【天秤座】哲学派占い師SUGARさんの12星座占い<5/30~6/12> 月のパッセージ ー新月はクラい、満月はエモいー
12星座全体の運勢
「早乙女のエロばなしのごとく」
6月5日に二十四節気で「芒種」に移ると、いよいよ田植えの時期。田園地帯の水面には空や木立や山が映り、光が踊っていきますが、そんな中、6月10日には双子座19度(数えで20度)で新月を迎えていきます。
今回の新月のテーマは「自分が周囲へ与える影響の再確認」。すなわち、一通りさまざまな影響を受けとって、特定のことに感動しなくなってきたことで、かえって冷静に、じゃあどんな自分はどんな影響を周囲に与えていきたいのかを改めて考えていく。そういう動きをしていくには絶好のタイミングとなっていくように思います。
例えば、民俗学者の宮本常一によれば、昔は田植え時には女たちがエロばなしに花を咲かせたり、セックスのうたを歌っていたそうで、「その話の中心となるのは大てい元気のよい四十前後の女で」「若い女たちにはいささかきつすぎるようだが話そのものは健康で」あったこと。また、「エロ話の上手な女の多くが愛夫家で」「女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福である事を意味して」いたそうで、今日では田植えも人の手から機械に任され、すっかりそんな光景も消えてしまいましたが、日々の労働をやわらげ、元気に過ごしていくための材料のニーズそのものは今も昔もそう変わらないはず。
つまり、何かしらの不満に対しただ声をあげたり、孤立した個の力で対抗して終わってしまうのではなくて、かつての「元気のよい」早乙女たちのように、周囲を巻き込み、集合の力を効果的に使うこと、そのためにどんなタイミングでいかなる呼びかけをしていくべきかが、今回のふたご座新月を通して問われいくのではないでしょうか。
あるいは、自分の考えや提案が、どれくらい他者の共感や支援を受けられるものなのかを確かめ、誰にどんな仕方で提示していくかを判断していくこともテーマになっているのだと言えます。
今回の新月のテーマは「自分が周囲へ与える影響の再確認」。すなわち、一通りさまざまな影響を受けとって、特定のことに感動しなくなってきたことで、かえって冷静に、じゃあどんな自分はどんな影響を周囲に与えていきたいのかを改めて考えていく。そういう動きをしていくには絶好のタイミングとなっていくように思います。
例えば、民俗学者の宮本常一によれば、昔は田植え時には女たちがエロばなしに花を咲かせたり、セックスのうたを歌っていたそうで、「その話の中心となるのは大てい元気のよい四十前後の女で」「若い女たちにはいささかきつすぎるようだが話そのものは健康で」あったこと。また、「エロ話の上手な女の多くが愛夫家で」「女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福である事を意味して」いたそうで、今日では田植えも人の手から機械に任され、すっかりそんな光景も消えてしまいましたが、日々の労働をやわらげ、元気に過ごしていくための材料のニーズそのものは今も昔もそう変わらないはず。
つまり、何かしらの不満に対しただ声をあげたり、孤立した個の力で対抗して終わってしまうのではなくて、かつての「元気のよい」早乙女たちのように、周囲を巻き込み、集合の力を効果的に使うこと、そのためにどんなタイミングでいかなる呼びかけをしていくべきかが、今回のふたご座新月を通して問われいくのではないでしょうか。
あるいは、自分の考えや提案が、どれくらい他者の共感や支援を受けられるものなのかを確かめ、誰にどんな仕方で提示していくかを判断していくこともテーマになっているのだと言えます。
天秤座(てんびん座)
今期のてんびん座のキーワードは、「エロティックなカオス」。
日本の文化的伝統においても、人に何かを伝えていく工夫ということに関して、これまでさまざまな試みがなされてきましたが、中でも明治以降、大きな存在感を放ってきたのが俳句でした。そして正岡子規や高浜虚子など、俳句という言語芸術の再興と普及に大きな役割を果たしてきた二人は、俳句が目指すべき表現に向かっていく上での心得を「客観写生」と命名し、大変に重んじてきたのです。
1955年に刊行された高浜虚子の『俳句への道』には、そんな「客観写生」ということの核心について次のように述べられています。
「客観写生という事は花なり鳥なりを向うに置いてそれを写し取る事である。自分の心とはあまり関係がないのであって、その花の咲いている時のもようとか形とか色とか、そういうものから来るところのものを捉えてそれを謳う事である。だから殆ど心には関係がなく、花や鳥を向うに置いてそれを写し取るというだけの事である。」
俳句という言語芸術は、夏なら「新緑」、冬なら「雪」、秋なら「月」など、「季語/季題」を持つことによってその表現に大きな制約を受け入れていくことを大きな特徴としており、俳句のめざす「客観写生」の実現に際してはまず花や鳥など、客観的自然の異質性をそのまま写生する実践が不可欠とされました。ただ、だからと言ってそれで終わりではありません。
「しかしだんだんそういう事を繰返してやっておるうちに、その花や鳥と自分の心とが親しくなって来て、その花や鳥が心の中に溶け込んで来て、心が動くがままにその花や鳥も動き、心の感ずるままにその花や鳥も感ずるというようになる。花や鳥の色が濃くなったり、薄くなったり、また確かに写ったり、にじんで写ったり、濃淡陰影すべて自由になって来る。そうなって来るとその色や形を写すのではあるけれども、同時にその作者の心持を写すことになる。それが更に一歩進めばまた客観描写に戻る。花や鳥を描くのだけれども、それは花や鳥を描くのではなくて作者自身を描くのである。」
つまり、客観写生というのは、単なる客観的記述一辺倒なのではなく、目の前の自然と自己自身とが互いの本性を失わないままに、いわば「エロティックなカオス」を実現することであり、そこで花や鳥がそのまま表現者の心のはたらきをこれ以上ない仕方で示すとき、それがすぐれた俳句と言われるのだ、と虚子は考えていた訳です。
同様に、今期のてんびん座もまた、対象を内部深くへと取り込み、畳み込んでいくことで、周囲との関わりのなかにエロティックなカオスをつくったり、できるだけ陰翳豊かな表現を心がけてみるといいでしょう。
参考:高浜虚子『俳句への道』(岩波文庫)
1955年に刊行された高浜虚子の『俳句への道』には、そんな「客観写生」ということの核心について次のように述べられています。
「客観写生という事は花なり鳥なりを向うに置いてそれを写し取る事である。自分の心とはあまり関係がないのであって、その花の咲いている時のもようとか形とか色とか、そういうものから来るところのものを捉えてそれを謳う事である。だから殆ど心には関係がなく、花や鳥を向うに置いてそれを写し取るというだけの事である。」
俳句という言語芸術は、夏なら「新緑」、冬なら「雪」、秋なら「月」など、「季語/季題」を持つことによってその表現に大きな制約を受け入れていくことを大きな特徴としており、俳句のめざす「客観写生」の実現に際してはまず花や鳥など、客観的自然の異質性をそのまま写生する実践が不可欠とされました。ただ、だからと言ってそれで終わりではありません。
「しかしだんだんそういう事を繰返してやっておるうちに、その花や鳥と自分の心とが親しくなって来て、その花や鳥が心の中に溶け込んで来て、心が動くがままにその花や鳥も動き、心の感ずるままにその花や鳥も感ずるというようになる。花や鳥の色が濃くなったり、薄くなったり、また確かに写ったり、にじんで写ったり、濃淡陰影すべて自由になって来る。そうなって来るとその色や形を写すのではあるけれども、同時にその作者の心持を写すことになる。それが更に一歩進めばまた客観描写に戻る。花や鳥を描くのだけれども、それは花や鳥を描くのではなくて作者自身を描くのである。」
つまり、客観写生というのは、単なる客観的記述一辺倒なのではなく、目の前の自然と自己自身とが互いの本性を失わないままに、いわば「エロティックなカオス」を実現することであり、そこで花や鳥がそのまま表現者の心のはたらきをこれ以上ない仕方で示すとき、それがすぐれた俳句と言われるのだ、と虚子は考えていた訳です。
同様に、今期のてんびん座もまた、対象を内部深くへと取り込み、畳み込んでいくことで、周囲との関わりのなかにエロティックなカオスをつくったり、できるだけ陰翳豊かな表現を心がけてみるといいでしょう。
参考:高浜虚子『俳句への道』(岩波文庫)
<プロフィール>
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
應義塾大学哲学科卒。卒業後は某ベンチャーにて営業職を経て、現在西洋占星術師として活躍。英国占星術協会所属。古代哲学の研究を基礎とし、独自にカスタマイズした緻密かつ論理的なリーディングが持ち味。
文/SUGAR イラスト/チヤキ