【水瓶座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<5/15~5/28> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「大きなリズムや流れと協調しよう」
立夏をすぎ、すっかり太陽がまぶしい季節に入って、街では日傘をさしている人もちらほら見かけるようになってきた5月16日には、さそり座25度(数えで26度)で満月を迎えていきます。
さそり座26度のサビアンシンボルは「新しい土地でキャンプするネイティブアメリカン」で、キーワードは「臨機応変」。ここでの「ネイティブアメリカン」とは、「自然と調和して生きている人」の象徴であり、彼らは人生に対してなにか過剰な要求をすることがない代わりに、自身の内側から新しい欲求が湧き出てくるごとに、それにふさわしい場所へと直感的にたどり着くことができます。
26度というのは、外部への志向性が生まれる度数なのですが、今回は固定宮の終わり際で起きる満月で、かつ「硬直化したシステムや慣習」を意味する土星を巻き込んだ形で起こるため、柔軟宮に特有の“流動性”がひときわ強調されやすい配置と言えます。
今回の満月では、これまでしがみついてきた“正しい”やり方や“揺るぎない常識”とされてきたものの息苦しさや不自然さに改めて気が付き、そこから自然と離れていくアクションや気持ちの動きが出てきやすいでしょう。
土星は特定の社会の枠内だけで通用する常識や考え方を表しますが、「ネイティブアメリカン」が依拠している「自然」は、そうした狭い常識や考え方を相対化するより大きな生態系のリズムとともに絶えず動いており、そうした大きなリズムや時代潮流と協調して機能していくことに自分らしさを感じていけるかが、今期は問われていくはずです。
さそり座26度のサビアンシンボルは「新しい土地でキャンプするネイティブアメリカン」で、キーワードは「臨機応変」。ここでの「ネイティブアメリカン」とは、「自然と調和して生きている人」の象徴であり、彼らは人生に対してなにか過剰な要求をすることがない代わりに、自身の内側から新しい欲求が湧き出てくるごとに、それにふさわしい場所へと直感的にたどり着くことができます。
26度というのは、外部への志向性が生まれる度数なのですが、今回は固定宮の終わり際で起きる満月で、かつ「硬直化したシステムや慣習」を意味する土星を巻き込んだ形で起こるため、柔軟宮に特有の“流動性”がひときわ強調されやすい配置と言えます。
今回の満月では、これまでしがみついてきた“正しい”やり方や“揺るぎない常識”とされてきたものの息苦しさや不自然さに改めて気が付き、そこから自然と離れていくアクションや気持ちの動きが出てきやすいでしょう。
土星は特定の社会の枠内だけで通用する常識や考え方を表しますが、「ネイティブアメリカン」が依拠している「自然」は、そうした狭い常識や考え方を相対化するより大きな生態系のリズムとともに絶えず動いており、そうした大きなリズムや時代潮流と協調して機能していくことに自分らしさを感じていけるかが、今期は問われていくはずです。
水瓶座(みずがめ座)
今期のみずがめ座のキーワードは、「裏腹な強靭さ」。
現代という時代は、もはやかつてのような「成功」や「勝ち組」などの強い概念が個人の人生において、ほとんど成立しなくなってしまった時代に突入しているのだと言えますが、そこで個人に求められていく資質もすでに変化しつつあるのではないでしょうか。
すなわち、「手段を選ぶことなく、何が何でも成功してやろう」といった欲望の強さやそれを可能にする行動力といったものから、搾取的な関係や位置どりによって発生してしまう「取りこぼし」や「こぼれ落ち」に敏感に気付いてそれをみずからケアしたり、同様の他者の事情を察知して適切に寄り添っていくような「弱さ」への感受性と適応力へ。
そして、こうした前者から後者への移行は、どうしても自己乖離的になってしまう都市生活から離れ自然との距離を縮めることに成功していく体験に、ちょうど重ねられるように思うのですが、それは例えば昭和の無頼派作家・坂口安吾が、若い頃の短い教員時代を振り返った自伝的作品である『風と光と二十の私と』などを読むとよく分かるはず。彼は次のように書いています。
「私はそのころ太陽というものに生命を感じていた。私はふりそそぐ陽射しの中に無数の光りかがやく泡、エーテルの波を見ることができたものだ。私は青空と光を眺めるだけで、もう幸福であった。麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた。」
「雨の日は雨の一粒一粒の中にも、嵐の日は狂い叫ぶその音の中にも私はなつかしい命を見つめることができた。樹々の葉にも、鳥にも、虫にも、そしてあの流れる雲にも、私は常に私の心と語り合う親しい命を感じつづけていた。」
「私と自然との間から次第に距離が失われ、私の感官は自然の感触とその生命によって充たされている。私はそれに直接不安ではなかったが、やっぱり麦畑の丘や原始林の木暗い下を充ちたりて歩いているとき、ふと私に話かける私の姿を木の奥や木の繁みの上や丘の土肌の上に見るのであった。彼等は常に静かであった。言葉も冷静で、やわらかかった。彼等はいつも私にこう話しかける。君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから、と。」
坂口の「不幸と苦しみが人間の魂のふるさと」なのだという認識には、死の影に怯えつつそれに立ち向かうという彼の人生観が透けて見えますが、それこそ太宰や芥川など何人もの文学者の自殺に直接的間接的に関りつつも、それに流されずに生にしがみついていった坂口の裏腹な強靭さの秘訣であり、「弱さ」への感受性の底力なのだと言えるでしょう。
同様に、16日にみずがめ座から数えて「共同性」を意味する10番目のさそり座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、そうした坂口の裏腹さをこそ指針にしていくべし。
参考:坂口安吾『風と光と二十の私と』(講談社文芸文庫)
すなわち、「手段を選ぶことなく、何が何でも成功してやろう」といった欲望の強さやそれを可能にする行動力といったものから、搾取的な関係や位置どりによって発生してしまう「取りこぼし」や「こぼれ落ち」に敏感に気付いてそれをみずからケアしたり、同様の他者の事情を察知して適切に寄り添っていくような「弱さ」への感受性と適応力へ。
そして、こうした前者から後者への移行は、どうしても自己乖離的になってしまう都市生活から離れ自然との距離を縮めることに成功していく体験に、ちょうど重ねられるように思うのですが、それは例えば昭和の無頼派作家・坂口安吾が、若い頃の短い教員時代を振り返った自伝的作品である『風と光と二十の私と』などを読むとよく分かるはず。彼は次のように書いています。
「私はそのころ太陽というものに生命を感じていた。私はふりそそぐ陽射しの中に無数の光りかがやく泡、エーテルの波を見ることができたものだ。私は青空と光を眺めるだけで、もう幸福であった。麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた。」
「雨の日は雨の一粒一粒の中にも、嵐の日は狂い叫ぶその音の中にも私はなつかしい命を見つめることができた。樹々の葉にも、鳥にも、虫にも、そしてあの流れる雲にも、私は常に私の心と語り合う親しい命を感じつづけていた。」
「私と自然との間から次第に距離が失われ、私の感官は自然の感触とその生命によって充たされている。私はそれに直接不安ではなかったが、やっぱり麦畑の丘や原始林の木暗い下を充ちたりて歩いているとき、ふと私に話かける私の姿を木の奥や木の繁みの上や丘の土肌の上に見るのであった。彼等は常に静かであった。言葉も冷静で、やわらかかった。彼等はいつも私にこう話しかける。君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから、と。」
坂口の「不幸と苦しみが人間の魂のふるさと」なのだという認識には、死の影に怯えつつそれに立ち向かうという彼の人生観が透けて見えますが、それこそ太宰や芥川など何人もの文学者の自殺に直接的間接的に関りつつも、それに流されずに生にしがみついていった坂口の裏腹な強靭さの秘訣であり、「弱さ」への感受性の底力なのだと言えるでしょう。
同様に、16日にみずがめ座から数えて「共同性」を意味する10番目のさそり座で満月を迎えていく今期のあなたもまた、そうした坂口の裏腹さをこそ指針にしていくべし。
参考:坂口安吾『風と光と二十の私と』(講談社文芸文庫)
<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ