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今期のおひつじ座のキーワードは、「微かに響く音」。
ある朝目が覚めて、ふと耳を澄ませると、何処か遠くから太鼓の音が聞こえてきた。ずっと遠くの場所から、ずっと遠くの時間から、その太鼓の音は響いてきた。とても微かに。そしてその音を聞いているうちに、僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ。」
そう書いた村上春樹は40歳を前に日本を出て、三年間の異国生活へと踏み切り、その中で大ヒット作となる『ノルウェイの森』を書き上げ、作家として大きな転換を経ていきました。
おそらく、それは物理的な「音」というより、今いる自分とは別のレイヤーの現実からの誘いであり、あるいは自身の内部からむくむくと湧いてきた未知への衝動が「音」へと置き換わって経験されたものと考えられます。
それをただのノイズととって受け流してしまうか、これまでとは決定的に異なるの秩序への密かな共鳴なのだと気付くかは個人差と言うしかありませんが、村上の場合は、たまたま後者だったということなのではないでしょうか。
いま密かな葛藤や、既存の現実への違和感を強く感じていきやすいおひつじ座の人たちにとって、今回の満月は自分が心の底で何に共鳴しているのかを、改めて浮き彫りにしていくはず。そんなときは、自分の胸にそっと手を置いて、真剣に耳を澄ませてみましょう。
出典:村上春樹『遠い太鼓』(講談社文庫)
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今期のおうし座のキーワードは、「泥睡」。
古代ギリシャのアスクレピオス神殿では、病の治癒の祈願にやってきた人々に、眠りによる自然治癒が推奨されていました。
松村栄子の小説のタイトルともなった『至高聖所』は、そんなアスクレピオス神殿の一番奥にある聖所を意味する「アバトン(ἄβατον)」の直訳であり、小説内には「眠りはいつもジュエリー・ケースに施された絹の内張りのようになめらかで、わたしは重みのある宝飾品のようにすとんと心地よくその中に落ちた」という描写が出てきます。
「泥のように眠る」という慣用表現もあり、こちらはやわらかい泥の中にずぶずぶと入っていくような感覚を表しますが、先のジュエリー・ケースの喩えは「すとん」というなめらかなオノマトペが効いて、肌に優しく吸い込まれるような感覚を想起させてくれます。
「ああ、夢を見ている」と自分で思いながらも、重力に逆らえず夢の中に吸い込まれていく。神殿の聖所で見る夢には、しばしば神が現れて治療を施し、目が覚めた時には治癒していたという伝承が遺っていますが、きっとそんなときに見る夢は、泥酔ならぬ「泥睡」のごとき深い眠りだったのではないでしょうか。
そして今回の満月前後は、特におうし座の人たちにとって直感力が冴えてきやすいタイミングとなっていくはず。夢見たことをヒントにするべく、できるだけ眠りの質を高めていきたいところです。
出典:松村栄子『至高聖所』(福武文庫)
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今期のふたご座のキーワードは、「予感を貯める」。
もし喜怒哀楽を研ぎ澄ましていくことが、人間の幸福と大きく関係しているならば、それらが摩耗しないための"研ぎ石”となるのは物事の迫りくる終わりの予感でしょう。
例えば古井由吉は『影』という短編小説の中で、「人間の生命」を「半浸透膜で外と隔てられた細胞のようなものである」と「細胞」のイメージでとらえ、「時の流れは自由にその中を通り抜けていく」と書いたあと、その「通り抜けていく流れから、生命は少しずつ死を漉(こ)し取っては内側に貯めていく」と描いてみせました。
これもまた死(終わり)と裏腹にある生(始まり)の姿であり、もし死を漉して貯めることをしなくなれば、その細胞=生にはもはやどんな喜怒哀楽も生じないはず。
人が生命である限り、人知れず流れている地下水脈のように、日日刻刻と喪失の予感に触れながら、ときに怒りに震え、哀しみでくたくたになり、喜びを爆発させ、楽しさに思わず笑みがこぼれる。そうやって、時の定めの中でいっとき自分を光り輝かせていくしかないのです。
強烈な感情の揺れ動きや深く濃厚な人間関係のやり取りがテーマとなっていく今期のふたご座にとって、それらに自分が振り回されないためにも、すぐそばにある死の感触をきちんと感じ直し、その純度を高めていきましょう。
出典:古井由吉『水』(講談社文芸文庫)
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今期のかに座のキーワードは、「夜の川」。
映画化もされた小説『風ふたたび』の中で、ヒロイン・久松香菜江について、別の登場人物・川並陽子がこんな人物像を展開する場面があります。
「ね、分かるでしょう、夜の川。なんて云うのかな、黒々と、静かに流れて、そばにいると、引き込まれそうになる」
彼女はこの説を本人に向かっても「夜の川よ。暗いかと思うと、明るく灯がうつってる。じっとしているのかと思うと、流れてるそばへ行くと、引っ込まれそうな気になる」と説明され、畳みかけるかのように「あなたはそうなのよ」と決めつけます。
話の最後で、この川並陽子という人物は自分の隠し通してきた罪の告白をするのですが、もしかしたらヒロインに対し、自分の罪の意識をあぶりだし、増幅してしまうような何かを感じ、あるいは罪悪感そのものを投影し、逃れられない気持ちを強めていったのかも知れません。
言葉の通り、夜の川のごときヒロインの存在感に飲まれていった訳ですが、それは無視できない人物にひき寄せられそこに自分の身を寄せていくこととなるであろう今期のかに座にとって、どこか他人事とは思えないはず。
相手に自分は何を投影しているのか、改めて思い当る節を探っていくといいでしょう。
出典:永井龍男『風ふたたび』(角川文庫)
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今期のしし座のキーワードは、「註釈」。
幕末から維新にかけての激動期を舞台に、剣の道ひとつに賭けた武士の人生の哀歓と誇りを描いた中山義秀の時代小説『碑(いしぶみ)』において、中山は「後半生は、彼のむちゃな前半生に対する一種の註解みたいなもの」と書きました。
一人の生涯を二つに分けて、両者の関連を「註解(=註釈)」という作業になぞらえてみせた訳です。当時、武士は激動の時代の変化にうまく適応できた者と適応できなかったものの二極化が強まった時代でもありましたが、ここでいう「註釈」とは、信念を貫く勇気というより、信念を曲げる勇気とセットでついて回り続けるもののように思えます。
そして、時代の変化の激しさという意味では、現代の私たちもそうそう負けてはいないでしょう。昭和の時代には当たり前だった終身雇用制度はもはや砂上の楼閣のごとき頼りないものとなり、数年ごとに転職を重ねたり、フリーランスに転身したりするのも当たり前のこととなりつつあります。
しかし、一方で過去のキャリアの振り返りや総括がおろそかなまま、次へ次へ先へ先へとついつい生き急いでしまっている人も多いのではないでしょうか。
その意味で、これまでの転身や転職の意味や本質について、ここで改めて掘り下げ、「註釈」を加えていくこと。あるいは、まだ前半生を生きているのであれば、自分がどんな世代や時代を生きているのかということを改めて俯瞰してみること。
それが今期のしし座のテーマなのだと言えるでしょう。
出典:中山義秀『碑・テニヤンの末日』(新潮社)
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今期のおとめ座のキーワードは、「苔に湧く水」。
しばしば炎に例えられる「怒り」と同じ様に、誰かを恋慕う「好き」という感情もまた、たがいに熱く燃え上がるものとして、その激しさや勢いが「火」のイメージに託されがちと言えるでしょう。
しかし、例えば林芙美子が若い貧乏夫婦の日常を描いた『魚の序文』という小説では、「結婚して苔に湧く水のような愛情を、僕達夫婦は言わず語らず感じあっていた」と書いて、男女間の愛情を穏やかな「水」のイメージに託しています。
この夫婦は、夫のほうは文学青年くずれでまるで生活力がないのに対し、妻のお菊さんは何かにつけてたくましく、物資や働き口をそれは見事に取ってくる機転や機知に富んでいて、彼女のおかげで貧乏ながらも明るさを失いません。
そして、「彼女は猫のように魚の好きな女であった。どんな小骨の多い魚でも、身のあるところはけっして逃さなかった」とあるように、やはりその背景には「水」のイメージがつきまとうのです。
その意味で、「自然体の恋」がテーマとなってくるおとめ座の人たちもまた、激しく盛り上がるだけが愛ではない。もっと穏やかで、ささやかで、でもおいしそうで、いい匂いが漂ってくるような、そんな愛の消息を敏感にかぎつけていきたいところです。
出典:林芙美子『ちくま日本文学020 林芙美子』(ちくま文庫)