【蟹座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<5/16~5/29> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「ゲームに臨む戦略を取り戻す」
5月21日に太陽がふたご座に移り「小満」を過ぎると、万物の命もあふれんばかりに躍動し、特に植物は生気に満ちて、若葉がしたたるような青葉になりますが、そんな中、5月26日にいて座5度(数え度数で6度)で皆既月食を迎えていきます。
今回は近地点で起こる満月なので、大きいです。いわゆる「スーパームーン」なのですが、それが欠ける訳ですから、単に「エモさ」が解放されるというより、そうした「エモさ」を感じられるような心の拠りどころとなっているものが失われたり、一時的に失われかけた結果、そのありがたみが骨身に沁みるということが起きやすいタイミングなのだと言えます。
その上で、今回の皆既月食のテーマを端的に表わすとするなら、それは「ゲームプランを取り戻す」。すなわち、せっかく与えられた人生というゲームを最大限楽しんでいくために必要な目標を持ったり、誰かと共に戦っていくためのルールを設けたりすることの大切さを改めて再認識していくことです。
それは逆に言えば、もし今あなたが適切なゲームプランを持てていないばかりに、即座の結果を求めて不満を募らせていたり、ついマンネリ化して立ち往生してしまったり、また他の誰かと互いに消耗しあうような状況に陥ったりといった傾向に少しでもあるのなら、そうした現実にきちんと向き合っていかなければなりません。
ちょうどこの時期には「更衣(ころもがえ)」という季語があって、気候不順も重なって服装選びに悩む頃合いですが(制服は6月1日が衣替え)、服装だけでなくそれに連動するコンセプトやライフスタイル、生活の中で重視するポイントなどをこの機会に整理・統一してみるのもいいでしょう。
その意味で、今回の月食前後の期間は、改めて人生というゲームの遊び方のスタイルを明確にしていくことができるかどうか問われていくように思います。
今回は近地点で起こる満月なので、大きいです。いわゆる「スーパームーン」なのですが、それが欠ける訳ですから、単に「エモさ」が解放されるというより、そうした「エモさ」を感じられるような心の拠りどころとなっているものが失われたり、一時的に失われかけた結果、そのありがたみが骨身に沁みるということが起きやすいタイミングなのだと言えます。
その上で、今回の皆既月食のテーマを端的に表わすとするなら、それは「ゲームプランを取り戻す」。すなわち、せっかく与えられた人生というゲームを最大限楽しんでいくために必要な目標を持ったり、誰かと共に戦っていくためのルールを設けたりすることの大切さを改めて再認識していくことです。
それは逆に言えば、もし今あなたが適切なゲームプランを持てていないばかりに、即座の結果を求めて不満を募らせていたり、ついマンネリ化して立ち往生してしまったり、また他の誰かと互いに消耗しあうような状況に陥ったりといった傾向に少しでもあるのなら、そうした現実にきちんと向き合っていかなければなりません。
ちょうどこの時期には「更衣(ころもがえ)」という季語があって、気候不順も重なって服装選びに悩む頃合いですが(制服は6月1日が衣替え)、服装だけでなくそれに連動するコンセプトやライフスタイル、生活の中で重視するポイントなどをこの機会に整理・統一してみるのもいいでしょう。
その意味で、今回の月食前後の期間は、改めて人生というゲームの遊び方のスタイルを明確にしていくことができるかどうか問われていくように思います。
蟹座(かに座)
今期のかに座のキーワードは、「「いる」ということ」。
美学者の伊藤亜紗は、リレー形式で書かれたエッセイの一つとして書かれた「体を失う日」のなかで、人類のこれまでの歴史は「体の体らしさを捨てていく過程」であり、その分かりやすい変わり目として「近代化」を挙げています。
まだ個が成立していなかった近代化以前のヨーロッパの食事シーンは盛られる皿もメニューも区別はなく、おならを我慢することもなければ唾をテーブルの上に吐くのも当たり前で、いわば「粘液的社交」に他ならず、また、自分だけのプライベートの部屋なんていうものもありえなかった訳です。
それが産業革命を通して労働が時間によって測られるようになり、一定時間内に決められた量の仕事ができる「標準的な体としての健常者」という概念を既定するようになり、近年はそれをロボットやAIが代替するビジョンが提示されるようになってきたなかで、伊藤は次のように言及しています。
「一方で、失われるものもある。私が一番恐れているのは、「いる」の喪失だ。「いる」こそ、物質としての体が私たちに与えてくれる最大の恩恵ではないだろうか。」
つまり、言語的なコミュニケーションが成り立たないような相手や状況であったとしても、非言語的な次元で取りうる最もシンプルなコミュニケーションこそが「いる」であり、と同時に、それはつねに何かを「する」よう過剰に駆り立てられている現代人が非常に苦手とするコミュニケーションでもあるのではないでしょうか。
ただし、苦手ではあっても不必要という訳ではありません。というより、ほんらい人が生き物としていきいきと生きていく上で必要不可欠であるがゆえに、それはいつの間にか外部の専門家やエリートへと委託され、産業化して私たちは単なるサービスや商品の“消費者”へと降格させられるようになったのだと言えるのではないでしょうか。
「そして「いる」とともに失われるのは「変身」の可能性である。私たちは、逆説的にも、物質的な体があることによって変身することができる。(中略)変身とは、自分と異なるものの世界の見え方をありありと実感することである。カーニバルがそうであったように、それは価値転倒の場なのだ。吉村さんの言うように、あらゆる生命体が、この世界をそれぞれの仕方で把握している。物理的な体があるからこそ、自分でないものになることができる。」
今期のかに座もまた、物理的な体を通じた「いる」というコミュニケーションや、その結果としての「変身」を自身の手のうちに取り戻し、習熟していくことを改めて大切にしていきたいところです。
参考:奥野克己・吉村萬壱・伊藤亜紗『ひび割れた日常』(亜紀書房)
まだ個が成立していなかった近代化以前のヨーロッパの食事シーンは盛られる皿もメニューも区別はなく、おならを我慢することもなければ唾をテーブルの上に吐くのも当たり前で、いわば「粘液的社交」に他ならず、また、自分だけのプライベートの部屋なんていうものもありえなかった訳です。
それが産業革命を通して労働が時間によって測られるようになり、一定時間内に決められた量の仕事ができる「標準的な体としての健常者」という概念を既定するようになり、近年はそれをロボットやAIが代替するビジョンが提示されるようになってきたなかで、伊藤は次のように言及しています。
「一方で、失われるものもある。私が一番恐れているのは、「いる」の喪失だ。「いる」こそ、物質としての体が私たちに与えてくれる最大の恩恵ではないだろうか。」
つまり、言語的なコミュニケーションが成り立たないような相手や状況であったとしても、非言語的な次元で取りうる最もシンプルなコミュニケーションこそが「いる」であり、と同時に、それはつねに何かを「する」よう過剰に駆り立てられている現代人が非常に苦手とするコミュニケーションでもあるのではないでしょうか。
ただし、苦手ではあっても不必要という訳ではありません。というより、ほんらい人が生き物としていきいきと生きていく上で必要不可欠であるがゆえに、それはいつの間にか外部の専門家やエリートへと委託され、産業化して私たちは単なるサービスや商品の“消費者”へと降格させられるようになったのだと言えるのではないでしょうか。
「そして「いる」とともに失われるのは「変身」の可能性である。私たちは、逆説的にも、物質的な体があることによって変身することができる。(中略)変身とは、自分と異なるものの世界の見え方をありありと実感することである。カーニバルがそうであったように、それは価値転倒の場なのだ。吉村さんの言うように、あらゆる生命体が、この世界をそれぞれの仕方で把握している。物理的な体があるからこそ、自分でないものになることができる。」
今期のかに座もまた、物理的な体を通じた「いる」というコミュニケーションや、その結果としての「変身」を自身の手のうちに取り戻し、習熟していくことを改めて大切にしていきたいところです。
参考:奥野克己・吉村萬壱・伊藤亜紗『ひび割れた日常』(亜紀書房)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ