいの潔さを発揮していきたいものです。 
 
 
参考:寺山修司『家出のすすめ』(角川文庫) 

《射手座(いて座)》(11/23〜12/21)

今期のいて座のキーワードは、「抜け感づくり」。

射手座のイラスト
近代合理主義の見直しということが叫ばれるようになって既に久しいですが、それがいまだにスピリチュアルや陰謀論などと一足飛びに結びつきがちなのは、90年代のオウム事件などの教訓を消化しきれてないことの何よりの証しであるように思われます。 
 
しかし、本当の意味で自分や周囲の人を大事にしたり、寄り添ったり、その果てに社会の役に立っていくということが難しくなっているように感じるのは、逆に言えば、多くの人がはじめから無駄なく、合理的かつ機能的に人の役に立とうとして空回りしたり、力み過ぎてしまうからであって、いったんきちんとぶっ飛んだり、思いきり横道にそれたり、世間から雲隠れした経験をへることで“抜け”がないからなのかも知れません。 
 
つまり、スピリチュアルや陰謀論を好む人というのは、たいていは“大真面目”に世間に適応しようとしているだけなのであって、だからこそ袋小路に陥りがちなのだということです。こうした傾向については、例えば整体師の片山洋次郎は『オウムと身体』という本の中で次のように語っています。 
 
いずれにせよ、無理にエネルギーを集中したってダメです。それはただの興奮であって、その後に虚しさに襲われるんです。本当のエネルギーの集中は、その人の身体の要求に素直に生きていれば、自然にしかも目一杯やってくる。そうして、思いきり発散する。今の瞬間の生命の流れに完璧に乗っていれば、自動的にむしろ静かに快感がやってきます。 
 
オウムに『生死を超える』という本がありますが、いくら力んでも「生死を超える」わけではありません。思いきり生きていると瞬間瞬間に「死」があり、刻一刻生まれ変わっているのがわかる。また、一人きりで生きているのではないこと―常に回りの人たちやモノの世界と響きあっていることもわかります。自分の意識だと思っているものが、実は自分と回りの世界の干渉の場だということもわかってきます。生ききっているその瞬間こそ、自らが空っぽだということがわかるのです。」 
 
こう言われてみると、確かに日本のように忌み避ける代わりに、死が日常的な光景としてあったチベットのような社会では、かえってカルト宗教のようなものは生まれないでしょうし、その意味で、近代合理主義を見直し、健全な生活感覚を取り戻すには、ごく身近なところで「死」を感じたり、片山がいうような「自分と回りの世界の干渉の場」となって響きあっている感覚を取り戻していくことが近道なのだとも言えるはず。 
 
5月1日にいて座から数えて「技術やスキル」を意味する6番目のおうし座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、そうした抜け感づくりに長けていくべく、まずは自身のこわばりや力みをとっていくことから始めてみるといいでしょう。 
 
 
参考:片山洋次郎『オウムと身体』(日本エディタースクール出版部) 

《山羊座(やぎ座)》(12/22〜1/19)

今期のやぎ座のキーワードは、「吐息と解放」。

山羊座のイラスト
一般的に自分自身を喜ばすということが難しいのは、どこまでも追いかけてくる重圧や息苦しい空気感にどうしても意識が支配されてしまうときですが、むかしの戦中文学などを読んでいると、その両者が見事なまでに同時に成立している様子が数多く描かれていることに気が付きます。 
 
例えば、南海の孤島にたてこもり、180名の部下たちと特攻作戦に従事し、逃れられぬ死の呪縛の中で出撃命令を待つ、局限的な状況を描いた戦記小説である島尾敏雄の『出孤島記』。この小説には、特攻隊の基地のある浦のどこか陰のある景色とは対照的な筆致で書かれた、浦の外側、その外界へと抜ける岬の描写が登場します。 
 
外側は空気が動いていた。そして限界が広く開けた。 
入江うちが淀んで凪いでいても、此処に来て、足を一歩入江そとの方にふみ出すと、風が耳のうらを鳴って通り、身体の中に飼っている鳩が自由なはばたきをあげて飛び立つ思いをした。 
沖合の波は白く穂立ち、かもめがゆるく舞っていた。そして入江は海峡に大きく口を開き、その海峡越しに、はるか向うの島の山容、海岸沿いの県道の赤い崖崩れなどが、痛いようにこちらの気持に手を差し伸べて来た。 
入江うちでの重い荷のようなものが、背中からはがれ落ち、私は軽々と自分自身になって、何の才能も技能もないままの姿を浜辺に伏せることができた。」 
 
島尾にとって、この岬の鼻が特別の昂揚感と自由さとともに描かれたのは、その隣村に住むひとりの女性のためでもありました。言うまでもなくそれはのちに島尾夫人となるミホだったのですが、この浦の外側へと抜けていく描写は、本来は決して交わりえない、軍という公的世界の規律が海=女性という自然の律動へと開けていく奇跡的な交わりの光景でもあったのです。 
 
同様に、5月1日にやぎ座から数えて「愛情表現」を意味する5番目のおうし座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、何らかの感情的な発露を介して、そうした規律から律動への開けと軌を一にしていく流れが強まっていくのではないでしょうか。 
 
 
参考:『ちくま日本文学全集 島尾敏雄』(筑摩書房) 

《水瓶座(みずがめ座)》(1/20〜2/18)

今期のみずがめ座のキーワードは、「地底を探す」。

水瓶座のイラスト
町から空き地や井戸がなくなり、あらゆる道の行き先がコンクリートで埋めつくされ、水路という水路もいっせいに暗渠に変わってしまった現代社会というのは、昔話に出てくるような大地にぽっかりあいた「穴」だとか、冒険譚の格好のフィールドであった「地底」といった想像領域を失ってしまった世界なのだと言えます。 
 
代わりに、グーグルアースや衛生から中継される映像や画像など、俯瞰的なまなざしを取り入れることに慣れてしまい、それが想像以上に浸透して、各人の無意識に深く「現実」として埋め込まれているのではないでしょうか。 
 
とはいえ、仮にそうだとしても、それの何が問題なのかという疑問が湧いてくるはずですが、例えば、ファンタジー小説家の井辻朱美は「ファンタジーは地底をめざす」という論考において、「地底とはおそらく自己の原始的な(客観的サイズとは無縁の)主観的身体に出会う場所」であり、それは「生と死が出会う場所」「イニシエーションの場所」に他ならないのだと述べています。 
 
また、井辻は恩田陸のファンタジー小説『上と外』の登場人物のセリフを引用する形で、そんな地底体験の本質について、次のようにも語っています。 
 
人に見られている自分でもなく、自分が考えている自分でもなく、ただ一歩ずつ壁を昇ってゆく、物理的にも精神的にもぴったりとずれることなく重なり合った、まさに等身大としか言いようのない、そのまま一人きりの自分自身がいるのだ」 
 
確かに、こうした自分から抜け出した視点からの世界の再構成がきかない地底では、比較を絶した「等身大の自分」であるしかないという強制力が働きますし、「腸か膣」を思わせるような地下迷路を聴覚や触覚や平衡感覚をフル稼働させながら彷徨うなかで、はじめて体のなかに眠っていた生存本能にスイッチが入っていくものなのでしょう。 
 
そういう意味では、人びとから「地底」を奪うような仕方で発展してきた現代社会とは、人が「自分らしくある」という時の「自分」が分からなくなるような環境にいつの間にか設計されてしまっているのだとも言えるかもしれません。 
 
5月1日にみずがめ座から数えて「暗闇」を意味する4番目のおうし座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、そうした現代人のひとりとして、できるだけ身近な環境のなかから「地底」を見つけていくよう試みてみるといいでしょう。 
 
 
参考:井辻朱美「ファンタジーは地底をめざす」『大航海 ファンタジーと現代』所収 

《魚座(うお座)》(2/19〜3/20)

今期のうお座のキーワードは、「投壜通信としての詩」。

魚座のイラスト
日々大量の言葉や情報がスマホやPCの画面から流れ込んでくる現代社会においては、逆説的にひとつひとつの言葉の重みは限りなく軽くなり、やっとの思いで発語したうめきや叫びに似た言葉でさえも、すぐさま何事もなかったようにかき消されてしまう傾向があるように思います。 
 
したがって、何を言っても無駄だと、本当の言葉を語らなくなってしまったり、その反動で見事なばかりに嘘ばかりを並べて自分自身を覆い尽くしてしまっているような人も珍しくありません。 
 
しかし一方で、これまで数多の詩人をはじめとした人たちがそうしてきたように、言葉は決して見過ごしてはならない真実を伝えるための最大の手段であり、多くの試みが瓦礫の山や海の藻屑の一部になってきたとはいえ、彼らの言葉によって魂を救われ、その思いととともに命を繋いできた人びとが確かにいたことも事実です。 
 
例えば、ルーマニア出身の詩人で、ナチ支配下の強制収容所生活を生き延びたパウル・ツェラン(両親はともに死亡)は、のちにブレーメン文学賞の受賞講演において、詩は投壜(とうだん)通信に他ならないとして、次のように述べています。  
 
詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日にかはどこかの岸辺に―おそらくは心の岸辺に―流れつくという(かならずしもいつも期待にみちてはいない)信念の下に投げ込まれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途上にあるものです―何かをめざすものです。」 
 
投壜通信というのは、手紙を壜(びん)に詰めて栓をして波に投じる行為のことですが、詩人で文学者の細見和之の書いた『「投壜通信」の詩人たち』によれば、もともとは難破船の水夫たちが行ったとされる伝説的な振る舞いであり、自分が船とともに海の藻屑と消えるのが明らかな場合に、家族や知人へのメッセージを万に一つの可能性に託す賭けに等しい行為だったのだそうです。ツェランの先の引用部分の続きを見てみましょう。 
 
何をめざすのでしょう?何かひらかれているもの、獲得可能なもの、おそらくは語りかけることのできる「あなた」、語りかけることのできる現実をめざしているのです。」 
 
同様に、5月1日にうお座から数えて「コミュニケーション」を意味する3番目のおうし座で新月を迎えていく今期のあなたもまた、自分にとってかけがえのない「あなた」へ向かって決死の呼びかけを行なっていくことがテーマとなっていくはずです。 
 
 
参考:細見和之『「投壜通信」の詩人たち』(岩波書店) 
<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。



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