【魚座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<12/27~1/9> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「呑み込むべき“寒九の水”を問う」
2021年を迎えて最初の新月は1月13日にやぎ座の第三デカン(20から29度)で起こります。やぎ座の現実主義に水星の知性が加わるため、この新月では特に物事の本質を見抜く客観性が冴えわたっていくでしょう。
二十四節気では1月5日より「小寒」に入ります。いわゆる「寒の入り」と言われ、冬至で「一陽」を得ることでかえって陰気が強まり、ますます冷えが厳しくなっていく頃合いとされています。そして、今回新月が起こる1月13日は寒の入りから9日目の「寒九」にあたり、昔からこの日の水(寒九の水)は特別な力が宿るとされ、餅をつくにも、お酒を造るにも、薬を飲むにも、珍重されてきましたが、この特別冷たい水こそが薬にも力にもなるという発想は、まさに今回の新月のテーマとも言えます。
すなわち、人間が経験しうるもっとも純粋な自由というのは、厳しい規律や掟を受け入れ、従うことでこそ実現可能になるということ。さながら寒い時期ほど、一年を通して温度変化の少ない地下水さえもがあたたかく染み入るように感じられるように。あなたの人生に力を与え、解放させてくれるだけの「冷たさ=厳しい現実やその枠組み、ルール等」とは何か、それをいかに取り入れていけるかが今期 は問われていきそうです。
二十四節気では1月5日より「小寒」に入ります。いわゆる「寒の入り」と言われ、冬至で「一陽」を得ることでかえって陰気が強まり、ますます冷えが厳しくなっていく頃合いとされています。そして、今回新月が起こる1月13日は寒の入りから9日目の「寒九」にあたり、昔からこの日の水(寒九の水)は特別な力が宿るとされ、餅をつくにも、お酒を造るにも、薬を飲むにも、珍重されてきましたが、この特別冷たい水こそが薬にも力にもなるという発想は、まさに今回の新月のテーマとも言えます。
すなわち、人間が経験しうるもっとも純粋な自由というのは、厳しい規律や掟を受け入れ、従うことでこそ実現可能になるということ。さながら寒い時期ほど、一年を通して温度変化の少ない地下水さえもがあたたかく染み入るように感じられるように。あなたの人生に力を与え、解放させてくれるだけの「冷たさ=厳しい現実やその枠組み、ルール等」とは何か、それをいかに取り入れていけるかが今期 は問われていきそうです。
魚座(うお座)
今期のうお座のキーワードは、「無言の前衛」。
2020年はコロナ対策について各国の首脳がみせた力強く頼もしいリーダーシップを羨ましがったり、日本政府とのあまりの違いに落胆を隠さない人々の反応をSNSなどで何度も目にしましたが、個人的にはそうした光景に直面するたび、かつて訪れたヨーロッパの国で感じた、街のすべての光景が人々の意志に強く繋がれて出来ているような印象を思い出していました。
そこには日本では感じられた、何か危うい、あいまいなものを、解釈の余地を温存したまま楽しんだり、見つめたりする空気のようなものがなかったのです。
いま新しい年を迎えていくにあたって、改めて各国ごとのニューノーマルということを考えていく上で、否が応でも私たちは「日本らしさ」の再発見という課題を突きつけられていくのではないか。そんな風にも思っている訳ですが、ここで思い出されてくるのが、赤瀬川原平の『千利休 無言の前衛』です。
「新しい価値観の生まれてくるような世界にあっては、言葉というものの乱暴さばかりが目につくのである。どのように丁寧な言葉を心がけても、言葉の存在自体が乱暴になっていく。何事かを言葉に託すごとに、その言葉に裏切られる。そして沈黙が生れる。」
質素さを尊ぶ禅の精神を取れいれた「わび茶」によって茶の湯の革命児となり、その高い美意識ゆえに秀吉の怒りを買い、自害を命じられて生涯を終えた千利休(せんのりきゅう)について、赤瀬川はさらに次のように続けるのです。
「だから利休は言葉を使わずに、何事かを黙って示す、ということになる。示すというより、黙って置くのだろう。その置かれたものに人が何事か気付いてくれればいいし、気付いてくれなければ仕方がない。そのまま黙っている。というふうであったろうと想像している。何事かを説明し、説得する、というようなことはいちばん遠い人だと思うのである。いっぽう秀吉というのは、何事かを示しながらどんどんしゃべる、そんな人ではなかったのか。」
ある意味で、今期のうお座もまた、いかにこうした「黙っておかれた何事か」そのものになっていけるかというところにあるのではないでしょうか。そしてそれは、日本らしさという空気感とも少なからず自然と一致してくるはずです。
参考:赤瀬川原平『千利休 無言の前衛』(岩波新書)
そこには日本では感じられた、何か危うい、あいまいなものを、解釈の余地を温存したまま楽しんだり、見つめたりする空気のようなものがなかったのです。
いま新しい年を迎えていくにあたって、改めて各国ごとのニューノーマルということを考えていく上で、否が応でも私たちは「日本らしさ」の再発見という課題を突きつけられていくのではないか。そんな風にも思っている訳ですが、ここで思い出されてくるのが、赤瀬川原平の『千利休 無言の前衛』です。
「新しい価値観の生まれてくるような世界にあっては、言葉というものの乱暴さばかりが目につくのである。どのように丁寧な言葉を心がけても、言葉の存在自体が乱暴になっていく。何事かを言葉に託すごとに、その言葉に裏切られる。そして沈黙が生れる。」
質素さを尊ぶ禅の精神を取れいれた「わび茶」によって茶の湯の革命児となり、その高い美意識ゆえに秀吉の怒りを買い、自害を命じられて生涯を終えた千利休(せんのりきゅう)について、赤瀬川はさらに次のように続けるのです。
「だから利休は言葉を使わずに、何事かを黙って示す、ということになる。示すというより、黙って置くのだろう。その置かれたものに人が何事か気付いてくれればいいし、気付いてくれなければ仕方がない。そのまま黙っている。というふうであったろうと想像している。何事かを説明し、説得する、というようなことはいちばん遠い人だと思うのである。いっぽう秀吉というのは、何事かを示しながらどんどんしゃべる、そんな人ではなかったのか。」
ある意味で、今期のうお座もまた、いかにこうした「黙っておかれた何事か」そのものになっていけるかというところにあるのではないでしょうか。そしてそれは、日本らしさという空気感とも少なからず自然と一致してくるはずです。
参考:赤瀬川原平『千利休 無言の前衛』(岩波新書)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ