【牡羊座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<3/20~4/2> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「社会的秩序の相対化」
いよいよ春もたけなわに入り、花々が咲いては散ってゆき、それを「惜しむ」思いが深まっていく頃合いに変わってきました。そんな中、「春分」から「清明」へと節気が移ろう直前の4月1日に、おひつじ座11度(数えで12度)で新月を迎えていきます。
今回の新月のテーマは、「天の采配への同期」。すなわち、ふだん地上を這うように生きている自分の選択や振る舞いのひとつひとつが、みずからの意思や社会の空気によってのみ決定されているのではなく、それらを超えたところで働いている宇宙的な原理によって突き動かされているのだという実感を改めて深めていくこと。
例えば、春になってあたたかくなってくれば冬鳥の雁は北へ帰っていきます。かつてはその姿が日本のどこでも見られ、子供たちは「棹になれ、鉤になれ(まっすぐに連なれ、鉤形に並べ)」とはやしたてたそうですが、そうして新たな季節の訪れを知らせてくれる渡り鳥が道に迷うことなく、何千キロもの長距離を移動し、それを毎年繰り返すように、私たち人間もまた、食事や睡眠などのごく身近なレベルの日常的行動から、経済活動や軍事侵攻などの集団的行動まで、日々何らかのかたちで、地球の磁気や気候の変動などの惑星規模の影響力によって左右されているのです。
ここのところ、従うべき法と秩序とは何か、ということが人間中心的なものへ寄り過ぎていましたから、今回の新月では、いかにそうした社会的な通念や常識を相対化し、宇宙的サイクルや天の采配に同期して、自然体へと還っていけるかということが、各自の状況に応じて問われていくことでしょう。
今回の新月のテーマは、「天の采配への同期」。すなわち、ふだん地上を這うように生きている自分の選択や振る舞いのひとつひとつが、みずからの意思や社会の空気によってのみ決定されているのではなく、それらを超えたところで働いている宇宙的な原理によって突き動かされているのだという実感を改めて深めていくこと。
例えば、春になってあたたかくなってくれば冬鳥の雁は北へ帰っていきます。かつてはその姿が日本のどこでも見られ、子供たちは「棹になれ、鉤になれ(まっすぐに連なれ、鉤形に並べ)」とはやしたてたそうですが、そうして新たな季節の訪れを知らせてくれる渡り鳥が道に迷うことなく、何千キロもの長距離を移動し、それを毎年繰り返すように、私たち人間もまた、食事や睡眠などのごく身近なレベルの日常的行動から、経済活動や軍事侵攻などの集団的行動まで、日々何らかのかたちで、地球の磁気や気候の変動などの惑星規模の影響力によって左右されているのです。
ここのところ、従うべき法と秩序とは何か、ということが人間中心的なものへ寄り過ぎていましたから、今回の新月では、いかにそうした社会的な通念や常識を相対化し、宇宙的サイクルや天の采配に同期して、自然体へと還っていけるかということが、各自の状況に応じて問われていくことでしょう。
牡羊座(おひつじ座)
今期のおひつじ座のキーワードは、「癒し体験としての隣人愛」。
政府やメディア、会社や配偶者の言うことに、できる限り従っていこうとする生き方を、健気で従順な"家畜”のそれだとするならば、今期のおひつじ座のテーマはいかに自分に備わった本来の“野生”を取り戻していくかというところにあるでしょう。
そして、そうした野生の回復を、ひとつの癒しのわざとして他者に施していった最大の人物と言えるのがイエス・キリストでした。キリスト教思想研究で知られる柳澤田美は「イエスの<接近=ディスポジション>」という論文の中で、「イエスの身体的行為は、福音書の編纂者たちが示したイエスの人物像を最も雄弁に語る情報である」と指摘した上で、その特徴について次のように述べています。
「イエスの身体的行為の第一の特徴が、留まらず、常に移動することであることは間違いがない。人々が引きとめても、イエスは移動を止めることはなかった。このように恒常的に運動・移動するという性質は、イエスが人びとに付与するものでもある。イエスは、足の萎えた男に、悪霊に憑かれた人に、出血を患っていた女性に、「行きなさい」と声を掛ける。この言葉に促されて、イエスに接触された人々は、歩き始める。」
柳澤は「イエスの活動の核心はその恒常的な運動性や移動性にこそあるのだ」と述べつつ、さらにイエスやその弟子たちが移動しながら実現させている人々との「出会い」や「邂逅」の特徴として、「唐突な物理的接近と近さの表明」を挙げています。
そしてその実例として、例えば「隣人とは「……である」という仕方で固定的に定められるものではなく、各人が「なる」という仕方で実現するべき実践である」として、「(隣人)愛とは、強い情動と、距離をつめて「近づく」という身体的行為のカップリングに他ならない」のだと図式化してみせたのです。
こうした観点からみると、イエスが人びとにもたらした「癒し」とは、他者とは共有も説明も不可能な極めて内面的な宗教体験というよりも、むしろ彼によって滞っていた状態から流動化されて「歩いて行った」人々が、それだけで終わるのではなく、イエスの接近によって直接情動を突き動かされることで生じた愛を、自身もまた他の誰かに「近づく」ことで、また愛を引き起こしていく側に回っていくという仕方で、連鎖的にそのネットワークを広げていくようにしてもたらされていった、ある種の運動(ムーブメント)としての側面を持っていたのだという解釈が成り立つのではないでしょうか。
今期のあなたもまた、そうした唐突な接近を通じた、癒し/癒される体験の連鎖の環を身近なところで感じてくことができるかも知れません。
参考:柳澤田実・編『ディスポジション 配置としての世界』(現代企画室)
そして、そうした野生の回復を、ひとつの癒しのわざとして他者に施していった最大の人物と言えるのがイエス・キリストでした。キリスト教思想研究で知られる柳澤田美は「イエスの<接近=ディスポジション>」という論文の中で、「イエスの身体的行為は、福音書の編纂者たちが示したイエスの人物像を最も雄弁に語る情報である」と指摘した上で、その特徴について次のように述べています。
「イエスの身体的行為の第一の特徴が、留まらず、常に移動することであることは間違いがない。人々が引きとめても、イエスは移動を止めることはなかった。このように恒常的に運動・移動するという性質は、イエスが人びとに付与するものでもある。イエスは、足の萎えた男に、悪霊に憑かれた人に、出血を患っていた女性に、「行きなさい」と声を掛ける。この言葉に促されて、イエスに接触された人々は、歩き始める。」
柳澤は「イエスの活動の核心はその恒常的な運動性や移動性にこそあるのだ」と述べつつ、さらにイエスやその弟子たちが移動しながら実現させている人々との「出会い」や「邂逅」の特徴として、「唐突な物理的接近と近さの表明」を挙げています。
そしてその実例として、例えば「隣人とは「……である」という仕方で固定的に定められるものではなく、各人が「なる」という仕方で実現するべき実践である」として、「(隣人)愛とは、強い情動と、距離をつめて「近づく」という身体的行為のカップリングに他ならない」のだと図式化してみせたのです。
こうした観点からみると、イエスが人びとにもたらした「癒し」とは、他者とは共有も説明も不可能な極めて内面的な宗教体験というよりも、むしろ彼によって滞っていた状態から流動化されて「歩いて行った」人々が、それだけで終わるのではなく、イエスの接近によって直接情動を突き動かされることで生じた愛を、自身もまた他の誰かに「近づく」ことで、また愛を引き起こしていく側に回っていくという仕方で、連鎖的にそのネットワークを広げていくようにしてもたらされていった、ある種の運動(ムーブメント)としての側面を持っていたのだという解釈が成り立つのではないでしょうか。
今期のあなたもまた、そうした唐突な接近を通じた、癒し/癒される体験の連鎖の環を身近なところで感じてくことができるかも知れません。
参考:柳澤田実・編『ディスポジション 配置としての世界』(現代企画室)
<プロフィール>
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
慶應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ