• 天秤座のイラスト
    今期のてんびん座のキーワードは、「夜が育む想像力」。 人間対自然という対決構図において、本来人間に勝ち目などほとんどないのだということを最も強く思い出させてくれるのは“夜の闇”ですが、同時に、人間の孤独な魂を崇高なところまで引き上げてくれるのも、やはり“夜”に他ならないのではないでしょうか。

    まだ夜間の飛行が命がけだった時代、郵便事業に命をかけた者たちを描いたサン=テグジュペリの『夜間飛行』を読んでいると、そんな思いに駆られます。

    主人公は「嫌われ者の上司に睨まれることで初めて現場の規律は保たれる」という信念のもと、部下に1つのミスも許さない厳しい支配人であらんとするリヴィエール。彼は内心の葛藤や孤独に苦しみつつも、それを紛らわすために繰り出した散歩からの帰り道、ふと見上げた夜空の星に何かを感じ取ります。彼の独白を引用してみましょう。

    今夜は、二台も自分の飛行機が飛んでいるのだから、僕はあの空の全体に責任があるのだ、あの星は、この群衆の中に僕をたずねる信号だ、星が僕を見つけたのだ。だから僕はこんなに場違いな気持ちで、孤独のような気持ちがしたりする

    人間にとって夜とは、ある意味で死に近づいていくことであり、夜の底に埋もれた宝物を見つけていくことで、改めて生を更新していく時間でもあるのでしょう。そして、そんな夜という時間だけが育むことのできる想像力こそ、今のてんびん座の人たちに問われているものでもあるはず。

    リヴィエールのように夜空に輝く星々のなかに自分を見つめてくれる星を探すもよし。あるいは、自分がこれまでくぐり抜けてきた幾多の夜のことを思い返すもよし。今期のてんびん座は、そんな風にあらためて夜の底からいま生きていることを感じ直していきたいところです。


    出典:サン=テグジュペリ、堀口大學訳『夜間飛行』(新潮文庫)
  • 蠍座のイラスト
    今期のさそり座のキーワードは、「自分のちっぽけさを笑う」。 カフカの『変身』と言えば、布地の販売員をしていたごく普通の青年グレゴールがある朝起きると毒虫に変わっていたところから始まる話としてあまりにも有名。

    どうして虫になってしまったのか、虫は何かの象徴なのかといったことは全然説明されず、主人公が虫であること以外はすべてがリアルに進行する。同居する家族の状況もあいまって、読者はパラレルワールドへ連れ出されたような奇妙な不安を感じさせられます。

    ただし、一般的な暗く切迫したイメージに反し、じつはこの小説の本当に大事なポイントは「とにかく笑える」というところにあるように思います。

    例えば、グレゴールは自分が虫になってしまったことにはさほど驚かない一方で、目覚まし時計を見て出勤時間を寝過ごしたことにはもの凄く驚くのですが、そんな場面をカフカはこんな風に書いています。

    「それから時計に目をやった。戸棚の上でチクタク音を立てている。「ウッヒャー!」と彼はたまげた」

    あるいは、だんだん虫として漫然と過ごすことに退屈してくると、部屋中をはい回るようになるのですが、それもこんな調子。

    「グレゴールは這いまわりはじめた。いたるところを這いつづけた。四方の陰も、家具調度も、天井も這いまわった。やがて部屋全体がグルグル回りはじめたとき、絶望して大きなテーブルの真ん中に落下した」

    実際、カフカ本人はこの作品を友人らの前で朗読する際、絶えず笑いを漏らし、時には吹き出しながら読んでいたのだそう。

    と同時に、虫以前と虫以後の時間の流れ方が全然違っていて、仕事や時間に追い立てられていた主人公が、虫になった途端に時間の流れがどんどんゆっくりになっていることにも気づかされます。

    ここには、引きこもりのメタファーであるとか、合理主義的な機械文明におしつぶされる人間の悲劇が記されているといった、月並でありきたりな読み解きを許さない不条理ギャグの絶妙な味わいが感じられないでしょうか。

    そして、今期のさそり座もまたどれだけ自分という時間の流れを客体視しつつ、人間のちっぽけさを笑う目をどれだけ持てるかが問われていくことになりそうです。


    出典:フランツ・カフカ、池内紀訳『変身』(白水uブックス)
  • 射手座のイラスト
    今期のいて座のキーワードは、「乗客ではなく」。 人間は限られた時間しか生きられません。そのこと自体は誰もが知っていることですが、実際には貴重な時間を自分にとって特別な意味を持つことに使おうという気概は、歳を追うごとにどんどん弱くなっていくように思います。中年を過ぎて老年になってしまえばもう人生の方向性や価値はほとんど決まってしまうのだと考える人も多いのではないでしょうか。さながら、自分は人生のパイロットではなく、乗客のようだと。

    しかし、映画化もされたスウェーデンの作家ヨナス・ヨナソンの小説『窓から逃げた100歳老人』の主人公であるアランという老人は、そうではありませんでした。

    彼はつねにいい加減に、確信より好奇心にしたがって生きてきたのですが、どういう訳か20世紀の重大事件の多くで重要な役割を果たしてきました。それで、老人ホームで行われる彼の100歳の誕生日パーティーには、市長や新聞記者などたくさんの来賓が訪れる予定だったのですが、前日になってふと彼はこんな風に思います。

    老人ホームが自分の終の棲家ではない。“どこか別の場所”で死のう。そう決めたのだ、と。幸いにも、彼はホームを脱走してすぐに大金の詰まったスーツケースを手に入れ、彼があまり品行方正な人間ではなかったことも相まって、驚くべき展開をしていきます。

    それでも彼は、そうした最中で1905年に誕生してからの人生をおもしろおかしく振り返りながら現在の冒険を進行させていき、101歳になった頃にはずっと若い女性(85歳)とともにバリで新たな人生を踏み出すにいたるのです。

    この小説のメッセージははっきりしています。もし人生の操縦席に座るチャンスがあると感じたときは、迷わずパイロットになりきること。

    そして、今期のいて座もまた、乗客席から人生を眺めるのではなく、操縦席から人生の景色を臨んでいけるかが少なからず試されていくはず。

    アランほど老齢ではなくても、迷った時は自分の“終の棲家”はどこにしたいか、ということを考えてみるといいかも知れません。


    出典:ヨナス・ヨナソン、柳瀬尚紀訳『窓から逃げた100歳老人』(西村書店)
  • 山羊座のイラスト
    今期のやぎ座のキーワードは、「混乱や矛盾を含みつつ」。 もし実際に理想郷があなたの手や足の届くところにあったとして、そこに行けば自分の理想が叶えられるとして、あなたは他のすべてを捨ててでもそこに行こうと思うだろうか?

    おそらく、その答えの多くはNOだろう。とりあえずこの現実で手に入れたものとか、出会った人たちとか、そういうものがあって、なんだかんだそういうものが大事だから。

    けれど、この世界には先の問いかけにYESと答えて、さっと向こう側に飛び込んでいってしまう人がいるのだということも、忘れてはならないように思います。

    村上春樹がオウム真理教の元ないし現役の信者たちに行ったインタビューをまとめた『約束された場所で』は、そういうことをまざまざと思い出させてくれる本であると同時に、村上が自分の創り出す物語世界において何を大事にしようとしているかが垣間見えてくる作品でもあります。例えば、村上の次のような発言。

    現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです。

    そして一見整合的に見える言葉や論理に従って、うまく現実の一部を排除できたと思っても、その排除された現実は、必ずどこかで待ち伏せしてあなたに復讐するでしょう

    オウムの元信者たちはまさに「整合的に見える言葉や論理」で現実を固めた、ツッコミや他者を必要としない人たちであり、彼らの道行きは壮大ではあっても、どこか氷の上のようなツルツルとした表面を滑っているように感じられてしまう。

    ただ、そういう現実性を欠いた言葉はある意味、現実よりずっと美しく、力を持ってしまうのだということも、村上はちゃんとわかっている。

    それでも、いびつででこぼこしていてどこまでも割り切れない現実を引き受けていくためにも、あえて「いちいち夾雑物を重石のようにひきずって行動しなくてはならない」言葉や論理をつかって、土を蹴り立てて歩みを進めていこうと村上は強く心に決めているように感じられます。そしてこれはそのまま、今のやぎ座の人たちに求められている態度でもあるのではないでしょうか。

    こちら側の現実のなかでズレを抱え、周囲からツッコミをもらいつつ、たとえ不格好でも、大地をしっかり踏みしめていくこと。今期のやぎ座はその覚悟のほどを、改めて固めていきたいところです。


    出典:村上春樹『約束された場所で』(文春文庫)
  • 水瓶座のイラスト
    今期のみずがめ座のキーワードは、「時代錯誤の効用」。 ビル・ゲイツが何度も読み直したという『スーパー・サッド・トゥルー・ラブ・ストーリー』は、アメリカが経済破綻寸前で一党独裁による軍事化が進んだ世界線であり、誰もが信用度や性的魅力を数値化され、手元の端末で簡単にプロフィールを検索されるなど、過度にメディアが発達した近未来を描いたディストピア小説。

    主人公は時代に逆行して紙の本を愛するロシアからきたユダヤ系移民で39歳の“時代錯誤おじさん”ことレニーと、彼が一目惚れした24歳の韓国人女学生ユーニス。

    この小説世界は文学が衰退したポスト文学社会であり、個人のクレジットカードの履歴やSNS上の人気ランキングからおススメ買い物情報や友人のホットなゴシップなどが絶えずデジタルデバイスを通じて提供され続ける一方で、自分の感情を知るにも<エモート・パッド>という感情測定器を胸にあてなければ分からなくなっているという有り様。さらに内乱状態になってインターネットが落ちてしまい、繋がらなくなったスマホを握りしめた若者が次々と自殺してしまうなど、随所に無惨な戯画的描写が登場してきます。

    自分と家族の幸せを願ってあがくユーニスは、未来への不安が高まるにつれ、自分でも驚くことに“魅力最低ランク”のはずのレニーにいつも安らぎを感じていくのですが、そんなユーニスに限らず、この本を読んだ人は改めて“印刷・製本された更新されることのないメディア製品”に手を伸ばしたり、紙の日記をつけたくなってくることは間違いないでしょう。

    とくに、今のみずがめ座の人たちであれば、人生の優先順位を他者からの評価という基準で選ぶのではなく、たとえ“パーソナリティ格付け”がグンと下がろうと、自分もトルストイの著作を手にするレニーのように振る舞いたくなってくるはず。

    過剰にテクノロジーが進歩していけば、どこかで人間がそれに追いつかなくなって機能不全に陥る危険をはらむものですが、今期のみずがめ座の人たちは加速する時代の流れといったん距離をおいたところで、他ならぬ自分のための幸福ということについて考えていきたいところです。


    出典:ゲイリー・シュタインガード、近藤隆文訳『スーパー・サッド・トゥルー・ラブ・ストーリー』(NHK出版)
  • 魚座のイラスト
    今期のうお座のキーワードは、「満たされること」。 地方から上京してきた著者が東京という都市について綴った随筆集『東京で生きる』では、快楽と幻想と記号の世界としての「東京」で生きることの怖さと魅力とがあますことなくすくいとられており、時にハッとするような繊細な文章で読者の胸をついてきます。

    私は何かを信じたいし、信じることをやめたくなんかない。けれど、東京では私が唯一信じられる自分の欲望が、よくわからなくなる。欲しいと思って手に入れたものが、あっという間になんの魅力もない布切れやがらくたに変貌していく。越境すればものの価値など一瞬で変わる。そんなものを見つけるために途方もない時間を使い、果てしなくお金を払う。見つけて買うまでの瞬間だけは「これは運命だ」と思うことができる。

    私は、何のサイコロを転がしているのだろうか?

    朝の満員電車に乗っていたり、深夜にタクシーで帰宅したりすると、ときどき「まぁ、なんだかんだ大丈夫でしょ」と鈍感を決めこんでいたはずの自分が揺らいでしまう瞬間がある。

    実際に東京に住んでいようと、そうでなかろうと、きっとそんな人であれば「幻想を見る以上に楽しいことが、この世にどれだけあるのだろうか」「ほんとうに満たされることを、もしかしたら自分は知らないのかもしれない」「知らないからこんなに求めてしまうのかもしれない」といった著者の内的独白の切実さが痛いほどに分かるのではないでしょうか。

    ここに書かれた「東京」とは、巨大で複雑な欲望喚起システムがうなりをあげて駆動する猥雑な場所であり、加速し続けている資本主義のメタファーとも捉えられます。

    そして、他人の欲望に侵食され、自分というものが溶けてなくなってしまうことについて、本当にそれでいいの?と問いかけることこそ、今のうお座のするべきことなのかも知れません。

    著者のようにそこにあえて乗っかり、それができる場所への愛着を深めて食らいついていくのか、それともどこかで線を引いて静かに自分が回復していく過程を待つのか。4日の満月前後は少しでもひとりの時間を確保して、ゆっくり自分と語りあってみるといいでしょう。


    出典:雨宮まみ『東京を生きる』(大和書房)