【蟹座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<5/2~5/15> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「土壇場で人を救うもの」
5月5日に「立夏」を過ぎると、野に煙る緑にまぶしい日差しと、初夏らしく気持ちのいい気候が続きます。昔は梅雨の晴れ間を指した「五月晴れ」も、今やすっかりこの時期特有のさわやかな晴天を指すようになりましたが、そんな中、5月12日にはおうし座21度(数え度数22度)で新月を迎えていきます。
今回の新月はテーマは「(自分だけでなく周囲の)バイブレーションのレベルを上げていくこと」。古来より、飢饉の影響で出る死者は実は春から夏にかけてがピークだったと言われてきましたが、西郷信綱の『古代人と夢』によれば、疫病や飢餓などで人々がみな死に絶えてしまうような事態に陥ると、天皇は「神床(カムドコ)」に寝て夢のお告げを得ることで、やがて疫病はおさまり国家安平になったという逸話が伝えられているそうです。
これはつまり、人間にとって本当の意味での危機的な状況とは、物質的な欠乏に加え霊的目標の飢餓に陥った状況を指し、逆にそれに飢えている人びとと霊的滋養―導きとなるようなイメージやビジョン等を分かちあうことができれば、乗り切ることも可能となるということではないでしょうか。
四季にはそれぞれの到来を知らせる風があり、春ならば東風(こち)、冬は木枯らしと決まっていて、夏といえば「風薫る」。すなわち、青葉若葉を吹き抜けて、さあっと吹いて新緑の香りを運んでくる強めの南風がそれにあたりますが、同時にそれは、生きるか死ぬかという人間の土壇場で人を生かしてくれる“いのちの手触り”のようなものでもあったように思います。
12日のおうし座新月前後までの今期は、そうした生きるか死ぬかの土壇場を乗り切っていく上で、自分なりの美学をいかに持てるかどうか、貫いていけるか否か、ということが問われていくでしょう。
今回の新月はテーマは「(自分だけでなく周囲の)バイブレーションのレベルを上げていくこと」。古来より、飢饉の影響で出る死者は実は春から夏にかけてがピークだったと言われてきましたが、西郷信綱の『古代人と夢』によれば、疫病や飢餓などで人々がみな死に絶えてしまうような事態に陥ると、天皇は「神床(カムドコ)」に寝て夢のお告げを得ることで、やがて疫病はおさまり国家安平になったという逸話が伝えられているそうです。
これはつまり、人間にとって本当の意味での危機的な状況とは、物質的な欠乏に加え霊的目標の飢餓に陥った状況を指し、逆にそれに飢えている人びとと霊的滋養―導きとなるようなイメージやビジョン等を分かちあうことができれば、乗り切ることも可能となるということではないでしょうか。
四季にはそれぞれの到来を知らせる風があり、春ならば東風(こち)、冬は木枯らしと決まっていて、夏といえば「風薫る」。すなわち、青葉若葉を吹き抜けて、さあっと吹いて新緑の香りを運んでくる強めの南風がそれにあたりますが、同時にそれは、生きるか死ぬかという人間の土壇場で人を生かしてくれる“いのちの手触り”のようなものでもあったように思います。
12日のおうし座新月前後までの今期は、そうした生きるか死ぬかの土壇場を乗り切っていく上で、自分なりの美学をいかに持てるかどうか、貫いていけるか否か、ということが問われていくでしょう。
蟹座(かに座)
今期のかに座のキーワードは、「<私>からの救済」。
現代社会はいったい何を根拠に自分の人生や他人の生命の価値を信じているのでしょうか。例えば、近代合理主義の到来の火種となったプロテスタント的な考え方では、<私>を仕上げて実現することないし達成することこそが、生きるということの価値とされてきましたが、その一方で個人的な<私>から逃れ去り、その滅却こそに価値があるとする考え方もあるはずです。
哲学者の山内志朗によれば、古来からの<私>をめぐる基本的思考は、「自己への救済」を求める枠組みと「自己からの救済」を求める枠組みの二つに大別され、それぞれに例外はあれど前者の典型がキリスト教であり、後者の典型が仏教なのだと指摘した上で次のように述べるのです。
「哲学もまた、<私>への救済と、<私>からの救済という二つのベクトルを合わせ含んでいると思います。デカルト以降、「<私>への救済」モデルが主流になってしまいましたが、「<私>からの救済」というモデルは、東洋においてばかりではなく、西洋においても二大主流の一つになっていたと思います。「汝自身を知れ」とか「我思う故に、我あり」という格率だけでは不十分なのです。」
それは例えば、考える<私>は同時に<空>であるという感得であり、それはわたしがあなたであり、あなたがわたしであり、わたしが仏であり、仏がわたしであるような<私>を通じて宇宙創造が働くこととも言い換えることができるのではないでしょうか。
恐らく同様のことを、鈴木大拙は「心なきところに働きが見える」と表わし、シモーヌ・ヴェイユはそれを好んで引用した「南の方に向かって北方の星を眺めよ」という禅の公案から広がる無心の世界に見出しました。
今期のかに座もまた、自分なりの仕方で「<私>からの救済」のベクトルを追求してみるといいかも知れません。
参考:山内志朗『小さな倫理学入門』(慶応義塾大学三田哲学会叢書)
『世界哲学史 別巻』(ちくま新書)
哲学者の山内志朗によれば、古来からの<私>をめぐる基本的思考は、「自己への救済」を求める枠組みと「自己からの救済」を求める枠組みの二つに大別され、それぞれに例外はあれど前者の典型がキリスト教であり、後者の典型が仏教なのだと指摘した上で次のように述べるのです。
「哲学もまた、<私>への救済と、<私>からの救済という二つのベクトルを合わせ含んでいると思います。デカルト以降、「<私>への救済」モデルが主流になってしまいましたが、「<私>からの救済」というモデルは、東洋においてばかりではなく、西洋においても二大主流の一つになっていたと思います。「汝自身を知れ」とか「我思う故に、我あり」という格率だけでは不十分なのです。」
それは例えば、考える<私>は同時に<空>であるという感得であり、それはわたしがあなたであり、あなたがわたしであり、わたしが仏であり、仏がわたしであるような<私>を通じて宇宙創造が働くこととも言い換えることができるのではないでしょうか。
恐らく同様のことを、鈴木大拙は「心なきところに働きが見える」と表わし、シモーヌ・ヴェイユはそれを好んで引用した「南の方に向かって北方の星を眺めよ」という禅の公案から広がる無心の世界に見出しました。
今期のかに座もまた、自分なりの仕方で「<私>からの救済」のベクトルを追求してみるといいかも知れません。
参考:山内志朗『小さな倫理学入門』(慶応義塾大学三田哲学会叢書)
『世界哲学史 別巻』(ちくま新書)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ