【射手座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<3/21~4/3> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「花時へ立ち返る」
いよいよ3月20日に「春分」を迎え天文学的にも春となり、その後はじめての満月が3月29日にてんびん座8度(数え度数で9度)で形成されていきます。
今回のテーマは「触発されること」。たとえば、過去の偉大な芸術や文学作品の洗練された様式に触れることは、瞑想と同じような効果があるのではないでしょうか。いずれにせよ、混沌とした社会の中で新しい価値をさがそうとして迷っている時には、まずもって原点に立ち返ることが重要です。
ちょうど、この時期の季語に「花時」という言葉があります。古くから、花と言えば桜。ですから、普通は「花時」といえば、桜の花が美しく咲いているあいだのことを言うのですが、とはいえ、私たちは桜が咲く前からいつ咲くかと心待ちにしたり、散り始めてからの方がより風情を感じたりと、それぞれにとっての「花時」を持っていたように思います。
松尾芭蕉の「さまざまな事思ひ出す桜かな」という俳句のように、その時々に刻まれた思い出は、桜を見るたびに何度も蘇ってくるもの。もしかしたら、ひとりひとりの心の中に、「花時」という特別な時間軸があるのかも知れません。
その意味で、今期は自分のこころをもっとも触発してくれるような「花時」に立ち返っていけるか、そこでしみじみとしていけるかということが、大切になってくるはずです。
今回のテーマは「触発されること」。たとえば、過去の偉大な芸術や文学作品の洗練された様式に触れることは、瞑想と同じような効果があるのではないでしょうか。いずれにせよ、混沌とした社会の中で新しい価値をさがそうとして迷っている時には、まずもって原点に立ち返ることが重要です。
ちょうど、この時期の季語に「花時」という言葉があります。古くから、花と言えば桜。ですから、普通は「花時」といえば、桜の花が美しく咲いているあいだのことを言うのですが、とはいえ、私たちは桜が咲く前からいつ咲くかと心待ちにしたり、散り始めてからの方がより風情を感じたりと、それぞれにとっての「花時」を持っていたように思います。
松尾芭蕉の「さまざまな事思ひ出す桜かな」という俳句のように、その時々に刻まれた思い出は、桜を見るたびに何度も蘇ってくるもの。もしかしたら、ひとりひとりの心の中に、「花時」という特別な時間軸があるのかも知れません。
その意味で、今期は自分のこころをもっとも触発してくれるような「花時」に立ち返っていけるか、そこでしみじみとしていけるかということが、大切になってくるはずです。
射手座(いて座)
今期のいて座のキーワードは、「横断的な戦術」。
IT技術やAIの導入によって余暇が増えるどころか、現代人がますます忙しくなってきているように感じるのは、単純に物理的な時間が足りなくなっているからではなく、おそらく労働と余暇のあいだの境界線があいまいになってしまったからではないでしょうか。
もはや余暇は「いい仕事をするため」には必要不可欠なイケてる社会人の条件であり、とはいえ余暇が多過ぎればそれはそれで「単なるヒマ人」として忌避される。そうした状況では労働と余暇はたがいに同質化しつつあり、縛りあいながらもそこにコミットしている人間の生を均質化して、真の意味での遊びをそこから追い出してしまう。
では、どうすればいいのか。フランスの哲学者ミシェル・ド・セルトーは『日常的実践のポエティーク』の中で、押しつけられた秩序に従いつつも、「職場の隠れ作業」のように「なんとかやっていく」手法をとりあげ、こうした「横断的な戦術」は使う人の特質を活かしながら、そこに「遊び(ゲーム)を作り出していくとして、次のように述べています。
「たとえば(家でも言語でも)、故郷のカビリアに独特の「住みかた」、話しかたがあり、パリやルベーに住むマグレブ人は、低家賃住宅の構造やフランス語の構造が押しつけてくるシステムのなかにこれをしのびこませるのである。かれは、二重にかさねあわせたその組み合わせによって、場所や言語を強制してくる秩序をいろいろなふうに使用するひとつのゲーム空間を作り出す。」
「否応なくそこで生きてゆかねばならず、しかも一定の掟を押しつけてくる場から出てゆくのではなく、その場に複数性をしつらえ、創造性をしつらえるのだ。二つのもののあいだで生きる術を駆使して、そこから思いがけない効用をひきだすのである。」
セルトーはこうした「もののやりかた」について、「(軍事的な意味での)「作戦」の意、特有の型式と創意をそなえつつ、蟻にも似た消費作業をひそかに編成してゆくさまざまな作戦の意をこめ」て、「使用法(usages)」と名付けています。
今期のいて座もまた、労働を増やすのでもなく、単に余暇を取得するのでもない、第三のやり方としての与えられた状況で「なんとかやっていく」ための「使用法」の実践ということがテーマとなっていくのではないでしょうか。
参考:ミシェル・ド・セルトー、山田登世子『日常的実践のポエティーク』(ちくま学芸文庫)
もはや余暇は「いい仕事をするため」には必要不可欠なイケてる社会人の条件であり、とはいえ余暇が多過ぎればそれはそれで「単なるヒマ人」として忌避される。そうした状況では労働と余暇はたがいに同質化しつつあり、縛りあいながらもそこにコミットしている人間の生を均質化して、真の意味での遊びをそこから追い出してしまう。
では、どうすればいいのか。フランスの哲学者ミシェル・ド・セルトーは『日常的実践のポエティーク』の中で、押しつけられた秩序に従いつつも、「職場の隠れ作業」のように「なんとかやっていく」手法をとりあげ、こうした「横断的な戦術」は使う人の特質を活かしながら、そこに「遊び(ゲーム)を作り出していくとして、次のように述べています。
「たとえば(家でも言語でも)、故郷のカビリアに独特の「住みかた」、話しかたがあり、パリやルベーに住むマグレブ人は、低家賃住宅の構造やフランス語の構造が押しつけてくるシステムのなかにこれをしのびこませるのである。かれは、二重にかさねあわせたその組み合わせによって、場所や言語を強制してくる秩序をいろいろなふうに使用するひとつのゲーム空間を作り出す。」
「否応なくそこで生きてゆかねばならず、しかも一定の掟を押しつけてくる場から出てゆくのではなく、その場に複数性をしつらえ、創造性をしつらえるのだ。二つのもののあいだで生きる術を駆使して、そこから思いがけない効用をひきだすのである。」
セルトーはこうした「もののやりかた」について、「(軍事的な意味での)「作戦」の意、特有の型式と創意をそなえつつ、蟻にも似た消費作業をひそかに編成してゆくさまざまな作戦の意をこめ」て、「使用法(usages)」と名付けています。
今期のいて座もまた、労働を増やすのでもなく、単に余暇を取得するのでもない、第三のやり方としての与えられた状況で「なんとかやっていく」ための「使用法」の実践ということがテーマとなっていくのではないでしょうか。
参考:ミシェル・ド・セルトー、山田登世子『日常的実践のポエティーク』(ちくま学芸文庫)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ