【牡牛座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<2/20~3/5> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「記憶の「虫だし」」
土の中にあたたかい気配が届き、それを感じた虫たちが穴の中から這い出してくる「啓蟄」直前である3月3日に、うお座12度(数えで13度)で新月を迎えていきます。
「非現実的で、過度な理想主義」や「既存世界の<外部>への遁走」を意味する木星と海王星の組み合わせのすぐそばで形成される今回の新月のテーマは、「負の記憶の解消」。
桃の花がほころびはじめ、青虫が蝶に変身して夢見るように見え始める3月はじめの新月は、新しいサイクルの本格的な始まりというよりは、これまでのサイクルのなかに取り残されたままのわだかまりや怨念をきちんと鎮めていくことにあります。
昔の人は、蛇やカエルやトカゲなど、小さな生物はみな「虫」と呼び、この時期になる雷の音におどろいて虫たちが這い出してくるものと考えて、春の雷を「虫だし」と名付けていましたが、逆に言えば、寒さに耐えて地中でちぢこまっている虫が残っている限りは、まだすべての生命が喜びとともに祝う春ではなかった訳です。
その意味で、今回のうお座新月は、きたる春分(新しい一年の始まり)に向けて、自分だけでなく周囲のみなが忘れかけている記憶や歴史の業を解消していく霊的な働きに、いかに自分を一致させていくことができるかどうかが問われていくことになるでしょう。
「非現実的で、過度な理想主義」や「既存世界の<外部>への遁走」を意味する木星と海王星の組み合わせのすぐそばで形成される今回の新月のテーマは、「負の記憶の解消」。
桃の花がほころびはじめ、青虫が蝶に変身して夢見るように見え始める3月はじめの新月は、新しいサイクルの本格的な始まりというよりは、これまでのサイクルのなかに取り残されたままのわだかまりや怨念をきちんと鎮めていくことにあります。
昔の人は、蛇やカエルやトカゲなど、小さな生物はみな「虫」と呼び、この時期になる雷の音におどろいて虫たちが這い出してくるものと考えて、春の雷を「虫だし」と名付けていましたが、逆に言えば、寒さに耐えて地中でちぢこまっている虫が残っている限りは、まだすべての生命が喜びとともに祝う春ではなかった訳です。
その意味で、今回のうお座新月は、きたる春分(新しい一年の始まり)に向けて、自分だけでなく周囲のみなが忘れかけている記憶や歴史の業を解消していく霊的な働きに、いかに自分を一致させていくことができるかどうかが問われていくことになるでしょう。
牡牛座(おうし座)
今期のおうし座のキーワードは、「失われた贈与の環」。
今の日本ほどさまざまな宗教が生活のなかに入りこみ、それだけでなく個人によってアレンジされたスピリチュアルな教えが飛び交っている社会はないのではないかとふと思うことがありますが、思い返してみれば鎌倉・室町時代もまた、中世神話と総称される神仏習合の物語や、御伽草子などに見られる民話などが豊富に語りだされた時代でした。
神仏習合において、もともと外来のものとして入ってきた仏教に、この列島に土着してきた神々をも包んで、まったく新しい別の秩序を生みだそうという運動が展開されていった訳ですが、それは裏を返せば他の大きな神々と違って仏と対等の立場が得られず、寺社にも祀られず、路傍に打ち捨てられてしまった小さな神々が続出していった時代でもありました。
彼らは人びとからのお供物などの供養を受けられず、みるみる餓鬼や畜生と化していったのですが、これはどこか昨今増えている似非スピリチュアルでひと儲けを狙っている輩と似たものを感じてしまいます。
ただ、宗教学者の中沢新一はその時代の説話集である『宇治拾遺物語』に収録されている「清徳」という民間の聖(ひじり)にまつわる不思議な話に着目し、その面白さが「エネルギーの健全なる循環」との結びつきにこそあるのだということを繰り返し述べています。
この聖は広大な畑に生えたネギというネギを、持ち主の許しを得るや、あっという間にすべて食べてしまったのだそうですが、いわゆる“見える人”が見ると、うしろに「餓鬼、畜生、虎、狼、犬、烏(からす)、数万の鳥獣」の霊をぞろぞろと従えて、彼らに代わってネギを食べていたのだそうですが、中沢はこのお話について取り上げつつ、『日本文学の大地』のなかで次のように述べています。
「聖たちは全国を這うようにして歩いた。そして、辻々や峠や谷や廃屋や路傍の陰などに、これらの霊たちを見つけ出しては、共同体のおこなう供儀の儀式などよりも、ずっと普遍性を持った仏教の慈悲の力がつくりだす、より広大な贈与の環の中に導き入れてやっと救い出す、という事業にいそしんでいたのである。共同体が見捨てた餓鬼や精霊が、それによって、もういちど宇宙的なエネルギーの循環の中に、自分の居場所を見つけ出せるようになった。(…)聖の活動を通して、「餓鬼の蘇生」が可能になった。この時代を「説話の時代」と呼ぶならば、それはまったくこうした聖たちによる、失われた贈与の環を再建するという、一大事業によるものなのであった。」
今期のおうし座もまた、「餓鬼や畜生」を単に白眼視するのではなく、どうしたら共に「失われた贈与の環」へと還っていけるかということを考えてみるといいでしょう。
参考:中沢新一『日本文学の大地』(角川学芸出版)
神仏習合において、もともと外来のものとして入ってきた仏教に、この列島に土着してきた神々をも包んで、まったく新しい別の秩序を生みだそうという運動が展開されていった訳ですが、それは裏を返せば他の大きな神々と違って仏と対等の立場が得られず、寺社にも祀られず、路傍に打ち捨てられてしまった小さな神々が続出していった時代でもありました。
彼らは人びとからのお供物などの供養を受けられず、みるみる餓鬼や畜生と化していったのですが、これはどこか昨今増えている似非スピリチュアルでひと儲けを狙っている輩と似たものを感じてしまいます。
ただ、宗教学者の中沢新一はその時代の説話集である『宇治拾遺物語』に収録されている「清徳」という民間の聖(ひじり)にまつわる不思議な話に着目し、その面白さが「エネルギーの健全なる循環」との結びつきにこそあるのだということを繰り返し述べています。
この聖は広大な畑に生えたネギというネギを、持ち主の許しを得るや、あっという間にすべて食べてしまったのだそうですが、いわゆる“見える人”が見ると、うしろに「餓鬼、畜生、虎、狼、犬、烏(からす)、数万の鳥獣」の霊をぞろぞろと従えて、彼らに代わってネギを食べていたのだそうですが、中沢はこのお話について取り上げつつ、『日本文学の大地』のなかで次のように述べています。
「聖たちは全国を這うようにして歩いた。そして、辻々や峠や谷や廃屋や路傍の陰などに、これらの霊たちを見つけ出しては、共同体のおこなう供儀の儀式などよりも、ずっと普遍性を持った仏教の慈悲の力がつくりだす、より広大な贈与の環の中に導き入れてやっと救い出す、という事業にいそしんでいたのである。共同体が見捨てた餓鬼や精霊が、それによって、もういちど宇宙的なエネルギーの循環の中に、自分の居場所を見つけ出せるようになった。(…)聖の活動を通して、「餓鬼の蘇生」が可能になった。この時代を「説話の時代」と呼ぶならば、それはまったくこうした聖たちによる、失われた贈与の環を再建するという、一大事業によるものなのであった。」
今期のおうし座もまた、「餓鬼や畜生」を単に白眼視するのではなく、どうしたら共に「失われた贈与の環」へと還っていけるかということを考えてみるといいでしょう。
参考:中沢新一『日本文学の大地』(角川学芸出版)
<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ