12星座全体の運勢

「先見の営み」 

暦の上では春となり、旧暦では一年の始まりとされた「立春」直前の2月1日には、新たなスタートを先がけるようにみずがめ座12度(数えで13度)で新月を迎えていきます。 

秩序と権威を司る土星と重なり、変革と逸脱を司る天王星と鋭い角度でぶつかりあう今回の新月のテーマは、「先見」。すなわち、近い将来へのプランニングです。 

動物は秋口になると、冬の厳しさに応じて毛皮が厚くなるものですが、そうした近い将来へ向けた準備と計画が可能なのは、未来の可能性がすでに現在において作動しているからに他なりません。それと同様、今回の新月においてもいかに時代の流れがどこへ向かって変化しつつあるのか、そして、今の自分は新しい流れと古い流れのどちらに属しているのかといったことをきちんと見極め、ごまかさずに認識していけるかどうかが問われていくはず。 

例えば、この時期の季語に「明告鳥(あけつげどり)」というものがあり、これは早朝に夜明けを知らせるように大きな声で鳴くニワトリの異名ですが、これは毎日必ず東から朝日が昇るという周期的プロセスを認識すること、誰よりも早く夜明けの兆しに気付くこと、それから気付いたことを周囲に分かるように伝える手段を持っていることという、三つの条件がそろって初めて成立している先見の営みの好例と言えます。 

今期の私たちもまた、夜明けの到来だけでなく、どんなにかすかでも未来へ通じる兆しをいち早く感じ取り、その見通しを知らせるニワトリとなって、希望を広げる一助となっていきたいところ。 
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射手座(いて座)

今期のいて座のキーワードは、「面影の中の他者」。

射手座のイラスト
ここ2年間のコロナ禍を通じて、私たちは何を失って、その代わりに何を得たのか。今回のみずがめ座新月はそのように総括していくフェーズにいよいよ入ったという感が強いのですが、それは星の配置に基づくならば、何か目新しい認識に目を開かされるというよりは、どこかでうすうす知っていた認識の断片がつながって、血が通った形でつながり直すという印象に近いように思います。 
 
そもそも読書や音楽にふけるように、人は気付くとこの世この生のあらすじや舞台装置に夢中になっており、それは人間という存在がすでに何かを失って(お芝居であることを忘れて)この世界に生をうけ、いわば舞台上に投げ込まれることで存在している訳ですが、例えばそうした生のあやうい側面に「偶然性」という切り口から斬り込んでいこうとしたのが哲学者の九鬼周造でした。 
 
九鬼はヨーロッパ留学を通して自己同一性の哲学(私が私であることの洞察)を吸収していく一方で、西洋哲学では許されない何かを失ったりもらったりする“気まぐれ”へとかえって惹かれていった、否、たまたまもののはずみで思い出し、新たな実感とともに出会い直していった人でもありました。そんな九鬼の偶然性の哲学の核心について、松岡正剛は「面影と偶然性」というエッセイの中で次のように触れています。 
 
私が勝手に解釈すると、九鬼が大好きな偶然は「面影に向かって振り返るようなところ」に生じるものなのだ。九鬼自身の歌でいえば「母うへのめでたまひつる白茶いろ流行(はやり)と聞くも憎くからぬかな」や「ふるさとのしんむらさきの節恋しかの歌沢の師匠も恋し」に生じているような、そういう「思い出す」という偶然による逢着だ。自己と他者などという他人行儀なものであるはずがない。母上や歌沢の師匠という「面影の中の他者」なのである。」 
 
「私は端唄や小唄を聞くと、全人格を根底から震撼するとでもいうような迫力を感じる」と。また、次のようにも綴った。「私は秋になって、しめやかな日に庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むやうになった。私はただひとりでしみじみ嗅ぐ。さうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまふ。私が生まれたよりも、もつと遠いところへ。そこではまだ可能が可能なままであつたところへ。」と。」 
 
同様に今期の私たち、特にいて座の人たちもまた、もはや以前と同じではいられなくなった自分ということを、九鬼のいう偶然、すなわち「ふと」や「なつかしさ」の世界へと足を踏み入れ、「面影の中の他者」と「偶然による逢着」を遂げていくことがテーマとなっていくでしょう。 
 
 
参考:『現代思想2017年1月臨時増刊号 総特集=九鬼周造』(青土社) 
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<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ