【最新12星座占い】<8/23~9/5>哲学派占い師SUGARさんの12星座占いまとめ photoGallery

SUGARの12星座占い

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【SUGARさんの12星座占い】<8/23~9/5>の12星座全体の運勢は?

「踊らにゃソンソン」
秋の気配が漂い始める「仲秋」へ入っていく直前の9月2日には、うお座で満月を迎えていきます。

初秋の風が吹くとされる9月1日から3日にかけて、富山県では毎年「おわら風の盆」という日本を代表するお祭りが催され、編み笠をかぶった人々が夜を徹して躍り続ける幻想的な光景が見られるのですが、その魅力は何と言っても、誰かに見せるためではない、純粋な自分の楽しみのための踊りである点にあります。

同様に、今回のうお座満月のテーマも「今を楽しむ」、すなわち、未来の払い戻しを夢見て無理を重ねつつ、今この瞬間のささやかな幸福を犠牲にし続けるのではなく、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」くらいのゆるさで、あるがままに生きるモードへ入っていくことにあるのだと言えます。

そのためにも、今季はあまり大真面目になって特定の"実現すべき目標”や"あるべき理想”にはまり込んでしまうのではなく、まずは不意に流れてきた笛や太鼓の音(ね)に誘われて、フラフラと好き勝手に動いてみることから始めてみるといいでしょう。
今期のおひつじ座のキーワードは、「惰性からの覚醒」。

「眠れなくなって十七日めになる」という一文から始まる村上春樹の「ねむり」という短編作品は、夫も息子もいる平凡な主婦が主人公で、ひょんなことから彼らに気付かれることなく不眠になったことで彼女の生活は一転していきます。

家事もきちんとこなし、趣味であったプール通いも続けながら、眠らなくなったことで余計にできた時間を「自分の時間」とし、トルストイの大長編小説「アンナ・カレーニナ」を黙々と読みふけりながらチョコレートを食べる日々を送っていく。

こう書くと何不自由ない自由を満喫しているようですし、実際、彼女自身もはじめはつねに生活に追われるような漫然としたこれまでの日々から、自分の人生を取り戻しているのだという考えを魅力的なものと感じ、読書と間食を重ねつつ、不眠以前の暮らしを振り返りながら思索を深めていきます。

それでは私の人生とはいったい何なのだろう? 私は傾向的に消費され、そのかたよりを調整するために眠る。それが日々反復される。朝が来て目覚め、夜が来て私は眠る。その反復の先にいったい何があるのだろう?何かはあるのだろうか?(中略)たぶん何もない。ただ傾向と是正とが、私の体の中で果てしない綱引きをしているだけだ。

一方で、彼女は次第に不眠以後の暮らしのおかしな点にも気付き始めるのです。それは、全く眠れないにも関わらず「私」の意識はどこまでも明晰であること。そして、体もちっとも衰弱しておらず、むしろいつもより元気なくらいであること。

そうして覚醒し続ける中で、彼女はふと「死」について思い、こう自問するのです。「死ぬということが、永遠に覚醒して、こうして底のない暗闇をただじっと見つめていることだとしたら?

ここまで読んで、もしかしたら、と読者は気付き始めるはず。この作品に描かれている彼女の「日常」の方こそが「夢」だとしたら。例えば、彼女が何らかの事故か病気で昏睡状態にあり、まさに死の瀬戸際で何らかの「夢」を見ているのだとしたら、と。

今期のおひつじ座もまた、どこかでそうした彼女の置かれている状況と通底しているところがある様に思います。つまり、走馬燈のようにこれまでの人生を総括してみる自由と、「夢のようでない夢」から醒めること、そのどちらをも必要としているという点において。


参考:村上春樹「TVピープル」(文春文庫)
今期のおうし座のキーワードは、「滑稽を笑うまなざし」。

優れた文学作品を読む楽しみは、素晴らしく立派で非の打ち所のない人物を知ることより、むしろただ生きているだけで、滑稽さや失敗をどうしようもなく抱え込んでしまうものだということを痛感することのうちにあるように思います。

例えば、18世紀イギリスの古典的名作であり、夏目漱石も絶賛したオースティンの『高慢と偏見』の登場人物は、誰一人として完璧な人物がいません。男も女も総じてあるときは善人だったりあるときは悪人だったりして、間違えたり、妙なプライドを持っていたり、暴走したりする。作者オースティンのまなざしは登場人物全員を平等に「恥ずかしい人」として扱うのです。

母親の過剰な心配性も、父親の辛辣さや無責任さも、若い娘にやりこめられるお金持ちだがコミュ障の青年も、激しい思い込みでやらかす友人も、作者が片っ端から笑い飛ばしていくことで、その存在が根本のところで許され、救われていく。

われわれは何のために生きているのかね? 隣人に笑われたり、逆に彼らを笑ったり、それが人生じゃないのかね?

おそらくこれは登場人物の口を借りた、作者自身の地声でしょう。そして、もし今あなたが人に笑われないように、恥をかかないように、可能な限り世の中の「普通」から外れないように生きているのなら、本書のページをパラパラめくって読み進めてみることをお勧めします。

そうして、理想ばかり追うのでも、かと言って現実から目を逸らすのでもない、自分の立派じゃなさを、たはは、と笑って許してくれるようなまなざしを取り入れていくこと。それこそ、今期のおうし座の大切なテーマとなっていくはずです。


参考:ジェイン・オースティン、中野康司訳「高慢と偏見」(筑摩書房)
今期のふたご座のキーワードは、「狂気的ユーモア」。

太宰治と言えば、4回の自殺未遂と薬物中毒を繰り返した末に、愛人と入水自殺を遂げるという華麗なる経歴ばかりに目が行きがちですが、ちゃんとそんな自分を、作品を通してエンタメ化してみせるサービス精神に関してもピカ一だったのではないでしょうか。

例えば、短編作品『ヴィヨンの妻』は稀代のクズ夫とそれでも家庭をなんとか営もうとする妻の話ですが、これなどはほとんど自分に付き合わされた妻の側から描いてみせた作者の自画像と言えます。

そのクズ夫である自称詩人の大谷は、家に一切お金を入れない上に、酒飲みだわ、めったに家に帰ってこないわ、たまに帰ってきて妙に優しくなったかと思えば、行きつけの飲み屋のお金を盗んだまま失踪してしまう。

それで、たまらず家まで押しかけてきた飲み屋を営む夫婦を部屋に招いて、夫の犯した行状やこれまでの経緯を聞いていくのですが、その時の妻のリアクションがまた凄い。

またもや、わけのわからぬ可笑しさがこみ上げて来まして、私は声を挙げて笑ってしまいました。おかみさんも、顔を赤くして少し笑いました。私は笑いがなかなかとまらず、ご亭主に悪いと思いましたが、なんだか奇妙に可笑しくて、いつまでも笑いつづけて涙が出て、夫の詩の中にある「文明の果の大笑い」というのは、こんな気持の事を言っているのかしらと、ふと考えました。

その後、この奥さんは仕方なしにその飲み屋で働いて少しずつお金を返していくことになるのですが、すぐに旦那が他の行きつけのバーのママかなんかと二人連れで訪ねてきて、立て替えてもらうところを横目で見ている。

そして、そのまま彼女が飲み屋の看板娘となって働いていると、ちょくちょく旦那が飲みに来るので、一緒になった帰り道に「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」と笑ってみせるのだからたまりません。

極めつけは、新聞に「にせ貴族」の「人非人(ひとでなし)」と悪口を書かれたと愚痴る旦那に対して、奥さんが次のように言う作品最後のシーンでしょう。

人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ

この時の、旦那の呆気にとられた顔が目に浮かぶようですが、今期のふたご座もまた、どうしようもない社会の現実に黙って従うのではなく、むしろアッと言わせるためにも、願わくば、この奥さんくらいの狂気とユーモアが絶妙にバランスした境地を目指していきたいところです。


参考:太宰治「ヴィヨンの妻」(新潮文庫)
今期のかに座のキーワードは、「憧れが生まれてくる場所」。

日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹の恩師でもある天才数学者・岡潔と、日本近代において批評というジャンルを確立した小林秀雄。そんな理系と文系の天才二人が、「情緒」や「直観」といった普通は学問においても軽くかわされがちな問題を、絶妙なところでつかまえていかんとその勘所を語り合った対談。それがこの『人間の建設』です。

それでこの対談、なんとなく読むと、書いてあることのほとんどがなんだかよく分からない。というのも、二人がどちらとも、むずかしいことをわかりやすく語ろうとは決してしていないから。

「岡 人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。

小林 好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。たとえば野球の選手がだんだんむずかしい球が打てる。やさしい球を打ったってつまらないですよ。ピッチャーもむずかしい球をほうるのですからね。つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。(中略)つまり、野球選手はたしかにみな学問しているのですよ。ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないのですな。

岡 そうですか。

小林 むずかしければむずかしいほど面白いということは、だれにでもわかることですよ。そういう教育をしなければいけないとぼくは思う。」

確かに、二人は会話で、相手に遠慮した甘ったるい球はいっさい投げないし、だからこそカッコよく見えるのでしょう。なにか、こちらが見えていない世界が見えているんじゃないか、こちらをそんな気にさせてくれるのです。

そして、「憧れ」というものは、元来こうした甘さの入り込む余地のない光景を目撃するところからしか生まれてこないのではないでしょうか。

今期のかに座もまた、そうした憧れの光景を追いかけていくこと、そして実際にはじけあう精神の火花や、そのピリピリとした緊張感を肌身で感じてみることを大切にしていきたいところ。


参考:小林秀雄、岡潔「人間の建設」(新潮文庫)
今期のしし座のキーワードは、「生きて生き抜くため」。

山岸涼子の短編漫画に『朱雀門』という漫画があります。部活に励みつつも読書を好む中学生の主人公・千夏は、イラストレーターとして気ままな独身生活を送る素敵な女性である叔母が婚活を始めたと聞いて驚き、家に遊びに来た叔母と芥川龍之介の『六の宮の姫君』の話をします。

ある平安時代の姫君が親に死なれ、頼れる人もおらず、途方に暮れている。世話をしてくれた男も京から離れてしまい、泣いてばかりの日々を送った後、門の下で息を引き取る――。やがて門のほとりでは女の悲壮な鳴き声が聞こえるようになるのですが、それに対して法師は「極楽も地獄も知らぬふがいない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ。」というのです。

この結末に千夏は納得がいかず憤慨しますが、それを聞いた叔母はこう言います。

「あら そこが芥川龍之介のすごいところだわよ
「生」を生きない者は「死」をも死ねない…と彼は言いたいのよ」

この六の宮の姫君は、ただ周囲が何とかしてくれることを待つだけで、自分でどうこうしていない。そうして自分で自分を満たせないところを「「生」を生きない」と表現している。さらに叔母は続けます。

「生とはね、生きて生き抜いてはじめて『死』という形で完成するんですって」

つまりは生きるという実感がなければ、死ぬという実感がなくてあたりまえなのよ。六の宮の姫君が自分が死んだという実感もまたわからないまま死んだんだと思うわ。結局死をうけいれられなかったのよね

このあたりの二人の会話は、なぜ叔母が突然お見合いを始めたのかという謎とも関連するところなのですが、とはいえこれは、結婚とか婚活といった話に限った話ではないでしょう。

援助だけは受けながら人を深く愛することとは無縁に、楽に生きていこうとするよりも、誰かのそばで苦しみを抱えつつそれをなんとか許容して生きていくこと

それは叔母の選択であると同時に、今期のしし座にとっても重要な示唆を与えてくれるはず。自分という固有の生を完成させるためには、何が必要なのか。どうしたら「生きるという実感」が得られるのか。あなたなりに見極めていきたいところです。


参考:山岸涼子「二日月(山岸涼子スペシャルセレクションⅧ)」(潮出版社)
今期のおとめ座のキーワードは、「胸の奥の穴」。

「女という性」に斬り込んでいく中村うさぎの言葉の切れ味はゾッとするほど鋭く、その傷口を自分にも課す代わりに、それを読む者にも血を流さず素通りすることを許さない。そんな印象を受けます。

多くの女は、欠落した自己に飢えている。オトコなんて、その自己の投影物に過ぎないの。だから女は「どんなオトコに愛されたいか」に固執する。それはオトコの個人性ではなくて、オトコの属性。(中略)つまり、彼女たちの選ぶオトコの属性は、彼女たちが自分自身に欲しがっている属性なのね。

彼女自身もライトノベル作家として成功して以降、壮絶な買い物依存症やホスト狂いに陥っては、それをエッセイにし、さらには整形しまくり、デリヘル嬢にまでなってきた訳ですが、それは単なる浪費しがちな都会生活の代償などという生易しいものではなく、「これ以上は人としてやばいでしょ」というラインの一歩も二歩も先へとグイグイと踏み込んでいったギリギリのところで勝ち取った成果なのではないでしょうか。

女たちが「あたしのこと愛してる?」と確認したがるのは、べつに男に捨てられる事を心配しているのではない。「愛されている」という「関係性の中での自己確認」ができないと、オキシトシンの分泌が止まり、相手の男に対する愛情も消え失せてしまうからだ。

どうしようもなく愛し愛されたいという欲望の源泉は、結局ナルシシズムなのだと彼女は言う。さらに、それは同時に「「孤独」という名の、決して埋まることのない穴」なのだと。

「その穴は、若い頃には針のように小さいが、年を取るにつれて徐々に大きくなっていき、そこから冷たい風がひゅうひゅう吹き込んでくるようになる。その風を胸の奥に感じた時、女たちはふと仕事や家事の手を止めてこう呟くのだ。

「私の人生には、何の意味があったんだろう?私という人間を、いったい誰が理解してくれているというの?結局、私という存在には、何の価値もないんじゃないかしら?」」

これはおそらく彼女自身の心の声そのものであり、彼女は苦しみながらもこうして問いを真摯に追いかけ続け、それを本にしてきたのでしょう。

今期のおとめ座もまた、彼女ほどではないにせよ、投影にただただ耽溺するのではなくて、きちんと自身の「穴」に向き合って、そこに問いかけていきたいところです。


参考:中村うさぎ「愛という病」(新潮文庫)
今期のてんびん座のキーワードは、「幻想を脱ぎ捨てて」。

人間は日常生活をひっくりかえすために戦争をする。そのことによってわれわれがいかに日常生活を憎んでいるかがわかる。

心理学者の岸田秀は、こうしてさまざまな常識をことごとく「それは原因と結果が逆だ」とひっくり返してゆきます。

人間はポンコツだからこそ、文明を作らざるを得なかったのであり、著者が「壊れたラジオ」と形容する人間は、普段の日常において音がうまく拾えなかったり、体の信号が伝わらなかったりといったことがしょっちゅう起きている訳です。

そして、そうした惨憺たる在り様をじょうずに覆い隠すために、人間は文明だけでなく、おおいに幻想や狂気を必要とするのだと。

例えば、自己嫌悪の効用について、岸田秀はこんなふうに言うのです。

自己嫌悪の強い人というのは、自分の悪いところを客観的にみつめる良心的な人間であると自分では思いがちだけれども、実際には自分を客観的に見つめられない偽善者である。

結局、理想の自分が強くて、あるいは、自分は理想が高いだけなのだと思い込みたいからこそ、わざわざ自己嫌悪しているふりをしてしまう。だから、自己嫌悪する人というのは、ただ自分を安心させたいという欲求が強いだけなのであって、決してリベラルでも良心的でも何でもない。それは幻想なのだ。

ここまで言われてしまうと、一種の快楽を感じてしまう人も多いのではないでしょうか。でも、それがほとんど呪いになってしまっている幻想ならば、むしろどんどん解いてしまえ。それで、世界がどう変わって見えるのか、試してみればいい。

そして、まさに今期のてんびん座もまた、そうして着込んでいた幻想の衣をエイヤっと脱いでみせるにはちょうどいい頃合いのはず。便利な幻想も、着込み過ぎれば重荷になる。2020年下半期は、もう少し身軽になっていきたいところです。


参考:岸田秀「ものぐさ精神分析」(中公文庫)
今期のさそり座のキーワードは、「狂うことくらいなんでもない」。

この『月と六ペンス』という小説は、主人公の「私」がひょんなことから40過ぎの冴えない画家と出会うところから始まります。彼はロンドンで何不自由ない生活を送っていたのに、ある日突然、失踪してしまいます。それは分かってみるとなんと、「絵を描く」ために何もかも捨てたというのです(ゴーギャンがモデルと言われている)。

彼は芸術のために人生ががたがたに狂ってしまってもまるでお構いなしなのですが、一体そうまでして、なぜ絵を描かなければいけないのか。

「彼が色や線に固有の価値を置いているのは間違いない。駆り立てられるようにして自分の感じたものを伝えようとしている。そのためだけに、独自の色彩や描線を創り出したのだ。追い求める未知の何かに近づくために、なんのためらいもなく対象を単純化し、歪めた。事実などどうでもいい。なぜなら身の回りにあふれる瑣末な事象の奥に、自分にとって意味があると思えるものを探し求めていたからだ。まるで、宇宙の魂に触れ、それを表現せざるを得なくなったかのように。」

そう、一度触れてしまったら、もう後には戻れなくなる。そんな体験が人生には確かにある。そして、素晴らしい芸術というのは、そこに深く魅入られた天才たちの、他のすべてを犠牲にせんとするほどの努力によって初めて成り立つものでもあります。

美とは、芸術家が世界の混沌から魂を傷だらけにして作り出す素晴らしいなにか、常人がみたこともないなにかなんだ。それもそうして生み出された美は万人にわかるものじゃない。美を理解するには、芸術家と同じように魂を傷つけ、世界の混沌をみつめなくてはならない。

作るのも、見るのも、生半可では許されない。ちょっとやそっと狂わされるだけではなく、自分から狂いに行くくらいでなければダメなのだ。おそらく、著者のサマセット・モームもまた、小説の世界でそうした狂気に親しんでいたのでしょう。

そして、今期のさそり座もまた、自分がこれはと思ったことなら何でもあれ、そのために狂うことくらいなんでもないのだという、この著者や画家の腹の括り具合を見習っていきたいところ。というのも、大方のさそり座であれば、狂気に陥るきっかけとは、ひょんなところでもう既に出会っているはずですから。


参考:サマセット・モーム、金原瑞人訳「月と六ペンス」(新潮文庫)
今期のいて座のキーワードは、「堕ちよ、生きよ」。

「半年のうちに世相は変った。醜の御楯(しこのみたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。」

これは坂口安吾が戦後すぐに書いた評論『堕落論』の冒頭の一節ですが、どこか2020年の社会状況とも通底しているのではないでしょうか。

人間というものは戦争に負けたから堕ちるのではなく、人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ」と喝破した坂口安吾の言葉を借りれば、コロナで人が変わってしまったのではなくて、ただ元から備わっていた変わらぬ堕落の本性が出ただけであって、変わったのは世相の表層だけだということになります。

しかし、堕ち切ることができないのもまた人間の性(さが)でもあって、きれいごとを並べて誰かを安易に甘やかしたり、自分に下駄をはかせて理想論を振りかざしたり、SNSで誰かがみているだろうタイミングを見計らって「死にたい」などと呟いてしまう。

どうしてそうなってしまうのか。著者の言う「堕落」とは、生きて生きて生き抜くことであり、「即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見捨てられ、父母にまで見捨てられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている」のでなければならないのだと言います。

確かに言葉は厳しく、著者の鋭い眼光がこちらを睨んでいるような気さえしますが、それでもその言葉がカッコよく感じられるのは、やはり著者自身の孤独と姿勢のよさがそこに滲み出ているからでしょう。

そして、今期のいて座にとって大いに指針となるのも、そうした意味での坂口安吾に他ならないはず。

みずからの孤独さを誤魔化さず、生きて、戦って、現実の「痛み」の手触りをその手に引き受けていくことを通して、初めて「堕落」は可能となっていくのです。


参考:坂口安吾「堕落論」(新潮文庫)
今期のやぎ座のキーワードは、「違った自分となる」。

『クローディアの秘密』の主人公であるクローディアは、アメリカに住むごく普通の12歳の女の子であり、下に弟がいて、長女だからといって色々と無理を押し付けられることに不満を抱いていました。彼女は「不公平な待遇にも、まいにち同じことのくりかえしにも、すべてあきあきした」ことから、家出を計画します。

ただし、彼女はいわゆる児童文学ではお決まりの「冒険的」な家出はしません。

「むかし式の家出なんか、あたしはぜったいにできっこないわ、とクローディアは思っていました。かっとなったあまりに、リュック一つしょってとびだすことです。クローディアは不愉快なことがすきでありません。(中略)そこでクローディアは、あたしの家出は、ただあるところから逃げ出すのではなく、あるところに逃げ込むのにするわ、ときめました。どこか大きな場所、気持ちのよい場所、屋内、その上できれば美しい場所」

そうして彼女はニューヨークのメトロポリタン美術館へと家出するため、同伴者として一番お金を貯めている弟を選んでその気にさせ、「いろいろなものをなしですませる練習」までして、実行します。ただし、彼女の家出はメトロポリタン美術館でとある天使の像と出会ったことで曲がり角を迎えます。

ミケランジェロがしたかどうか、知りたいのよ。なぜだか、じぶんでもわからないの。ただ、どうしても知らなくなっちゃって感じなの。たしかなことを。どんな方法でもいいのよ。ほんとのことを発見すれば、あたしは救われるの。

天使の像との出会いは、彼女の家出の目的を像の秘密を知ることを通して「ちがったあたしになって帰りたい」というものに変えていったのです。

けっして危険ではないけれど、自分をこれまでとは違ったものにしてくれる、そんな活路をクローディアは「秘密を知ること」の中に見出した訳ですが、ある意味でこれは今のやぎ座にとっても大切なテーマとなっているのではないでしょうか。

自分の中の危険を嫌う性質と、知りたいという強い欲求とを、喧嘩させることなく両立させていくこと。それこそ、今期のやぎ座にとっての自己解放の道なのだと言えます。


参考:E・L・カニグズバーグ、松永ふみ子訳「クローディアの秘密」(岩波少年文庫)
今期のみずがめ座のキーワードは、「自由気ままなホリー」。

この小説には、象徴的に「猫」が登場します。飼い主は、小説家志望の主人公の青年「僕」のちょうど真下の部屋に住むホリー・ゴライトリー。16歳にも30歳にも見える、素性も謎なホリーは猫に名前をつけていない。

「「この子とはある日、川べりで巡り会ったの。私たちはお互い誰のものでもない、独立した人格なわけ。私もこの子も、自分といろんなものごとがひとつになれる場所をみつけたちとわかるまで、私はなんにも所有したくないの。そういう場所がどこにあるのか、今のところまだわからない。でもそれがどんなところだかはちゃんとわかっている」、彼女は微笑んで、猫を床に下ろした。「それはティファニーみたいなところなの」」

「僕」はそんなホリーのイノセンスな魅力にたまらなく惹かれていく一方で、彼女を「度し難いまやかし」に生きる「あさましい自己顕示欲の権化」であり、まっとうに生きるためにも、そんな人間とは二度と口をきくまいとするのですが、こうした葛藤は誰の中にも当初はあるものではないでしょうか。

ただ、社会人生活が長くなり、色んな意味で「大人になる」につれて、ホリーのようないびつな純粋さは消えてなくなってしまう。

だからこそ、「僕」の回想のなかのホリーはキラキラと輝きながら鋭くこちらを刺してくるのでしょう。

そうじゃなくて、私の言っているのは、自らの則に従うみたいな正直さなわけ。卑怯者や、猫っかぶりや、精神的なペテン師や、商売女じゃなきゃ、それこそなんだってかまわないの。不正直な心を持つくらいなら、癌を抱え込んだほうがまだましよ。だから信心深いかとか、そういうことじゃないんだ。もっと実際的なもの。癌はあなたを殺すかもしれないけど、もう一方のやつはあなたを間違いなく殺すのよ。

心に何を抱えるかは人の自由ですが、例えホリーのようなまっすぐなきらめきは失ったとしても、彼女の代わりに自分なりの正直さは失いたくないもの。今期のみずがめ座もまた、何を自分のもとに所有し、何を捨て去るべきかということについて、しみじみと思いを巡らせていきたいところです。


参考:トルーマン・カポーティー、村上春樹訳「ティファニーで朝食を」(新潮社)
今期のうお座のキーワードは、「境界線の上にいること」。

池澤夏樹の代表作とも言える『スティル・ライフ』という小説は、染色工場でバイトしている主人公が、佐々井という男に出会ってとある不思議な仕事を頼まれるという、書いてしまえばそれだけの短い物語。

彼らはその過程で二人でしばしば飲みに行くのですが、お互いのプライベートについては話さず、バイト先のことも話さず、ただ星のこと。分子のこと。地球のことを話していきます。

その中で、次第にいわゆる「ふつうのテンポ」から外れて、日常生活とは別のレイヤーへと跳んでいきます。とはいえ、日常を否定しようというのではなくて、たぶん世界にはいろいろなレイヤーがあって、どっちも知ることで、すこしだけラクに呼吸ができるようになっていく

きっと生活のなかにある「自然」だったり「詩」のような、一見何の役に立っているのか分からないけれど、なんとなく無くなって欲しくないと感じるものが与えてくれるものと似た体験を、主人公は佐々井との交流の中で深めていったのでしょう。

「この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。

きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないからもしれない。

でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。

大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。」

そう、「寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている」ためにも、世界との「呼応と調和をはかること」を忘れてはいけない

今期のうお座が、他の何よりも思い出さなくてはならないのは、そうした意味での「呼吸」が浅くならないよう、たまには深呼吸でもしていくこと。そして「境界線の上にいる」とは、ちょうどいい呼吸のバランスを見失わないということでもあるのだということも、頭の隅に置いておくといいでしょう。


参考:池澤夏樹「スティル・ライフ」(中公文庫)

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