【魚座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<1/9~1/22> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「苦みは早春の味わい」
一年のうちで最も寒さが厳しくなる「大寒」の直前にあたる1月18日には、2022年最初の満月をかに座27度(数えで28度)で迎えていきます。
ちなみに大寒の始まりは七十二候で言うと「欵冬華(ふきのはなさく)」にあたります。「欵」には叩くという意味があるのですが、蕗(ふき)は冬に氷をたたき割るようにして地中から地表へ出てくることから、冬を叩き割ると書いて「欵冬(かんとう)」という異名がついたのだとか。
同様に、変容の星である冥王星を巻き込んだ今回の満月のテーマは「とことん深い受容」。これまでのあなたの価値観や常識をバリバリと叩き壊し、心地よい日常へと闖入し、あなたを異世界へと連れ去ってしまうような“ストレンジャー(よそ者、流れもの、うさんくさいもの)”をいかにふところ深くに受け入れていくことができるか、そしてそれによってあなた自身の変容も感じとっていけるかどうかが問われていくでしょう。さながら、かつて70年代以降ネイティブアメリカンの文化に深く影響を受けていった現代アメリカの若者たちのように。
うまくいけば、これまでのあなたならとても受け入れられなかったり、価値観や世界観を共存させることができなかったような異質な考えや経験の芽が、まるで蕗の薹のような何とも言えない苦味を伴ってあなたの心中に流れ込んでくるはず。
それはやがてやってくる自然界の壮大な生まれ変わりの祭典である春の芽吹きを一足早く告げ知らせる、早春の味とも言えるかもしれません。
ちなみに大寒の始まりは七十二候で言うと「欵冬華(ふきのはなさく)」にあたります。「欵」には叩くという意味があるのですが、蕗(ふき)は冬に氷をたたき割るようにして地中から地表へ出てくることから、冬を叩き割ると書いて「欵冬(かんとう)」という異名がついたのだとか。
同様に、変容の星である冥王星を巻き込んだ今回の満月のテーマは「とことん深い受容」。これまでのあなたの価値観や常識をバリバリと叩き壊し、心地よい日常へと闖入し、あなたを異世界へと連れ去ってしまうような“ストレンジャー(よそ者、流れもの、うさんくさいもの)”をいかにふところ深くに受け入れていくことができるか、そしてそれによってあなた自身の変容も感じとっていけるかどうかが問われていくでしょう。さながら、かつて70年代以降ネイティブアメリカンの文化に深く影響を受けていった現代アメリカの若者たちのように。
うまくいけば、これまでのあなたならとても受け入れられなかったり、価値観や世界観を共存させることができなかったような異質な考えや経験の芽が、まるで蕗の薹のような何とも言えない苦味を伴ってあなたの心中に流れ込んでくるはず。
それはやがてやってくる自然界の壮大な生まれ変わりの祭典である春の芽吹きを一足早く告げ知らせる、早春の味とも言えるかもしれません。
魚座(うお座)
今期のうお座のキーワードは、「<私>への救済と<私>からの救済」。
占いという職業柄、普段から何かと「自分らしい人生を送りたい」「私にしかできないことを仕事にしたい」「私に与えられた使命を教えてください」といった生の声に接する機会が多いように思います。
どれもわたし、わたし、わたし、という叫びにも似た声に感じるのですが、こうした「私を生きるとは、私を仕上げて完成させる、ないし実現させることである」という考え方はたぶんにキリスト教(プロテスタント)的なものであり、哲学者の山内志朗は『小さな倫理学入門』において、そうした考えをどこまでも自己・個体の根底にあるものに帰着し、そうすることで救われようとする「<私>への救済」と呼んでいます。
山内はこうした「<私>への救済」と対比する形で、自己の滅却や輪廻からの脱出を願ったり、「「ピンピンコロリ」を願」って「寺社に参詣する」老人のような仏教に典型的な<私>から遠ざかるベクトルにおいて展開される思想を「<私>からの救済」と呼び、この二つをきちんと分けて考えることの重要性を指摘しています。
日本社会というのは、伝統的に後者の「<私>への救済」ということを社会の根底に据えてきたところがありますが、それはともすると「<私>というのは、世界から切除されるべき腫瘍に似ている」という極端な考えと結びつきがちであり、それは冒頭のような声を
真っ向から否定する無言の圧力となり、多くの人が感じている“生きづらさ”にも繋がっているのではないでしょうか。その点について、山内は次のようにも書いています。
「絶えざる苦しみにありながら、生を続ける者もあれば、一時の苦しみから生を絶つ者もいます。/人生とは何なのでしょうか。苦の多寡、喜びの有無は、そこでは肝要ではありません。比較などは成り立たず、死しか心にないでしょう。<私>とは治療されるべき病であると考える者に、「生命・個人の尊厳」や「生命の喜び」や「存在の意味」を説く者は愚かであるように思います。岬の先端に立って、ためらう人間を後ろから突き飛ばす行為に似ていないのでしょうか。/哲学もまた、<私>への救済と、<私>からの救済という二つのベクトルを合わせ含んでいると思います。」
そう、この二つのベクトルは二者択一を迫られるべきものではなく、事あるごとに「合わせ含」むことによって、少しずつ<私>を救っていくものであるはず。
今期のうお座もまた、そのどちらか一方に偏るのではなく、いかに自分に欠けがちなもう一方の思想を受け入れていけるかということに、改めて思いを寄せていきたいところです。
参考:山内志朗『小さな倫理学入門』(慶応義塾大学出版)
どれもわたし、わたし、わたし、という叫びにも似た声に感じるのですが、こうした「私を生きるとは、私を仕上げて完成させる、ないし実現させることである」という考え方はたぶんにキリスト教(プロテスタント)的なものであり、哲学者の山内志朗は『小さな倫理学入門』において、そうした考えをどこまでも自己・個体の根底にあるものに帰着し、そうすることで救われようとする「<私>への救済」と呼んでいます。
山内はこうした「<私>への救済」と対比する形で、自己の滅却や輪廻からの脱出を願ったり、「「ピンピンコロリ」を願」って「寺社に参詣する」老人のような仏教に典型的な<私>から遠ざかるベクトルにおいて展開される思想を「<私>からの救済」と呼び、この二つをきちんと分けて考えることの重要性を指摘しています。
日本社会というのは、伝統的に後者の「<私>への救済」ということを社会の根底に据えてきたところがありますが、それはともすると「<私>というのは、世界から切除されるべき腫瘍に似ている」という極端な考えと結びつきがちであり、それは冒頭のような声を
真っ向から否定する無言の圧力となり、多くの人が感じている“生きづらさ”にも繋がっているのではないでしょうか。その点について、山内は次のようにも書いています。
「絶えざる苦しみにありながら、生を続ける者もあれば、一時の苦しみから生を絶つ者もいます。/人生とは何なのでしょうか。苦の多寡、喜びの有無は、そこでは肝要ではありません。比較などは成り立たず、死しか心にないでしょう。<私>とは治療されるべき病であると考える者に、「生命・個人の尊厳」や「生命の喜び」や「存在の意味」を説く者は愚かであるように思います。岬の先端に立って、ためらう人間を後ろから突き飛ばす行為に似ていないのでしょうか。/哲学もまた、<私>への救済と、<私>からの救済という二つのベクトルを合わせ含んでいると思います。」
そう、この二つのベクトルは二者択一を迫られるべきものではなく、事あるごとに「合わせ含」むことによって、少しずつ<私>を救っていくものであるはず。
今期のうお座もまた、そのどちらか一方に偏るのではなく、いかに自分に欠けがちなもう一方の思想を受け入れていけるかということに、改めて思いを寄せていきたいところです。
参考:山内志朗『小さな倫理学入門』(慶応義塾大学出版)
<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ