【乙女座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<10/3~10/16> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「快活さの追求」
暑くも寒くもない、過ごしやすい時期ではあるものの、暦の上ではもう晩秋に入っていく10月6日にてんびん座13度(数えで14度)で新月を迎えていきます。
今回の新月のテーマは、「力の抜き方を知ること」。人間は、というより、生物は、休息なしに健全な生活サイクルを維持できませんが、コロナ禍が長期化してきた今だからこそ改めて、質の良い休息の仕方だったり、休息にどれだけ創意工夫を凝らしていけるかということに取り組んでいきたいところ。
例えば、一日のなかで感情的に落ち着かせるためにゆるむ時間をきちんと作るということだったり、そもそも身体のリズムを尊重することだったり。いずれにせよ、ただでさえしんどい現実のなかで喜ばしくない側面を追い払い、生命としての健全なリズムに入っていくための自分なりの切り口をひとつでも明確にしていくことが大切になってくるはず。
スポーツの秋というように、今では秋の季語になっているものに「運動会」がありますが、官僚としての最高職まで昇りつめた富安風生が引退後に詠んだ「秋晴の運動会をしてゐるよ」という、まるで子どもみたいな一句などは、力の抜け加減としては大いに参考にしていきたいところ。
そうして、今期はすこしでも朝起きたときにざらりとした不快な目覚めを迎える瞬間を減らし、自分のために快活な人生を組み立てていくことを大事にしていきましょう。
今回の新月のテーマは、「力の抜き方を知ること」。人間は、というより、生物は、休息なしに健全な生活サイクルを維持できませんが、コロナ禍が長期化してきた今だからこそ改めて、質の良い休息の仕方だったり、休息にどれだけ創意工夫を凝らしていけるかということに取り組んでいきたいところ。
例えば、一日のなかで感情的に落ち着かせるためにゆるむ時間をきちんと作るということだったり、そもそも身体のリズムを尊重することだったり。いずれにせよ、ただでさえしんどい現実のなかで喜ばしくない側面を追い払い、生命としての健全なリズムに入っていくための自分なりの切り口をひとつでも明確にしていくことが大切になってくるはず。
スポーツの秋というように、今では秋の季語になっているものに「運動会」がありますが、官僚としての最高職まで昇りつめた富安風生が引退後に詠んだ「秋晴の運動会をしてゐるよ」という、まるで子どもみたいな一句などは、力の抜け加減としては大いに参考にしていきたいところ。
そうして、今期はすこしでも朝起きたときにざらりとした不快な目覚めを迎える瞬間を減らし、自分のために快活な人生を組み立てていくことを大事にしていきましょう。
乙女座(おとめ座)
今期のおとめ座のキーワードは、「生成的コミュニケーション」。
コロナ禍以降、夫婦間の家事負担などが原因で離婚相談が増えているという話をよく見聞きするようになりました。大抵は共働きの家で、夫も家にいる時間が増えたにも関わらず、相変わらず妻ばかりが家事を負担しているというケースが目立つようです。
これは男性一般の母親幻想の投影が男性に都合のいいように行われているということも大きいとは思うのですが、それだけで終わる話ではないように思います。つまり、一方が過剰に受動的であるということは、もう一方が過剰に能動的であるということで、その方が楽だからということであって、これは言い換えればその中間的なコミュニケーションが成立しにくい状況になっているということなのではないでしょうか。
この点について、たとえば美学者の伊藤亜紗は『手の倫理』のなかで触覚の倫理性ということを取りあげて、「さわる/ふれることは、避けようもなく「他人のことに口を出す」行為なのです。他者を尊重しつつ距離をとり、相対主義の態度を決め込むことは不可能。この意味でさわる/ふれることは、本質的に倫理的な行為」なのだと述べているのですが、ではこうすれば正解です、問題ありませんという教科書がない中で、どのような積極的な立場が取りうるのか。
伊藤は、全盲の女性ランナーと目の見える伴走者との伴走体験の解説する中で、こうも述べています。
「「伴走」というと、見える人が見えない人をサポートする、福祉的な行為だと思われがちです。いかにも「介助」といった感じ。ところが実際の身体感覚としては、そこに「伴走してあげる側」と「伴走してもらう側」というような非対称性はない。つまり、伝達ではない、生成的な関係が生まれているのです。」
つまり、ここでは一方が<主>で他方が<従>のような上下関係に基づく一方的な伝達によるコミュニケーションとは一線を画した、互いのやり取りのなかで物事の意味を作り出していくような「生成的」なコミュニケーションが生み出されているのだと。
その意味で、今期のおとめ座もまた、難しい状況でこそ、互いのする/されるが反転していくような「ふれあい」をこそ大切にしていきたいところです。
参考:伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ)
これは男性一般の母親幻想の投影が男性に都合のいいように行われているということも大きいとは思うのですが、それだけで終わる話ではないように思います。つまり、一方が過剰に受動的であるということは、もう一方が過剰に能動的であるということで、その方が楽だからということであって、これは言い換えればその中間的なコミュニケーションが成立しにくい状況になっているということなのではないでしょうか。
この点について、たとえば美学者の伊藤亜紗は『手の倫理』のなかで触覚の倫理性ということを取りあげて、「さわる/ふれることは、避けようもなく「他人のことに口を出す」行為なのです。他者を尊重しつつ距離をとり、相対主義の態度を決め込むことは不可能。この意味でさわる/ふれることは、本質的に倫理的な行為」なのだと述べているのですが、ではこうすれば正解です、問題ありませんという教科書がない中で、どのような積極的な立場が取りうるのか。
伊藤は、全盲の女性ランナーと目の見える伴走者との伴走体験の解説する中で、こうも述べています。
「「伴走」というと、見える人が見えない人をサポートする、福祉的な行為だと思われがちです。いかにも「介助」といった感じ。ところが実際の身体感覚としては、そこに「伴走してあげる側」と「伴走してもらう側」というような非対称性はない。つまり、伝達ではない、生成的な関係が生まれているのです。」
つまり、ここでは一方が<主>で他方が<従>のような上下関係に基づく一方的な伝達によるコミュニケーションとは一線を画した、互いのやり取りのなかで物事の意味を作り出していくような「生成的」なコミュニケーションが生み出されているのだと。
その意味で、今期のおとめ座もまた、難しい状況でこそ、互いのする/されるが反転していくような「ふれあい」をこそ大切にしていきたいところです。
参考:伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ